1章 転轍機は作動する
Ⅰ
人は自分で思うほど、自分という存在を理解していない。
俺はかっこいい。僕は賢い。私は美しい。あたしは可愛い。
本当にそうなのか? その評価にはフィルターがかかっていないか?
友人や知人からの御世辞をそのまま受け止め、
真実そうであると盲信しているだけではないのか?
もちろん、逆もまた然りである。己が優れていると疑わない自信家がいるならば、己は不出来であると思い込む天才もいるだろう。別に悪いと言うつもりはない。自分が強いと信じるならば、ソレは前に進む力になるだろうし、自分は弱いと思うならば、物事を慎重に運ぼうとする注意力になる。
だがそれは正しい意味で自身の性能を発揮しているわけではない。
性能を見誤らず使わせるのに必要なのは、自身への理解だ。
これが有るか無いかでは雲泥の差が出る。欠けていれば、保有する能力を正しく使うことはまず不可能であろうと断言できる。身の丈にあった立ち振る舞いができないからだ。
諺にもある。彼を知り、己を知れば百戦殆うからず。
自己認識はそれだけ大事だということだ。
その点について、宗方由紀は完全に己という存在を理解していた。
「あ、あの……宗方さん……そ、そそそ、その……ね……っ?」
夕日が差し込み、茜色に染まった鷹津高等学校、二年四組の教室にて。目の前であわあわと怯え竦む同級生の女子の扱いをどうするべきか、由紀は悩んでいた。
震える喉から捻りだされる声量は、虫の羽音のように小さい。胸元に抱きかかえたプリントが、体の小刻みな揺れに連動してカサカサと擦れる。視点は定まらない。由紀のほうに向いたと思えば次には床、足元にある鞄、椅子、机、窓ガラスと、泳いで止まらない。
「こ、こここ……このプ、プリントなんっ、だけどっ!」
「落ち着け、委員長。プリントがどうしたんだ?」
「……っ! え、あ、あ、あっ」
イメージは綿。ひたすらに柔らかく、安心を与えられるようにと心がけながら声をかけたつもりなのだが、委員長の混乱は強さを増すだけだ。このままでは泡を吹きだすのではないか、と割かし冗談にならない冗談が、由紀の頭を過ぎる。
昔からこうなのだ。
目つきが原因なのか、顔付きが悪いのか、
或いはこのボサボサと伸びた髪のせいなのか。
子供に泣かれるのは当たり前。人ごみを歩けばモーゼの十戒よろしく道を譲られる。如何にも頑固親父といった強面にも、厚化粧と脂肪たっぷりのオバサンにも、臆することなくポケットティッシュを配る青年が、由紀だけには渡しにこない。
そして同級生からはこうして気絶寸前までビビられ、まともな会話も交わせずにいる。
これで自分がどのような存在か、掴めないはずがない。
諸悪の根源がどのパーツにあるのか、もしくは顔立ちなどの造形ではなく、性格にあるのかは確定していないが、己は人から怖がられる。そういった存在であると自覚が生まれるまで、さほど長い時間は必要としなかった。
「むなっちゃん、数学だよ。先週末に配られた課題、今日提出だってヤツさ」
「……ああ、これか」
背中からかかる気安い呼び名と、もたらされた情報。委員長が抱えているプリントを見て合点がいく。彼女はまだ提出していない分を受け取りにきたのだ。
「悪いな、手間かけて。これでいいか?」
「あ、は、はいっ」
「察せれなくてすまない。他になにか用事とかはあるか?」
「な、ないです。これです。それではぁっ!」
ぴゅーっと、風を追い越さんばかりの勢いで教室から去り、委員長が消えていく。残ったのは気まずさと、後味の悪さ。ちゃんと提出期限を覚えていれば、わざわざ声をかけさせることもなかったと思うと、申し訳なさを感じる。
一つ、ため息をつく。
次はもっと上手に人と接することができればと、淡い希望を抱きながら、由紀は後ろへと振り返った先にいる、先ほどの声の主に批判的な目を向けた。
「もう少し早くに助け舟を出してくれ。委員長が可愛そうだろう」
「ごめんごめん、慌てる委員長を見てるのが面白くてさ。ついね、つい」
言いながら、幸助が由紀の近くの椅子に腰を降ろす。
