第一章 03
……――。
あれ? 俺はいつ眠ったんだ?
その悲鳴を聞いた時、俺は起きていたのだろうか。それとも夢で聞こえてくる幻聴なのか。それとも自分で出した叫声の残響か? 夜。深夜の病棟。断末魔の叫び。
病院という命を預かる施設であるならば、死に際の絶叫はどの施設でも公平に響いているものだろうが、この特殊な精神病院の場合は、それも特殊だ。
基本的に全ての病室は防音処理。しかしそれでも断末魔の叫びはかすかに聞こえてくる。
今日もこの病院のどこかで、見えざる巨人に踏み潰される者がいるのだろう。そしてここに収容されているアイツも十一ヶ月後、事態が好転しなければ同じようになる。
ギガフォビア用に作られた拠点病院の各フロアには、ある目的のための小部屋が必ず一つは設けられている。個室の病室というわけではない。ギガフォビアを発症し既に一年以上経過してしまった末期患者が発作を起こした時ここに搬送されるのだ。ここで最後の発作を終え数人の看護師に看取られながら死んでいく。自分の筋力を限界以上に発揮して自分自身を押し潰し。
「……もう嫌……もういやぁっ!」
「?」
聞き覚えのある女の声。その悲鳴が近くで聞こえた。
俺はその声を聞いて落ち着いて眠ることもできなくなり、ベッドから起きた。
病室から出る……おっといけない、ニードルを忘れるところだった。俺は真っ赤なトンガリ棒を引っつかむと廊下に飛び出した。
「あれか?」
廊下の壁際で白色の衣服に身を包んだ女が蹲っているのが見えた。
「大丈夫、ですか?」
姿勢を低くして顔をのぞき込む。俺が近づいてきたのにも気づかないように、ウツロに前方を凝視している。血が引いたように彼女の顔が青白いのは、照明が落とされ常夜灯だけになった光の加減だけではないだろう。
「大丈夫ですか……看護師さん?」
二度呼びかけれ、そこでようやく気づいたらしい。
「紅河君……」
俺のことをずっと面倒みてくれている看護師が、体を抱えて震えている。
「もういや……なんで、こんな、人がいっぱい……死んで」
彼女もこの特殊な病院に勤めるだけあって、最後の小部屋への搬送係は何度もやっているのだろう。そして今夜も。それだけ経験してしまってはたとえ看護師と言えども、緊張の糸が切れてしまうのも仕方ないと思う。
「あの、大丈――」
「あなた、ニードライバーなんでしょ? だったら、やっつけてよ……あたしたちを踏みつぶしにやってくる巨人を!?」
看護師は今まで沈んでいた顔を振り上げると、睨むような目線を俺に向けてきた。
なんでそのことを? いや、専属の看護師なんだからそれぐらい知っていて当然か。でもだったらなんでニードルのことは黙ってたんだ? 誰かに教えられたのか、俺がニードライバーだってこと?
「いや、でも俺……なったばっかりだし」
それにやっつけるたって、どこにいるんだよ巨人?
「いつもそんなでっかい針を自慢げにぶら下げてるくせに――」
看護師はゆらりと立ち上がると、壁際に立てかけられていたモップを手に取った。
「こんな……こんな、役に立たないニードライバーなんて――いらない!」
看護師は手にしたモップの拭糸部分を踏み付けると、その部分だけ地面に残すように柄の部分をもぎ取った。
「!?」
いくら患者を担ぎ上げるなど重労働の仕事をやっているとはいえ、女の細腕でそんなことが――何が起きてる!? 直後、看護師の持っていたモップの柄が砕け散った。
「!?」
オガクズ大に粉々になった破片が看護師の体にまとわりつくように風に流れる。そして数瞬の後、それが装着されていた。胸の辺りに木でできた装甲を思わせるものが被されている。肩口からは本来の腕とは違う木製の大きな副腕が飛び出ていて、それも含めて装着部分からは鋭角的なデザインの枝葉が所々生えている。
「――我ガ名ハ、パワフルドライアド」
先程までのソプラノを押しつぶしたようなくぐもった声。血液そのものが喋っているような異音。その声、その姿はまさに
「……ば、バケモノ?」
「そんな風に称しては、彼女に対して失礼だ」
俺がそう形容した直後、ここ最近で聞きなれたもう一つの女の声が聞こえた。
「……先輩」
「彼女は『ショートレンジ』の陽性者だったが、この局面で発症してしまったか」
「『ショートレンジ』? 陽性?」
しかしその質問には答えてくれず、代わりに俺に背を向けるように看護師と向かい合う。
「先輩、なんでここに?」
「散歩だ」
この質問には答えてくれた。しかし散歩? こんな夜更けに。
「キミと幼馴染くんとの妄想の決着がつかなくてな。結局この時間まで起きていた。気分転換にキミの病室でも眺めて、妄想を強化しようかと」
そんなことだろうと思ったよ! でも突っ込みは心の中だけだ。何しろこの場をなんとかできそうな唯一の人物が来てくれたのだから。
「というか先輩、あの看護師はどうなっちまったんだ?」
「彼女も一応、ニードライバーだ」
「あれが……ニードライバー」
本当に妖怪じゃないかあれ。
「だが、紛い物だ」
はらりとコートを捲る。中の赤が覗く。
「これから、本物のニードライバーというものを、見せてやろう」
「本物?」本当の次は本物だと?
