第四レポート:水の都に向かう手段について④
風雨の中、白き獣が吠えた。
フードの下から現れたのは銀色の毛だ。短くざっくばらんに切られた銀色の髪の毛が水滴を反射し、きらきらと輝く。その唇から、雷鳴の中を切り裂くような遠吠えが放たれた。
獣人は有する獣の因子の量に比例して能力に秀で、それに伴い強い本能に揺さぶられる。
俺が雇った傭兵、サーニャ・シャトルは獣人だが、あの鋼虎族のフェルサとは異なり人の因子が強く、体毛などなくその見た目はほとんど人間と変わらない。ただ、唯一その頭頂に生えた獣の耳とハーフパンツの臀部に空いた穴から飛び出た尾がその存在が人間ではない事を示している。
だが、因子は少なくとも、その身体能力、感覚は純粋な人間よりもずっと秀でている。
剥き出しになった褐色の脚と腕は細く傷一つないが、靭やかで爆発的なエネルギーを秘めている事は想像に難くない。身軽さを売りにし、監視や調査、危機察知を主たる役割にする斥候にとって小柄である事は大きなメリットだ。反面、力はそれだけ下がるのが普通だが、人と異なる獣の血が力の低下を防いでいる。
ブラン・シャトルは斥候としての活躍が知られている傭兵だ。彼か彼女か知らんが、その傭兵が自らの技術を教え込む相手として獣人を選んだのはもしかしたら当然だったのかもしれない。
鋭く窄まった銀の双眸はまさに猛獣の目だ。
前髪が額に張り付き、しかし全く気にする様子もなく、嵐の先を睨みつけている。爛々と光った瞳はまるでこの状況を楽しんでいるかのようだ。
サーニャがその外套を脱ぎ捨て、こちらに放ってくる。ぐるりと腰を締め付けるベルトにはナイフと、細長い黒い棒のような『矢』がセットされている。鉤爪を持たないが故の武器だ。
「ボス、持ってて」
明らかに人とは異なる特徴に、船員が一瞬状況を忘れぽかんと目を見開く。
その前で、サーニャは船の縁に飛び乗った。荒れた波が降りかかるがその体勢は崩れない。
ボスをボスとも思わぬその所業に、思わず尋ねる。
「ところでお前、泳げるのか?」
「犬かきなら」
冗談なのか本気なのかわからない言葉を出し、サーニャが船首に向けて躊躇いなく駆け出した。
ブラン・シャトルは自らの持つ技術を複数人に分けらしい。すなわち、スカウトとしての追跡技術――疾風と呼ばれた由縁と、迅雷の名を冠する理由となった、
最終的には見込みのあるそれぞれに全てを継承するつもりだったらしいが、半人前という事はつまり――そういう事だ。
俺が借りた二人はそのどちらも総合力としては自分よりも二歩も三歩も劣る。だが、一分野のみを切り取ってみればその限りではない、とは師の弁。ブランはなかなか軽い人物で、その言葉にも不安が残るが、どうやら確かに傭兵としての技術は払った額に相応しいらしい。
一歩一歩の挙動が尋常ではなく早い。足音はなく、気配も薄い。注意していなければ察知は難しいだろう。
銀の髪が流れる様だけが目立ち、遠目で見るその動きはまさしく『迅雷』のようだ。
船が大きく数メートルも跳ねる。船員の悲鳴のような声が響いた。
「テンタクルだッ! へし折られるぞッ!」
いつの間にか、海中から黒いものが船の甲板に投げ出されていた。
触手だ。太さは俺の胴体程もあり、甲板に奇妙な動きで這いずり回っている。触手の先は見えない。蠕動する触手に並んだ手の平程もある吸盤は根源的な恐怖を抱かせた。
ヒュージ・スケルトンやグレイシャル・プラントもでかかったが、この触手の主は恐らくそれ以上にでかい。
「……マジかよ」
うねるようにして伸びてくる触手をラース・オブ・ゴッドで薙ぎ払う。触手が千切れ、青黒い血が甲板を汚すが、瞬く間に波にさらされ流される。
いつの間にか甲板には何本もの触手が伸びていた。
触手は脆く、一撃一撃は強くないが、数が多い。また、その動きは戦闘を専門としていない者にとっては脅威だ。
這い寄ってきた触手が、荒波に飲まれぬよう必死に船にしがみつく船乗りの脚に絡みつく。船の縁にしがみつく屈強な大の男が容易く宙吊りにされ、悲鳴があがる。一歩で距離を詰め、その触手を破壊した。
男が倒れ甲板に転がる。死んではいないようだ。傷ついた触手はそれ以上這い回ることなく、海中に消えていく。
「本体は海中か……」
俺はこのテンタクルとやらの討伐適正レベルを60と推定した。もしも陸上にいればもう少し低かっただろう。
小さい船を出してもらったのが功を奏した。船の端から端までおよそ五十メートル。この広さならばどこから来ても対応出来る。問題は転覆だけだ。
