幕間その2
強制イベント
身体の芯から凍えるような殺意だった。
それは確かに濁流のように全身を飲み込み、確かに一瞬、藤堂直継の心身全てを停止させた。
厳格だった父親から怒鳴りつけられた際にも、ルークス王国の騎士団長と訓練場で初めて相対したその時にも、そして、ヴェールの森で初めて魔物と遭遇した時にすら感じなかった桁外れの『恐怖』。
殺意が人を縛りうるという情報は持っていた。実際に、王宮で一度受けた経験すらあった。
だが、その瞬間に藤堂を貫いた衝撃はそんなものがまるで児戯に感じられる程の代物だった。
その瞬間、僅か一瞬ではあったが、その瞬間確かに勇者である藤堂の脚はくじけたのだ。いや、その場に仲間がいなければ、恐らく藤堂が立ち上がるのに更なる時間を要しただろう。
ルークス村の村長から討伐の依頼を受けたグレイシャル・プラントは強力な魔物だった。実際に目で見たからこそ、理解している。
藤堂は勇者だ。しかし、ただ勇猛なだけではない。まだ戦いを初めて日が浅いので慣れていないが、何となく彼我の力の差を見極める事くらいできる。
グレイシャル・プラントは傷だらけの状態ですら、藤堂が勝てるかどうか怪しい、そういうレベルの魔物だった。だが、それ以上にその存在が伏せているというのは衝撃だった。
傷跡から見える圧倒的な暴虐。まるで甚振るかのように、翼をもがれ脚を潰され喉を穿たれ、槍で身体を串刺しにされた姿は、アリアの推測が完全に正しいと考えているわけではないが、『化物』の存在を思わせた。
突如森を揺るがせた咆哮。
どこか人の声に似た化物の咆哮は酷く悍ましく、それが魔族の声だと言われても納得出来る。
――戦ってはならない。
――戦わなくてはならない。
人としての本能と勇者としての義務。感情と理性。
だが、全てが終わり冷静になった今ならばわかる。
もし仮に藤堂があの時、咆哮の主と戦闘する事になったとするのならば――奇跡でも起こらない限り敗北していただろう。
だが、同時に思うのだ。
果たして理性でそれを知ってしまった今、再びあの咆哮の主と相対したその時、自分は果たして――その勇気を奮えるのか、と。
レベルを上げればいい、と、藤堂よりもよほどこの世界の戦に詳しいアリアは言う。
今はまだ引きどきです、と、藤堂の倍程のレベルを持つ
だが、ならば何時、何レベルになったら戦えるのか?
いくつレベルを上げればあの『敵』と対等に戦えるのか?
その疑問に答えてくれる者はいない。
§§§
「……ああ、承知しました。ありがとうございます、勇者様」
「あ……ああ……」
藤堂直継の報告に、ヴェール村の村長はどこか疲れの滲んだ表情で頭を下げた。
村長の依頼はグレイシャル・プラントの討伐である。人化というアクシデントがあったとは言え、その目的は達成できていない。
文句の一つや二つ来る予想していた藤堂はそのあまりにもあっけない返答に思わず目を丸くして村長の方を見る。
側では、買ったばかりのワンピースを着たグレシャが緊張した様子で周囲を眺めていた。
人化した証拠……グレシャを見せた。疑われると思ったが、ツッコミ一つこない。
これが聖勇者の威光、信頼なのか……?
