第二章 08

 俺たちは蘇芳病院(住処)へと急いでいた。


「久良臼会計が、大男の正体なのか?」


 久良臼会計は昼の休み時間いっぱいを使って肉塊を食べ尽くし、何事もなかったかのように午後の授業に戻っていった。お腹がかなり膨らんだ状態ではあるが、副会長が説明するには、それも夕方くらいには元に戻ってしまうのだという。


 その後、保健室に待機しながら事態の推移を伺っていたのだが、久良臼会計のいる二年生の教室からは悲鳴の一つも上がってこない。現状では変化なしと判断して、病院への帰り際にそっと窓から覗いてみたが、ごく普通の授業風景が展開されているだけだった。


 久良臼会計は大男ではない。ただの過食症の女?


 ……しかし


「変身用に専用の肉があるのかもしれない」


 先輩の予想。俺もそう思う。


「じゃあ事件の真相は、久良臼会計と副会長の同好会?」


「そういうことになる。しかし」


「しかし?」


「それが事実だったとしても現状ではただの愉快犯でしかない。誰も死んでいない、誰も迷惑していない。しかも久良臼くんにとっては、それが幸せでもある。夜に徘徊するのも単純に食後の運動だけなのかもしれない」


 現状ではUMA騒ぎしか起きていない。しかも観察対象であった『ショートレンジ』の裂弩会長とは今のところ無関係。


「だが……事件は誰かが死んだあとでは遅い」


 そう、それなんだよ、俺たちが急ぐ理由は。大男という素材を原料にして、何か大きなことが起ころうとしてるんじゃないのか。そんな予感を俺も先輩も感じている。


「そしてわたしたちが、あまりにも大きな情報を手に入れてしまったのは事実だ。これは任務の再始動か、陸保の諜報部隊の即時投入か。いずれにしろ大きく動くのは間違いない」


 そしてその是非を問うため、俺たちの司令である赤坂室長の下へ向かっているという次第だ。携帯で即時指示を仰ぐことも考えたが、独断行動による情報取得ではあるので、本来指令を出す役割である室長に直接合わなければならないと筋が通らないと先輩は言う。確かにそうだ。


 蘇芳病院に着くと、看護師でもない者が院内を走るわけにもいかないので、早足に切り替えて廊下を急ぐ。


「室長!」


 ノック無しで躍り込む。今はそんなことを気にしている暇じゃない。


「……あれ?」


 しかし室長のデスクは無人。


「なによノック無しで失礼ね。それに随分遅かったじゃない? 昼休みが終わったら早退の予定なんじゃないの?」


代わりに診察用の椅子に。この部屋に深い関わりがあるにもかかわらず、この部屋に似つかわしくない者が座っていた。


「朱音(あかね)三正?」


 朱音三正は、ようやく役目が果たせるといった動きで腰を上げ、俺たちの前に立った。


「遅かったのは新しく目標として定めた者の動向を観察していたからだ」


「あなたたちの仕事は昨日で終わりでしょ? 待たせないでよ」


 予定より数時間遅れて帰還した理由を先輩が説明すると、三正は嫌味たっぷりな台詞で返してくれた。待ちくたびれたらしいのは判るが、それはあんたの勝手だろ? それになんであんたが室長室(ここ)にいる?


「それはそうなのだが、それも含めて麗子に判断を仰ぎたい。彼女はどこだ?」


「死んだわ」


 ……――?


 な……え?


「死んだ? どういうことだ?」


 先輩が珍しく怒気を露わにして詰め寄っている。赤坂室長が死んだだと? なに莫迦なこと言ってるんだ? 俺だってそんなのは冗談で済まされないのは判ってる!


「ヒートしないで。あたしは事実を伝えているだけ」


 しかし三正は至極冷静に言葉を重ねるだけ。


「赤坂女子は今日の午前中に死んだわ。死亡推定時刻は午前十時」


「死因は……なんだ?」


「ギガフォビアよ」


 三正の簡潔な言葉が室内に冷たく響きわたる。


 ギガフォビア――それはこの星に生きる者全てに訪れる、絶対の死病。


「……」


 その事実を聞いて、三正に掴みかからんばかりの勢いだった先輩は、全てを悟ったように黙りこくった。でも、ちょっとまて、俺は先輩みたいにすぐに理解できない。


「朱音三正、室長はどこで発病したんだ!? 院内か? 自宅か? どっちにしろ麻酔が間に合うハズだろ! なんで初期処置が間に合う場所にいる赤坂室長が、すぐに死ぬことになるんだ!?」


 確かに麻酔で眠らせてもそれは一年しか持たないが、その状態で既に死亡というのはおかしいだろ!