「海に近寄るな! 海中に引きずり込まれたら流石に助けに行けないッ!」
精神を集中し、殺意を収束して威嚇する。しかし、船上に投げ出された足は全く引く気配がない。気性が荒い魔物なのか、あるいは鈍感なのか。どちらにせよ厄介だ。
駆けたサーニャはその異形に対して躊躇い一つなく近づいていた。不安定な船上を、振り上げられた触手すら足場に、縦横無尽に駆け巡り、現れた触手をすれ違いざまに大ぶりのナイフで切りつけていく。一撃を受けた触手はまるで逃げるように海に引っ込んでいった。
その様子にはまだ余裕が見え、少しだけ安心する。
テンタクル、か。強さ自体はそれほどではないが、この規模の魔物が魔族の手でコントロールされたのならば、海軍が敗北したのも不思議ではないだろう。
乗っている人間が戦えても船が破壊されてしまう。そして人は海中で戦えるようにできていないのだ。
魔物から少しでも距離を取ろうとして舵を切ったのか、船がぐらりと曲がる。波が大きく降りかかり、法衣がぐっしょりと濡れる。
滑りやすい足元を気をつけながらメイスを振るいテンタクルの魔の手を追撃する俺に、サーニャが叫んだ。
「ボス、出るよ!」
警告とほぼ同時に船が転覆しそうなほどに大きく揺れた。前方から黒い影が聳えるように現れる。
灯台のように巨大。暗褐色の肌は粘液に濡れ、どこからどこまでが頭でどこからが身体なのか見当すらつかない。
目がどこにあるのかわからないが、果たして目と言うものがあるのかすらわからないが、その怪物がこの船を獲物と認識している事は明白だった。
船員の一人が必死に銛を投げつける。鋭利に尖った刃は確かにその身体に命中したが、突き刺さることなく振り払われる。触手が伸びる
「でかいなあ……メイスで殴って倒せるかどうか……」
といっても、やらないわけにはいかない。テンタクルの大きさは海上では脅威だ。下手しなくてもこの船なんて簡単にひっくり返るだろう。
前方左右に一際太い触手が振り上げられる。叩きつけられれば甲板くらい簡単に貫かれるかもしれない。俺は一歩で距離を詰めると、海に飛び込む覚悟で跳び、その身体目掛けてメイスを横薙ぎに叩きつけた。
分厚いゴムを殴ったかのような感触がメイスから腕に伝わってくる。テンタクルがこの世のものとは思えない悲鳴を上げる。巨体がゴムボールのように吹き飛び、衝撃で跳ねた塩水が噴水のように降り注ぐ。
殴った反作用で甲板に着地する。硬くはないが強靭だ。衝撃が逃げている。
どうやらテンタクルは打撃武器が効きにくい相手のようだ。確かにメイスは怪物を撃ち抜いたが倒せていない。
しかし、こんな軟体動物を殴ったことのある僧侶は俺くらいだろう。
げんなりしながら体勢を立て直し、再び襲ってくるだろう怪物を待ち構えていると、いつの間にか隣に立っていたサーニャが手に持っていた短弓を引き絞った。
象牙色をした、一種の芸術品のようにも見える弓だ。持ち運びを可能とするためなのか、大きさはサーニャの身長の半分程度、短弓と呼ばれる類のものだが、しなった弓とピンと張った弦からは静かな気迫が感じられる。
番えられた矢は鏃はもちろん、そのものが黒い金属でできており、弓との対比もあって禍々しい。
横から叩きつけるような風と雨。雷の中、その姿勢には乱れ一つない。銀の双眸が鋭く細められていた。
獣人は本来己の肉体や剣などで戦う事を是とする。弓などは使わない。が、それこそが彼女がブランの弟子である証なのだろう。
黒い塊のようなテンタクルに急所は見えない。だが、サーニャの目には自信が見えた。
「しっかり狙え」
「言われるまでもなくッ!」
そして、矢が放たれた。漆黒の金属矢は激しい風雨の中、しかし微塵も軌道が乱れる事なく、真っ直ぐテンタクルの中心に吸い込まれるように突き刺さった。その速度まさに迅雷の如く、突き刺さったと同時に空が輝く。
雷が落ちた。凄まじい音と光。何が起こったのか気づいた時には既に魔物の姿は海面から消えていた。
必死に船にしがみつき戦況を見ていた船員が呆けた顔で荒れた海を見ている。
サーニャが弓を下ろし、軽く唇を持ち上げて俺を見る。
「矢の代金はボスに請求すればいいのかな?」
一本いくらするんだ? 腕が一流なのは間違いないが、あのゴムのような体表を貫きあの巨大な怪物を一撃で殺すとは、矢自体もただの矢ではない。さすがに雷が落ちたのは偶然だろうが……。