隣についていたアリアとリミスと一瞬視線を交わし、もう一度村長に尋ねる。
「……あの、討伐はできていないんだけど、問題ありませんか?」
藤堂の問いに、村長の眉がぴくりと動く。まるで監視している誰かを探すかのようにきょろきょろと視線を彷徨わせると、どこか昏い笑顔を藤堂に向けた。
「……ええ。もう村に影響はないのでしょう。ならば、村長の立場から言うべき事はありません」
「……ちょっと村長さん、大丈夫? ……顔色悪いけど」
リミスが心配そうな表情で、自身の祖父程の歳の村長を見上げる。まだ前回会ってから一日程しか経っていないが、そのたった一日で村長はめっきり老けこんだように見えた。
髪には白髪が増え、肌にも張りがない。老年ではあっても精強そうに見えたその容貌はたった一日で十も歳を取ったかのように見える。
「え……ええ。大丈夫です。ただ、少々……そう、疲れているかもしれません。……はぁ」
「……それは、僕が傭兵を切り捨ててしまった件について、ですか?」
藤堂がやや眉を歪め、尋ねる。事故とは言え、傭兵たちを斬ってしまったのはまずかったと思っていた。
報告した際の呆気に取られたような表情は今も覚えている。
もしもその対応で心を痛めてしまったのならば、藤堂としては謝罪するしかない。
そんな藤堂の言葉に、村長が首と手を大きく左右に振る。
「いえいえいえ、と、とんでもありません! 勇者殿は関係ない、これは……私の問題です」
「……なら、いいですけど……」
以前会った時とは明らかに違う挙動に、藤堂が僅かに首を傾げた。
まるで萎縮しているかのような態度、村長はもっと自信ありげな人間だったはずだ。歳こそとっていたが、聖勇者相手に全く動じない老獪さがあった。それが今はどうだ。まるで蛇に睨まれた蛙のように態度が小さい。
疑問に思いながらも、藤堂は頬を掻いた。深い黒の虹彩がじっと真実でも見抜くかのように村長の矮躯に注がれる。
その視線からまるで逃げようとしているかのように、村長が高い声を出す。
「そ、そういえば勇者殿。次はどこの街に行かれるので?」
「……いや、まだ決めていませんが……」
そもそも、色々ごたごたしていて三日前からレベルが上がっていない。
藤堂自身は想定レベルまで後少しだが、アリアはともかくとして、リミスのレベルを上げるにはまだまだ時間が必要だった。
いきなり話を変えた村長に不審げな視線を向けながらも、
「しばらくはヴェールの森でレベルをあげようかと……」
「……実は藤堂さん」
藤堂の言葉に、一瞬何か思いつめるかのように目を瞑り、村長が口を開く。
「ヴェールの森はしばらく閉鎖される予定でして」
「へ……閉鎖!?」
目を丸くする藤堂一行に、村長がバツが悪そうに続けた。
「いえ。実は、藤堂さんも報告にあがりましたが、森に危険な魔物がいるという事で……その討伐が行われるまで危険なので立ち入りを禁止する事となりまして……」
「危険なので立ち入り禁止? そんな話、聞いたことないが……」
アリアが訝しげな目つきで首をかしげる。
もともと、森は魔物の巣窟、そこに立ち入るのは自己責任だ。危険な魔物が発生し、その討伐のために騎士団の派遣がなされるという事はあっても、一切の立ち入りまで禁止するというのは尋常ではない。
村長は眉一つ動かさずにアリアに視線を向ける。
「魔物の危険性を考え、今回は特別措置を取ることになりました。最近魔物の動きも活発ですからね」
「……確かに、今まで見たことのない魔物だったけど……」
唯一、咆哮で腰まで抜かしてしまったリミスがその光景を思い出し、肩を掻き抱き震わせる。
藤堂がその村長の言葉を吟味し、眉を顰めた。
「……しかし、今報告したばかりなのに立ち入り禁止……?」
「……いえ。事前に別の筋からその件については報告を頂いておりまして……この決定は勇者殿からの報告によるものではありません」
「……別の筋?」
「ええ……ここでは言えませんが、さる筋です」