先輩はそう告げるとコートの裏からニードルを抜き取り掲げた。
「灼け、灼たかに――血の言葉を詠え!」
先輩の咆哮。それに呼応するように破砕音が生じて空気を震わせると、右手に持ったニードルが砕けた。赤い塩粒に戻ったニードルが風に乗って先輩の足元にまとわりつく。
さっきと同じ!? 看護師が変身したのと同じことが先輩にも起こっている!?
そして小さな旋風が収まった時、先輩の足にはニードルが変形した大型ブーツが装着されていた。同時に着ていたロングコートも脱いでいる。全開となった真紅のワンピースが夜闇に映える。翻った白外套が左手に握られて静止すると同時に、再び静寂が訪れた。
「――我ガ名ハ、テンションレッグ」
先輩の口からも血が直接震える声が発せられた。
「これがニードライバーとしての第二次成長。ニードルが、自分の求める形状へと変形する」
随分と上の方から先輩の説明が聞こえる。大型のブーツを履いた先輩の身長はその分高くなっている。元から高い上背に加えて2メートル近い。
ブーツ自体は機械っぽいゴツイ作りであるのにスマートさを感じさせるもの。黙ってればクールビューティーな先輩には良く似合うデザイン。色はブラックをベースにして所々に血管を連想させるクリムゾン。脛から下は、揚力を上げるために細く長いグライダーの羽を更にスマートで鋭利にしたような、スタビライザーという言葉が良く似合う形状をしている。なんでそんな竹馬並みの接地面積で静止していられるのか――いや、塩の塊が展開して装甲パーツに変形している時点でそれは無用なツッコミなのか。すごいな登戸研。いや陸上保安庁か。
しかしちょっと待て。それってどう見ても足メインのアクションに特化しているようなアイテムだよな!? しかもどう見ても戦いのための装備だよな!? そんな短いスカートで今から蹴りとかジャンプとか足アクション系するのか!? なんのサービスだよ!?
「第二次成長だかなんだか知らないけど、そんな装備だって始めから判ってるんだったら、いつもパンツルックとかでいてよ! あんたズボン系も似合うよ!」
ニードルが変形とか今から戦闘とかそんな異常事態よりも、そっちの方が気になるよ!
