第七レポート:藤堂達の様子について

 静かな月の光が夜の山道を照らしている。

 疎らに生えた木樹の間を、ラビはやるせない表情を浮かべながら、走っていた。


 その足運びは軽く素早く足音も殆ど出ていない。

 深く被ったフードがぴくぴくと動いている。ラビの聴覚は人を遥かに越えて優秀だ。たとえ風の音や川のせせらぎ、やかましい鳥の鳴き声などが混じっていても、山の神がいるという山頂の様子を聞き分ける事くらい簡単だ。


「本当に、面倒な仕事を貰っちゃいました……」


 ラビとアレスと共に行動しているサーニャは二人で一対だ。師匠から課された任務はいつも二人でこなしてきたし、分かれて仕事をする事なんてほとんどなかった。本当ならば、今回も二人で行動したかったが、ボスの意向がそれを許さなかった。


 ラビは相手の強さに敏感だ。実際に触れてみなくてはわからないサーニャと違って、逆らってはいけないものが簡単に分かる。大体の相手はそれなりに譲歩を引き出してもいい相手だが、今回の依頼人は珍しく逆らってはいけない相手だった。割り振ると言われたら黙ってそれを受け入れるしかない

 浮かびかけた、初めて出会った時に向けられた鋭い眼差しを、ラビは小さく頭を振ってかき消す。今考えるべき、集中すべきは与えられた任務の完遂だ。


 本当ならばラビ側の仕事はサーニャ側の仕事と比べれば楽なはずだった。ただの護衛任務だ、ラビだって数え切れないくらいにやったことがある。

 水の都までの道のりは確かに距離があるし、特別に危険地帯というわけでもない。勇者でも駆け抜けられるだろうし、厄介な魔物が出る可能性などほとんどない。


「うぅ……まさか勇者さんが自ら厄介事に突っ込んでいくなんて……誤算でした」


 山頂付近まで来た所で立ち止まる。不意に吹いた冷たい風に、ラビは外套の襟を寄せてぶるりと身震いした。

 いつの間にか音がやんでいた。まるで息を潜めているかのように、鳥の鳴き声も獣の声もしない。何らかの異常がある証だ。上級の魔物の縄張りか、あるいは結界でも張ってあるのか。

 村人の態度はおかしかったが、山の上に何かが棲息しているのは間違いない。


 ラビは平和主義だ。本当ならば街の外になんか出たくない。

 だが、仕事はきっちりやらねばならなかった。ラビが依頼されたのは藤堂一行とアメリアの護衛である。

 藤堂一行とアメリア、それぞれの情報は事前に聞いていたが、聖勇者一行はレベルが低いし、アメリアは僧侶だ。その中で一番生存能力が高いのは、半人前とはいえ、斥候スカウトである自分だった。


 まず護衛をするにしても、相手が何なのか見極めなくてはならない。元々、それは斥候の重要な役割の一つだ。

 薄く白い手袋をはめた手を静かにすり合わせ、深呼吸をして息を整える。震える声でラビが呟く。


「……なんか……いるです」


 気のせいではない。木の影に隠れるようにして息を潜めた。

 背筋を冷たい何かが通り抜ける。生来の臆病な気質――危機感知のセンサーが脳内に警鐘を鳴らしている。心の中から湧き上がってくるそれを噛み殺し、じっと耳を澄ませる。


 ラビはサーニャと違って鼻が効かない。目もあまり良くない。ラビが自信があるのは耳だけだ。

 フードの中、耳をぴくぴくさせて音を捕まえる。ラビは小柄だ。サーニャと比べても筋力がなく、サーニャより更に体重も軽い。

 ラビはサーニャと違い弓を持っていない。ナイフもない。一定以上の魔物を倒すには不意打ちをするしかない。


 しばらく音を聞き取り、ラビが眉を顰める。フードの隙間から見えるルビーのような目がじっと地面を見下ろしている。


 ――音が、しない。

 聴覚に意識を集中しても、山頂を根城にしているはずの魔物の気配が読み取れない。


 どきどきと高く鳴る心臓の音を胸を押さえて沈めるラビ。その視界が暗闇に包まれる。ラビがその目を空に向け、瞠目した。

 先程まで優しい光を放っていた月が消えていた。


 ――いや、消えたのではない。月を覆い隠す巨大な黒い塊。真上から振ってくるそれを見て、ラビは呆気に取られたように目を大きく見開いた。




§ § §




 ぎらぎらと輝く太陽の下、険しい山道を上っていく。村長から教えられた山の神に指定されたという場所は、山の頂にあった。

 魔物の出現を警戒しながら剣を片手に進む藤堂の後ろを、リミスが杖を片手についていく。


「ねぇ、本当にいいの?」


「……まぁ、通り道だしね」


 耳障りな音を立てながら飛んでくる子犬くらいの大きさの蜂の魔物を剣で一刀両断にし、藤堂が答えた。


 うら若き乙女を生贄に求める山の神。藤堂にとって、見過ごせないものだ。

 藤堂はこの世界に来てから多くの人の世話になってきた。直接この村の人に世話になったわけではないが、見捨てるわけにはいかない。


 顔色の悪かった村人の姿を思い出し、藤堂は小さく嘆息して言う。


「大体、生贄を求める神なんて――神じゃない」

 

