第十章 真火炉は赫炎に燃ゆる

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「は――あは、あはははははははははははははははははははははははははははははは!!」


 四方坂よもさか了司りょうじは割れんばかりに哄笑する。

 琥珀色の樹木――その幹の内部を天上に向けて昇りつめながら、その血に塗れた右手に、虚ろな眼差しで涙を流す少女を抱きながら。

 四方坂了司は笑う。

 その手中に、【真理】への扉をおさめた歓びに。

 哂う。


(もうすぐだ。もうすぐ、私は再び初音はつねまみえることができる!)


 四方坂了司にとって、四方坂初音とは、ただの兄妹を超えた絆で結ばれた存在であった。元より人造存在の彼らである、血のつながりは存在しない。四方坂の名字も、単純に与えられたコードネームのようなものでしかない。

 それでも、彼らは互いを掛け替えのないものだと思っていた。


(愛などという矮小な感情ではない。そんな低俗かつ陳腐な物差しで、私と初音の繋がりを語ることはできない。同じ製造ラインで形作られた唯一無二の相似形。私と初音は、互いが互いを補完するわかがたき存在なのだ)


 連理の枝、比翼の鳥。

 そのような、劣るもの同士が身を寄せ合う感情を、了司は一切理解しない。もっと単純に、もっと窮極的きゅうきょくてきに、彼らは同一の存在であり、二人並び立つことで完全無欠の精神を体現していたのである――そんな風に、了司は信仰して疑わなかった。


(だからこそ、私達が別たれるなどという現実は、世界を許されてはならない。その全てを犠牲にしてでも、私は初音を取り戻さなくてはならないのだ……っ)


 ……この時、四方坂了司は完全に暴走していた。

 一度秕未しいなみ銀華インファに取り込まれたことで、感情の一側面――無意識下でこの五年間溜め込み続けてきた願いが、表層に噴出していたのである。

 人類最悪の裏切者を名乗りながら、それでも人類を守り続けた宗教家としての四方坂了司は、秕未銀華に一度呑み込まれた時点で消滅していたと言えた。

 故にここに存在するのは、その忘念の塊。

 妄執のみが凝り固まり、姿を為した【幻想】そのものであると言えた。C教室が開発し、特別な調整を受けた人造存在四方坂了司は、ニグラレグムの手を介さず、【幻想】――集団的無意識に干渉する【座】へと至っていたのである。

 その彼が――世界の敵と為り果てた彼が、その右腕の中の少女に語りかける。


「秕未華蓮かれん。世界を呑み込み、新たなる世界を生み出す虚ろなる種子! いま、まさにお前の心は空洞だろう?」

「…………」


 華蓮はその問いに応えない。

 答えられない。

 彼女の瞳は何も写さず、ただ呆然と見開かれ、光もなく、途切れることなく縷々るるとした涙を零している。その心は、既に砕けている。最愛の救世主を失い、己の本来の主を失って、秕未華蓮――破滅的危機概念シイナミ・エンブリオは、今まさに崩壊の只中にあった。


「そう、何もかもが崩壊する。この樹木も、保って夜明けまでの運命だろう。あと数刻、それで世界を呑み込むことはできまいが――開花させ、結実に至るまでは十分に可能なはずだ」


(あの玖星朱人というを失い、このC₃シーキューブは起源となったシイナミ・エンブリオと同じ特性を有するはず。即ち伽藍堂となったこの少女の内側を私の願望で満たせば、それは花開き、一つの新たな【幻想】として結実し、やがて芽吹く。その時こそ、初音は【鉄扉】の向うより舞い戻るのだ!)


 真火炉というシイナミの栄養源シンビオント

 願望の器シイナミ・エンブリオ。

 そして人類の集合的無意識へと続く扉【鉄扉】。

 その全てを掌握し、四方坂了司だったものは嗤う。妄執、妄念、その一事が彼を突き動かす。

 唯一の家族のためにすべてを捨てた少年の残骸と、心を砕かれた少女の骸は、いま、夜天の頂――シイナミの【つぼみ】へと到達しようとしていた。


(――しかし)


 四方坂了司の妄念は、わずかばかり笑みをおさめ、首を傾げて、思う。


(なぜあの少年は――私が――この眼で見たものと同じ緋色の刃を手にしていたのか?)


