幕間その2

神の試練

『あるべくして勝利する』


 グレゴリオ・レギンズの信条はただその一つの言葉で表現される。


 魔王クラノスの存在が人の世界で認知されるその遥か以前から異端殲滅官として戦ってきた。

 その職務の激しさ故、メンバーの移り変わりの激しい異端殲滅教会アウト・クルセイドの中で、グレゴリオは屈指の経験と実績を誇る。


 しかし、グレゴリオは自身が成し遂げた全ての結果を自分の功績だと考えていなかった。

 

 例え如何なる災禍が訪れようと、秩序神の下僕が敗北するわけがない。

 神の下僕故に、神の御心のままに動き、当然に勝利する。ただそれだけだ。そこに自身の努力や意志などは介在していない。


 水が上から下に落ちるように、それが神の導きであるのならば、あらゆる試練は達成される。それこそが神の加護に他ならない。


 故に、グレゴリオは自らの与えた試練についても何ら心配していなかった。


 退魔術の習得を欲する者たちに試練を与えてその日から一日半が経過していた。

 日も沈み、第三教会に借りている自室で教典を開いていたグレゴリオがふと顔を上げる。

 試練を与えたその日とは異なり、空には分厚い雲が広がり、激しい雨が屋根を打つ音が響き渡っていた。


 夜間、それも雨天時に教会に来る者は少ない。

 まだ深夜と呼ぶには早すぎるが、室内はもちろん教会全体は寝静まったように静かで、耳に入ってくるのは雨の音のみ。


 静寂の中、グレゴリオが声をあげた。落ち着きのある声が誰も聞く者のいない部屋に響き渡る。

 まるで不自然なものでも見たかのような感情の滲んだ声。


「……導きが……全然消えませんね……」


 教典を手に持ったまま立ち上がり、室内を歩き回る。その視線が部屋の隅に置かれた黒のトランクケースに向けられる。

 頭の中、脳の片隅で燻る奇妙な感覚。


「アレス・クラウンが対応するのであれば僕はもう不要なはずですが……はて……」


 不思議そうな声。その黒い瞳がじっと宙を見つめる。


 グレゴリオは自分の行動指針を全て、神の導き――他者からは勘と呼ばれるものに委ねているが、その精度は一般的に呼べる『勘』のそれを遥かに上回る。その精度たるや、教会の本部が高い信憑性を抱いている程だ。


 大抵の場合、グレゴリオは自身のやるべき事がわかった。神の導きはあらゆる予知を凌駕する。それは当然の事であり、多少のラグはあってもそれが外れた事は殆どない。

 アレス・クラウンとの邂逅から既に二日。今この村が自身のあるべき場所でなくなったとするのならば、グレゴリオ自身にその事がわかるはずだ。


 だが、最初に大墳墓に侵入した際に得たその『導き』は消える気配がない。

 つまりそれは、自分のやるべき事がまだ残っているという事である。


 まるで臭いでも嗅ぎ取るかのように鼻を動かし、グレゴリオが首を傾げる。

 闇の眷属の気配はない。少なくとも、村の中にはないし、そもそもアレスが対応するのならば自分は不要だ。異端殲滅官にも得意不得意はあるが、アレスは補助から回復、戦闘まで全てをバランス良くカバー出来るオールラウンダーである。加護こそ持っていないものの大抵の相手に負ける事はないし、そもそも負けるような相手であるのならばその性格上、間違いなく助けを求めて来るだろう。


 グレゴリオが天上を見上げ、まるで天に問いかけるように呟く。

 興奮の欠片もない冷静な声で。


「神よ。僕にはまだやることがあると、そう仰るのですね」


 その瞳には何も映っていない。答える者はいない。だが、グレゴリオは確かにその問いに対する神託を感じ取っていた。

 ならば、それに殉じるだけだ。やるべきその時になればやるべき事がわかる。


 開いていた教典をパタリと閉じる。

 神の使徒。グレゴリオ・レギンズには不安も躊躇も存在しない。




§





 満身創痍とはこの事かと、藤堂は朦朧とした意識の中、考える。いや、考え続けなければ意識が飛んでしまいそうだった。


 ユーティス大墳墓を歩き回る事、果たして如何程の時間が経過したのか。


 頭には断続的な痛みが奔り、息は苦しく手足も重い。度重なるアンデッドの襲来は確実に藤堂達を疲労させていた。精神疲労、肉体疲労、無数の生ける屍リビングデッドの腐臭により嗅覚は既に麻痺し、全身に浮かんだ汗が空気で冷やされ体力を奪う。隣に立つアリアもまた、疲労の滲んだ目付きで辺りを見回していた。


