第二十三レポート:分析・風雨・推測
雨の混じった強い風が窓ガラスを激しく叩いていた。
頑丈な樫の木で作られた安楽椅子はカリーナ・キャップが遥か前、まだ街が出来たばかりの頃から使い続けている品だ。
古びた、あちこちに奇妙な染みがこびりついたそれに身を預け、カリーナがパイプを燻らせ、ため息をつく。
背もたれに預けた身体は老いと長年の疲労で肥大しているが、その眼光の鋭さもあり、弱々しい印象を受ける者はいないだろう。巷では魔女などと噂されていることをカリーナは知っていた。
ゴーレム・バレーはここ数十年で開拓された土地だ。元々は強力な
環境が険しく多少腕っ節が強いだけでは太刀打ち出来ないくらいに強力な魔物が出没しおまけに立地が王国の端。
ルークス王国がその新たな土地を開拓すると決めたその時、教会本部から派遣されたのがカリーナその人である。当時カリーナはまだ十代だったが、それ以来ずっとゴーレム・バレーの教会に務めていた。
この地はレベル上げのための地だ。傭兵が訪れレベルを上げ終えると去っていく。統治のために王国から人が送られるがそれもまた頻繁に入れ替わる。娯楽が殆どない僻地に好んで住み着こうという者などいない。
だが、たとえ人が入れ替わったとしても情報は引き継がれる。
かつて妖艶と言われていた美貌はもはや欠片も残っていないが、その容貌に刻まれた皺は重ねてきた経験そのものだ。
しわがれた声が薄暗い室内に響き渡る。その耳には協会本部へ通信するための魔導具が下がっていた。
「相変わらず苦労性の坊やだよ。そう器用でもあるまいに、失敗を恐れず前に進むのを……やめない」
ここ最近任務でやってきたアレスの姿は昔レベル上げのためにやってきた際と何ら変わっていなかった。性格もあり方も余裕のなさも。多少の分別はついていたように見えたし、肉体的には成長していたがそれだけだ。
カリーナの言葉に、通信魔法の先――クレイオが答える。
『ああ、わかっている。だが今回の魔王は文献に残る魔王とは大きく違う。こちらでも調査は進めているが――アレスの力が必要だ』
「ふむ……そうだねえ」
枢機卿の言葉に、カリーナが思案げにその視線を書棚に向けた。
魔王とは魔族をまとめる者。その登場は歴史上何度も起こった事だ。
魔王の力の大小はあるし、討伐までに掛けた時間も数ヶ月から数十年まで開きがあるが、概ね相手の手の内は教会内部で研究され尽くしている。
カリーナの私室、その書棚に並んだ本の大部分は魔王に関する書物だ。
教会の一員としてそれらには目を通していたし、何度か意見の交換もしたが、確かに今回現れた魔王――クラノス率いる魔王軍の動きは文献に残るそれとは明らかに違っていた。
魔族とは基本的に人族よりも遥かに強力な能力を持ち、故に高いプライドを持っているものだ。
魔王の中には単身人族の領地に乗り込み戦いを仕掛けてきた者もいた。如何に強靭な身体能力と天変地異を巻き起こす程の魔力を持っていたとしても、人の領域に一人で飛び込むなどよほど自信がなければ出来ない事だ。実際その魔王は幾つかの国を滅ぼしたが、消耗戦を挑まれ長い戦いの中疲弊されたところを勇者に討たれた。
他にも魔族全員をまとめ自ら陣頭指揮に立って戦争を仕掛けてきたものなど、侵略の仕方は様々だが、その全てに共通するのが『攻め』の姿勢だった。
魔族は守りに入らない。残虐で狡猾で全てに置いて劣る人を見下しているが、それ故に魔族は身を守るという意識がない。罠も策も構わず真っ向から侵略してくる。少なくとも魔族にとって人族は自分達に歯向かう敵であると同時に、狩られるだけの獲物だった。
だからこそ、魔族に勇者の存在が発覚するのにかかる期間――『一ヶ月』という時間が大きな意味を持っていたのだ。
だが、今回の場合既に三ヶ月近い時間が経っているが未だ魔王から勇者への積極的な襲撃は発生していない。
クレイオが続ける。その口調は冷静だ。
