第三十六レポート:黒き血の民を討伐せよ
樹の枝に添えられた手、長く伸びた爪がその表面をかりかりと引っ掻いている。
性別は男。年齢は十代前半か。血の気のないその容貌と相まって酷く華奢に見えるが、その身に宿した膨大な魔力が俺の目にははっきりと感じられた。
魔族の身体能力はただでさえ人間のそれよりも高い。
黒き血の民。異端殲滅官として、敵の情報、特性は頭の中に入っている。人に酷似した姿形とそれを超える高い知性を持つ闇の眷属。ずば抜けた身体能力、複数の強力な特殊能力を有し、夜闇に潜み人里に忍び人の血を吸い取るという特性から『
視線と視線がぶつかり合う。殺意を引き絞り視線に乗せるが、その身体は身じろぎ一つしない。
唇が僅かに開きかける。ちらりと見えた鋭く尖った犬歯。俺は即座に腰のベルトからナイフを抜き取り、それを放った。
延焼を気にしている余裕はなくなった。勇者の存在を知られる前に、藤堂にその脅威が届く前に今ここで殲滅せねばならない。絶対に逃がしてはならない。
投擲と同時に、全力で踏み込む。地面が大きく揺れ、枝の上の吸血鬼がぐらりと体勢を崩す。が、身体を逸らした状態でその腕を大きく振るった。
祝福された
踏み込みと同時に放ったメイスが樹の幹を大きく抉り取る。視界に入らなくても、闇の眷属の気配は手に取るようにわかった。樹の幹が倒れる、が、既にターゲットはその場から消えている。
『アレスさん!? アレスさん!?』
耳元では仕切りにアメリアからの声が聞こえるが答える余裕はない。短く息を吸い、腕を大きく振りかぶり振り向きざまにメイスを放つ。
音が、風の感触が、時が止まったかのようだった。全力を込めたそれが不自然に止まる。
「……ッ」
目の前、ほんの手の届きそうな所に、血のように赤い眼があった。
黒き血の民の特徴の一つであるそれが何の感情も浮かべずに至近距離からこちらを見ている。その右手は、俺の放ったメイスを空中で受け止めていた。まるで骨のように細い華奢な指先がメイスに生えた棘の間に添えられている。メイスを握る右手に更に力を込めるが、ピクリとも動かない。
若き吸血鬼が小さくため息を漏らす。その唇から、見た目相応の僅かに高い少年の声が漏れ出た。
「面倒な任務を貰ったと、思ったんだ」
そうか。奇遇だな。
左手でナイフを抜き、再度、投擲する。至近距離にも拘らず、音速に迫る速度が出ているにも拘らず、その鬼は容易くそのナイフを振り払った。弾かれたナイフが回転しながら茂みの中に落ちる。これで二本。
祝福された銀は闇の眷属に大きなダメージを与える金属だ。明確な脅威を向けられたにも拘らず、僅かも気を負う様子もなく、まるで日常会話でもするかのように吸血鬼が続ける。
「この僕が、
受け止められたメイスを引くが、掴まれているらしく、膂力は向こうの上らしく全く動かない。仕方なくメイスを離し、大きく後退する。
そんな俺の動作に、吸血鬼は目を丸くした。今気づいたとばかりにメイスに視線をやり、反対方向に投げ捨てた。
暗雲立ち込める空を窺う。この手の魔物は月齢によって大きく力を増減させる。
今日は――満月だ。この手の魔物と相対するには最悪の日。
「君は随分と……暴力的だね。もう少し理性的になりたまえ。どうせすぐに……思考出来なくなるのだから」
「随分とお喋りが好きなんだな」
戦闘中に会話を交わす余裕があるとは、羨ましい事だ。
『アレスさん!? 大丈夫ですか!?』
「問題ない」
こちらに向かって来そうな剣幕だったので一言で返す、問題があるとすればそれは、藤堂がここにのこのことやってくるタイミング、それだけだ。
返答したのがよかったのか、アメリアの声の勢いが弱まる。ただ、短く聞いてくる。
『助けはいりますか?』
「不要だ」
できれば藤堂たちの足止めを頼みたいが、もう無理だろう。
ベルトからナイフを抜き両手に構える。吸血鬼がつまらなさそうに言った。
生暖かい風が吹く。焼け崩れ落ちた深き森の奥。ちらちらとそこかしこで燻ぶる炎が唯一の光源。それはどこか終末を予感させる。
