第三十六レポート:猛る獣を撃滅せよ⑤
金色の瞳が妖しく輝いていた。
ウルツとフェルサでは体格が違う。三メートル近い半巨人のウルツと人間と殆ど変わらない体型のフェルサを傍目から見えれば子供と大人のようにさえ見えるだろう。
相応の威圧感を感じているはずなのに、ウルツを見上げてくるその目に宿った殺意には陰り一つない。
その様はまさに歴戦の戦士だ。こちらを食い殺さんとする獣の目。氷のように静かだが烈火の如く燃え盛っている。
そして――鉤爪が閃いた。爪を濡らしていた血の粒が宙を舞う。
殺意の薄い小手調べの一撃に、ウルツが一歩後退り拳を振り下ろす。斬撃のような一撃と握り拳を保護するガントレットがぶつかり合い、火花が散った。
軽い。受けた衝撃に一瞬浮かびかけた思考を、ウルツはすぐさま取り消す。
軽いのではない。獣人の能力は種族によって異なる。目の前の男は明らかに敏捷に秀でたタイプ――耐久と一撃の重さに重きを置くウルツとは真逆だ。
至近から見る虎の目も同じ事を考えているように見えた。一撃で決めようとしなかったのは、まず試したのは相手もこちらを警戒している証である。つまり、相手にとってもこちらは敵なのだ。獲物ではなく――敵。ウルツの想像通りならばそこに油断は存在しないだろう。
侮ってもらった方が隙ができるので都合がよかったが、その事実がウルツを昂ぶらせる。
そして、ウルツは咆哮した。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」
音だけでない。覚悟のない者を萎縮させる気合の篭った『
その隙に踏み込んだ。
巨人の最も大きな武器はその膂力だ。故に、巨人族はその力を十分に発揮するために重量のある戦斧や戦槌、大剣を使った戦法を得意としていた。
振り回すだけで他者を寄せ付けない攻撃はそれだけで小さき者にとっての脅威となる。
今は武器がない――その丸太のような両腕両脚を除いては。
しかし、それで十分だ。強い踏み込みで地面が揺れる。垂直に振り下ろされた拳を、フェルサが一歩右にずれて回避する。
見切られていた。一挙一動が強化されたウルツよりもずっと早い。
拳が空を切る。一撃当てれば上級ゴーレムをすら吹き飛ばす蹴りが、つま先がぎりぎりでその顎に届かない。
ウルツの手足は長い。フェルサの手足に鋭利で長い鉤爪が生えているが、それを入れてもまだウルツの方が長い。
にも拘らず、絶え間なく続ける攻撃が当たらない。相手は足音一つ立てず、瞬き一つせずに冷静に手足を見て攻撃を回避している。
戦闘巧者。生まれ、才能、経験、そして意思。
全てが揃った
大地が揺れるがその体勢は微塵も崩れない。
ウルツは攻撃を繰り返しながらも、早々に当てるのを諦めた。
こいつは――当たらない。一撃当てれば大きなダメージになるだろうが、幸運の女神が微笑まない限り当たらない。相手は受け流しすらせず身のこなしで全て躱しているのだ、まだまだ余裕がある。
鈍重だと、思われているかもしれない。フェルサの目つきからウルツはそう考える。
だが、それは誤りだ。鈍重なのではない、巨人族の戦い方というのは元来そういったものである。ウルツは攻撃を受ける事を改めて覚悟した。
速度と感覚は向こうが上。こちらが勝っているのはアレスの