 その問いに、答えるものはいない。

 いまは、まだ。


◎◎


 白い仮面に黒衣を羽織る、鴉樫あがし清十郎せいじゅうろうは琥珀色の樹海に沈んだ真火炉の街を歩んでいた。

歩きながら、その森の【根】に囚われた人間を見つけるたびに、鴉樫清十郎は左手を振るう。

 手刀がくうを裂き、不可視の剣戟けんげきが【根】だけを切り裂いて、人々は次々に拘束から解放されていく。同時にその人間の頭部で【バブルヘッド】が奇妙なうめき声をあげ、はねを伸ばし逃げ出していく。

 【雰囲気】。

 玖星朱人は、【バブルヘッド】がそれを支配していると考えていた。だが、実際は違う。人間が社会という集団生活に身を置くにあたって、個の考えよりも集団への同調を優先することは疑いようのない事実だ。そして、いつしかその具現としてC₃【バブルヘッド】はこの世に発生したのである。

 幾ら朱人がそれを打ち倒そうともきりがないのは当然だったのだ。人間の「なんとなく」行動する理由の数だけ、【バブルヘッド】は存在したのだから。

 それ故に、鴉樫清十郎が【バブルヘッド】を攻撃することはない。

 それは、人類それ自体が、独力を持って乗り越えるべき【幻想】であるからだ。

 鴉樫清十郎――【死神】は【幻想】にとっての天敵であり人類の守護者だが、だからと言って試練にさえ望まない人間を助けるという指向性は有していない。

 それでも鴉樫清十郎が、【シイナミ・エンブリオ】に囚われた人間を助けるのは、今現在【シイナミ・エンブリオ】が揺るぎなく人類の滅亡に直結する危機であるからだ。

 本来ならば、【死神】たる鴉樫清十郎は真っ先に秕未銀華を斬り伏せ、玖星ここのほし朱人あけひとまでも殺さなければならなかった。

 だけれど、いま彼の手に、緋色の刃は存在しない。

 ただ街を巡り、人々を解き放ち――そして、ジッと真火炉町の中心――そこに聳え立つ琥珀の樹木に燈った【つぼみ】を見詰めている。

 その瞳は仮面に隠されて誰にも窺い知ることはできなかったが――或いはまだ、この場に清水しみず義孝よしたかという人間が存在したのなら、物言わぬ鴉樫清十郎に代わって、こう語ったのかもしれない。


「僕の眼差しは切望だった。無垢なる刃の新生を期待する、罪人のいのりに他ならなかったんだ。善悪を超えた――そんな存在をこいねがう、ね」


◎◎


 植物には単為結果たんいけっかというものが存在する。受粉・受精をずに子房などが肥大化し実をつけることだが、これには種子が伴わない。種子が伴わないということは、次代を担う要素が存在しないということだ。虚しい果実、偽りの果実、それは何ものにも利を与えない。

 シイナミ・エンブリオは、今まさにその状態であった。

 このまま、何の思想も介在しないまま【つぼみ】が花開けば、実が着いたところで中身の無い【幻想】が具現化するのみ――即ち世界の滅亡を意味する。

 秕未華蓮は、それでもいいかと考えていた。漠然と、自暴自棄になった頭が、機能をしないままにそんな思いを巡らせていた。


(だって、もうこの世には、朱人ちゃんがいないから)


 玖星朱人は、その心臓を貫かれ、死んだ。息絶えた。その事実を、華蓮は認識してしまっている。彼女の全存在の寄る辺であった少年を喪い、少女の心には虚無があるだけで――既にその心は、襤褸襤褸に毀れてしまっていた。

 彼女を抱え、遂に頂端分裂組織――その粋たる【つぼみ】へと到達した四方坂了司が何かを叫んでも、それは華蓮には響かなかった。


「さあ、秕未華蓮よ、私をれろ! 私の願いをその身に充たせ!」


(訳わかんない)


 どうでもよかった。

 何もかもが、彼女にはもうどうでもよかった。

 世界など、滅んでしまえばよかった。

 四方坂了司の願いを叶えてやる義理など存在しなかった。


「秕未華蓮!」


 名を叫ばれる。

 制服の胸元が、音を立てて破りとられる。白い可愛らしい下着が露出するが、了司は止まらない。それも剥ぎ取り、華蓮を【つぼみ】の中で押し倒す。

 白い柔肌に、了司のざらついた舌が這う。かつえにも似た情念が這上はいあがる。


「願望器、銀星種、世界の種子――私の我意を取り込め、この願いを受容しろ、私と結びつけ、四方坂初音を、この世界に再び結実させたまえ!」


 了司のドロドロに煮詰められた感情が、け口を求めて華蓮へと殺到する。【根】からは町に住まう人々の、千差万別な欲望が汲み上げられる。【つぼみ】は未だ空虚な己に震えている。

 そのすべてが、華蓮にはどうでもよかった。


(滅んでしまえばいい)


 心に微かに浮かぶのは、中性的な顔の少年。

 その少年のいない世界を、彼女は望んではいなかった。

 故に、すべてを解き放つ。


「おお!」


 了司は感激に打ち震え声をあげる。

 今まさに、【つぼみ】が――琥珀の幹の上に座す白銀の【つぼみ】が、もっとも空が暗くなる夜の頂点にて花開こうとしていた。


「私と、結実しろおおおおオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」

「世界なんて、滅びちゃえぇえええええええええええええええええ!!!」


 四方坂了司の叫びと、秕未華蓮の絶望は、



「――だから、おまえは頭が悪いっていうんだよ」



 朱色の言葉に――阻まれる。

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