「女というものはスカートを穿くとテンションが上がるものだからな」
「そういう意味のテンションレッグなの!?」
「だがキミにズボン系も似合うと言われたのは嬉しいな。いつもの倍、力が出せそうだ」
そう言い残し、先輩は相手に向かって歩きだした。甲冑姿の騎士が歩くときのように、硬いものが擦り合う音が廊下に響く。
「聞こえているか?」
先輩が看護師に話しかける。
「わたしは現役のニードライバーだ。わたしの力があればあなたの恐れる巨人を倒せるかもしれない。その力を信じて、あなたが今得てしまった力を解いてくれないか?」
「ぐ……ぐるぅ」
看護師は既に喋ることもままならないらしい。呻き声でそれに応える。
「そうか、全ての意思を怨念へと昇華させてしまったか。自分たちを踏み潰しに来る巨人への恨み、強い力を持つのに役に立たないニードライバーへの恨み、そして死にゆく患者に対してどうすることもできない自分への恨み」
しかして先輩はそのくぐもった声だけで相手の意思を読み取れたらしい。
「ならば、周りに迷惑をかける前にわたしに倒されろ。どうせ死ぬのだから」
左手に握ったままだったコートをバサリと落とす。それが、合図。
飛び出す。同時に右膝を相手に突き出す。しかし相手も木の副腕を押し出して、先輩の膝蹴りを受け止める。衝撃でパンプスが床を滑り火花が飛ぶ。
看護師は一旦間合いを広げるようにバックステップを踏むと、それと同時に枝に生えた葉っぱを飛ばした。いかにもなんでも切り裂けそうな鋭利な先端が先輩の元へと向かう。
ブゥン! と巨大な扇風機の羽が起動するような音。先輩は左足を軸足にして一回転すると、振り上げた右足で全ての葉っぱを叩き落とした。
右足を着地させその勢いを載せたまま軸足に変更、今度は左足を打ち上げる。それは見事にヒットし、相手の木製の右腕を叩き飛ばした。だが相手もその程度ではひるまず、無事な左腕を豪快に振り回して迫る。先輩もそれに応じるよう右膝を今度は上に突き上げるようにしながら、その攻撃をテンションレッグでガードする。
「……す、凄い」
思わずため息が出るほどに凄い。美しく力強い戦いの舞を披露してくれている――紺色のアンダーウェアも盛大に披露しながら。
いやほんと「ワザとやってるんじゃないのか?」ってくらい良く見える。そんな理由なのでため息の半分は「だからなんでスカートなんだよ!」ていう残念な意味のため息も含まれているんだよ! 薄暗い照明の中で、しかも地味目な濃いブルーのアンダーウェアなので良く見えないはずなのに、それでも良く見えるほど良く動く。その意味ではお世辞抜きで強いよこの人、戦士だよ! そんな名称が当てはまる人間がこの世にいるって時点でビックリだよ! あんたなら本当に巨人倒せそうだよ!
これで相手が男だったらそのインナーも攪乱攻撃の意味があるのかもしれないが、残念ながら対戦相手も女(多分百合趣味無しいたってノーマル)なので意味無しだ。
というか俺が攪乱されてしまった。扇情的というよりも、あまりにも健康的なお尻の動きに強引に見とれさせられて、気づくのが遅れた。凄まじいぶつかり合い。それはお互いの攻撃が相殺されることなく相手を弾き飛ばし、気付いた時には先輩の体が俺の方に飛んできた。
「!?」
よける!? ――いや、ダメだ。俺の気持ちがそれを許さない。
俺は自分のニードルを投げ捨てると、先輩の体を受け止めるように両手を伸ばす。ボフッと俺の体に当たって勢いがかなり減った後、俺ごと壁に叩きつけられた。
「ぐへぇ!」「ぅぐ!」
二人とも同時にうめき声を上げながら、重なるように床に倒れた。もちろん俺が下だ。
「……すまんな、クッション代わりになってもらって」
それでもかなりのダメージだったらしく、すぐには起き上がれない様子。しかし向こうを見ると、看護師の方はまともに壁に叩きつけられたらしくピクリとも動かない。
「いや、いい……それに俺もニードライブ症候群で体が強化されてるんだろう……?」
でもやっぱり痛いもんは痛い。特に胸の辺りが。傷口が開いちまったか? 背骨も何本か欠けたままなんだよな――て、いうかそれって脊髄が断裂してるってことじゃないのか? 良く動いているよな俺の体。というか重なった俺たちの体は、先輩の腰の辺りが俺の顔近くにあって、盛大にめくれたスカートに丸出しになった紺色はさておき、アンダーウェアが食い込んでお尻の肉が少しはみ出てきてるのまで良く見えるのは喜んで良いのか。
「あのさ、あんたって穿いてる下着は地味なんだな」
本当ならスカートの乱れを直してやりたいところなんだが、俺も痛みですぐには体が動かせそうにないんで、紺のインナーを直視せざるをえない事実を、そんな言葉で濁す。
「これか? これはブルマだ」
「ブルマ!?」
なにその正体!? こんなところでそんな絶滅衣服(レッドデータコスチューム)にお目にかかれても、嬉しくないよ!