 剣を持ったまま、その手を壁に付け、ゆっくりと呼吸をする。

 たった今、こちらに襲撃してきた三体のリビングデッドを屠ったばかりだ。周囲に魔物の姿はいない。近くに気配があるかどうかはわからない。

 目に見える範囲にアンデッドの姿はないが、次に現れたその時にまともに戦えるのか、藤堂には全くわからなかった。


「はぁ、はぁ……スピカ……周りに……魔物は?」


「……いない、みたいです」


 藤堂の問いに、藤堂やアリアよりも顔色のいいスピカが答える。その答えに、藤堂は心の底から安堵する。


 軽量の金属でできた盾が、重さを感じないはずの剣が酷く重く感じる。断続的な頭痛は魔力が切れかけている証だ。

 もう何体のアンデッドを倒したのか、藤堂は覚えていない。途中までは数えていたが、千体という終わりの見えない目標数と殆ど切れ目なく襲来してくる無数のアンデッドに、藤堂は途中から数えるのをやめてしまっていた。その事に意識を割くほどの余裕がなくなったためだ。

 決して、強力なアンデッドと遭遇したわけではない。だが、久しぶりの長時間の連続戦闘は藤堂たちの体力を極限まで削るのに十分だった。


「……アリアもナオもかなり疲れているみたいだし、今日はこの辺で終わりましょうか」


 そういうリミスの顔色もあまり良くなかった。アリアと藤堂の体力消耗が一番激しいのは間違いないが、リミスもリミスで魔法を何度も使い、その度に大量のアンデッドを焼き払っている。そうする必要があるくらいに、アンデッドは現れたのだ。

 元々体力がない事もあり、元気よく振る舞ってはいるが、その顔色からは無理をしているのがはっきりわかる。


 スピカがおずおずと進言する。


「近くに……休める部屋があるみたいです」


「……とりあえず、そこに行ってみようか……」


 自分の心臓の音がやけに強く聞こえていた。

 生存本能と呼べるものなのか、意識は今にも落ちそうな程朦朧としているにも関わらず、身体はまだ動く。

 陣形は変えずに、前に、ただ前に進む。もう随分と奥まで踏み込んでしまった。休まなければ帰ることすらままならない。


 スピカが指し示したのは、教会に借りている一室と同じくらいの大きさの部屋だった。

 借りている部屋と異なるのは、その部屋には家具も何もないという事。薄暗いという事くらいだ。


 部屋につくと同時に、崩れ落ちるようにして床に座り込む。厚手の外套から伝わってくる冷たい感覚にようやく生の実感が戻ってきた。


「藤堂さん……すいません。結界を……張らないと……」


「……ああ……そうだった」


 スピカに言われ、異空間から聖水と『魔法の馬車グラスランド・ウィンド』を取り出す。

 馬車の方をリミスに任せ、這いつくばるようにして聖水を蒔く。部屋の隅に不思議なマークがあったが不自然に思う事なく、藤堂は最後の力を振り絞って結界術プリズムを行使した。



§




 藤堂直継にとって、スピカ・ロイルは謎の多い少女だ。

 神聖術を一つも使えないのに単身大墳墓に向かった事といい、そのおどおどした様子とは裏腹に見え隠れする優秀な能力といい、どこかチグハグな印象を受ける。


 例えば、下位の神聖術を修め秩序神のアズ・グリードの加護を持つ自分よりも先に、そしてより精密に闇の眷属の居場所を察知する能力。

 例えば、休憩時に結界を張る事を忘れていた藤堂にそれを進言する抜け目のなさ。


 そして例えば――


「スピカ、貴女よく覚えてたわね……」


「いえ……そんな凄い事では……」


 目を丸くするリミスに、スピカが居心地悪そうに瞳を伏せる。

 アリアもまた、謙遜するスピカに賞賛の言葉を掛ける。


「……いや、見事な物だ。戦闘に気を取られて……すっかり忘れていたからな」


 広げられた薄汚れた地図に目を落とす。戦闘に無我夢中で現在位置がわからなくなっている事に気づいたのは部屋に入り、一息ついた後だった。

 ヴェールの森とは異なり、どこまでも広い地下墳墓で現在の場所がわからなくなる事は死に直結する。磁石があるので方角はわかっても、無数に存在する同じような通路から偶然帰り道を見つけるのは難しい。