「まぁ、神だったとしたら邪神でしょうね」


 藤堂の真剣な表情に、アリアが小さく頷く。最高神の一柱とされるアズ・グリードは秩序を求める。生贄などそれから最もかけ離れた行為であり、アリアの知る限り普通の神にそのようなものはいない。


 アリアが藤堂の安請け合いを止めなかったのも、それが一つの理由である。


「こんなところに神なんているわけないじゃない。大方、知恵のある魔獣かなにかがその振りをしてるんでしょ……」


 神とは人とはそれこそ格の違う存在だ。そこには巨大な気配が付随する。もしも本当に生贄を求めているのが神なのであれば、ガーネットが騒ぎ立てるはずだ。


 リミスが肩に乗ったガーネットを見る。ガーネットは何を考えているのか、それにちろりと舌を出して応えた。

 グレシャが拾った木の枝で道を叩きながら頻りにそこかしこを気にしている。


 生贄を求められるのは初めてではないとの事で、山頂までの道は村に至るまでの道よりも整備されている。


 頂上に近づくにつれ、音が少なくなっていく。それまで聞こえていた虫の声、鳥獣の鳴き声がまるで声を潜めるように消え、ざわめくような風の音だけが響いていた。

 アリアが唐突に立ち止まり、眉を潜める。


「……どうやら、確かに何かがいるようですね……」


 周囲を見渡す。背筋を駆け上がるような寒気は確かにそこが強力な何かの縄張りであることを示していた。

 リミスが杖を片手に、いつでも魔術を使えるように警戒する。


 山頂はまだ先だ。聖剣を抜き、上に続く道を見上げる藤堂にアリアが付け足す。


「神の類ではないかと思います。神の類ならば地形に影響が出ているはずです。恐らく、小狡い化生の類でしょう。村人達の様子は随分怪しかったですが、話は本当だったみたいですね」


「化生……か……」


 藤堂が今まで倒してきた魔物は人語を解さない者がほとんどだった。その言葉に、魔導具から盾を取り出し握りしめる。

 藤堂が出会ったことのある知恵ある魔物、ヴェール大森林で戦っていた魔族を見た時、その一度だけだ。今の藤堂はその時とは比べ物にならないくらいに強くなっているが、今でもあの時見た魔族を倒せるかどうかはわからない。

 

 頂上付近まで来たところで、藤堂が目を細める。グレシャが戦鎚を構えるでもなく、地面に生えた草を見下ろしている。


「……血の臭いがする」


「……ええ」


 藤堂の言葉に、アリアも小さく頷き、鋭い視線を山頂に向ける。山道は木樹も細くまばらで隠れるような所はない。それはこちらが身を潜める場所がないのと同時に奇襲を受ける可能性が低いということでもある。

 三十三人。それが、村長から聞いた今まで――およそ十年で生贄に捧げられた者の数だ。その間には通りすがりの傭兵が退治に向かった事もあったらしいが、ただの一人も戻らなかったと言う。


 聞いた情報を反芻しながら、藤堂は小さく身震いをした。恐怖ではない。武者震いだ。

 聖剣エクスに切り裂けぬものはない。リミスの炎の精霊魔術は如何なる魔物をも焼き尽くしてきたし、アリアだってゴーレム・バレーの素早く強力なゴーレムを相手に打ち合えるだけの力を持っている。

 いや、たとえ勝機がなかったとしても、藤堂はその村長の言葉を無碍にはできなかっただろう。


 注意しながらも頂上に辿り着く。そこにあったのは、どこか稚拙な印象を受ける石造りの祭壇だった。大きな石を削り組み合わせただけの簡素なそれはそこかしこが欠け、事前に祭壇と言われていなかったらわからなかったかもしれない。

 それほど高い山ではないが視界には何もなく、眼下には絶景が広がっている。


 祭壇に近づく。祭壇のそこかしこには赤黒い汚れが染みつき、神聖さというものは感じられない。

 今まで藤堂は何度も教会を訪れたが、そこには身の穢が落とされるような特有の空気があった。野ざらしの祭壇から視線を外し、辺りを見渡す。

 アリアが藤堂の死角をカバーすべく、その背に立つ。リミスが祭壇の表面を杖で撫で、乾いた声を出す。


「何も……いないじゃない」


 藤堂がそれに答えようとした瞬間、ふと木樹の隙間に黒い何かが動いているのに気づいた。得体の知れない漆黒の塊に一瞬あっけに取られ、声を出しかけたところで同じ物を見ていたアリアが愕然と言った。


「ソド・ベアーだ。何故こんな人里近い場所に奴らが――」


 その言葉に、藤堂の視界に入っていた黒い塊が形を得た。塊に見えたのは背だ。闇に近い黒色の毛。それがゆっくりと起き上がる。黒い毛皮に埋め込まれるように薄暗く輝く二つの金色の目が藤堂を確かに捕捉している。