「テンションレッグの始めての発動以後はそのまま戦っていたのだが、『スカートのまま戦い続けるのならこれを穿きなさい』と室長から支給された」
身を起こしつつ、そのブルマの食い込みを直しながら先輩が立ち上がる。向こうも再起動を始めたらしく動きが激しくなってきた。右腕も再生している。
「というかハーフパンツとかキュロットスカートとか他にも選択肢はいっぱいあるだろう! なんでそこまでスカートにこだわるんだよ! 目のやり場に困るよ!」
「女とはスカートを穿くとテンションが上がるものだからな」
「それはさっき聞いたよ!」
「ギガフォビアもニードライブ症候群も心に作用する概念の病気だ。自分の衣服でテンションが上がりメンタルの部分で強化されるのならば、それも利用するまでだ。わたしは女という非力な存在だからな」
非力――この女には到底似合わない言葉だと思うが、自分のできることに全力を尽くすという意味では尊敬に値する。本物の戦士だこの人。
「……?」
そんな戦士な先輩が立ち上がった際、左太腿外側に蝋印のような紋様があるのが見えた。
「先輩、なんだこれ?」
それは妙に印象的で、しかもちょうど手の届く位置にまだ先輩がいたので指先で触れてみる。
「あぁん」
「そんな首筋舐められたみたいな悩ましい声出すなよ! ビックリするだろ!」
「まぁある意味ニードライバーにとっては首筋と同義――弱点だからな」
「弱点?」
「キミが触れたその部分――エンブレム部分をニードルで突くことにより、ニードライバーの第二次成長装備は破壊される。ニードライブ症候群というウィルスを作ったのならちゃんとワクチンも作っておくのも道理だ。人為的に作られたものだから弱点を設定するのも容易い」
触れて確認してしまいたいほどに妙に印象的だったのは、俺の中のニードライバーとしての血が反応していたのか。
「彼女のエンブレムをわたしも探しながら戦っていたのだが見つからん。キミには見えたか?」
「……いや、ダメだ、わからない」
あれだけ高速で戦闘できる先輩がまだ発見できないんだから、そんな動体視力すら持ち合わせていない俺が見つけられる訳がない。というか俺だって先輩のエンブレムを見てその存在に気づいたのだし。
「でもその弱点を見つけたとしても、どうやって突くんだ?」
先輩はニードルをテンションレッグとして装着している。攻撃手段がないぞ?
「そのためにニードライバーは二人ひと組みの行動が原則だ。一人が相手と直接戦闘し、一人がその隙を衝いて、文字通り弱点を突く」
そうだったのか!? そのために俺のことを。
「だったら俺も」
「だが今回はキミはおとなしくしていろ」
「なんでだよ!」
「怪我人にちょこまかされても邪魔なだけだ」
「ニードル自体を装着してるのにどうやって突くんだよ?」
「直前で変形を解除して突く」
「それってもの凄く危険じゃないのか?」
「しかたあるまい」
先輩はそう言い残し、再び看護師に向かって飛び出した。
左足を叩きつけながら着地すると、それを軸足にして再びの回し蹴り。先程は飛び道具からの防御に使った技が、今度は全力で攻撃に向けられる。復活していた看護師はそれを左副腕で防御、インパクトの瞬間に木の裂ける音が廊下にこだます。先輩は間髪入れず看護師の右手に向かって横っ飛びを決める。
その直後零距離で放たれた葉の群れが、寸前まで先輩がいた空間だけを切り裂いた。先輩は天井に衝くほど大きく足を振り上げ――いや実際に天井に衝いてしまって天井板をこすりながら踵を振り下ろし、再生したばかりの看護師の右副腕を再びたたき落とした。
しかし看護師はその攻撃直後の隙を突くように先輩の懐に入り込み、人間として本来持っている両腕を突き出す。思わず先輩も両腕を出して相手の手を握ってしまい、力比べの格好になってしまう。先輩はやはり腕を用いた攻撃は苦手らしく、下からの押し上げに徐々に後退してしまう。そこへ折れたままの左副腕が大きくしなりながら襲い掛かり、先輩の背中を強打すると同時にちぎれ飛んだ。
「ぐぅ!?」
衝撃で先輩は力圧しに屈し尻餅を突いてしまい、その勢いで看護師がのしかかろうとする。