人に寄りつかれない由紀にとって、たった一人の大切な友人であり、良き理解者である橘幸助は、手刀を振って形だけのおざなりな謝罪をする。
ちっとも悪びれた様子などない、へらへらと笑いながらポケットに手を突っ込む。
「面白いって、お前な。本人は本気で怖がってるし、オレはそんな委員長に困ってるしで、当事者二人は大変なんだぞ」
「だから面白いんだってー。他人の不幸は蜜の味っていうじゃん?」
「蜜の発生源の一つが友人だと思うなら、吸うのをぐっと我慢してくれ」
「はいはい、前向きに検討しとくよ。うんうん」
適当な返事と政治家的な発言を信用できるはずがなかった。コイツはまた同じ状況になったとき、同じ行動を取るに違いない。
だが人ばかりは攻められないかと、由紀は心の中で呟いて髪をくしゃりと撫でる。
「一応、努力はしてるんだがな……出だしで完全にしくじった影響がキツいか」
これではいけないと、高校生デビューを決意したのは中学三年の卒業式。
不揃いだった髪を美容院で整え、眼つきの悪さを伊達眼鏡でオブラートに包む。私服での登校が校則で許されているので、服屋の店員に選んでもらったのをいじらず、そのまま着てみた。外見はこれでばっちり。
内面のほうは、とにかく明るくはっきりと喋ろう、元気に挨拶をしよう。これできっと大丈夫。高校ではきっと上手くいく。
そして登校日初日。効果は絶大だった。
「あー、うん。がんばってたことは認めるよ。キャラじゃねえことやるぐらい、真剣に何とかしたいなーってよく伝わってきたけど、ね」
幸助が苦笑いをしながら、お茶を濁す。
そう、効果は出たのだ――悪い方に。
決行した高校一年生の春から今現在にかけて、直接目撃することになった同級生はもちろん。そこから流れた噂が原因で下級生、上級生までもが由紀を避けるようになった。
一体、何故。
心の底から『どうしてこうなった』と叫びたくなる気持ちは、まだ忘れられない。
「幸助。恥を忍んで尋ねるがオレはあのとき、何がいけなかったか未だにわからない。それともアレか、小手先のことでは解決できないってことなのか……?」
「……ドンマイ!」
慰め下手な友人へ、お礼として太ももを叩く。
「でも実際さー、なんつーか生まれ持っての雰囲気とか、オーラの問題だと思うんだよね」
「ふわふわとした抽象論過ぎて、いまいち掴めないんだが」
「うん、俺も実際わからんもん。いいじゃん、これから先も二人だけで仲良くしてこーぜ?」
「それを悪いとは言わないが、せめて普通に話せるようにはなりたい……」
クラスメイトに恐れられながら送る学校生活は本当に辛い。友情、青春、恋愛、とまではいかないが、もっとこう、今よりマシな内容にしたいのだ。そう思いながら三件しか登録されていない携帯の電話帳を見て、気分が落ちていくのを感じた。
ちなみに内容は幸助と、保護者に当たる人の番号だ。他は一切ない。
「この後、どうする? いつも通りゲーセン寄ってくか?」
机からぴょんと降りて、やけにキーホールダーのついた鞄を幸助が肩に下げる。それを見て、由紀も同様に椅子から立ち上がり、足元の鞄を手に持つ。
「今日は買い物だな。今年の冬、もっと寒くなるらしいから、上着が欲しい」
現在使っているコートでは、些か力不足さがある。雪が降るともいうし、保温性の高い物をクローゼットの中に備えさせておきたいのだ。
「なら俺もお供しますかねーっと。むなっちゃん一人だとちゃんとしたの選べるか心配で」
「うるさい」
事実その通りだから強い反論ができなかった。
この今着ているシャツに薄茶色のカーディガンと紺色のジーンズの組み合わせも、幸助が選んでくれた服装だから余計にだ。
「拗ねんなよぉ~。くはははっ!」
「調子に乗るな、怒るぞ」
「へいへい。なら駅前のデパートかな。むなっちゃん好みの品揃えだし、ダメでもすぐ隣に二店あるから回りやすいしね。軍資金はナンボで?」
パーを見せると、なら問題なしだと幸助が呟いた。服選びに付き合って幸助が得られるメリットは一つもない。
だけど手伝ってくれる。真剣に良い物を探してくれる。