 顔色をなくす藤堂達にとって救いの手になったのは驚くべき事にスピカの存在だった。


 藤堂やアリア、リミスが失念していたそれを、スピカは詳細に覚えていたのだ。

 スピカが小さな声で自嘲気味に呟く。


「私には……これくらいしか出来ませんから……」


「いやいやいや、十分だよ」


「魔物狩りの死因の二十パーセントは遭難だと言わていますからね……」


 藤堂には異空間にアイテムを収納する魔導具があり、その中に食料も水も大量に入っているが、それだって無限ではない。何よりも、アンデッドの蔓延る地下墳墓で迷子など、考えたくもない。


「じゃー……今日の戦果を確認しましょうか」


 リミスが、腰につけていた袋をひっくり返す。本日戦闘を行った成果――魔結晶がじゃらじゃらと床に散らばる。


 一瞬見ただけでは数え切れないくらいの数。だが、どう見ても千個はない。

 一個一個丁寧に数え終え、藤堂が沈んだ声を出した。


「百三十個……か……」


「一日の戦果としては大きいと思いますが……」


 体感ではかなりの数のアンデッドと戦った感覚があるが、実際に数えてみるとそれ程でもない。アンデッドの大きさは人と同程度であり、基本的に通路で戦っているので応対出来る数は限られる。


 慰めるようなアリアの声に、しかし藤堂は深くため息をつき、肩を落とした。


 千体。その目標から考えると、明日と明後日は今日よりも更に頑張る必要があるという事だ。できれば三日も掛けずに終わらせたいと考えていた藤堂にとってその結果はあまり良い結果とは言えない。


「ま、まぁ私が燃やしてしまったものもあるし?」


「……それは倒したと証明出来ないじゃないか」


 かと言って、リミスを攻めるわけにもいかない。リミスの魔法がいなければ、藤堂たちは何度もアンデッドの波に飲み込まれていただろう。そうなれば、死なないまでも大きな傷を負っていた可能性が高い。