「先輩!?」
しかしマウントを取られる寸前で膝蹴りが看護師の背中に入る。看護師はそのままの勢いで――俺の方に吹っ飛んできた。
「しまった!?」
「!?」
先輩の冷静さを欠いた叫び。俺もさっきのようにクッション代わりになろうとはせず、先輩を真似て横っ飛びでよけようとするが、よけた俺の目前に看護師が降ってきた。着地の衝撃を堪えつつ看護師が立ち上がる。そして俺と目があった。その血走った瞳の輝きを見て、攻撃目標が自分に変更されたのを俺は知る。この看護師にとってはニードライバーが相手なら誰でも良いのかもしれない。現に最初は俺を相手に定めて変身したのだから俺が狙われるのは当然か。
「待ってろ、今行く!」
そう言って先輩がこちらに向かってくる。しかし背中に負ったダメージが大きいのか少し動きが鈍い。看護師が腕を伸ばしてくる。それは蛇のように俺の首に絡みついた。そして獲物に巻きついて絞め殺すように力を込める。さすが看護師だけあって人体の構造は良く把握しているもんだ。抵抗する力も徐々に奪われていく。意識が遠くなる。ここ数日で何度も死にかけているが、今回で本当にそれも終わりかもしれない。結局何もできずに終わりか。その刹那――
「……これか!」
それを見つけたとき思わず叫んだ。その意識の復帰で体にも力が戻る。相手の肩の隙間に、先輩のテンションレッグにもあるのと同じような紋様がある――ここが弱点か! 副腕と枝葉で巧妙に隠されていて、これでは通常の状態では殆ど判らない。先輩も見つけられないはずだ。
ニードル……ニードルを。辺りをまさぐる。壁際に転がっていた自分のニードルが指先に当たった。ここまで一体どれだけの時間が経過したのか。先輩はまだ俺の所へはたどり着かない。本当に一瞬の出来事だったのだと思う。これが俺の中に植え付けられたニードライバーとしての力なのだろうか。
ニードルを振り上げ、エンブレム部分に先端を叩き付ける。爆発。爆散。当たりに巻き上がったオガクズが全て地面に落ちたとき、俺の隣には気を失った看護師が倒れていた。
「……あ」
答えを求めるようにほうけた顔を上に向ける。
「……俺……やったのか?」
「ああ、見事にな」
俺の目前で静止していた先輩が答えてくれた。俺は、何をした? 勝ったのか? 殺ったのか? なんだろう、勝利の高揚感とか、誰かが死んだ絶望感とか、そんな感慨とは無縁の空間。とにかく終わったという安堵のみに支配された世界。
「……先輩の方は大丈夫なのか、背中?」
それでも少し落ち着いてきた俺は、先輩の怪我を心配できるだけには感情が回復した。
「ああちょっと痛い。しばらくは湯船に浸かるたびにヒリヒリしそうだ」
あの勢いを思い出すに、丸太で殴られたくらいのダメージな気もするが、そんなもんで済んでしまうのか。便利な病気だなニードライブ症候群って。
「その……この看護師は、殺しちまったのか?」
ピクリとも動かないその白衣を見て、俺は最悪の結果を予想する。
相手は確実に俺たちに殺意を抱いて向かってきたのだけれども、それでもその結果は後味が悪い。彼女は俺のことをずっと世話してきてくれたのだから、その恩もある。
「エンブレムをニードルで突かれて強制解除されたとき、ほとんどのニードライバーはその衝撃で意識を失う。特に彼女のような『ショートレンジ』は一回限りの変身しかできないからな。慣れることもできない」
先輩はそう説明しながらテンションレッグを解除した。再び爆散と収束を経てニードルへと戻る。落ちていたコートを拾いながらそれを裏地のケースに収めつつ袖を通す。何度もやって慣れているのだろう、流れるような動きだ。
「じゃあ、まだ生きている?」
「ああ、一応な」
あれ? でも先輩は「どうせ死ぬのだから」とか言ってなかったっけ?
俺がそのことを先輩に訊こうと思ったとき、廊下の曲がり角から軍服に身を包んだ男たちがわらわら現れた。自衛隊員に良く似ているが少しだけ簡素な印象――陸上保安庁の保安員だ。
なんで陸保の人間が? ああそうか、一応ここは陸上保安庁の管轄なんだから、常駐している保安員もいるのか。というか今頃?