『ザルパン・ドラゴ・ファニとかいう吸血鬼がヴェール大森林に網を張っていたようだが……これもまた異様だ。三月も経っているにも拘らず次の襲撃がない事といい、前例がない。そもそも待ちの戦術自体、今まで魔族には殆ど見られなかったものだ』
「ふん……人間も成長しているんだ、魔族側の動きが変わったところで何らおかしな事はないだろうねえ」
戦術は変わる。レベルアップのノウハウも蓄積されるし新たな魔法や技術も開発される。
事実、ここ数十年でゴーレム・バレーも大きく発達している。王国全体の平均レベルも多少上がっている。
カリーナの言葉にクレイオがどこか熱の入った言葉を返す。
『その通りだ、マダム。こちらにとって不都合な事だが、ね。だが、魔王クラノスの命令でそれがなされているとするのならば、今回の魔王は最も高い『カリスマ』を持っているということになる。長年根付いていた魔族優勢の思想――レベルアップの加護などただの一因にすぎない……その思想こそが間違いなく人族が未だ栄えている最も大きな理由だ』
生まれついての地力の差。人族と魔族の能力の平均値を取れば後者が圧倒的に高くなる。
もしも魔族が人族と同じだけの精神、知識、思想、歴史を持っていたら人族は魔族の奴隷となっていたであろう。それは度々学者の間で囁かれる教会の一員からすると罰当たりな説だった。
『マダム・カリーナ。私には今の状況が――嵐の前の静けさに思えてならないのだよ』
その物言いにアレスの姿が重なり、カリーナが含み笑いを漏らした。
「……くっくっく、部下が部下なら……ってやつかねぇ。あんた達、よく似ているよ」
『……最強の
クレイオが憮然とした様子で続ける。
そこでカリーナが、パイプを机に置いて指を慣らした。
それまでカリーナの隣で目をつぶりじっと座っていたウルツの瞳がゆっくりと開いた。
その耳に下がっているのは、通信の魔導具を一回り小さくしたようなイヤリングだ。本来一対一の通信を複数対一で行うための道具だった。
ウルツの脳裏によぎるのは藤堂達の様子だ。
様々な訓練を施した。身の運び、力の出し方、対人戦に自分より強い相手との戦い方。
強者との戦闘は巨人族の本能だ。未熟とはいえ、英雄の資質を持つ者との戦闘はウルツに流れる血を滾らせた。
既に藤堂達は先の街に進んだのでここ数日は訓練を付けていないが――訓練を受けたのは藤堂の方だが、その全ての手応えはウルツの手の中に残っている。
開かれた茶色の瞳にはどこか郷愁に似た色が浮かんでいた。
分厚い唇がゆっくりと開き、静かな声で藤堂達の様子を報告し始める。
「閣下。聖勇者殿は――」
魔王の研究もされているのならば、最強の聖勇者を作るためのノウハウも蓄積されている。
情報を共有する二人の様子に一度頷き、カリーナは窓の外を見た。
昼から猛威を振るい始めた雨はまだ止む気配がない。
§ § §
ゴーレム・バレーの天気は変わりやすい。話は事前に聞いていたが、まさかいきなり激しい雨に降られるとは思っていなかった。
ただでさえゴーレム・バレーの風は強い。雨粒の混じった強い風に、藤堂は雨具代わりのコートのフードを強く押さえつけ、外を行く道を選んだ事を後悔した。
アリアが深刻そうな表情で雨粒を拭い、目を凝らす。
「不味いですね……視界が悪すぎる」
雨だけでない。辺りに立ち込めた霧は数メートル先が見通せない程に濃く、既に進むことも戻る事もままならない。
敵の姿が見えないだけではない。方向感覚を失い足を踏み外せば川まで真っ逆さまに落ちていくことになる。
その光景を思い浮かべ、藤堂はぞくりと肩を震わせた。額に張り付いた前髪を人差し指で避ける。
恐る恐る後ろからついてきていたリミスが声を潜めて尋ねてくる。
「どうする? 先に進む?」
「戻ったとしても確か洞窟は……しばらくなかったはずだ」
頭の中の地図と現在位置を照らし合わせる。戻るにしても先に進むにしても、しばらく雨を避けられるような場所は存在していない。