 もぞりと動くその形に、藤堂が乾いた声で言った。


「……熊?」


「魔物です。藤堂殿、注意を。奴らは――強い。そしてこの血の臭いは――」


 早口で説明するアリア。藤堂の目の前で、ソド・ベアーはその両脚で立ち上がった。

 塊に見えたのは全身が闇色の毛に覆われていたから。立ち上がったその姿は藤堂の知る熊に酷似している。熊と異なるのは、二本足で立っていても安定した姿勢であること。そして――その両手から伸びたブレードのような爪だ。

 藤堂が疑問を呈する前に、ソド・ベアーが疾走を開始した。二本の脚を使ったまるで人間のような靭やかな走り。

 僅か数秒で距離がゼロになり、その予想外の挙動に藤堂があっけに取られているうちにその爪が大きく振りかぶられる。咆哮すらなく、振り下ろされた刃を、アリアがとっさに間に入り、ライトニング・ハウルで受け止めた。


 雷を形にしたような美しい刃と漆黒の爪がぶつかり合い、火花が散る。爪が刃の上を滑り嫌な音が響く。

 その光景に一瞬硬直する藤堂に、必死に刃を押し返しながらアリアが怒鳴りつけた。


「藤堂殿、ソド・ベアーは上位の魔物ですッ! 警戒をッ!」


 獣がもう片方の腕を振り下ろす。藤堂はその警告に我に返り、振りかぶられた刃を盾で受け止めた。重い衝撃が腕を伝わり、ようやく思考が戦闘に追いつく。体高三メートル近く。感情の見えない金色の目が藤堂を見下ろしていた。


「『炎の槍フレイム・ランス』」


 その身体に、横からリミスの魔法が襲いかかる。放たれた真紅の槍に、ソド・ベアーはステップを踏むようにして後ろに下がった。炎の槍がそれまでに魔物のいた空間を通り抜け、その後ろの木樹を貫き、燃やし尽くす。


「魔法を避けたッ!?」


 激しく呼吸をする。驚愕に目を見開きながらも、藤堂が強く踏み込み斬撃を放つ。

 袈裟懸けに放たれたそれを、ソド・ベアーは鉤爪で受けた。僅かな手応えを残し、漆黒の爪が聖剣により切断される。剣の尖端はそのまま右腕を浅く傷つけ、黒い怪物は驚いたような悲鳴を上げた。


 右腕を庇うかのように抱え、ソド・ベアーが地面を強く蹴りつける。地面に転がっていた石が飛んできて、藤堂は反射的にそれを盾で受けた。

 その時には既にソド・ベアーは刃の範囲外にいた。十メートル近く遠くから、金色の目がまるでこちらの様子を窺うかのように輝いている。


 そこに知性を感じ取り、藤堂は戦慄した。剣を握りしめ、ソド・ベアーに向け牽制する。

 二足で立つ事すら藤堂にとっては予想外だが、ただの巨大な熊がまるで熟達した傭兵のような動きをするのは更に驚愕だった。得体の知れない気持ちの悪さに一度唇を噛んで言う。


「なに……あれ……」


「ルークス北部に生息する固有種です。剣のような鉤爪と高い知性を持ち、縄張りにはいる者に襲いかかる極めて魔族に近い魔物です」


「魔族に近い……魔物」


 アリアが黒き獣を中心に、円を描くように立ち位置を変える。そのあまりにも真剣な表情に藤堂が息を飲む。視線を敵から離さずに尋ねる。


「生贄は……こいつが?」


「可能性は……あります。少なくともこのレベルの魔物は村人では太刀打ちできないでしょう。いや、並の傭兵でも恐らく――」


 アリアが実際に戦った事があるわけではないが、その名は要注意の魔物として広く軍の中では知られていた。その縄張りは山中にあるため滅多に平野に姿を現したりはしないが、存在が判明すれば即座に討伐命令が出される魔物だ。

 レベルの上がったアリアとて、本来ならば一対一で敵うような魔物ではない。その最も強力な武器である刃状の爪を切断してのける聖剣を持つ藤堂ならば不意を撃てば一撃で倒せただろうが、既に相手は警戒していた。

 だが、決して勝機がないわけではない。こちらには四人もいるのだ。


 間違ってもリミスに攻撃がいかないよう、自然な足運びでアリアがリミスの前に出る。

 この手の知恵ある魔物は彼我の力量差を察するものだ。だが、ソド・ベアーは興奮したように荒く呼吸をするだけで、右の爪を半分切断されたにもかかわらず逃げ出す様子はない。

 空気が生温かった。獣のどろどろするような殺意が空気を満たし、アリアの身体が一瞬硬直する。


 その巨大な体躯からは信じられない速度でソド・ベアーが踏み込む。


「はああああああああああああああああああッ!」


 一瞬で距離を詰め、振り下ろされた刃を、藤堂が咆哮をあげて迎え撃った。

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