「既に実力差はわかったはずだ。君は人族にしては『やる方』だが……僕には勝てない。何故なら――」
言い終わるのを待たずに地面を蹴った。握ったナイフを斜め下からその顎めがけて大きく振り上げる。
その容貌が僅かに、しかし凶悪に歪む。髪の一房も掠れずにナイフが空を切る。だが、避けられる事も承知の上だ。そのまま連続でナイフを放つ。その刃の輝きの意味を理解しているのか、吸血鬼側はその全てを最小限の動作で後退して避けた。
――見切られてる。
「やれやれ、これだから人族はつまらない。人の話はちゃんと聞きなさいって習わなかったのかい?」
「お前は人間じゃない」
翻したナイフをそのまま振り下ろす寸前、吸血鬼がにぃっと笑みを浮かべたのが見えた。
腕が止まる。手首が握られていた。顔と同様に死人のような蒼白の肌。刃のように尖った爪が僅かな明かりに光っている。
悪寒が身体の中を駆け巡る。それに惑わされる事なく、躊躇いなく左手で新たなナイフを抜きそれを思い切り突きだした。
手首を押さえられているという事は後退出来ないという事。心臓を狙った突きに、吸血鬼の表情が歪む。
確かに突き出されたナイフは、しかし手応えを返して来なかった。
右手は受け止められたままだ。
「だから無駄だって言ってるのがわからないかなぁ」
呆れたように吸血鬼が言い放つ。
手首が、その体幹を突き抜けていた。ちょうど心臓の部分が黒い霧状に変化し、俺の腕を突き通している。
「君、まさかヴァンピールと戦った事がないの?」
呆れたようにソレが言う。それに構わず、腕を引きナイフを投擲する。吸血鬼が眼を丸くし、しかしそのナイフは再び霧と化した身体を突き抜けその背後の地面に虚しく突き刺さった。
不思議と、燻ぶる火種のぱちぱちとした音が耳に残っていた。聴覚を集中させる。風と火のなる音、その他に気配はない。
肉弾戦は不利だ。
吸血鬼が歪んだ笑みを浮かべる。腕を振り払おうとするが、掴まれていて全く動かない。舌打ちをして、恫喝するように尋ねる。
「ヴァンピール、名を名乗れ」
「くっくっく、あーっはっはっっは、今更、今更か……」
何がおかしいのか、吸血鬼が甲高い哄笑をあげた。
その身体を中心に、恐ろしい魔力が渦巻く。空気の温度が急激に下がる。それは、グレイシャル・プラントが纏った冷気に似て、しかしそれよりも遥かに強い。地面に一斉に霜が降り、周囲が音を立てて凍りつく。くすぶっていた火がそれに圧されるように消えた。延焼の心配はなくなったな。
握られた手が焼きごてを当てられているかのように冷たい。
哄笑が止む。リセットされたかのように、その眼は、感情はフラット。
「まぁ、良いだろう。僕の名はザルパン。ザルパン・ドラゴ・ファニ。偉大なる
ファニ……教会に所属する者ならば全員が全員、間違いなく聞いたことがあるであろう吸血鬼の最上位の個体のひとつだ。共感はできないが、それが本当ならばこいつの自信の一端もわかる。
爛々と輝く血色の眼光。その狂気、抑えきれない戦意を感じさせるそれに対して視線を外さずに口を開く。
「
吸血鬼――ザルパンの双眸が、俺の問いに訝しげに歪む。
「……ん? 何だい? 何で君にそんな事を言わなくちゃならないんだい?」
「……」
……さすがにそこまで馬鹿ではないか。
目的がわかれば今後の指針が立てやすくなる。そもそも、藤堂がここを訪れたタイミングで起こった森の変異……タイミングが良すぎるのだ。
沈黙する俺を、ザルパンはしばらくじっと見ていたが、やがて一つため息をつき、話し始めた。
「……やれやれ、まぁいいか。何も知らずに死ぬのも不本意だろう」
アメリア、こいつは……馬鹿だ。
手首がぎりぎりと強く握られる。感じる痛みを無視する。傷は神聖術でいくらでも治せる。
ザルパンはうめき声一つあげない俺をつまらなさそうに数秒眺め、ため息をついた。
「勇者、だよ。勇者。知ってる?」
「……」
こいつ……本気か?