「赫凰三正、展開が遅くなりまして申し訳ありません!」
先んじて到着した一人が先輩に向かって頭を下げている。
「いや、わたしたちがたまたま近くにいただけだから気にはなさらずに。状況は終了している」
「了解! 回収急げ!」
隊長らしい男の指示を受けて他の保安員がぴくりとも動かない看護師の周りに集まってくる。
「一士は、どうしますか?」
俺の顔を見ながら隊長が先輩に意見を求めている。
「彼は特に別状はない。自力で病室に戻れる――よな?」
「あ、あぁ……」
先輩が同意を求めてきたので曖昧に答えておく。先輩を抱きとめたときは傷口が傷んだが、今はもう大丈夫だ。いや、それよりも
「ていうか三正って?」
訊かなければいけないことが山ほどあるような気もするがまずはそれからだ。
「わたしの陸上保安庁での階級だ。正確に言うと三等陸上保安正。正規軍階級に照らし合わせると少尉だ」
「少尉!? というかあの人、俺のこと一士とか呼んでいたような気がするけど」
「キミはニードライバーになりたてなのでわたしの一つ下、一等陸上保安士で一士。准尉だな」
「准尉!?」
「なに、すぐに三正にはなれる。敵も一人倒しているし」
「いやそういう問題ではなくて!?」
「なんだ准尉と名乗りたければそっちでも良いぞ。陸保内ではさほど変わらないし、その内正式に法改正も行われる」
「そういう問題でもなくてさ!」
というか階級名の問題に関しては俺も何となく最近のニュースで知っている。陸上保安庁では、かつて旧日本軍で使われていた階級名を復活させようとしているらしい。
自分たちは国家的火急事態に巻き込まれており、病という大敵に対しこちらから攻めて相手を討ち滅ぼさなければならず――だからそれは、今までの専守防衛だけでは生き残れないという覚悟の表れの一つなのだという。そんなことをしたら国際世論が――という問題も、こんな時代なのでどこの国も文句など言わない。逆にギガフォビアを早く治すための要素が増えるのなら大歓迎だろう。自衛隊の方も復活させよという意見もあるぐらいだ。
「ていうか先輩って実はそんなに偉い!? ていうか俺も!?」
「ニードライバーにとっては、階級はあまり意味がない。元帥だろうと三等兵だろうと大して変わらない」
どっちも正式には自衛隊にも旧日本軍にも無い階級なのは突っ込みどころなのだろうか?
「尉階に匹敵する階級が与えられているのは、最前線で活動するのに一番都合が良い階級という理由でしかない。ただわたしたちも一応敵を倒して戦功が認められれば階級が上がるのは同じなので、現状では『ショートレンジ』という敵が無数にいるわたしたちは他の正規保安員より階級が上がりやすい。そのうち将軍ぐらいにはなれるだろう」
「それは生き残ってたら、の話でしょ?」
先輩の説明を遮るように声が聞こえた。女の声。刺が剥き出しにされたソプラノ。
「朱音(あかね)三正?」
先輩が声のした方に顔を向ける。俺もそれに続く。いつの間にか陸保の制服に身を包んだ女が現れていた。三正というと先輩と同格か。
「あなたの仕事は『ショートレンジ』の回収ではないだろう?」
「ちょうど今日は夜勤日だったのよ、文句ある?」
先輩とは違う印象のツリ目が、夜気を蒸発させる勢いで光る。なんだこの女? なんでそんなにも敵意剥き出しなんだ?
「あなたが噂の新入君ね」
そしてその瞳を今度は俺に向けてきた。ショートボブが揺れる。新人(しんじん)ではなく新入(しんいり)と言うところに悪意を感じるぞ。
「あなたとは一応同じ対策室に所属する者同士。仲良くやっていきましょう」
それが形だけの挨拶であることを少しも隠そうとしない冷酷な響き。握手の一つも差し出してこないのにそれが現れている。いや出されても困るけど。
「よろしくついでに質問するけど、あの看護師はどうなるんだ?」
そんな調子で攻めてくるので俺も対抗心が芽生えてしまった。その質問は後で先輩に訊けばいくらでも教えてもらえるだろうが、今はこの女がどんな風に説明するのかそれに興味がある。
朱音三正は俺の質問に、自分の予定を不意に狂わされたように顔をしかめると、喋りたくないように喋り始めた。
「『ショートレンジ』ニードライブ症候群を発症した者は、次に目覚める時はほぼ100パーセントの確率でギガフォビアを発症するわ。これだけ説明すれば判るでしょ?」
ああ、充分だ。じゃあもうあの看護師が目覚めることはないのか。「どうせ死ぬ」とか「一応」とか言うのそういう意味なのか。
「それと」
俺がその結果を考えて感慨に耽っているといきなり相手の平手が飛んできて左頬を張られた。
「あたしはまだあんたの上官なんだから、口の聴き方には気を付けなさい」
「!? なにす」
突然の仕打ちに激昂しかけた俺の腕に何かが触れる。俺の腕を先輩が軽く掴んでいた、何かを伝えるように。先輩の方に振り向くと俺と朱音三正のやり取りを無表情に見つめていた。俺に軽く目線を向ける。「なにもするな」そんな意思表示がその目から飛んでくる。
「ふん」
朱音三正はその先輩の冷静な対応が気に食わないのか、鼻息一つ残して、回収係と共に引き上げていった。
「なんなんだ、あの女?」
通路の向こうに陸保部隊が完全に消えたのを確認すると俺は左頬をさすりつつ毒づいた。いてて、余計なダメージが増えた。見事な紅葉が付いているんだろうな。紅葉にはまだ早すぎるぞ。
「わたしたちにとっては天敵」
先輩が一言で切って捨てた。やっぱりあんたもそんな風に思うのか。というか俺がニードライバーだってことを看護師に告げたのはあの女なんじゃないのか? それが事実ならこの事件の現況はあの女なのか? あの女の所為で看護師は死ぬのか?