きっぱりとした断言。これ以上何も言わないと言わんばかりにへの字に閉じられた唇。
村長の目つきに、藤堂は問いただすのを諦めた。疑問点はいくつもあるが、そう言われてしまえば何も言えない。
一瞬、ならば僕が――と言いかけたが、あの咆哮を思い出し口を噤んだ。今朝敵わないと実感した相手に自ら挑むなど自殺行為。準備や覚悟の一つや二つで敵わない事は、はっきりとわかっていた。
心配そうな表情で藤堂を見ていたアリアがその様子にほっと胸をなでおろす。
「……しかし、困ったな。僕たちには時間がないんだが……その討伐にはいつまでかかるのか分かりますか?」
「ハンターが来てくれるのに二、三日かかると聞いております。最低でも一週間は見たほうがよろしいかと」
「一週間……か……」
当初決めた一ヶ月という期限は既に目の前に迫っていた。
一週間もただ黙って待っているわけにはいかない。目標レベルは30。現在、レベル27の藤堂はともかくとして、リミスのレベルが低すぎる。
迷う藤堂に、村長がまるでその迷いを断ち切るかのようにぱんぱんと手を打った。
「勇者殿に時間がないのは存じております。勇者殿は次のレベル上げの場に向かうのがよろしいかと」
「次のレベル上げの……場?」
「ええ」
机の引き出しから、村長が一枚の色あせた地図を取り出す。
ルークス王国の領内の地図だ。何やらそこかしこに無数の書き込みがなされている。
「現在地がここです」
村長は、地図の右端に大きく広がっている森林部に人差し指を当て、その指を左上にずらしていった。
指は王都の東方に大きく広がるヴェール草原を超え、荒野を超え、高低差の激しい山岳地帯の一歩手前で止まる。
「『GolemValley』」
書き込まれた文字を、リミスが目を丸くして呟く。
村長が大きく頷き、すらすらと説明を始めた。
「ええ。ゴーレム・バレー。存在力の高い
「ちょっと待て……」
アリアが説明に割って入る。
剣士として、武家の一門として高い教育を受けたアリアには国内のレベル上げの場についても最低限の知識を持っていた。
村長の方をじっと睨みつけ、アリアが険しい口ぶりで反論する。
「ゴーレム・バレーの適正レベルは確か40以上だったはずです。私達の平均レベルは未だ30にも達していません」
藤堂が27、アリアが25、リミスが17。皆が皆、一回り以上適性レベルを下回っている。
推奨レベルは適当に設定されているわけではない。ましてやアリアたちの人数はグレシャを合わせても四人、一パーティに満たない上に、ヒーラーがいない。
アリアがじっと地図を見下ろし、人差し指を這わせる。
「レベルを上げるならばもう少し適性が下……そう、ええと……ヴェールの森と同程度の適正レベルである、『大墳墓』あたりがよいかと」
アリアの指の先を、藤堂の視線が追った。指は遥か下方で止まった。
ユーティス大墳墓。
数世紀前の貴族が葬られているなど、様々な曰くのある地下墳墓で、長い年月で淀み溜まった瘴気が溢れ死と生の境が定かではなくなり、今や大量の魔物が徘徊する地下層型の巨大な迷宮とも呼べる地だ。最奥にはアンデッドの王が居るとされているが、浅い層に関して言えば、低レベルのハンターでも手順次第で容易く倒せる
だが、アリアの意見に対して、村長がまくし立てるように反対意見を述べる。
「プリーストなしで大墳墓に入ろうなど、死にに行くようなものです。あの地は
村長の言葉にアリアが目を丸くし、その髭面をじっと見た。
「……村長、何故そんなに私達の事に詳しいのだ?」
「……い、いえ。ただの予想、予想です。私が勇者殿の事に詳しいなど、恐れ多い」
目をそらし、村長がゴーレム・バレーに置いた指を叩く。
「それと比較し、ゴレーム・バレーに住む魔導人形は非常に戦いやすい。絡め手を持つ種も少なく、一体一体で得られる存在力も多い。攻撃力は高く防御力も高いですが動きが遅く、
「よし、そこにしましょう!」