ほぼ垂直の崖を上って上の道に移動すれば洞窟があるかもしれないが、このコンディションでそれをやる自信はない。
『
下唇を噛み、藤堂が暗い瞳で全く見えない前方を睨みつける。
アリアがため息をついて意見を述べた。
「この天候で動くのは危険です」
「でもここに留まっていても意味が――」
「問題は魔物よ」
落ちないようにそろそろと壁際に寄り、ひとかたまりになって会話を交わす。
リミスの肩に乗ったガーネットは水に濡れてつやつやと輝き、リミスの様子を窺っている。
グレシャの髪が水分を吸ってうねうねと動いていた。それに視線を落としながら、リミスが続ける。
「ゴーレムはこの環境に適応しているのよ? 視覚を使わずに動く方法を持っているはずだわ」
「不意打ちされたらまずい、か。この雨じゃ気配も読めないし……」
目をつぶってしばらく様子を探るが、風雨の音と感触が集中を乱し、周囲の状況は全くわからない。
剣をだらんと下ろしたまま、アリアが周囲を警戒する。藤堂もそれに習い、目を凝らして前を見る。
そこで、リミスが二人に気づかれないようにため息をついた。
基本的に傭兵は雨天時に行動しない。防水性の外套を羽織ったところで体力の消耗は免れないし、視界の悪い状態で探索するのはリスクが高すぎる。
だが、同時に突発的に雨が来た際の対処方法も存在する。
その一つが
ガーネットは強力な精霊だが、対応できる範囲には限りがある。
広範囲に炎を振りまき一瞬でも水を蒸発させるか迷うがすぐに諦めた。
そんなことしてしまえば自分達も蒸し焼きになってしまうだろう、火精霊に操れるのは火だけだ。
下を向き、地面を睨みつけて必死に現状の打開策を考える。
藤堂とアリアも警戒しつつも声を潜めて話し合っている。
「結界を張れば魔物も来ないかな?」
「魔法生物に並の結界は通じません。上級の結界が必要です……ナオ殿では難しいかと」
精霊魔導師の実力は契約した精霊に比例する。碌な精霊がいないからと藤堂の精霊契約を後回しにしたつけがきていた。下級精霊でもいいからさっさと契約させていれば雨にも対応できていただろう。
だが、後悔してももう遅い。
「雨、いつ止むんだろう」
「しばらくは止みそうにないですね……」
アリアの言葉の通り、風雨は弱まる気配がない。
弱りきった表情の藤堂、リミス、アリアとは逆に、グレシャだけがいつもよりもほんのすこしだけ明るい表情をしている。
ウェイブの掛かった長い髪がまるで触手のように動き、ぺちぺちと水たまりを叩いている。
「グレシャ……嬉しそうね。というか、髪……伸びてない?」
「……ん」
グレシャがふらふらと歩き、藤堂の隣を抜けて少し前に出る。背負った戦鎚の柄が目の前にきて、藤堂が慌てて避けた。
いつもよりも機敏なその動作に、アリアが苦笑いを浮かべる。
「元々が
「髪、うねってるけどまさか根っこみたいに水分吸ってるのかな、これ……」
目を丸くして藤堂が呟く。原理はわからないが、風向きとは関係なく動くグレシャの長い髪を見ているとそれもありえそうに思えた。
リミスがその髪の一房に触れる。艷やかな髪はひんやりとしていてずっと触れていると凍えてしまいそうだ。
深緑の瞳がじっと霧の向こうを見ている。戸惑う様子のない確かな視線にリミスが眉を顰めた。
「……グレシャ、貴女まさか……霧の向こうが見えてるの?」
「…………ん」
グレシャが小さく頷く。その様子に藤堂が目を見開くと同時に、グレシャが大きく腕を振った。
その小さな手が霧の向こうから飛んできた影を打ち付ける。激しい破砕音が雨の中、響いた。
アリアが唖然として、グレシャの足元に叩きつけられた物体を見下ろした。
ゴーレム・バレーに来てから既に何回戦ったのか、見慣れたボール状のゴーレムが半壊し地面にめり込んでいた。核が破壊されたようで、雨に濡れたその機体が動く気配はない。
「ッ……魔物が、近づいていたのか……」
「凄い……」
感嘆の言葉が藤堂の口から飛び出る。