身体でも手足でも捕捉できれば勝ち目はある。逆を言えば捕捉出来なければ勝つのは難しい。
身体が燃え上がるように熱い。きらきらと身体にまとわりつく
フェルサが一度大きく跳び、後退する。牙を剥き出しにしてウルツを睨む。
険しい表情、薄く空いた口の置くに血のように赤い舌がちらりと見えた。
フェルサが言う。
「大体わかった。てめえは強え」
吐き捨てるような言葉に怒気はない。まるで事実だけを述べているかのような口調。
フェルサのずっと後ろでアメリアが手を握りしめこちらを窺うのが見える。アレスの言うとおり黙って見ているようだ。
何か手出ししようとすれば気配を察知され、即座に殺されるだろう、だが、殺意なく見ているだけならば手出しはすまい。フェルサの意識は完全にウルツの方に集中している。
無駄のない筋肉で覆われた脚、そのつま先がまるで地面を均すかのようにとんとんと地面を叩く。
眼光がウルツの額を貫き、単純な、しかし力の篭った言葉が放たれた。
「だが、俺の方がずっと強えッ!」
フェルサの身体が陽炎のように煌めき一瞬ウルツの視界から消える。
とっさに振り下ろしたガントレットが、横薙ぎに放たれた
手甲に覆われた両腕は巨大な盾でもある。フェルサの一撃は目にも留まらぬ速度だったが、その肉体構造は人と変わらない。動きはなんとか予測出来た。
「――ッ!!」
強く歯を食いしばり一撃一撃を防ぐ。上から下から、横から、放たれる爪の一撃は武器を使っていないとは思えない程鋭い。
手甲は刃を通さなかったが衝撃は腕に鈍く届いてくる。獣人の靭やかな筋肉から繰り出される一撃は決して軽くない。
足音一つ経てず鋭さのみを追求したそれはまるで風の刃のようだ。金色の獣は金色の風となっていた。踊るような連撃に隙は殆どない。攻撃を試みれば生じた隙を即座に突かれるだろう。
だが、どんな攻撃も無限に続くわけではないはずだ。連続した金属音の隙間、フェルサの息遣いだけが聞こえてくる。
苦しい。一撃一撃に込められた殺意が精神を押しつぶし、ウルツもまた荒く息を漏らす。
戦闘の中、疲労する中、意識だけが刃のように研がれていく。連撃の音と伝わってくる衝撃、自分の呼吸と構えた腕の上から見える渦巻く金色だけが世界の全てとなる。
ふと連撃が止まる。次の瞬間、ウルツの数百キロはある巨体が僅かに浮いた。
遅れて腕に痺れるような衝撃が奔る。
蹴りを受けた、その認識した時には刃の輝きが迫っていた。腕と腕、手甲と手甲の隙間を貫くようにして放たれた突きに、固めていた右腕をとっさに振り払うようにして殴りつけた。
突きが軌道をずらされ、しかしその切っ先だけがウルツの顎先を掠る。鋭い痛みが奔り、ウルツは体勢を立て直すために一歩退いた。
「ッ!」
フェルサが踏み込んでくる。ウルツの視界が両脚に生えた鉤爪を捉えた。
腕だけでない。獣にして人でもある
完全に固定していたガードが打ち砕かれた。顎の痛みが持続回復により治癒される。
フェルサが僅かに目を見開く。だが、その動きに動揺はない。回復する間もなく殺す、それは自信と意志の現れなのだろう。
場所が悪かった。障害物のない開けた視界はイレギュラーが起こりうる余地をほぼゼロにする。発生するのは純粋な地力の勝負だ。
そして、地力の勝負になると不利なのは自分だ。
耐久戦を挑む隙を待つか?