無償で何かをし合える仲というのは、素晴らしいことだ。本人に言ったら調子に乗るから黙っているだけで、心の底から感謝している。
与えられるだけではなく、返すこともできればいいのだが、中々実現できないのが歯痒い。
「うーし、そんじゃまあ、行くとしますか!」
「ん」
お互いに上着を羽織り、教室から放課後の街へと飛び込んでいく、はずだった。
「っと、何だ。いきなり止まるな。ぶつかるだろう」
出ようとしたところで、ぴたりと幸助の足が動かなくなる。前を防がれては出られない。またちょっかいか何かなのかと、やや強めに背中をノックする。
「むなっちゃん、いいからちょっと見てみなって。アレ」
「……?」
首を傾げながら幸助の示す方、四組から二つ隣の一組の教室前廊下に視線をやる。
そこには妖精がいた。
日本人離れした金色のプラチナブロンドに目を奪われる。腰元まで届く長さの髪が、流れるように真っ直ぐ落ちる様はいい意味で人工的だ。人形技師が最高級の頭髪を作ったらこうなるのだろう。赤い花の髪留めが、掬い上げた一房の髪の根元で夕焼けを反射させる。
他の部分も劣ってはいない。蒼い瞳の輝きも、堀立ち深い顔立ちも、凛とした佇まいも、全てが彼女という存在を人から妖精へと昇華させている。服装こそ、学校指定のセーラー服と凡庸なものだが、それでも輝きは曇らない。
「彼女、今日は学校に来てたんだね。いつもより学校全体が落ち着きないなーって感じてたけど、原因はこれかぁ」
水無月司。この学校の一年生であり、不登校児である。家の事情か、体が弱いのか、はたまた予想もつかない理由があるのか。とにかく彼女は学校にほとんどこない。一か月に二、三度、姿を現せばいいほうという登校率の低さだ。
もちろん、そこまで休みがちだと出席日数の不足で退学や留年などになりそうなものだが十二月初めの今まで、その手の話は一切聞いたことはない。
教師陣が彼女に何か物申す光景も誰一人見てないとのことだ。謎の多さ、その美貌から、ついたあだ名がそのまま『妖精』。
その彼女が今、廊下で無数の男女に囲まれている。
「久しぶりの学校はどうでしたか? 授業の内容でわからないことなどはありませんか?」
「一週間前に調理実習があってね、そのときに作ったのがクッキーで」
「三学期の文化祭は来れる? うちの学校のは凄いからね、絶対来た方がいいよ!」
皆、口々にする話題はてんでバラバラだ。共通するのは、水無月司と会話をするための切り口を探しているということ。
何か話を振って関心を惹こうとする意識だろう。
「授業は登校できない間、予習していたので何とか……ですが、調理実習は出れらなくて残念です。お菓子作りには興味があったので、次はなんとしても参加したいですね。無論、文化祭も同じです。なんとか来られるといいのですが……」
そのどれもを無視することなく、一つずつ丁寧に対応する辺りに彼女の気質が見える。鈴を転がしたような声が、がやの中で一際目立って聞こえていた。
「こ、来ようよ! 二日あるし、どっちか一日くらいはさ! それで俺、演劇部やってるんだよね。来るなら正面の一番いい席を取っておいて……」
「オ、オレも軽音で文化祭、演奏するんだよね!」
「うちのクラスは喫茶店を――」
わあわあと言い争うように水無月へ声を飛ばす集団に、段々と熱が籠っていく光景を無言で見つめていると、ふと疑問が浮かんでくる。
「……」
一年生の水無月が、二年生の教室が立ち並ぶこの場所にどうしているのだろうか。
何か用事でもあってきたのだろうかと、彼女を見る。
相変わらず同じ一人と話を続けるのではなく、視線を回しながら、大勢の相手の対応に追われていた男子と喋っていたかと思えば、女子に向き合い、今度はまた別の男子に視線を向けている。
聖徳太子は何人もの話を同時に聞き分けることができた、というエピソードがあるが、まさにそれだ。水無月は涼しい顔をしながら、時折頬を綻ばせ、群がりの中心で話し続ける。廊下に反響する彼女以外の無遠慮な声が耳障りで、自然と顔が険しくなっていった。