「待て」


 今度は俺の方が掴みかからんばかりの勢いになったところで、先輩からの制止が入った。


「麗子は麻酔で眠ってはいない。三正が麗子はギガフォビアで死んだと教えてくれたんだ。だからそれは事実だ」


 しかし俺の疑問には先輩が答えてくれた。なんでそんなことを知ってる? 判る?


「まったくニードライバーってヤツらは、自分の理解できないことを言われただけで揃いも揃ってあたしたち普通の人間に突っかかってくるんだから。そんなの力ある者のエゴよ」


「……」


 三正の言葉に俺は唇を噛んだ。


「一応上からの命令で、年功序列に従いあたしが室長代理になるけど、判ってるでしょ? あたしがニードライバー(あんたたち)の面倒見るのに時間が裂けないこと」


 自分は早くドールハンマーの格納庫に帰りたくて仕方ない、そんな雰囲気を少しも隠そうとしない。


「さっき新しい目標とか喋ってたけど、あたしはそんなのは聞く気はない。ニードライバーとして働きたいのなら、勝手に行動して頂戴。一応ヘマしても室長代理としての責任はとってあげるけど、処分が処理になる程度だと覚悟しておいて」


 朱音三正はそう言い捨てて、自分が新しい主になったはずのこの部屋を出ていった。


「……」


「……」



 ――……。


 どれだけそうしていたのだろう。俺と先輩は二人きりになった室長室で、しばらく無言のまま立っていた。


「……」


 理不尽な朱音三正の立ち振る舞いに対する怒りが収まってくると、胸の中には何も残っていないのに気づいた。人が一人死んでいる。しかも近しい人が。しかしそれに対する悲しみが、どこを探しても見つからない。


 三正に対する感傷でその感覚が塗りつぶされてしまったのか? いや、違う。始めから無かった。三正以外に室長の死を告げられても同じように死に対しては空白だっただろう。


「麗子はようやく、責任がとれたのか」


 静かな空気を震わすように先輩がつぶやいた。微量なハズの振動なのに耳に痛い。


「責任?」


「彼女は『自分が死ぬときはギガフォビアで』と決めていたからな」


「なんで、どうして? 眠りにつけば、まだ一年は助かる可能性があるのに、なんで室長はすぐに死んだ?」


「まだ意識がある者にとって、生か死かを選ぶのは、最後に残された権利だ」


「……」


 俺はその権利を使って生を選んだ。そして室長は死を選んだ。そういうことなのか?


「でもなぜ?」


「彼女の曽祖父が残したウィルスがギガフォビアの元になっているかもしれないからだ」


「でもそれは、判らないんだろ?」


「曽祖父が残したウィルスがギガフォビアの元になっているというのは、確かに一つの可能性に過ぎない。しかし可能性は可能性。答えの一つでもあるし、終局にたどり着く解答かもしれない。彼女はその最悪の可能性を常に考えていた」


「でもそれは室長のひいじいさんが作ったもんなんだろ? なんで遠い子孫である室長がそんなにもやらなければ」


「血だ」


「血……」


「彼女に流れる血が、彼女に逃亡を許さなかった。そして彼女も逃げなかった。体に流れる血の求めに応じ、血に殉じた」


「……」


 先輩がその死を完結に語る。俺の心が、その事実をあまりにも素直に受け入れ始める。


気持ちが、驚くほど低く、冷たく、落ち着いていく。


「……」


 人が一人死んだというのに、何で俺はこんなにも冷静でいられるんだ?


 事件は誰かが死んだあとでは遅い。先輩はさっきそう言った。俺もそう感じた。しかし、事件なんかが起こらなくても、人は余りにも簡単にこの世からいなくなる。


 なんだよ……なんなんだよ。


俺たちが懸命になって死者が出る前に事件を解決しようとしても、違う理由で人は死ぬ。しかもそれは解決に奔走している側の人間にも適用される。


 俺たちがやっていることは、意味がないのか?