気分は最悪だった。もうバレてる。ラッキーなのは、まだ藤堂たちと魔族が出会っていないという点だけだ。
黙ったまま続きの言葉を待つ。俺の心中も知らずにザルパンがぺらぺらと続ける。
「我らが王がその存在を察知してね……といっても精度は高くないらしいんだけど、念のため人間界の様子を確かめるために、次の幹部候補として期待されているこの僕が栄誉ある任に預かった、というわけさ」
「……」
「まぁ、君からしたらとばっちりみたいなもんだ。といっても、高貴な血を引くこの僕がこんな低ランクの魔物しか存在しない森に派遣されるってのも、とばっちりみたいなもんだから、お互い様だろう」
「……」
「僕に功績を立てさせるためとか言っていたけど、我らが王も何を考えているのやら……こんな弱い魔物しかいない所に伝説の聖勇者なんて来るわけがないじゃないか。一月も篭って引っかかったのは君みたいな人間だなんて」
「……」
「全く僕が誘導した魔物を討伐したのも君だろう? 僕程ではないが、君の戦闘能力もまぁ、そこそこ大したものだ。しかし、面倒な事をしてくれたね。竜はともかく、あいつをここまで連れてくるのに僕がどれだけ苦労したのかわかってるのかい? 万死に値するよ」
「……」
ザルパンが眉を潜めると、俺の眼を覗きこむように顔を近づける。
「急に黙ってしまってどうしたんだい? 僕もこんなど田舎に派遣されてしまって暇でね。あまり大っぴらに破壊するなとの命令も受けているし……少しは暇つぶしに付き合ってもらいたいんだけど」
アメリア、こいつは……馬鹿だ。
敵相手にべらべらと会話を交わすのは馬鹿の証だ。俺がこいつなら絶対にそんな真似をしたりしない。まぁ、こいつの認識では俺は敵でもなんでもないのかもしれないが。
「ああ、事情はわかった。最後に一つだけ、あんたの王ってのは魔王――クラノスの事か?」
「……は? 君は――」
俺の言葉に、その表情が、余裕が僅かにぶれる。表情が、眼の色が変わる。警戒の色。だがもう遅い。その反応で十分だ。
握りつぶさんとばかりに腕を握られたまま、今度は俺が口を開いた。
「ザルパン、あんたは強力なヴァンピールだ。ヴァンピール・ロードの血を引いているというのも頷ける」
「……何を――」
まぁしかし、俺の予想は超えていない。超えていたのはタイミングだけだ。できればグレゴリオが来てから始めて貰いたかったが、こうなってしまっては詮なきことだ。
「そして、あんたの王は慧眼だな。勇者が訪れる可能性の高いこの森に配下を派遣するなんて……しかし、当の派遣される本人であるあんたがその意識じゃまずい。任務は忠実にこなさないと、な」
「……何を言っている」
これはビジネスだ。油断などもっての他だ。
俺は油断しない。
掴まれていない左手で仮面をゆっくりと外す。俺の顔をしっかりと見せてやる。
唇を歪め、笑みを使って目の前の吸血鬼を見下した。
「俺の名はアレス・クラウン。あんたの王が探している勇者とは……この俺の事だよ」
同時に、森の中に白の光が溢れた。
馬鹿なヴァンピールでよかった。絶対に逃さない。
§§§
ザルパンの表情が驚愕に歪む。
視線がこちらから逸れる。それが向けられているのは、森を切り取るように張られた白色の光だ。
手首を握ったまま固まる吸血鬼に言ってやる。
「ヴァンピール。人族とは異なり、レベルの上がりにくい魔族たちに対して俺たちは『
ザルパンの視線が再びこちらに向けられる。殺意というよりは忘我の視線。その視線を真っ向から受け、続ける。
戦闘中には理由なく会話をしてはならない。速やかに標的を抹殺する事。結界は完璧に作用している。こうしている間も、徐々にその魔族の持つ強大な能力を低下させている。だから、俺は会話を続ける。
「有する能力は
俺の問いに、その眼と頬が僅かに動いたのを確認する。
評価を上げる。
こいつ、何か持っているな。ここでしっかり殺しておかないとまずい。尋問する余裕はない、か。