 今は床に寝そべっているガーネットもまた、火を炊くことの出来ない室内で焚き火の代わりの熱源となっており、消耗した体力の回復に貢献している。


 アリアもそれについては何も言う事なく、ただ膝を手で打って力強く宣言した。


「まぁ、明日は今日よりも倒せるだろう。私も……少しは慣れたしな……」


「……ああ、そうだね……」


 慣れたのは事実だ。事前の覚悟さえあれば、激しく取り乱すような事はないだろう。

 遭遇したのがウォーキング・ボーンやリビングデッドばかりで、悪霊レイスと出会わなかった事だけが懸念だが、遭遇しなかったのは仕方がない。


 気を取り直すべく、自らの頬を両手でぱちんと叩き、藤堂が顔を上げた。


 続いて、久しぶりにレベルアップの儀式に入る。

 藤堂のレベルこそ上がっていなかったが、アンデッドの群れを倒し続けた事で、リミスとアリアの方はレベル上昇の感覚を感じ取っていた。


 まずはレベルの低いリミスの方にレベルアップの儀式を施す。

 藤堂の手の平がリミスの頭、肩を腕に触れ、まだ慣れない動作で十字を切る。

 きらきらした金の光が全身を包み、リミスが唇を噛んで艶めかしい吐息を漏らす。


 身体からはっきり分かるくらいに神力が抜け、身体全体がだるくなるが、かつて教わったとおり、てきぱきとした口調で続けた。


「これでリミスはレベル18になった。次のレベルアップまでは存在力は……ごめん、ちょっとわからない……」


「……まぁ、倒し続ければいいでしょ」


「……そうだね」


 次のレベルアップまでの存在力は儀式を行った結果数字が頭に浮かぶわけではない。何度も繰り返す上でなんとなく見積もれるようになるものだ。

 続いてアリアの方を向き、申し訳なさそうな表情で藤堂が言った。


「ごめん、アリア。アリアの儀式は……ちょっとまだできそうにない。結界を張ったせいか、神力が足りなくなっちゃいそうで……」


「……わかりました。まぁ、明日の朝回復した後にやっていただければ……」


 神聖術は要だ。スピカが使えない以上、藤堂が消耗しすぎるのはまずい。

 ざわめくようなレベルアップ可能時特有の違和感を全身に感じながらも、それをおくびにも出さずにアリアが頷く。

 藤堂が悔しそうに唇を噛んで唸った。 


「彼なら……出来たんだろうけどね……」


「……本職はやはり違うという事でしょうね」


 脳裏に蘇るのは、僧侶プリーストに求められるあらゆるタスクを顔色一つ変えずにこなしてみせた、レベルがたった3のプリーストの姿だ。

 首を振り、その姿を消し去る。何が足りないのか。どうして彼に出来る事が自分には出来ないのか。


 激しい劣等感を感じるが、今更弱音を吐く権利があるわけもない。


「私も……頑張ります」


 まるで、藤堂のその考えを読み取ったかのように、スピカが小さく拳を握って呟いた。




§




 そして、夜間、藤堂は唐突に目を覚ました。

 全身に感じる強い疲労。暗闇の中、まだ重い瞼を擦り、何気なく馬車の中を見渡す。


 『草原の風グラスランド・ウィンド』の幌は気密性が高く、馬車の中は外と比べて暖かい。その内部は一種の魔法が掛けられており、外から見る以上に中のスペースは広い。

 ほぼ完全な暗闇の中、じっと眼を凝らす。


 枕元に杖を置き、毛布を抱きしめるようにして眠る小さな影。規則正しい寝相で小さな寝息を漏らす長身の影。

 特におかしな物音もなければ殺意や敵意も感じない。


 しかし、そこで藤堂はある一つの事に気づいた。


「……あれ……すぴかは……?」


 自分の隣で眠りについていたはずのスピカがいない。手探りで辺りを触れる。スピカが寝ていた場所にはただ丁寧に畳まれた毛布だけが残っている。


 疲労がまだ残っているのだろう、意識を闇の中に引きずり込もうとする強烈眠気。それに必死で抗い、まだ靄の掛っている頭を回転させる。記憶を探る。

 確かにスピカは隣で寝ていたはずだ。おやすみなさいと、はにかみながら囁いたスピカの気弱そうな眼がはっきりと頭の中に残っている。


 特に異常はない。スピカがいない事以外には異常がない。


 半分寝ぼけていたが、徐々に冷静さが戻ってきた。頭を振るい、ぼんやりとした眠気を思考から追い出す。

 スピカはレベル10だ。アンデッドに対する苦手意識さえないとは言え、神聖術も使えないスピカでは歩く骸骨ウォーキング・ボーンを相手にする事も難しいだろう。


 馬車から出たのか? 部屋には結界が張ってある。部屋の外に出ない限り、アンデッドに襲われる心配はないはずだ。

 リミスやアリアを起こそうか迷い、起こすのをやめる。ただ、枕元にいつでも抜けるように置いておいた剣を手に取り、ゆっくりと身を起こす。


 一応外の様子だけ見ておこう。


 藤堂がそっと立ち上がろうとしたその瞬間――視界が真っ暗になった。


「ッ!?」


 心臓がどくんと強く鼓動する。反射的に叫ぼうとしたが、声が出ない。

 遅れて自分の視界いっぱいに広がったのが馬車の床である事に気づく。


 ――あれ? 立ち上がったはずなのになんで……?


 考えようとした瞬間に意識が暗闇に吸い込まれる。その力は、先程まで感じていた眠気を遥かに超えた強制力を持っていた。


「おやすみなさい、藤堂さん」


 小さな、しかしどこかで聞き覚えのある声。その声の正体を考える間もなく、藤堂の意識は完全に闇に飲まれていった。

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