一瞬眉を顰めかけるが、貧乏呼ばわりされていた事を思い出して肩を竦めるに留めた。どうせ請求書は上に回すのだ。
「油断するな。まだ嵐は終わってない」
「ボスは勤勉だ。師匠に爪の垢を煎じて飲ませたいくらいだ」
ずぶ濡れになった肌を手の平で掴み、サーニャがため息をつく。どうやら無礼なのはボスに対してだけではないようだ。
その時、立ち込めた深い霧の中から何かゆっくりと巨大な物が近づいてきた。テンタクルよりも更にでかく、影からして生き物ではない。船員の一人が青ざめた表情で、激しく揺れる船上を這いずるようにして船長室に向かい、叫ぶ。先程、テンタクルが現れた時よりも強い反応だ。
「おい。
「藤堂が海を渡る選択を取らなくて本当によかったな……」
それほど運の悪くない俺でもこれなのだ。このエンカウント率じゃあ、運の悪い藤堂ではどんな目に合うのかわかったものではない。
そして、ボートで海に乗り出さなくて本当によかった。
荒ぶる波の中、まるで幻のように揺らめき出現した半壊した船を見て、サーニャがうんざりしたような表情で立ち上がる。
「……うわー、ボク、アンデッドって好きじゃないんだけど……」
「俺の専門だな……」
こちらの数倍の大きさの船だ。船体には幾つもの大きな亀裂が入り、何故この嵐の中沈んでいないのが不思議である。いや、あるいは――既に沈んだのに気づいていないのか。
海で死んだ行き場のない魂は淀み魔性と化すらしい。こうして仲間を引き込み強大になっていくのだろう。哀れなものだ。
ここで出会ったのも何かの縁だ。せめて俺の手で浄化してやろう。
雨風が滝のように降り注ぐ中、俺はまるで吸い寄せられるように接近してくるそれに手の平を向けた。
§
「おお……神よ……」
ロモロ船長の目尻から涙が一筋垂れ落ちる。
荒れ狂う海の中、現れた巨大な船。
一度沈み憎悪により復活したその船は如何なる荒れ狂う海でも決して沈まず、その船内には無数の不死種の船乗りが新たな獲物を今か今かと待ち望んでいる。
船長を倒せば船を破壊出来るという噂はあるが、その噂とてどれほどの信憑性があるか。
アンデッドなので退魔術が有効だが、船に僧侶を乗せるなど滅多になく、故に、船乗りの間ではその魔物との出会いは死と同義だった。万が一出現したらその矛先から己が外れる事を神に祈り、逃げ出すしかない相手だ。
船員の声が聞こえた瞬間に死を覚悟した。後悔など感じる余裕もなく、ただ足元から上ってくる死の気配に恐怖した。
だが、今、こちらの船よりも巨大なその船は船体から煙を上げ、嵐の中を逃げるかのように遠ざかっていく。
一筋の白い光だ。雷光をすら塗りつぶし、暗闇を一瞬晴らす程の光。
目が眩んだ次の瞬間、全ては終わっていた。船長の隣で、同じように状況の悪さに呆然としていた部下が目を擦り、離れていく『死を呼ぶ船』を凝視している。
「船長、これは……夢ですかね?」
「いや――」
護衛は、出港を依頼してきたのはたった二人だった。フードを被ったいかにも怪しい小柄な女に、巨大なメイスを持った
だが、今こうして確実な死を運ぶとされた魔物が何もできずに遠ざかっている。
その瞬間、船長は今護衛に乗せている二人が、今まで数十年海で生きてきて出会った中でも随一の腕前を持っている事を理解した。亡霊船に出会い生き延びた船乗りが何人いるだろうか。
衝撃に固まっていたが、すぐに我を取り戻す。今だ船は嵐の中、最大の脅威は去ったが油断出来る状態じゃない。敵は魔物だけではないのだ。
まるで夢でも見ているかのように硬直した部下を叱咤しようとしたその時、船長室の扉が開いた。
激しい風と雨粒、音の中、今しがた話題の僧侶――アレスが入ってくる。雨で髪が張り付き、ブーツの先から頭の先までぐっしょり濡れていたが、その表情は変わらない。
後ろから見覚えのない女が続き、扉を閉める。日に焼けた褐色の肌に銀の髪。その頭頂と臀部から出た獣人の証――本来驚くべき特徴にしかし、船長は驚くほど何の情動も浮かばなかった。
アレスはその件については何も言わず船長の方を見ると、まるで世間話でもするかのように言った。
「船長、あの船を追って欲しい」
「…………は?」
その指先がすごい勢いで離れていく亡霊船を指している。
意味がわからず混乱する船長にアレスが続けた。
「逃してしまったが、どうやらかなりの存在力を持っているようだ。もしかしたら、上位の魔族に匹敵する。あれは海には良く出るのか? どのくらいの頻度で出会える?