「よくもあんなふうに群がれるもんだ。あれじゃ水無月が大変だろう」
多数で取り囲むことに見っともなさを感じないのだろうか。
「本人が気にしてない風だし、いいんじゃないの? 嫌ならはっきり嫌っていう人だしね」
「見て体験してきたような物言いだな?」
「違う違う。彼女も俺も図書委員で、たまたま登校したとき、図書委員の仕事の当番が重なった日があって、そのときに色々話したんだよ。いい感じの子だったぜ? 黒髪じゃないけど大和撫子って、こんな風なんだろうなーって」
「……」
わからなくもないなと、一人頷く。雰囲気がまさにソレだ。
「むなっちゃんは興味ないの? レアキャラだぞ、経験値ざっくざくだぞ?」
「特にない。というか、そういう見方があまり好きじゃない。あれじゃ動物園のパンダだ」
珍しいことは認めるし、心惹かれる容姿なのもわかるが、節度というものがある。
水無月を取り巻く学生達をざっと見る。人数は十人以上、二十人以下。その誰もが親しくなりたい、仲良くなりたい、ワタシを見て、ボクを知ってと話しかけていた。前面に押し出される自己顕示欲に見苦しさを覚え、由紀の瞳に嫌悪が宿る。
「……人気者に対する、不人気者の僻み?」
「見世物になりたいとは思わないだけだ。あんなの十数人と一辺に話をするよりも、幸助と落ち着いて話すほうがいい」
「あらもうむなっちゃんたら、デレ期がはや……おぅっ!?」
ふざけたセリフに鼻を鳴らし、無駄に大きい幸助の体を前へと突き飛ばして、扉から撤去する。たたらを踏み、崩れた姿勢を取り直してから非難の目を向けてくるが無視した。
すると幸助の叫び声に気づいたのだろう、水無月の周りにいる何人かがこちらへと視線を移して、由紀を認識した途端に頬を引きつらせた。
「む、宗方だ……っ」
誰かがそういうと、一気に恐怖が伝染していく。宗方だ、あの宗方がいる、何でだ、まだ帰っていなかったのか、今日はなんという日だ、などなど。
独り言にしては随分大きな音量でぼやいてくれると、言葉をこぼし掛けて、寸前のところで押さえる。
一言文句をぶつけて、関わりを持ってしまうのも馬鹿らしいと、由紀は踵を返す。
「待ってください、宗方先輩」
そのまま階段を下り、昇降口へと向かうはずのところに、鈴が鳴った。
「今から、お帰りになられるのですか?」
首だけで振り向くと、集団の中から一歩抜け出した水無月が、はっきりと由紀を見つめている。正面切って自分に話しかけくる相手が幸助以外にもいたことに、少々驚きだった。
「そうだが、それが」
軽く困惑しながら相槌を打つと、水無月はにこやかな笑みを浮かべる。
「今年は去年より寒さが厳しくなっています。風邪を引かないよう、気を付けてください」
「……それだけを、言うために声をかけたのか?」
「はい。折角お会いできたので、一言だけでも、と」
優しげな水無月の声音の後に、取り巻きの驚愕の叫びが廊下に響く。
「妖精が、宗方に声を!」「なんてことなのっ」「嘘でしょおぉ!?」
水無月と由紀とで何度も視線を往復させ、
その度に表情を濃くしていく姿に、由紀はぼそりと言葉を漏らした。
「ありがたいが、声をかける相手を考えたほうがいいぞ」
『アイドル化している水無月が、嫌われ者の宗方に声をかける』だけで大騒ぎになっているのだ。態々周りを騒がせる火種を作るのは、賢いことではないと思う。
そのことを水無月もわかっていないはずがない。しかもお互いに面識はない。噂で知り、知られている間柄だろうが、直接的に声を交わしたのはこれが始めた。
切っ掛けを作るような理由がどこにあるのだろう。
「幸助、行くぞ」
「りょーかい」
不透明な状況が、警戒心を刺激して場の打ち切りを選択させる。
「最後に」
まだあるのかと、若干戸惑いながら由紀が水無月へと今度は体ごと振り返る。
「最近、物騒なことが多いです。周囲には十分に気を払ってください」
「……?」
妙な挨拶だ。別れ際にかわすにしては妙に尾を引くセリフである。内容も忠告を超えて警告のようにも聞こえる。
まるで絶対に何かが起こると信じているかのような物言いだ。