「最も厄介なのは戦闘能力じゃない。その機動性だ。霧に变化され逃亡されたら追いつくのは困難だ。だから俺たちは、街に入り込んだ吸血鬼を殺す際は事前に結界を張ってそれを封じる。今、張っているこの結界だよ。闇の眷属の――ヴァンピールの能力を制限する効果がある。張るのに準備がいるのが厄介だ。だから、いつ逃げられるか気が気じゃなかったよ」
ついでに、こいつは恐らく転移の魔法が使える。いきなり俺の感知領域内に現れたのはその力だろう。結界を張ればそれによる逃亡も防げる。
ザルパンの表情が変化する。忘我から憤怒へ。遭遇して始めて、その感情から余裕が消えた。
夜がざわめく。まるで泥のように濃密な殺意が森を覆い尽くす。だが、放たれていた冷気は既に消え去っていた。結界は有効に作用している。
「ザルパン、あんた見たところ才能はあるが戦闘経験がないだろう? 戦闘経験の豊富なヴァンピールはメイスを武器にする相手に対して油断しない。会話したりもしない。覚えておくといい。逃がすつもりはないから、二度と使う機会はないと思うが」
「ッ!?」
ザルパンが思い出したかのように掴んでいた右手を離す。そのまま、その爪が自らの左手の平を撫でた。人の物とは異なる、漆黒の血が手の平から垂れる。が、それだけだ。
『
自らの血液にのみ強力に作用する
「力を制限する効果があると言っただろ?」
尤も、結界を張った直後だったらもう少し使えただろう。結界の効力は外に出さない事がメインであり、力の制限は副次的効果である。その事は言わない。話してしまえば、万が一逃がした時、次の戦闘時に苦労する事になる。
なるべく時間を稼ぎたい。仮面を再度被る。脳内ではアメリアからの報告が流れている。藤堂たちが後数十秒でこちらについてしまう、と。十分だ。
無言。ザルパンの身体が音を立てて膨れ上がる。細腕が膨張し、その眼が暗い光を放つ。身体能力の高さと格闘センスは生来のものだろう。吸血鬼の中には特殊能力だけで戦う者もいるが、こいつは違う。
握られていた手の平をひらひらと振りながら、補助を上書きする。せっかく掛けてくれたアメリアには悪いが、俺の補助の方が強力だ。神力の消費も問題ない。
「『
ザルパンの姿が消える。踏み込みで大地にクレーターが発生、だが強化された感覚はその動きを完全にとらえていた。背後から振り下ろされたその腕を右手で受け止める。爪の先がこちらの喉元を狙っている。全身を通り抜ける衝撃に大地がひび割れる。先ほどの光景の焼き直し。
しかし、振り下ろされた腕は完全に停止していた。
獣のように黒き血の民が荒い息を漏らす。その動きが一瞬止まる。受け止められた事が不思議か?
幸いなのは、敵が本当に闇の眷属であった事。こいつらには
さぁ――神の裁きを受けるがいい。
「
眼球を突き刺す眩い光。
俺の前方から放たれた神聖な力を持った光の波が、その痩身を大きく弾き飛ばした。
§§§
神の裁き、放たれた光により吹き飛ばされた痩身が、目に見えない結界の壁に当たり地面に落ちる。
不可思議な手応え。しかし、それもまた予想のついていた事だ。俺には経験がある。魔族共を相手に長く戦った経験が。
本来ならば一撃で闇の眷属を浄化し殲滅せしめる裁きの光。ぷすぷすと黒い煙を上げながらも、ザルパンの身体は形を保ちすぎている。
舌打ちしたい気持ちを押さえ、地面に倒れるザルパンに迫る。メイスは結界の媒体としているが、ないならないでやりようがある。
「『
手の平に不確かな感触が発生する。光の剣。闇の眷属にのみ効果を及ぼす裁きの剣だ。
薄ぼんやりと輝くそれが倒れる吸血鬼の弱点、その心臓に向かって突き出されそして――掻き消えた。
ザルパンの身体が弾かれたように跳ね上がる。振り上げられた爪の一撃、それを一歩後じさり回避する。
光の剣を阻んだのは一種の結界である。魔族の中でも一握りの者しか持たない強力な加護結界。魔王やそれの加護を持つ高位の魔族が勇者を始めとした加護持ちにしか倒せないとされる最大の原因。