そんな言葉が浮かびかけた瞬間、フェルサの姿がふと消える。ウルツの脳裏にゾクリとする何かが奔り、とっさに身体を回転させ背後に腕を振り下ろした。
背後に回り込み放たれた一撃が偶然腕に辺り弾かれる。フェルサが小さく舌打ちをしたのが見えた。
ウルツは頑丈だが全身が硬いわけでもないし、弱点がないわけでもない。防げたのは今まで積み重ねてきた経験故だ。
回り込んでの一撃は堅牢な防御を誇るウルツの敵が取ってくる最たる戦法である。
再び応酬が始まる。が、ウルツの心中には変化があった。
このままではまずい。
見えなかった。まるで風のようだった。傍目から見れば殆ど変わらないように見えるだろうが、対面しているウルツだけは察していた。一撃一撃が少しずつ、ほんの少しずつだが――速くなっている。
スロースターター、とまでは言わないが、まだトップスピードではない。手慣らししてきたのはそのためか。
回り込まれる瞬間、姿が全く見えなかった。まさしく優れた肉体を持つ獣人故の力。技術でもなんでもなく、純粋に速い。
最悪の相手だ。と、しかしウルツは薄く微笑む。
何故アレスがウルツに戦闘を任せたのかわからなかったが、今ならわかる。レベルが高くても脆弱な人族であり僧侶であるアレス・クラウンにとってこの相手は相性が最悪だ。
この開けた場所で相手をするのならば勝てて五分といったところか。だから、アレスはその選択を選ばなかった。だから、自分に任せたのだ。
状況は悪かったが、熱い血潮がウルツの中にこみ上げていた。それが新たな力となる。
腕には、脚には疲労が蓄積し、息も苦しかったが意識は鮮明だった。振り下ろした足が地盤を砕き、礫が弾け飛ぶ。それを避けるためにフェルサが数歩だけ後ろに跳ぶ。
ウルツはその瞬間、魂全てを燃やし尽くすつもりで咆哮した。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」
勝つ。アレスに命を賭けるほど深い恩があるわけではない。
だが、任された以上は勝つ。たとえ全力を振り絞りこの身朽ちようとも。それが戦士の誇りだ。
咆哮に世界が震える。空が、地面が、空気が。フェルサが頬をピクリと動かし凶悪な笑みを浮かべる。
そして、ウルツは攻撃を開始した。
二撃目を考えない全力の一撃。
一歩で岩盤を砕く。その巨大な体重を、重力をかけ右手拳に全ての力を込め、右腕を振り上げ、振り下ろす。
ただそれだけの動作に、何かが爆発するような音が弾ける。たとえ命中しなかったとしても、かすっただけで巻き込まれぐちゃぐちゃに潰されるような一撃。そして――
――振り下ろされた金属に包まれた右腕をフェルサは避ける事なく受け止めた。
肉を潰したものではない、地面を砕いたものでもない、みしりと何かが軋むような感触が拳の下から伝わる。
一瞬、ウルツの頭が混乱に包まれる。
一体何故、このような状況になっているのか?
受け止められていた。
拳を、フェルサの手が受け止めていた。鉤爪が手甲にかすれる音が虚しく耳にはいる。
片手ではさすがに無理だったのだろう、フェルサの重ねられた両手の平がウルツの右拳の下できしんでいた。
受け止めた衝撃でフェルサの足元は砕け、毛も乱れているが、その身体に目立った傷はない。
混乱が収束し、受け止められた拳に全力を込める。しかし、拳は動かない。
力が完全に拮抗していた。いや、力が拮抗、ではなく純粋な肉体強度の差異か? ウルツには判断材料がなかったが、少なくとも、その腕はぴくりとも動かない。
顔を真っ赤にして力を込めるウルツに、フェルサが押し殺したような声で言う。
「お前、まさか俺よりも力があると思ってんじゃねえだろうな?」
ウルツの、そしてフェルサの腕の骨がみしみしと軋む。
声色と腕から響く音から、ウルツは相手が無理をしているのを感じた。言葉通りではない。決して相手も余裕があるわけではない。
だが、受け止められた。受け止めるという選択をした。避けるという選択を取ることも出来たはずのに受け止めてみせた。それは獣人の戦士としての誇り故か。
極めて強力な獣人だ。これほどの能力を持つのならば敗北経験などほとんどないだろう。そのプライドが真っ向勝負を選択したのか?