「俺……怖い」


 悪寒が走る。俺はその嫌な寒さに耐えるように、自分の両肩を抱きしめた。


「俺……全然悲しくなれない。俺はもう、正気じゃないのか?」


 大切な人を失った。その悲しみが全然体内に生まれてこない。何かが乾いたまま。


 確かに赤坂室長とは出会って間がないよ。でもそれでも、俺の中には肉親に近いほどの大きな存在になっていたはずだ。それなのに、それなのに……


「なんでこんなに、悲しくなれない? 赤坂室長は死んだんだぞ?」


 俺の肉体に巣食う第二の病が『ショートレンジ』の方であったなら、この空虚感を糧にして今頃変身しているだろう、あの看護師のように。


「大丈夫だ」


 俺を落ち着かせようとしてか、先輩が口を開く。だが、


「麗子は例え死んでもわたしの中で『女医×少年』という妄想の中で永遠に生き続ける」


「!?」


 俺はその先輩の不用意ともいえる発言にキレた。


「場所を考えろよ! あんた死んだ人間をそんなふざけて扱うなよ! あんたにとってはこの人は母親でもあるんじゃないのか!」


 俺は思わず先輩の頬を平手でぶっ叩いた。


「俺自身はいくらでも使われて構わないが、死んでいった人間までそんなことに使うな!」


「……」


 しかし、頬を赤く腫らした先輩は、俺の怒りに満ちた顔を見て満足げに微笑んでいた。


「わたしも欲望に正直に生きている。だからこその妄想だ。そしてキミは自分の中の正義への欲望に従いわたしを殴った。だから、その程度の狂気であればキミはまだ正気だ」


 正気を保つための狂気。


「あんたまさか――ワザと?」


 先輩が俺にくれたその言葉を心の奥でもう一度噛み締めるに連れて、昂る気持ちが収縮していくのを感じる。


「ワザとが半分、本心が半分だ」


「……そう言うだろうと思ったよ」


 冷静に考えてみれば、妄想のオカズにされて一番喜んでいるのは室長だろうからな。


「しかしキミからこんなにも一生懸命殴ってもらえるとは思わなかった。わたしも地獄へ堕ちて麗子と再開する時には、良い土産話ができる」


 そんな死ぬこと前提の話するなよ。地獄に堕ちるの前提で話進めるなよ。天国の方に行けるかもしれないだろ、何かの間違いで!


 でも先輩にとっては、それが正気の量を減らさない方法なのだろうな。


「この簡単な別れの気持ちは、彼女が予め用意しておいてくれたものだ。残された者が悲しまないようにと」


 昨日までの「さよなら」は、そのために室長が準備していたものだったのか。本当にいつ永遠に別れなければならないからこその、毎日のさようなら。


「わたしも用意しておくべきなのだろうな」


「止めてくれ!」


 昨日まで――ほんの少し前まで、赤坂室長が座っていた席を見ながら俺は叫ぶ。


「俺は先輩が消えたらその悲しみを感じたい! どん底まで悔しくて悲しくなったとしてもあんたを失った悲しみを感じたい! 残された者には悲しみにくれる権利だってあるんだぞ!」


「……そうだな」


 こんな空虚感、先輩に対しては絶対に感じたくない。あんたが死んだと知ったときには、涙で川ができるほどに泣いてやる、絶対に。


 ていうか俺、ド変態な先輩とはいえ女を殴っちまったんだな。


「先輩……ご」


「ごめんはいらない」


「?」


「わたしもキミを試すようなマネをしたのだ。その非礼があるから帳消しだ」


 ホント、なんでこの女こんなにカッコイイんだよ。


「……あとそうだ、勢い余って、室長が母親なんじゃないかって言っちまったけど」


 大変なことも怒りに任せて思わず口走ってしまった。


「その話も麗子からされたのか」


「聞かされたけど、赤坂室長本人からは真実は先輩から訊いてくれと、はぐらかされた」


「キミ自身は真実を知りたいか?」


「俺は、二人が同時にいる時に訊きたいと思ってた」


 しかしその機会も永遠に失われてしまったのか。


「ならばわたしもキミの希望に合わせよう。二人一緒にいる時に秘密を明かそう」


「……それって自分も内緒ってことか?」


「麗子のことだ、八月の半ばくらいになったら、一日くらい帰ってくるんじゃないのか? その時に話そう」


 そんな莫迦な話……とは言い切れないな。俺たちみたいな人造妖怪が跋扈しているような時代なんだもんな。そんな莫迦なってことも充分ありうる。それに先輩も言うように、あの赤坂室長なら本当に一日くらいは帰ってきそうだしな。そんな風に思える印象を残してくれた室長には心から感謝するよ。二人の関係は永遠に秘密でも俺は構わない。死を隔てても二人の関係がそんなに変わっていないのが見れただけで、俺は充分だ。


 今の時代、生きている人間が死んだ人間を心配している暇はなく、逆に死んだ人間が何とか生き残っている人間を心配してくれている時代なのかもしれない。

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