魔術を思う存分使えると知り、今まで黙ってみていたリミスが大きく頷いた。
その意気に触発されたように、袖から火精であるガーネットが出てくるとその腕をするすると登り、肩の上でぺたんと伏せる。
リーダーである藤堂は首を傾げ、アリアと村長の方を交互に見た。
「……僕としてはどちらでもいいけど……」
どちらに信頼が置けるかというと間違いなくアリアである。というか、村長の言葉は明らかにおかしい。話してはいないはずなのに、こちらが何が出来て何が出来ないのか把握しているように見える。
疑いの視線を向ける藤堂に、村長が引きつった表情でだらだらと冷や汗を流す。
ふとその時、今の今まで黙ったままじっとしていたグレシャが声を上げた。
「ごーれむ・ばれー!」
「……へ?」
放っておくわけにもいかず連れてきたグレシャの初めての声。
藤堂が慌てて周囲を確認し、自分の隣でさっきからむすっとしたように黙っていた元竜に視線を向けた。
その視線を気にする事もなく、グレシャがまだ慣れていないような舌っ足らずの声でもう一度言った。
「ごーれむ・ばれー、いく!」
「……何を言ってるんだ? というか、君、喋れたのか!?」
藤堂の混乱を他所に、グレシャがまるで壊れた絡繰人形のように繰り返した。
「ごーれむ・ばれー! ごーれむ・ばれー!」
リミスもあまりに意外で唐突な援軍に戸惑っていたが、すぐに気を取り直したように瞬きする。
リミスはあまり深く考えるのが得意ではなかった。
「ほ、ほら。グレシャも言ってるじゃない! ゴーレム・バレー! ゴーレム・バレー!」
一緒になって復唱し始めるリミスに、アリアが呆れた視線を向ける。
「いや、どう考えても怪し――」
「……どうやら、決まったようですな」
「!?」
アリアの言葉を遮るように村長が口を挟んだ。
まるで一刻も早く話を終わらせようとしているかのように、早口で藤堂に告げる。
「勇者殿、向かうのならば早い方がいいでしょう。近日中に、悪魔討伐のため村の出入りを制限する予定です」
「え……そんな急に!?」
「ごーれむ・ばれー! ごーれむ・ばれー!」
「ゴーレム・バレー! ゴーレム・バレー!」
「何なんだ、これは一体……」
まるでそれが自分の使命だと言わんばかりに単語を叫び続けるグレシャに、アリアがふるふると唇を戦慄かせる。
理解できない。もう何がなんだかわからない。予想外の事態にアリアと藤堂が混乱している間に話がどんどん進められていく。
村長が机の影から、大きな袋を三つ取り出し、藤堂の足元に置いた。
「携帯食料やポーションなどの消耗品、予備の弾丸などは一通り揃えておきました」
「……え!?」
「この地図も差し上げましょう。勇者殿のために用意したものです、遠慮なさらずに」
地図を突き出され、有無をいわさず押し付けられる。
「い、いや、僕たちはまだどうするか決めてな――」
「さー、お急ぎください、勇者殿。時間は有限です。お世話になりました。非常に名残惜しいですが旅に別れはつきもの。また魔王討伐後は是非ヴェール村にいらっしゃって下さい。その際は盛大に歓迎させていただきます」
「え、ちょ――」
あれよあれよという間に袋を持たされ、疑問を呈する前にさっさと部屋を追い出される。
その剣幕には勇者と言えど邪魔できない何かがあった。
屋敷の外まで追いやられると、最後に村長が眉を釣り上げ、ただ一言、まるで声を潜めるように藤堂に言った。
「勇者どの、プリーストは選んだ方がよろしいかと」
「へ……? あ、は、はぁ?」
意味がわからない。
必死に思考を巡らせる藤堂の目の前で、玄関の扉が閉まる。
残ったのは本当に壊れたように続けるグレシャの声だけだった
「ごーれむ・ばれー! ごーれむ・ばれー!」
「これは一体……」
「い、いや、僕が聞きたいんだけど……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます