自分は夢を見ているという自覚がある、というのは実に奇妙な心持だ。


「どうした、そんなところに突っ立って。早く食べないと、学校遅れるぞ」


 テーブルに父がいた。無糖のコーヒーを啜りながら朝刊を見るのが習慣で、書かれている事件や芸能人のゴシップを読む目が由紀を見つけ、優しい笑みを向ける。


「今日はなんと、チーズ入りのオムレツよー。ジャムはオレンジペコでいいのよね?」


 台所にいる母もカウンターから身を乗り出し、にっこりと柔和な笑顔を由紀に見せた。朝食に嫌いなチーズを使ったモノがあると知った父が渋い顔をして、小声で文句を漏らすも、同じ笑顔に別の意味を持たせて母が黙らせる。


 そしてそのあと、無言で父が食べるようのチーズ抜きのを作るのだ。母も出勤の時間があるのに、手間を惜しんで卵を焼くのだ。


 今となっては二度と見られない、暖かな光景。喪失感が胸を打つ。


「さあ、おいで」

「ご飯にしましょう」


 手招きする二人に、由紀が頷く。


「ああ、もう起きるよ。父さん、母さん」


 でないとここから抜け出せなくなる。眩しい幻想との決別を意識した瞬間、ぐにゃりと視界が歪み、気が付いたら夢と同じ場所にいた。


 宗方家のリビング。そのソファーの上。カーテン越しの日光に朝を告げられ、ゆっくりと由紀は上半身を起こした。ぼんやりとした意識が、秒刻みに覚醒していく。目を擦り、一つ伸びをしてから、明らかな疑問が口を割った。


「なんでオレ、こんなところで寝てるんだ……?」


 ソファーで寝るのが普通ではない。自分専用のベッドも、枕も、掛布団もある。加えて自分の恰好は寝間着ではなく、学校へ登校したままのものである。どう見ても不自然だ。


 何が、どうして、こうなったのか。原因を探るべく、頭に手を当て記憶を遡る。放課後の買い物、そこであった幸助とのやり取りとその後、帰宅してベランダで背後から心臓を、


「――ッ」


 反射的に左胸へと手を置き、確認する。貫かれた胸部、もぎ取られた心臓、体が破裂するような息苦しさと痛みの記憶は鮮烈に覚えている。アレは現実に起こったことだ。夢でも幻でもないはずなのに、手のひらからは確かに鼓動を感じる。


 開けられた穴がない。引き抜かれた心臓がある。


「なんだ、これ。なんであるんだ?」


 自分が生きていることに対して、疑心を抱くというのも不思議なものだ。言いようのない焦燥に駆られ、カーテンを開いて現場となったベランダを見るが、異常はない。雑草の生えている見慣れた家の庭だ。噴き出した血の跡など、どこにもない。