「それだけです。お時間を取らせてしまってごめんなさい」
窓の外から聞こえる運動部の掛け声が、微かに廊下に反響する。
「それなら、水無月もだな」
「……私ですか?」
言葉を返すと、水無月が可愛らしく小首を傾げた。
意図が伝わらなかったようなので、補足を付け加える。
「物騒なことが多いんだろう。帰りは暗くなる前に、な」
最もこの囲まれ具合だ、完全下校のチャイムが鳴るまでは解放されないだろう。
「ありがとうございます。――心配してくださって、嬉しいです」
すると水無月はぺこりと、見本のような礼儀正しいお辞儀をした。なんだろう、本当にそこまで畏まった何かを向けられるようなことはないのだが。
そこについて尋ねてみたいのだが、周りの雰囲気がそれをさせてくれない。水無月の取り巻きが醸し出す空気が、どんどん不穏なものへと変わりつつある。
締めの挨拶もほどほどにし、幸助と共にこの場を今度こそ後にした。
キッチンミトンのように大きな手袋が頼もしい。ニット帽に隠れた耳が暖かい。
日が沈み、暖気が消えて寒気が顔を出し始める夜の時間。長年愛用している防寒具に感謝の念を込めながら、由紀は住宅街を一人で歩いていた。
幸助との買い物は実にスムーズに行われた。長年に渡って由紀のコーディネイトを担当してきたのだ。由紀の好みや求めるニーズを彼は把握しつくしている。
『んー、これとか好きっしょ?』
そう言われて数あるコートの中から選ばれた一着が今、手に持つ紙袋の中身である。丈がやや長めの、綺麗な白のダッフルコート。中々に暖かそうな一品である。
「これも年代物だからな。……そろそろ休ませてやってもいい時期だろ」
言いつつ、着用している黒のウール生地を見つめる。付き合いは四年程になるだろうか。中学一年生の頃に買ってから、冬はずっとお世話になっていた。
ポケットに穴が開いたり、ボタンが取れたりしても、修繕して着ていたが、さすがに限界だろう。
サイズも小さくなってきた。腕を伸ばすと袖から手首が覗いてしまう。
体の成長は面倒くさいと、今回の買い物で飛んだお札の枚数にため息をつく。必要な出費とはいえど、手持ちの財産が消えたことに変わりはない。
「こういうの見ると、大人になってきてるって思えてくるな……」
なんて臭いセリフだと、口にしてから鼻で笑う。
センチな気分になるのはきっと、静かな夜だからだろう。先ほどまで、幸助と楽しく喋っていたから、余計に賑やかな声が恋しくてしかたない。一人は慣れている。学校でも、家でも、それ以外のときでも。大抵は一人だ。
小学三年生の夏休み。家族みんなで避暑地への旅行。美味しい食べ物と、広い露天風呂をこっそりと泳ぐのが楽しみだったあの日の高速道路で、家族は潰れた。
父の運転に過失はない。相手の居眠り運転だった。中央分離帯を乗り越えて反対車線へと飛び出すトラックが、宗方家の自動車の前方部分をめしゃりと潰す。
後部座席にいた由紀だけが無事だった。父も母も即死だった。
街頭の灯りが薄暗い夜道を照らすも、気分は陰ったままだ。嫌な記憶を勝手に思いだし、勝手に落ち込むだなんて情けない限りだが、一人になると無性に辛い映像が脳裏に浮かぶ。
こんな話、幸助にもできない。言えばアイツのことだ。気を遣わせてしまう。
「バカっぽく見えて、そういうところ義理堅いからな、お前は」
本人がいないからこそ、由紀は素直な評価を呟いた。
だが、考えはぐるりと戻る。
寂しいという感情が有りえたかもしれない未来を描く。
もしも両親が健在ならば。もしも顔や雰囲気が、人を怖がらせるようなモノでなければ。幸助の他にもたくさん友人がいて、その中には友人以上の大切な存在もいたのなら――。
「……この家のキツさが、少しは楽になったのかな」
二階建ての庭付き、日当たり良好なこの町内で一番大きな一軒家。
両親の残した宗方家は、今日も中から蛍光灯の光が漏れることなく、内部に暗闇を収めながら変わらず此処にあった。
ポケットから鍵を出して、玄関の錠を開ける。