秩序神と相反した邪神。ダメージの殆どを無効化する力。
『ルシフ・アレプト』の加護。一瞬で張れる結界ではその強力極まりない神の結界を削ぐ事は出来ない。
ザルパンが四肢を使い着地すると、ゆらりと立ち上がる。その黒衣は解れ、身体には細かい傷こそあるものの、致命傷となる傷は存在しない。加護を持っていなければ三度殺せる程のダメージだったはずだ。
下を向いていたその顔が上がる。表情に浮かんでいたのは殺意でも憤怒でもない、歪んだ歓喜。攻撃の直前に浮かんでいた恐怖は消え去っている。
「あは……あはははははは……驚いた、驚いたよ……まさか、この僕が……『勇者』と戦えるなんて」
邪神の加護。厄介極まりない。まさかこの程度の魔族が邪神からの加護を持っているとは……。
逃せば大きな脅威になる。雑魚の内に殲滅しなくては。
自らの結界が破られない事に気を良くしたのか、ザルパンには余裕が戻っていた。
「しかも、何てラッキーだ。君……まだ加護を持っていないね」
「ああ、お前はとてもアンラッキーだ」
「……え?」
注意が緩んだその瞬間に懐に踏み込む。一級の補助魔法を掛けた俺の身体能力は魔族のそれに迫る。
がら空きだった鳩尾を、右拳が貫く。拳から伝わる衝撃。インパクトの瞬間に再び祈りを捧げた。
「
「ッ!?」
拳から再び光が放たれる。広範囲に対してではなく収束して。
ばちばちという何かが弾ける音と共に、ザルパンが吹き飛ばされた。地面を大きく削り、俺の張った結界に当ってようやく消える。咳き込むような音を聞きながら、宣告する。
「加護を持ってなければ一瞬で楽に出来たものを……ルシフの結界があるんじゃ、殺すまでに時間がかかるな」
場所を変えたいところだが結界の移動は不可能だ。結界が崩され解放された瞬間に逃げられるだろう。
仮面をしっかりと被る。銀髪は隠せないが、銀髪の人間は少なくない。
ブーツのつま先で地面をぐりぐりと踏みにじり、手を払う。立ち上がるまで待つ。肉体を折るよりも心を折った方が早い。
ザルパンがよろよろと立ち上がる。吸血鬼には高い再生能力があるが、この結界の内部ではそれも無意味だ。ダメージの殆どが軽減されているとはいえ、痛みはあるはずだがその眼にはまだ力があった。
ベルトに差していた杭のように細長いナイフを抜く。投擲用のナイフと同じく祝福された銀製の
藤堂たちが間違えても結界内部に入ってこないようにだけ注意しなくては。
「結界を解け、ザルパン。楽に殺してやる」
「くだらない冗談だ。確かに強い、が、君は人間で僕はヴァンピールだ。力は僕の方が高い」
「それは一般論だ」
ダガーを無造作に真横に閃かせる。隣に立っていた樹の半ばに銀の線が奔り、そのままずれた。
轟音。一瞬乱れた注意、倒れると同時に突進を駆ける。握った短刀に破邪の光を灯す。
血が全身を熱く駆け巡る。世界が鮮明に見える。
こちらに気づいたザルパンが腕を振り下ろす。目前でスピードを落とし、それを回避、身体を守るかのように構えられた腕の隙間からダガーを突き入れた。ばちばちと反発する音。貫けない。皮一枚で止まってる。結界は硬い。反発で崩れたその身体、脚を払う。
ダガーの握りを変える。片手から両手へ、地面に倒れこんだその身体、心臓目掛けて、全身の重力をかけて両手で握ったダガーを突き降ろす。反発しようにも後ろは地面だ。激しい雷光に似た光が瞬き、その刃が僅かに肉に食い込んだその瞬間に力を行使する。
媒体はダガー。その刃の先、肉に僅かに食い込んだその先端から。
「
「ッ――」
しっかり踏ん張っていたはずだが、衝撃で身体が僅かに浮き上がる。光が夜闇を焼いたその瞬間、その表情に苦痛の色が浮かんだのを確かに見た。ダメージはある。再生は許していない。
一瞬痙攣したように震えたその細腕が弾丸のような勢いで伸びる。その場から後退する。爪の先が僅かに頬にかすった。熱と一瞬遅れて痛みが頬を奔る。
鮮血の玉が宙に舞い、しかしそれが落ちるその前に体勢を戻す。思い切り足でその腹を踏みつけた。反発と同時に鈍い呻き声を上げる。衝撃を逃せなければそれなりにダメージは通る。