 よろよろと数歩、後ろへと下がる。記憶と現実が噛み合わない。昨夜殺されたはずなのに、生きているとはどういうことなのか。


「落ち着け……考えろ」


 殺されたという記憶と、生きている事実。となると答えは消去法で必然的に浮かび上がる。つまり殺されたのは夢で見たことで、現実ではないという結論だった。

こうして生きているのだから、死んでいるはずがない。


 幽霊という単語がすぐさま頭を過ぎるも、足は二本ともしっかりあるし、試しにテレビのリモコンに手を伸ばすと握り、持ち上げることができた。


「生きてる、よな?」


 物に触れない、足がない、という俗説だが幽霊の特徴は見受けられない。


 まとめると学校から帰ってきた直後、一休みとソファーに沈んで、朝まで寝こけてしまった。そして夢で殺されたことを、現実だと思い込み軽く思考が混乱しただけ。


 後になって総括すると、まるで悪夢を見た小学生のような言動だと、羞恥すら湧いてくる。幸助がこの場にいたら、数週間はネタにされていただろう。


「っと、今何時だ」


 今日は平日だ。学校はある。掛け時計へと視線を動かし、普段の起床時刻よりも前であることにほっと息ついた。


 嫌な汗もかいたし、時間の余裕もあることだ。シャワーで流してさっぱりしたいと思うと、足が勝手に動いて風呂場へと歩きはじめる。


 夕食前に寝てしまったので、腹も随分空いている。朝食はしっかりとした物を取ろうと、思いを馳せながら脱衣所の引き戸を開けた。


「ふっふん、ふっふん、ふふ、ふふ、ふーん♪」


 擦りガラスのドアの向こう、明かりのついた浴室から女の声と思わしき鼻歌と水温が聞こえた瞬間、由紀は開いた引き戸を再び閉めた。


 スライドがごろごろと鳴り、廊下と脱衣所が隔たれる。


「………………」


 起きた出来事の衝撃から立ち直るのに三秒、事態を飲み込むまで三秒、そして事態を飲み込んだからこそフリーズしたのが三秒。計九秒間ほど、由紀が凍結する。


 段階を踏んで考えよう。このドアの向こう、浴室の中に誰かがいる。知らない誰かだ。由紀以外の住人はこの家には存在しない。家を訪れてもおかしくはない保護者的な人物がいるにはいるが、連絡なしに来るとは思えない。そもそも玄関には鍵がかかっている。ベランダのガラス戸も同様だ。招かない限りは入ってこられない。


 不法侵入者。泥棒。

 随分と長い思考の果てに、その二つの単語に由紀は行き当たった。


「いや、待てよ」


 もしかしたら、今のは幻聴なのかもしれない。何せ夢を現実だと思い込んでいた自分だ。ついていた風呂場の電気は、使って消すのを忘れただけと考えれば、一応だが理屈が通る。


 第一、盗みが目的で侵入した泥棒が、呑気に風呂を使うものだろうか?

 早急に幻か真かを見極める必要がある。


 本当に泥棒がいて、凶器を所持している可能性を考慮しながら、身構えるようにそろりそろりと、再び引き戸を開けていく。擦りガラスの向こうは変わらず明るいが、音関連は何も聞こえてはこない。


「やはり……空耳か……」


 構えていた力を抜き、肩を下げる。今日は調子が悪いなと、由紀は頭を振ってから、風呂場の電気を消すべくスイッチへと手を伸ばした。


 電源スイッチは風呂場の入口にある。故に消そうとすると、擦りガラスに体の正面を向けることになる。それが由紀に襲い掛かる次の事に大きく影響を及ぼした。


 ぱたんっ。そんな音と共に、浴槽のドアが開き切った。


「はー、さっぱりしたぁ~! やはり湯浴みは良い、暖かさは心を和ま、せ……る?」


 何を喋ればいいのかわからない。


 水を吸った青白い髪は、腰を通り越して膝に届きそうなほどに長い。小柄な体。年は十歳辺りだろう。今でこそ愛らしい、可愛らしいという印象だが、年を二倍ほどした頃には絶賛の美女になる。そう予感させるほどの整った容姿に吸い込まれそうになる。現れたのはそんな少女だった。


 その少女が由紀を見つめて、ぴたりと四肢を静止させながらも表情だけは変えていく。目じりと口角が吊り上り、しかし頬は湯上りだけでは説明がつかないほどに朱へと染まる。


 ぷるぷると震えだしたのは、耳だった。ただし普通の耳ではない。生えている位置は普通だが、形が異常だ。犬か猫か、ともかく獣のようにふさふさと毛を生やした耳で、視線を下に動かすと、同じく獣が生やしている尻尾のようなものまである。


 


