FILE01:世界はそれを怪異と呼ぶんだ
銀髪の少女が時計台を去って直ぐ。すなわち二十時を回って少し。――その日、伏見塚イナリは帰途を急いでいた。理由は明白。同級生への愛の告白は玉砕に等しい無惨な最後を迎え、酷く打ちひしがれた、それでいて確実に惨めな心境だったからだ。
相手の好みはスポーツマン。一方の伏見塚は貧弱な、まるで駄目な運動音痴で、趣味も読書に映画鑑賞。せいぜい人より射的の腕は良いくらいと、絵に描いた様な暗い青春の素養しか持ち合わせていなかった。
言ってみれば最初から敗戦が決まっていた宣戦布告で、むしろ謝罪に賠償と無くさっぱりと終戦に至っただけ、相手の温情と厚意に感謝を申し添えるべく程度には、己の
無論。伏見塚とて努力を怠っていた訳では無い。彼は現在進行形で剣道部のレギュラーであるし、放課後の練習もさぼった事はない。しかしポジションは副将。つまりは戦略的に最も負けて良い人間が配される場所で、下手をすれば女子の握力にすら負けかねない伏見塚が、部員七名の人材に乏しい部活にあって、単に数合わせで入れられている事実は明らかでもあった。
いつもと同じ帰り道の風景に気を配る余裕など無く、いやそれ以前に彼は自分自身の足下だけを見て、ただ打ち沈んだ表情で歩いていた。高校までの世界は狭い。特にそれが田舎であればある程、見知った顔の見知った教室。行き来する空間に変わりは無く、それゆえにたった一度の失敗や挫折が、存外に長く尾を引く事もままあった。明日からの自身の立ち居振る舞いをどうすべきか。この落胆をどう精算すべきか。伏見塚の脳裏にはそれだけが過ぎっていて、だからあぜ道の前方に広がる闇の存在に、これっぽっちも気がつくことが出来なかった。
「――危ない、避けろ!!」
不意に幼い高い声が伏見塚の耳を走りぬけ、
「まったくとんだノロマだな……くそっ」
ふらふらと立ち上がった少女は「逃げろ。そして忘れろ」と伏見塚に告げ、また前方へ踏み込んだ。よく見ると紫色に光る、刀めいた何かを携えている。状況が分からないまま二、三歩と後ずさる伏見塚だが、恐怖以前の不測の事態に脳が判断を停止し、ろくに身体が動いてくれない。
「百五十三人分の怨霊か。ビーレフェルト
少女がぼそぼそと独り言ちる。ふとべっとりとした感触を覚えた伏見塚は、赤く濡れた自身のシャツを触ったが痛みは無く、どうやらそれは目の前の少女のものであるとだけ推し量った。ドラマか何かの撮影か。相変わらず意識は漫然とし、映画のワンシーンを観る観客の様に彼は立ちすくんでいた。
「――だがやるしかない。撫でろ<
銀髪の少女はそう呟くと、得体の知れないドロドロとした、呻き声をあげるアメーバ状の固まりに向かって突進する。スライムと呼ぶには余りに禍々しく、ぽつぽつと立つ田舎の街灯に微かに浮かぶ姿の随所随所には、人面をせり上げた様なグロテスクなマスクがぐねぐねと動いていた。彼女の紫の瘴気を纏う白刃が、一太刀毎にドロドロの一端一端を削いでいく。一瞬ちらと見えたアメーバの中の光を指標に「そこだ!」と少女は一突きを繰り出した――、刹那だった。
「うぐっ……!!」
まるでそれを待ち構えていたかの様に、拳上に変形したアメーバの一撃が少女の腹部を確実に捉えた。刀を宙に舞わせたまま、伏見塚よりさらに後ろ、つまりは六メートルは、セーラー服の小柄で華奢な彼女の身体は、弧を描いて吹き飛ばされた。
化物――、もうそう呼んで良いだろう。その化物と刀を挟み伏見塚、さらに後方に飛ばされた少女。敵という
「うあああああああ!!!!!」
しかし思考が
往々にして、元来が虚弱であるがゆえに根性の座った人間というものが居る。例えばそれが伏見塚だった。或いは惨めな自分を、これ以上惨めにしない為の精一杯の虚勢だったのかも知れない。ともかく伏見塚は、この超然たる事象に背を向ける事を是とはしなかったのだ。
――しかし一分後。現実は腕を取られ宙に浮かび、今正に捕食されんとする伏見塚の窮地と、やっと立ち上がり刀を手にとったばかりの少女の不遇だけを残酷に示していた。
「くそっ……そこのお前、なぜ逃げなかった……馬鹿め!」
返事も無く吊り下がる伏見塚は、だらんとしたまま微動だにしない。
「ちぃっ、吉良神ィっ……!! 貴様一般人にまで手をだしたなこの
額から滴る血で肌を染め激高した少女は、抜刀の構えから「ノックスの十戒を解く――、|Quod erat fecieiendum 《かくなすべし》」と、
「――歌を歌え
刀の
「お前っ、大丈夫かっ!!」
自らの傷を意に介する事も無く、少女は伏見塚に駆け寄ってくる。
「俺は……大丈夫。君は……?」
伏見塚は少女の腕の中で薄目を開け呟くと、左肘を支点に起き上がろうとする。鈍痛は感じるが、幸いに骨折までは至っていない……そう推察する。
「無理するな……全く、馬鹿な真似を……」
銀髪の少女の吸い込まれそうな黒い瞳が伏見塚を見つめる。ああ、こんな状況だったなら告白も成功したかも知れない。伏見塚は
「大丈夫だって。んっ……」
伏見塚は辛うじて立ち上がり――、立ち上がったは良いが、立ち上がった後に続ける言葉が思いつかなかった。どこから
「そうか――、大丈夫そうだな。良かっ…」
伏見塚が考えあぐねている間に、言葉を返そうとした少女はぽとりと刀を落として、そのまま崩れる様に倒れかかってきた。
「ちょ、ちょっと……!」
点々と街灯の灯る田舎のあぜ道、傍目には抱き合う男女の二人だけが浮かび上がって取り残されていた。
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