既に苦戦する事はなくなったとはいえ、ボール・ゴーレムの装甲の厚さは良くわかっている。それをたった一撃で、しかも素手で倒すなどとても無理だ。少なくともこのパーティでできるものはいない。
「凄いじゃない! というか、グレシャ……素手って……ハンマー使わないのね……」
背中に背負われた戦鎚を眺め、リミスが微妙な表情を浮かべる。戦鎚を振り回して戦い始めた時も驚いたが、使わずに倒すというのも衝撃だ。
腕を組み、アリアが目を見開きグレシャを見下ろした。
なんとなくついてきただけの少女が今は希望に見えた。留まっていてもジリ貧だ。そもそも、今のボール・ゴーレムの襲撃、グレシャを除けば誰一人として気づけなかったのだ。取れる選択肢は少ない。
「ナオ殿」
「……ああ」
アリアの言葉に、察したように藤堂が頷く。
腰を下ろすと、グレシャの背の高さに視線をあわせた。
「グレシャ、前が見えないんだ。悪いんだけど、魔物が出たら下がってていいから頼めるかな?」
「………………ん」
グレシャは小さく頷くと、殆ど見えない霧の中、躊躇うことなく歩き始めた。
§ § §
雨が止み、空は血のように赤く染まっていた。
その美しい光景にざわめくような悪寒を感じる。眼下では藤堂達がヘトヘトになりながらも巨大な鉄の門をくぐるところだった。
『
アメリアが眩しそうな表情で話しかけてきた。
「何とかたどり着きましたね……しかし、たった一月足らずでここまで来れるとは……」
ゴーレム・バレーの洗礼とも呼べる急な悪天候をグレシャの力で乗り越え、現れたゴーレム達を蹴散らし最奥の街までたどり着いた。
しかも一月足らず、正確に言うのならばまだ奴がゴーレム・バレーに入ってからたった十九日しか経っていない。
それは確かに偉業だ。余りにも偉大すぎる。
俺が昔ここでレベルを上げた時はフィフス・タウンにたどり着くまでどれだけの時間を使ったか。
その時の俺のレベルは今の藤堂よりもずっと高かったはずだ。かなり急いでレベル上げをしたはずなのに、ずっと高くなっていた。
額を手で押さえ、冷静さを保ち、考える。
そうだ……レベルだ。
「奴らのレベルは幾つだ?」
「えっと……藤堂さんが39、リミスさんが29、アリアさんが同じく29で、グレシャさん不明です」
俺の言葉に、ステイが指折り教えてくれる。
藤堂のレベル上げ速度が早いのはいい。リミスのレベルがアリアに並んだのも攻撃力の差で、アリアがなかなかゴーレムのトドメをさせなかったためだからよしとする。間もなく全員レベル30を超えるであろうという点は朗報だし、グレシャのレベルはどうでもいい。
だが、その瞬間、俺は自分の考えの浅さに後悔した。
異変。異変はない。ないように思えた。
ないのではない、気づかなかっただけだ。
藤堂の動きは順調だ。順調過ぎる。
才能と装備、ステイの追い込みでやる気を出したからだと思っていたが、違う。
「アメリア、藤堂が遭遇したゴーレムの内、上級のゴーレムは何体いた?」
「え……?」
俺の問いに、アメリアは一瞬呆気に取られ、しかしすぐに答えた。
「私が見ていた限りでは……遭遇していないかと……」
そうだ。遭遇していない。ただの一体も、だ。
拳を握りしめ、フィフス・タウンの門を睨みつける。
特殊合金で作られた巨大な門は人工物を攻撃できる一部のゴーレムの攻撃を防ぐためのもの。頼もしさと同時にその脅威を示している。
くぐれるわけがない。39だとか、29だとか、そんな低レベルでその門がくぐれる訳が無い。
ゴーレムとの遭遇には運がからむが、遭遇する全ての魔物を倒してここまで来たのならばそのレベルは50近くになっているはずだ。
ようやく掴んだ。魔物の数が増えているわけでも強力な魔物が出るようになったわけではない。
だが逆だ。異変は確かに存在した。
――減っているのだ。
「……チッ。俺の知っているゴーレム・バレーは……こんなに易しくなかったぞ」
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