力でもない技でもないその事実に、精神性にウルツは脅威を感じた。
蛮勇と切り捨てるのは簡単だが、それはまさしく英雄の精神だ。戦場に現れれば数えるのも面倒な程の屍を積み重ねるだろう。
息を止め、全力を振り絞る。フェルサが歯を食いしばり、それに対抗する。
始めは拮抗していた。だが、ウルツの一撃からは既に勢いが失われている。
少しずつ。重力を借りて尚、少しずつ腕が上に押し上げられていく。数歩後退すれば避けられるはずなのに、フェルサにはその選択肢を取る気配がない。
フェルサがざらざらした声で話しかけてくる。
その声からはいつの間にか怒りが見えなくなっていた。そこにあるのは強敵に対する戦意だけだ。
「捻り潰す。てめえは一対一、真正面から捻り潰す」
その言葉に再び戦意が燃え上がるのを感じた。一撃。たった一撃止められただけで何故戦う事をやめるだろうか。
強敵との戦闘はウルツの望むところだ。魂さえ込めた一撃は受け止められたが、勝機は薄いがしかしそんなもの、考慮するに値しない。
ぎりりと、既に力を振り絞っていたはずの拳にさらなる力が篭もる。それを感じ取ったのだろう、金色の獣が舌なめずりする。
戦える。まだ戦える。口の中はからからで身体も疲労でずっしり重い、久しく記憶にない状態だが、身体は動く。そう、
――この身朽ち果てるまでは。
ふとその時、何かがぶつかる音がウルツの聴覚を刺激した。
至近からこちらを見上げていたフェルサの目が見開かれる。
何の音だ……?
眉を顰めた瞬間、右腕の下から力が消えた。支えを失ったウルツの右腕が岩盤を砕く。
巻き上がる砂埃の中、後ろに下がったフェルサが愕然とした表情を作るのが見えた。呆然と見開かれた目がゆっくりと自分の身体を見下ろす。
「……は?」
間の抜けた声がその獰猛だったはずの口から放たれる。
滑らかな毛皮の半ばに黒い物が突き出していた。
足首、肩、腕の関節。地面に落ちている一本のナイフを見つけ、ようやくそれがなんなのかか気づく。
柄だ。ナイフの柄。それが何も触れていないのにズルリと抜け、地面に落ちていたナイフと一緒に風もないのに空を飛ぶ。傷口から僅かな黒の血が流れ、金の毛皮を汚す。
ウルツの目が呆然とそのナイフの飛ぶ先を追った。
アメリアの数メートル前。
面倒くさそうな表情でフェルサを見る視線。気配を殺し、誰にも気づかれずにいつの間にか佇んでいたその影は獣人などよりもよほど死神に見える。
手元に戻ったナイフをくるくると回し、アレスがウルツの方を見て嬉しくもない言葉をかける。
「よくやった、ウルツ。予想より随分と上等だった。ああ、後は俺がやっておくから……休んで良い」
フェルサが足首を押さえ、睨み殺さんばかりにアレスを睨みつける。荒い息には苦痛が混じっていた。が、何も言えないのはそのためではないだろう。
アレスは何気ない動きでフェルサから十メートル程離れた場所まで接近すると、メイスを持ち上げ、肩をすくめる。
アメリアもこの状態が予想外だったのだろう、ウルツと余り変わらない視線をアレスに向けている。
「グレゴリオの技も……まぁまぁだな。直接投げないと刺さらなかったが、ナイフの回収ができるのは素晴らしい、これは貴重品だからな」
誰もが混乱する中、アレスだけがまるで日常会話でもするかのように続ける。
そして、アレスが熱量のない声で言った。懐から趣味の悪い漆黒の仮面を取り出し、顔に装着する。
「ああ、初めまして、フェルサ。俺の名前はアレス・クラウン。正真正銘――お前の敵で……お前らが探している『
目と口のみ開いた黒の仮面からその感情は読み取れない。
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