第三十レポート:厄介事は次から次へと降って来るし
フードを深く被り、万一の際は逃げ出せるように準備を整えて宿の裏で待機する。
幸いな事に、宿の裏手は人通りが殆どない。そうでなければ、晴天にもかかわらず顔を隠すような格好をしている俺は注目の的だっただろう。
『アリアさんと藤堂さんが出ました』
「了解」
先ほどの思わせぶりな発言もどことやら、事務的なアメリアの報告に短く返す。
潜入捜査には慣れていた。レベルが高いというのは存在力が高いという事。存在力が高いと言うのはこの世界で出来る事が他者よりも多いという事を指す。レベルの高さが絶対的な指標になっている、それが一つの理由だ。
息を顰め精神を集中すればあらゆるものが感じられた。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚。
目を瞑り息を潜めれば、壁を何枚隔てても藤堂とアリアの気配が感じられる。鼻を動かせば、アメリアのつけている微かな香水の匂いが判別できる。俺は足音を顰め、アメリアの居る部屋の下についた。
上を見上げれば開け放たれた小さな窓が見える。宿は三階建てで、藤堂たちが取っている部屋も三階だ。二階の部屋の窓は閉まっており、人の目はない。窓の大きさも、多少の余裕を持って入れる程度の大きさはあるだろう。
出っ張りもない殆ど平坦な壁に手の平で触れた。建物の影になっていて太陽光が当たらない、ひんやりとした感触。爪でかりかりと表面をひっかく。
平坦だが、壁を登る程度容易い事だ。大切なのは出来ると信じる事。
『アレスさん』
「ッ!!」
アメリアの合図と同時に、短く息を吸うと俺は地面を強く蹴った。
爪を立て、それをとっかかりに壁を登る。僅か数秒で十メートルを登り切り窓までたどり着くと、縁に指を引っ掛け中を伺った。
リミスの気配に竜娘の気配。大きな動きはない。
右手で身体を支えたまま左手でポケットからナイフを取り出し、口に咥えて鞘から抜く。接触した対象を昏倒させる魔導具だ。存在力の高い闇の眷属には効きづらいがレベル20以下のリミスならば抗う術はない。
目撃されるのは避けたい。気配を消したまま、俺は部屋の中に飛び込んだ。
室内の配置は既に把握していた。部屋番号は俺の泊まっていた部屋とは異なるが、配置には殆ど差異はない。
二つのベッド。サイドテーブル。間接照明。クローゼット。コート掛け。金庫。茶色のソファに。四脚の椅子に大きなテーブル。
思わず息を短く吐く。ナイフを片手に、俺はゆっくりと室内を見渡した。
ソファには黒の外套に包まれた竜娘が身動ぎ一つせずに横たわっている。テーブルには同じようにリミスが身体を預け倒れていた。一見、外傷はないが、だらんと垂れ下がった腕はまるで死体のようだった。足元には革表紙の本が落ちている。
これは一体どういう事か。
アメリアだけが背筋をピンと伸ばしたまま、入り口の扉の方に視線を向けていた。気配を殺すのをやめ、強く足音を立てる。
アメリアの肩がびくりと震え、弾かれたように振り返る。その機敏な動作が少し面白かった。
リミスに近寄る。緩やかな呼気の音。死んではいない、眠っているだけだ。竜娘の方も同様。
アメリアに尋ねる。
「何がどうした?」
「ど……どんな所から入ってきてるんですか……」
一瞬目を大きく見開き俺を見ると、アメリアが呆れたように呟く。
「……扉から入るなんて言ってないだろ」
「窓から入るとも聞いていませんが……」
玄関から入るとなると、扉を開け閉めするアクションが必要とされる。さすがにリミスに気づかれずにそれを行うのは面倒臭い。
尤も、心配は無用だったようだが……。
室内をもう一度見回し、もう一度アメリアに尋ねた。
「これはどういう事だ?」
「眠らせました。気づかれてはいません」
「どうやって?」
「魔法です」
魔法、魔法、か。
リミスとグレシャに視線を向ける。触れなくてもわかる。深い眠りだ。
答え自体は簡潔だが、言うほど易い事ではないはずだ。竜種も魔導師も高い魔術への耐性を持つ。その二人を一瞬で二人眠らせるなど、並の魔導師の技ではない。魔術にそれほど明るくない俺にもそれくらいわかる。
正直に言って、それは彼女に期待していた技能をはるかに上回っていた。エリートにも程がある。これほどの技能があるのならばどこでも重用される事だろう。プリーストとしてでも
眉を顰め、アメリアの方を見る。
「聞いていないぞ」
「聞かれてませんから。私だって聞いてません」
「そうか。悪かったな」
確かにそれほどの技能を持っているのならば、下に見られるのが我慢ならないのもわかる。もしかしたら、俺には勿体無い人材なのかもしれない。
謝罪に、アメリアがどこかバツが悪そうに視線を逸らす。
「……いえ。ですが……これからどうするつもりですか?」
リミスもグレシャも深い眠りについている。寝息で僅かのその身体が上下しているのが見えた。
藤堂たちが帰ってくるまで何分かかる? 十分という事はないだろう。二十分? それとも三十分か?
……十分だ。
グレシャの方に近づく。亜竜の感覚は鋭敏なはずだが、敵意を持つ俺が近づいても起きる気配はない。眠りが相当に深化しているのだろう。
「尋問する。リミスが起きる心配はないか?」
「ええ。相当に大きな声を上げないかぎり起きる心配はないと思いますが……尋問? 交渉ではなく?」
魔物に交渉? 尋問の経験はあっても交渉の経験はそれ程ない。大体、交渉するには時間が足りていない。
尋問中に勇者パーティの誰かに見つかる事だけは避けたい所だ。
グレシャを見下ろす。
艶のある深緑の髪に、ぶかぶかの外套の隙間から垣間見える眩しい程の白い肌。閉じられた瞼にあどけない寝顔。あの変化の瞬間を見ていなかったら魔物だなどと思えない。
だが、同時にわかった。こいつは亜竜だ。至近距離で感じるその存在力。確かに竜の身体だった頃と比べたら弱っているが、その痩身から感じる力は今の藤堂などとは比べ物にならない。
――危険だ。
左手で抱え込むように畳まれていた腕を掴み釣り上げる。軽い。重量はない。肉体強度はどれ程のものか。
被せられていた外套を剥ぎ取り、床に落とす。眩いばかりの裸身に膨らみかけの胸。今この光景を見られたら俺は言い訳出来ないだろう。
アメリアが制止の声を上げる。
「ちょ……アレスさん?」
「起きろ」
俺はそれを無視して、グレシャの頬を軽く叩いた。
さすがに外的刺激を受ければ眠りも覚めるのか、僅かに身じろぎし、グレシャがゆっくりと瞼を開けた。
視線が宙空をさまよい、最後に俺の顔を見上げる。表情が引きつる。薄い朱の唇が開く。喉が動く。吸い込んだ息で胸が僅かに膨らむ。俺はすかさず、右の拳を握り腹に叩き込んだ。
「――ッが!?」
「なッ――」
極短い悲鳴。
吊るしていた腕がみちみちと音を立て、グレシャの腹がくの字に曲がる。目が大きく見開かれ、苦痛に表情が歪む。吐瀉された生暖かい唾液が右手を濡らす。
手に残った感触を分析する。柔らかいが硬い。並の人間なら今ので腕が引き千切れ腹が破裂していたはずだ。やはり存在力相応の力はあると言えよう。
まぁ、どちらにせよ……竜だった頃も少女の姿を取った今も、俺からみればサンドバッグには変わりない。
咳き込むグレシャの咥内に無理やり指を入れ、舌を掴む。元が氷樹小竜であるせいか咥内は人と異なりひんやりとしていた。
必死に嗚咽しようとするグレシャの耳元で声を落とし囁く。
「騒いだら殺す。敵対行為を取っても殺す。俺の問いに答えなくても殺す。忘れるな、俺のレベルならばお前が叫ぶよりもよほど早くお前を殺せる」
拳だったから貫けなかったが、手刀ならば間違いなく腹部を貫けていたはずだ。
慈愛神の加護? 藤堂の意志? 知らない。そんなのは知らない。騒ぐならば処分もまた――やむなし。
嗚咽する事すら出来ず、グレシャがその代わりとばかりにケレンするように身動ぎする。
その目に宿る恐怖をじっと観察する。指は舌を掴んだままだ。必死に舌を逃がそうとするが強く掴んでいるので無意味だ。
「アレス、さん……やり過ぎ、では?」
「問題ない。傷は神聖術で治せる」
顔が腫れ上がるほどにぶん殴ろうが腕の一本や二本引きちぎろうが全て元通りだ。
「そ、そういう意味では――」
誤解してはいけない。こいつは人の姿を取っていても魔物なのだ。
ただ、無言でグレシャの眼を覗き込む。髪色と同色の深い緑の虹彩、その奥を。
恐怖が浸透した所で、舌を一瞬離し、舌が動いたのを見計らってもう一度掴み軽く引っ張る。グレシャの身体がびくりと痙攣した所で、俺は咥内からゆっくりと手を引いた。
ゾットするほどの冷たさが脳内を満たしている。
頭の中は透き通っていた。この状態ならば十全のポテンシャルを出せる。例え何が起ころうと、その前に殺せる。
ただ冷徹に。心を鎮め、戦意を鎮め、俺は尋問を開始した。
「問いに答えろ。それ以外の言葉を発したら殺す」
こいつは不確定要素だ。シオンの加護など、藤堂の意志など知ったことではない。俺はアズ・グリードの信徒である。秩序を保つためならばあらゆる手法を使う覚悟がある。
俺の言葉が通じているのは目の色で分かった。
何かを言いかけ、息が詰まったように言葉を止める。いや、俺の脅しが効いているのだろう。
オーケー、話が通じてよかった。
腕を離すと、ソファの上に崩れ落ちた。逃亡は許さない。殺意で動きを縛れる事は竜だった頃に確認済みだ。上唇を舐め、リミスを起こさないように低い静かな声で問いかけた。
「お前が人化した理由を言え」
まずはそこからだ。その意図、方法、悪意の有無、そして何故森の奥から出てきたのか。
俺の問いにグレシャの目が大きく見開かれる。華奢な喉が僅かに動き、しかし声を出さなかった。目尻に涙を滲ませたまま、グレシャが大きく横に頭を振る。
反抗ではない。言葉は出さずとも、その意図は伝わっていた。
いや、そもそも可能性は予感していた。舌打ちする。グレシャが怯えたように僅かに肩を震わせる。
ああ、そうだ。可能性は有ると思っていた。真性の竜ならば兎も角、下等な亜竜種が人化の魔法など操れるとは思えない。
直感だが、その仕草に虚偽はない。だが、そうなると面倒な事になる。
この人化が慈愛神の加護によるものだとしたら、これから何度これと同じ現象が起こるかわからない。
「わからない、か。嘘じゃないな?」
「ッ……」
グレシャが首を左右に振りながら、両手を必死で動かし、座ったまま後退る。数歩後退したところで逃げられるわけがないというのに。
最近伸びて目元を隠しつつあった前髪をかき分け、はっきりと目と目を合わせる。冷徹な目、侮蔑の目、殺人鬼のような凶悪な目つきもこういう際には役に立つ。
「次の質問だ。お前に藤堂を――あの黒髪の人間及びその周りの人間たちを害する意志はあるか?」
シオンの加護がどこまで魔物を変質出来るのかわからない。そもそも、シオンの加護が原因だと確定したわけでもない。極めて可能性が高いだけだ。
竜とは害獣である。一部を除けば、人類の敵でしかない。善悪を議論するつもりはない。こいつらは人を喰らい、そして俺たちはこいつらを存在力やその素材のために殺戮する。俺たちは相容れない。
人に酷似した肉体、ならば心は? 危険性は? 万全を期すのならば処分一択である。
俺の質問に、グレシャが怯えた目線を向ける。だが、怯えの中に窺うような気配を感じ、俺は唇を歪ませ、形ばかりの笑みを向けた。
恐怖が効いているのならばいい。プライドがないのならばそれはそれでいい。
危険性があるのかと同時に藤堂たちにとって有用なのかも、グレシャの処分についての大きな判断基準になる。空を飛べない亜竜でもその力は強力だ。なんなら途中で消費してしまっても問題ない。王国貴族のリミスやアリアと違って彼女には後腐れがない。
竜ならば、誇り高き強者として知られるあの種ならば、脅しも通じないかもしれない。敗色濃厚な状況でも牙を向けるかもしれない。
だが、亜竜なら? 媚び諂いの目を受けて確信した。彼我の間にできている『上下関係』を。
パーティメンバーに必要なのは信頼だ。だが、俺は藤堂のパーティメンバーではない。グレシャと結ぶのは服従と被服従の関係でいい。信頼は勝手に藤堂たちと結んでくれ。