すかすかの下駄箱、声の聞こえない家の中。金銭的にも多く残された宗方の遺産を巡り、群がる親戚共を排除し、父の部下である園部夫妻が遣わせた使用人がいたのは、高校に上がる一昨年まで。
この一人で暮らすには大きすぎる家が、由紀の帰るべき場所だった。
「ただいま」
返ってくるのはもちろん、無音だ。靴を脱いで揃え、電気をつけながらリビングへと向かう途中で、今日の夕飯をどうするかと頭を巡らせる。
一人暮らしは自由だが、食事は勝手に出てこないし、洗濯をしなければ服は汚れたままだ。気楽である分、苦労する分もある。決していい面だけでないのは、どの事柄でも同じというわけだから、世の中は全てに平等にできている。
「……今日も一日、終わったな」
着替えたり、食事の準備をしたりと、やることはあるがまずは休憩だ。
防寒具を脱ぎ捨て、もふもふと柔らかいソファーに座り込み、体から力を抜いていく。白い天井、広い家、自分だけの孤独な城。ペットでも飼ってみれば解決するかもしれないが、実行にはいまいち踏み切れていない。
「……」
無音が嫌で、テレビをつける。バラエティの品のない笑い声は聞きたくない。
かといってドラマは途中からでは、何がどうなっているかわからないからパス。結果、ニュースになった。ちょうど天気予報の最中で、明日が晴れであることを教えてくれる。
雨が降るなら土日にしてくれ、出かけないから雪でも問題ない。無責任な考え事をしながら立ち上がり、飲み物を求めてキッチン横の冷蔵庫へと歩き出す。
カン……ッ。
「ん?」
何か、音が鳴らなかっただろうか。
足を止めて後ろへと、庭に通ずるガラス戸へと視線をやる。星と月が散りばめられた紺色のカーテンに阻まれて、外の様子は見えない。
誰かが勝手に敷地内へと入り込んだにしては、音が軽い。空耳だろうかと、首を捻りながら進路を一転、音源へと変更する。
フローリングの床を滑るように歩き、カーテンごとガラス戸を横に引く。不審な影は見当たらない。適度に生えた雑草と、物置がある由紀の見慣れた自宅の庭だ。
念のためと備え付けのサンダルに足を通し、左右を見渡すもやはり何かは見つからない。
「気のせい、か」
異常がないと確認して庭から家内へと戻ろうとしたときに、胸に違和感が走った。
最初に感じたのは炎を直接、肌に押し付けられたかのような灼熱。
「がふっ。……?」
肺から飛び出した空気が、喉を震わせる。一拍遅れてから嘔吐感が喉に込み上げてきて、咄嗟に口から出るものに栓をしようと手を上げようとするのだが、上がらない。力が入らない。堪らずその場で吐き出した。
血だった。
「は……あ……?」
真っ赤な液体がべっとりと開けたガラス戸の向こう、リビングの床を汚す光景に、頭が追いつかない。コレがなんなのか、モノは理解できても過程がわからない。
口の中は鉄の味で充満していて、呼吸も上手くできていないのか意識がどんどん霞んでいく。
何故、どうして。
「あ、あああ、ああああああああああ……っっ!!?!」
襲ってきた痛みが脳を焼く。痛いという文字で頭が埋め尽くされ、掠れた叫び声を由紀は上げて、ようやく自分の身に何が起きたのかを把握した。
自身の体、その左胸から己のではない腕が生えていて、手の中にはピンク色の臓器が握られている。
人体模型や保険の教科書でよく見る、人間の中で一番大事な臓器。
心臓。
繋がっていた血管は千切れて、胸からぷらんと垂れ下がっている。自分の体の様子が、映画の出来事のようにしか思えない。突き刺された腕に対してもだ。
由紀の血で真っ赤に染め上げた『腕』が引き抜かれていく。むき出しの神経と肉を擦られる刺激に、由紀が悶え苦しみ、ずるりと異物が消えた途端、足が崩れて後ろへと仰向けに倒れる。
土と草の感触すらも、痛みに塗りつぶされてわからない。
ただ痛い。ただ苦しい。体から酸素が消えていく。
「な、んだ……なんなんだ、これ……っ!」
血の泡を吹きながら、倒れた体を起き上がらせようと足掻くも動かない。
痛い、血が流れる、服がこんなに赤い、止まらない、心臓が、死ぬ、このままでは、死ぬ――死ぬ?