人差し指で頬の血を拭い、こちらを能面のような眼で見ているソレに向かって宣告した。
「死ぬまで相手をしてやる」
上から見下されているにも拘らず、ザルパンは唇を大きく釣り上げ、壮絶な笑みを浮かべる。
「く……ふっ……君……の、体力が尽きるのが、先だ……」
「俺はヒーラーだ」
「……は?」
人差し指を傷口に当て、祈りを捧げる。淡い薄緑の発光。一秒待たずに与えられた傷は消え去っている。
その光景に、ザルパンの眼の色が変わる。動揺。戦慄したような声を吐き出す。
「馬鹿な……化物――」
「それはお前だ。
精彩を欠いている。後少しだ。その双眸を見下す。腕がびくりと動く
複数の気配が近づいてくる。藤堂たちの気配。迷っている時間はない。
ダガーを下手に持ち替えると、その切っ先を眼球目掛けて振り下ろした。
押し殺された悲鳴があがる。ヴァンピールの痛みへの耐性は強いが、それは偏に本来持っている強い再生能力故だ。始めて強い痛みを継続して受けるというストレスはその動きを鈍らせる。
痛みに対する凄まじい抵抗に、ザルパンの上から跳び去る。精彩を欠いていてもその攻撃力は脅威だ。ダガーを突き立てた右目――眼球の表面しか削れていないはずだが、それを押さえザルパンが野獣のように咆哮する。咆哮が衝撃となり周囲一帯に奔る。滲んだ恐怖、憤怒。機能が制限されて効果を発揮できないその身に秘める魔力が暴走し、風に、衝撃になる。
右目を抑えたまま、ザルパンが地面を踏み抜いた。技術も何もない力による突進――しかし、速度のみ桁外れのそれを横にずれ、振り下ろされた腕にダガーの切っ先を当てる。力も耐久も
その頭を全力で蹴り飛ばす。反発も関係ない。ダメージは少しずつ、だが確実に蓄積されている。踏みつける。蹴りつける。殺す。殺さねばならない。確実に。
『アレスさん』
「来る必要はない。問題ない。そこで……待機していろ」
しかし、いつも思うのだが硬い。硬すぎる。中位魔族が加護を受けただけでこの様だ。魔王は、クラノスは果たしてどれだけ強いのか。
倒れたザルパンがそのまま地べたを這いずり、自身が投げ捨てた俺のメイスの所にたどり着いた。
結界の要だ。よく見れば気づくだろう。その地点を起点としてこの結界が張られている事を。
腕を組み、黙ったままそれを見送る。
「これが……これがなければ……」
まるでうわ言のように呟くと、ザルパンがそれに触れた。爪の先が触れた瞬間、その身体が大きくはじけ飛ぶ。
闇の眷属が起動中の結界の媒体に触れられるわけがない。結界の炎に焼かれ、苦しげに呻くザルパンの側に近づきしゃがみ込む。
この程度のダメージ、苦痛で動けなくなるとは何という惰弱。
「手は尽くしたか? 吸血鬼」
「まだだ。まだ負けてない。まだだ。まだまだまだまだ――力が、力が戻れば――」
こちらを見ているのか見ていないのか。呟き続けるその眼はとても正気には見えない。加護結界を解かないのならば、死ぬまで殺すだけだ。
その髪を掴みあげ、ぶん回す。遠心力をつけ、それを地面に叩きつける。地面が揺れ、大きく凹む。衝撃と苦痛に眼が見開かれる、口でも切ったのかその唇の端から一筋の血が流れ落ちた。
咥内で『裁き光』を食らわせれば多少は大きなダメージを与えられるだろうか。その口を無理やり開かせ、ダガーを入れようとした所で――気配が辿り着いた。
「これ……は……」
ハスキーボイス。ヴァンピールのソレとは違う艷やかな黒髪に、凛々しい、しかし少し幼気な印象のある整った容貌。
実際に目の前にするのは数日ぶり、か。伏すヴァンピールの腹に一度蹴りを入れ、立ち上がる。仮面が外れていないか再度確認する。
燃え尽き、折れた樹々。そこには、どこか懐かしい勇者一行の姿があった。まだ何も知らない、まだレベルの低い勇者一行の姿が。
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