一歩踏み込む。慌てて後退ろうとして、仰向けに転んだグレシャの腹に伸し掛かるように膝を乗せ、腕を抑えこみ、至近距離からその瞳の中を覗き込む。その目の中に映る自分と向き合うかのように。
膝でその腹を軽く推す。グレシャが呻く。握ったその腕はしっとりと湿っていた。
言葉に、視線に殺意を込める。その存在それ自体に刻みつける。トラウマになるように。万が一にも俺に逆らわないように。
「藤堂たちに手を出したら殺す。例えどこに逃げようが確実に追い詰め惨たらしく殺す。だが、俺の命令に従う限り手を下さない事を約束しよう」
「……や」
その喉から初めて声が出た。透き通るような女の声。竜だった頃に聞いた声とは異なり、ノイズはない。声帯も人のものに変わっているのだろう。大きな声を出したらその瞬間に喉を潰すつもりだったが、声は囁くように小さかった。そのままの姿勢で続きを待つ。
その唇は震え、荒い息を仕切りに吐き出している。顔色はすこぶる悪く、血の気というものが感じられない。トラウマを、上位者の存在を刻みつける。俺は自身の仕事に満足した。
「やくそく……する」
まだ慣れていないのか、舌っ足らずな声。
だが、そんな事はどうでもいい。そもそも、どうして森の奥に住むこいつが人語を操れるのかが不思議なのだ。重要なのは意思疎通ができたという事。
身体をゆっくりと離す。ほっとするようにその身体が上下に揺れる。
「これは……契約だ」
一方的な通達、断定に、グレシャは身体を震わせまるで引き寄せられるようにして俺を見上げていた。
哀れだとは思わない。これはやむを得ない犠牲。
竜の一匹や二匹、魔王討伐のためならば捧げよう。人のエゴのために死ぬがいい。
「アレスさん……」
アメリアが乾いた声で俺の名を呼ぶ。俺のやり口は既に知っていると思っていたが、実際に見るのとでは違っているか。
あらゆる外敵を排して生きてきた。今更手を汚す事に抵抗はない。
「抗議は後で聞く」
部屋に掛けられた時計を確認する。突入して十分。他に詰める内容もある。藤堂たちが帰ってくる前に退出、リミスも起こしておかねばならないだろう。時間はない。
まだペタリと座り込んだままのグレシャに質問を続けた。確認せねばならない事は他にもあった。
「グレシャ……ああ、お前を便宜的にグレシャと呼ぶが、お前は何故森の奥から出てきた? お前の縄張りはあんな浅い部分ではなかったはずだ」
偶然? 事故?
ありえない。そもそも、グレイシャル・プラント出現の報は二度目である。一度目ならばたまたまという線もありえるだろうが、そう何度も連続で発生する事象でない事は既に村長から聞いている。
いや、偶然だとしても確信が欲しかった。
グレシャが俺の問いに、ひゃっくりでもするかのように喉を慣らして、そして答えた。
「あ、あくまが……」
果たして、グレシャからの回答は俺の嫌な予感を裏付けるものだった。
俺から脅されたためではないだろう。慄くような唇、恐怖の滲んだ目線。
「あくまが、もりに、あらわれた」
厄介事は厄介事を呼び寄せる。災厄の芽は潰さねばならない。
「あ……くま……?」
アメリアが肩を震わせ、こちらを見る。白皙と呼ぶよりは青ざめると表現した方がしっくりくる表情。
だが、俺は既にその現実を予測していた。予想が確信に変わっただけだ。
何が起ころうが、任務は遂行する。
鬼が出るか蛇が出るか。
亜竜が二度も出たのだ。悪魔の一匹や二匹で今更騒ぐものか。
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