「……っ、……っ」
強弱の不規則な呼吸が、段々と平坦な波へと変わっていく。
急激に消えていく体温に死の実感を覚えながら、由紀は口元を軽く釣り上げる。
わからないことだらけだが、ここで自分が死ぬことだけは把握ができた。
交通事故で自分だけが生き残った。そのことに負い目がないわけじゃない。だからこそ、由紀はすんなりと自分の死を受け止める。あのときの幸運の反動が、今になってきただけのことだと自嘲する。
心残りといえば幸助と、保護者名義になっている園部家にくらいか。何にせよ、自分の死が大人数に影響を与えるのではないことも、由紀の諦めの良さの一因になっていた。死んだところで、泣く人は限られている。そんなつまらない人間が一人、消えるだけだ。
躊躇う理由はない。あの心臓を掴んだ腕、
背後から襲ってきたのが誰か、興味もない。
「……」
指先が凍えるように冷たくて、視界が霞んでくる。そろそろのようだ。
「オレ……は……」
どこに還るのだろう。
雲は一つもなく、丸い月が浮かぶ夜空は綺麗だった。仰向けに倒れてよかった。うつ伏せならば、こんな風景に見守られることもなく――。
――意識は、ここでぷつんと千切れた。
同刻にて。
「血の匂いを辿ってみれば……随分と不愉快なモノがあるではないか」
電柱の上で月光を背負い、生気を急速に失いつつある由紀を少女は眺めていた。
紅の瞳を細め、じろりと目を向けて逸らさない姿は、獲物を品定めする獣を彷彿とさせる。
日常にとっての死人は十分に非常事態だが、少女からしてみれば特段驚くことではない。道端に転がる小石と同程度のものだ。
それ自体は嫌悪するものであるが特段、眼を見張るようなものでもない。
ないはずなのだが、咄嗟に過ぎった考えが、その場から去ろうとする足を止めていた。
「……何を、馬鹿な」
言葉にして、斬り捨てようにも纏わりついて離れない。
非合理的で、自殺行為も甚だしいと理論で解いても拭い去れない。その感情の名前を知っているだけに、払えない。
少女は由紀に目を向けながら、過去を幻視する。
その上で再度、自身に問いかけた。
変化が、必要だ。
意思は決まった。電柱から宗方家の庭へと音もなく飛び移る。距離、高さ共に十メートル以上もある跳躍をさも当然のように行う。そして冷たくなった由紀を眼下へ据えた。意識はもう完全にないらしい。空を見つめる瞳に生気は残っていない。
既に息を引き取っているのか、そうでないのか。一目にはわからないが、少女は調子を崩さす、魔性の声音で囁いた。
「貴様には今一度、死んでもらうことにしよう」
宣言をしてから、少女は自らの左胸に腕を突き刺す。骨を砕き、びちびちと血管を引きちぎりながら、己の心臓を眉一つ動かさずに引き抜く。
「受け取るがいい、魔狼の心臓を」
少女はそう宣言をし、脈打つソレを由紀の空洞へと落とした。
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