「そして将来はわたしたちの仕事を引き継いでくれる者だ」
「??」
なんだ、どういうことだ? 天敵であって引継ぎ者? それは比例するものなのか?
「そして彼女が言っていたとおり、本来は同じ対策室に属する仲間だ。その意味では彼女はキミにとっては直属の上官。上官に対してあんな口を聞いてビンタ一つで済んだほうが僥倖だろうな。軍隊という組織を運営する以上、上官と下の者の差は絶対だ。本来は独房にぶち込まれても文句は言えん」
その陸保っていう準軍隊組織に、俺がいつの間にか所属させられているのを知ったのは、ついさっきなんだよな……という言い訳は効かないんだろうな。何しろニードライバーになったこと自体は俺の意思なんだし。
「しかしキミはすぐにでも三正になれる。同じ階級になったらその時に彼女のことをボコボコにしてやれば良い」
「俺、女をボコボコにする趣味は持ち合わせてないんだけど」
「そうか、それは残念」
「……今、自分が俺にボコボコにされているシーンを妄想しただろ?」
「む、バレたか。キミに縛られて鞭打たれる場面を想像してドキドキしていた」
「俺をあんたのプレイに巻き込むな!」
しかしこの先輩も俺にとっては上官だな。
「というか俺は先輩に対しても酷い口の利き方をしてきたけど、独房監禁一ヶ月くらいか?」
「いや、わたしの場合は良い。さっきも言っただろ、ニードライバーにとっては階級はあまり意味が無いと」
そうだっけ。先輩がフランクなのか、ニードライバー自体がフランクな存在なのか。両方か。
「それはありがたいけど――そういえば、あの看護師もニードライバーなんだよな、確か『ショートレンジ』とか言う?」
朱音三正もそんな風に説明していた。
「『ショートレンジ』とかいうものになれる可能性があるやつも、始めから判ってるのか?」
「ああ」
先輩の同意には答えたくない響きが含まれていた。その微妙な変化に俺は気づけなかった。
「だったら始めからその可能性があるやつらも隔離しておけば良いのにな」
俺がそんな台詞を行った直後――
「!?」
ぞわりと悪寒が走る。
俺が恐る恐るその方を見ると、先輩の瞳が冷たい感情に支配されていた。朱音三正とは比べ物にならないほどの怒りに満ちている感情。敵と戦った時には全く感じられなかった憤怒の念。
「彼女は変態する直前までニードライバーとしての力を悪用していた訳ではない。悪人でもない者を、何故拘束できようか?」
「……先輩?」
「キミがそんな感情で動くのであれば、わたしはもうキミとは一緒に行動できない。次からは、キミが一人で抑えろ」
先輩はそう冷たく告げると、俺を置いて歩いて行ってしまった。
やべー、なんだかとんでもないくらい強力な地雷を踏んじまったみたいだな。このまますぐ謝りに行くか? いや、お互い冷静にならないと再激突はちょっと辛いな。俺も今日は色々なことがありすぎて疲れた。部屋に戻って頭を冷やしつつもう寝よう。明日に備えて。
そんな明日は今日より重い一日が待ってるんだよな。気が重い。
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