 普通の人類にはあり得ない部位を、少女はゆっくりと逆立てていく。

風呂は服を脱いで、全裸で入るものである。そして少女はその風呂から出てきた。


「何を、何を……」


 羞恥と怒り、二つの感情を渦巻かせながら、全裸の少女がすうっと息を吸い込み、


「何をじっくりと見ておるのださっさと出て行かんかこのたわ、ひぎぃぃーーー!?」


 がぁーっと。あらん限りの怒声がぶちまけられる途中で、由紀が手を伸ばして少女の異物を掴んだ途端、ソレは悲鳴へと変わっていった。


「ひ、ひぃ……あ、ふああぁ……!?」


 触られていることに対してか、裸の自分に迫られていることに対してか。あるいは両方かもしれない。少女の発する怒りの気配が一転して怯えへと変わる。


 一方、由紀はというと指から感じる柔らかさと熱に、常識の崩壊を感じていた。


「柔らかい……それに、地肌から生えてる……」


 付け耳ではない。尻尾も尾てい骨の上辺りから生えている。人工物ではない。本物の生物の感触に内心、震え上がりそうになった。こんなモノがある人間が実在するだなんて。


「き、鬼畜、変態! 痴漢だぞ、貴様は今、人として最低なことを――」


 肌触りのいい尻尾を、もふもふと手の中で握り返す。血管があるのか、血の巡る動きがなんとなく感じ取れた。


「最低な、こ……ことをぉ……っ」


 耳のほうも知る限り、動物のそれと同じ構造だと覗き込んで頷く。


「……ぁ……ぅぅ……っ」


 他にも人と違った部位がないものかと、探し始めようとして、少女の顔が林檎のように真っ赤になっていることに気づいた。ぱっと手を放すと、ルビーの瞳から雫が零れる。


「……マジで、本物?」

「うう……っ! うっ、うううぅぅ……っ!!」


 泣きべそをかきながら、少女が何度も頷く。


「しかもアレだ、そんな嫌なところをいきなり触られて、嫌だったとか?」

「当たり、前だこのへんたいぃ……へんたいぶれいものぉぉぉ……っ!」


 犬猫も、耳や尻尾のお触りはいい顔をしないと聞くが、この少女も同じくそうらしい。


「いや、あんまりにもその……言葉が上手く出てこないんだが、珍しいので、つい」

「つい、ついだと!? ついで人の大事なところを貴様は弄ぶというのか!? 獣だな、欲望と本能のままに動く獣のようなヒトだな、この下劣なオスめ! 恥を知れ、恥を!」

「下劣なオス……」


 おいおい、と心の中でツッコミを入れる。にしても子供なのに、妙に上から物を申す口調だ。年頃相応の甘さというか、幼さが微塵もない喋り方である。


「下劣なオスではないか! 言葉の意味も理解できぬほど、貴様は愚かなのか? 愚かなのであろうな。愚かだから無遠慮に触るという発想が出てきたのだろう!?」

「いやだから、悪かったって。そんな嫌がるところだって知らなかったんだよ」

「知らないの一言で済むと思うてか、悪いと思うなら誠意を見せよ! 土下座だ!」


 高飛車な少女の声が、脱衣所に反響する。


「どうしたほれ、早くやらぬか? 本当にすまないと思っているのであろう? ならば跪き、額を床にこすり付けて今一度、謝罪をするがよいぞふにゃあああああああっ!!」


 段々とうるさくなってきたのでもう一度、由紀は無言で両耳を掴んで睨みつける。


「調子に乗るのもいい加減にしろよ、お前。あと近所迷惑だから、その大きな声もやめろ」

「だ、誰がニンゲンの指図など、受けるものか……っ! 我は誇り高きフェン、」

「尻尾のほうもやられたいらしいな」


 視線をつーっと、尻尾のほうへと移動させる。


「あ……あ……っ」


 ふるふると首を横に振り、それだけは勘弁をと少女が目で語る。


「もう一度言う。知らないで触った件についてはすまなかった。心からの謝罪だ。それについてもう、お互い何も言うことはない。既に終わったことだ、違いないな?」


 反論は許さないと一字一句に力を込めて言うと、少女が肩を震わせながら頷いた。同級生でも裸足で逃げ出す怖さを持つ、自分の特徴にこの時だけは感謝した。


 同意を確認したことで、ぱっと手を放すと力が抜けたのか、へなへなと少女が床に落ちる。縮こまった尻尾を抱き寄せて『これだから人間は嫌いだ、人間は嫌いなのだ』と何度も唱えて立ち上がる様子を見せない。少しやり過ぎただろうか。バツの悪さが胸に残る。


「それで大事なことを聞きたいんだが、いいか?」

「……なんだ、まだ我に何かするのか?」


 肩をすくめながら、上目づかいで少女が見上げてくる。すっかり怖がられてしまったなと反省するも、あの調子に乗られた態度で居続けられるよりはマシかと、即時撤回した。


「何もしない。聞くだけだって言ってるだろうが」


 本来ならば一番に確かめなければいけなかったはずのことを、由紀は切り出した。


「お前、誰?」

「……ほう、それを我に問うか、いいだろう」


 ゆらりと幽鬼の如く、少女は立ち上がる。その表情からは怯えていた小さな子供が消え、非日常としての不気味さが顔を覗かせていた。気配が百八十度、ぐるりと変わっていく。


 両腕を横に伸ばし、上半身を逸らして如何にもといったポーズで、名乗りを上げる。


「ならば聞くがいい。我が名は『フェンリル』、主神を喰らい、太陽をも飲み込んだ魔狼の名を冠する者なり! 怯えるがいい……貴様は今、我が眼前、我が牙の前にいるのだと!」


 己の中では決め台詞なのだろう。完璧なドヤ顔で由紀を見下す少女、もといフェンリルはどうだ恐れ入ったかと、得意げに鼻を鳴らしている。尻尾もぱたぱたと振られていることだし、本気でそう考えているのは間違いなさそうだった。


 ぽつりと由紀が呟く。


「全裸で言われても滑稽なだけだな」

「あーもーやーーー!!! 嫌いだ、貴様なんか大っ嫌いだぁーーーー!!」


 張りぼての威厳が崩れる音を、確かに由紀は聞いた。

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