「…………絶対に無理だ……追いつけん」
忌々しげに舌打ちをする
後ろからついてきた獣人が熱い息を漏らしながら言う。
「……ほら。だから言ったのに……嵐の中無理して船が沈んだらどうするのさ」
「犬かきしろ」
§ § §
「……食べないんですか?」
「私は……お肉は食べないのです」
アメリアの言葉に、フードはもむもむとブロックタイプの携帯食料を頬張った。
焚き火がぱちぱちと音を立てている。蜥蜴から降りた後も、アメリアの同行人の様子は変わらない。
緊張感の欠片もないリラックスした声に、アメリアは無表情で干し肉を齧り、その塩気の強さに少しだけ目尻を下げた。
アメリアもあまり動揺を外に出さない方だが、アレスが新たにアメリアにつけたメンバーはそれにも輪をかけて何を考えているのかわからない。
人はその表情から感情を読み取るものだ。フードを深く被られた状態ではそれができない。
アメリアがその同行人――ラビ・シャトルの顔を見たのはたった一度だけだった。それ以降、頑なにフードを外さない。
アメリアがじっと見ていることに気づいたのか、ラビが言い訳のように言う。
「私は臆病なので……別にアメリアさんに顔を見せたくないわけではないのです。もしもそうした方がいいならば外しますけど……」
「いや……別に」
アメリアの言葉に、ほっとしたようにラビが腕を下ろした。頭の形にぺったんこなフードのその中を測ることはできない。
話を変えるかのようにラビが言う。
「今のところ藤堂さん達は順調みたいですね」
「この距離から?」
藤堂達が野営しているのは三キロ近く先だ。
探知魔法の範囲には入っているが、たとえアレスでもこの距離から藤堂達の様子を知ることはできないだろう。
目を見開くアメリアに、ラビが行儀よく手を膝の上において答える。
「私は……サーニャちゃんより耳がいいのです。だから、きっとボスはアメリアさんに私をつけたのでしょう。私ならばいざという時にもすぐに対応できます」
「……なるほど」
ラビの言葉は納得がいくものだった。アメリアはある程度アレスから事情を聞いている。一流の斥候を二人求め、それぞれの技術に特化した半人前を二人得たことも。
アメリアの探知魔法は範囲は広いが常用出来るものではない。常時広範囲を索敵できる、危機察知能力に長けたメンバーがいればアメリアが危険に合う可能性はより低くなる。
「安心してください。私の仕事はアメリアさんを守ること、技術にはこれでも自信があるのです」
黙り込むアメリアを安心させるようにラビが言う。
だが、それでも、たとえこちらの方が安全な道だったとしても、アメリアとしては分かれての行動は遺憾だった。もちろん、表立って文句を言うことはないが。
「幸いな事に、レーンまでの道でそれほど強力な魔物は出ないはずです。前線は――ずっと北ですから」
藤堂達の道は何もない平原だ。見渡すかぎりに続く平原には疎らに植物が生えているだけで、村もなければ生息する魔物も動物に毛の生えた程度の小さなものだ。
ラビの言うとおり、
のんびりとした様子で手折った枝を焚き火に入れながら、ラビが言った。
「むしろ、サーニャちゃんの方が心配です。今のご時勢、海を渡るなんて正気の沙汰ではありませんから……」
「……なら、何でついてきたんですか?」
微塵も心配していなさそうな口調で話すラビに、純粋な疑問を投じる。アレスが連れてきた二人だが、本来傭兵というものは危険な任務は受けたがらないはずだ。
ましてや、アレス達の旅は災厄を真正面から打ち崩すための旅だ。アメリアの言葉に、ラビは微かに笑った。
「仕事を選ぶなんて三流のやることです。達成出来る簡単な仕事をやるのが英雄なのではない、不可能な仕事を達成するのが英雄なのだ、とは師匠の言葉です。むしろ、私には何故アメリアさんがボスに従っているのかが不思議ですが……聞かないでおきます。事情の詮索は仕事じゃないので」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます