第九章 救世主は花笑む銀の夢を見る
1
(――――)
微睡みの中で、少年は夢を見ていた。
それは、いまよりずっと幼い日の出来事。救世主という言葉を知ったばかりの彼の隣に、ひとりの少女が寄り添っていた日の夢と幻。
幼き日の少年にとって、少女は無二の親友だった。
【バブルヘッド】という敵は依然として何処にでも存在し、人類すべて――当然その少女にも寄生していたが――それでも彼にとって、少女は親友だった。
とても、とても大切な友達だった。
彼にしか見えない敵に対して敗北し、誰にも理解されず戦い続け、それを異常だ頭がおかしいと罵られ、いじめられ、
その少女が、少年の心のよりどころだったから、彼の心は、折れずに戦い続けることが出来たのだ。
少年にとっては、それで十分だったのだ。
――だけれど、少女というか掛け替えのない存在は、少年の前から失われてしまった。
敗北の所為ではない。
一度負け、二度負け、何度負けようとも、少年には世界を救う意思と、運命に抗う強さがあった。
だから、そんな理由ではなかったのだ。
少年は夢を見る。
在りし日の夢、過ぎ去りし日の夢、忘れ去ってしまったはずのその日の夢を。
(――――)
その日は、朝から雨が降っていた。
さらさらと、細く冷たい、銀の砂のような雨が降っていた。
世界がどこか億劫な気分になっているみたいだと、少年は思った。少年は、少女の家に遊びに来ていた。
幼稚園で敵に敗北したことは胸に突き刺さるほどつらい物事だったが――だからと言って少女と交流を絶つほどの事ではなかった。
少年と少女は、雨が落ちる世界を見詰めながら、町や、森が雨に打たれる風景を眺めながら、縁側でジュースを飲んでいる。
オレンジジュース。
少女はにこにこと、少年を見詰めている。
何も変わらない日常がそこに在る――少年はそう思っている。
少女の頭には【バブルヘッド】がいるが、それも今この瞬間だけは大人しくしている。少年は、安息を得ていた。
何をして過ごしたわけではないが、二人で一緒にいるだけ時間は、ゆっくりと、だけれども確かに、移ろい流れていった。
やがて、雨が上がる。
少女が言った。
おそとに遊びに行こうと。
少年は、それに頷いた。頷いてしまった。
(――――)
場面が変わる。
唐突に切り替わる――夢の中であるのだから当然に。
少年と少女は、森の中にいた。
少女の実家である神社の、鎮守の森の中。雨に濡れた新緑が、噎せ返るほどに強い芳香を立ち上らせている。
その場所は、二人にとってお気に入りの遊び場だった。
少年にとっては、一時なにもかもから解放される隔絶された空間として。少女にとっては、少年との思い出の場所として。
二人はそこで、いろいろな話をした。
たくさんの話をした。
幾つもの遊びをした。
その全てが楽しく、眩しかった。
だけれど少年の視る夢の中で、それらすべてはモノクロに沈んでいる。
(――――)
また場面が切り替わる。
小さなころ、少女は御転婆だった。少年を困らせることが多かった。少年は、それが嬉しかった。
切り替わる。
彼は肉じゃがが好きだった。彼女の母親と、彼女が一生懸命につくる肉じゃがが好きだった。薄味でも、それを不味いとは思わなかった。不味くとも心が美味しいと感じていた。
切り替わる。
神社の中に忍び込んだことがあった。
二人でこっそりと、ご神体を覗き見たことがあった。それは、木箱に収められた小さな小石のようなものだった。少女はそれを種と呼んだ。おそらの向うから降ってきた、願いを叶える不思議な神様なのだと。世界と同じ価値がある銀色の神様なのだとそう言った。
切り替わる。
切り替わる。
切り替わる。
切り替わる。
――元に、戻る。
少年の視界が大きく揺れる。あちらこちらに飛び回り、世界が回る。動転する中で、大きな音が響く。
メキリメキリと鳴るそれは、生木の裂ける音。
――赤。
どうしようもない、鮮やかで鈍い、明るくくすんだ赤が、視界一杯に広がっていく。モノクロの世界を塗り潰していく。
どくどくと溢れ出し、毒々しく視界を染め上げる。
やがて、世界は赤一色に染まっていた。
赤い世界は孤独だった。
あまりに残酷な赤色を、誰もが受け入れることが出来なかった。
(――だから)
だから、そこにその存在は顕れた。
塗り潰したようなジグザグの黒い影を纏う、のたうつような鞭状の頭部を天へと伸ばし、そこに王冠をたたえる正体不明の化け物。
それは玉座に腰掛け、真っ黒な月に向かって吠え声を上げている。
誰かが、それに願ったのだ。
誰かが、そこに【幻想】を見たのだ。
(だから)
だから、いま赤色は、銀の光に塗り潰されている。
眩く輝く銀色が、すべてを塗りこめている。
少年もそれに呑み込まれ、今まさに混じり合い融けゆこうとしていた。記憶は、夢は、とっくの昔にドロドロに溶け合っていた。
(ああ)
――それでもいいのか、と、少年は思う。
もう、何もかも諦めてしまってもいいのかと。もう、すべて投げ出してしまってもいいのかと。銀色の光に冷たく、温かく
「――君のように、生まれつき異能を持った存在も、世界は破滅的危機概念と認識する」
その、陰々滅々とした声を聴く。
銀の光が陰る。
その一部が、鴉の羽のような漆黒に塗り潰される。その漆黒の中に、真っ白な仮面が一つ、哀しげな笑みを湛えて浮かんでいる。
「だが、厳密にはそれは違う。生まれついて【幻想】を抱くものには、一つの【道】が残されている。多くのものは呑み込まれ、狂気に敗れ、その【道】を見失うが、君はどうやら、そうではないらしい」
白い仮面は、漆黒の中から何かを抜き放つ。
それは、燃え上がるように美しい、緋色の日本刀だった。
「
仮面は、その陰った声で、しかし声高に告げた。
「世界を認めないなどという都合のいい【幻想】を認めるな。刃金の意志を以てその【幻想】を【踏破】せよ。【幻想】を【踏破】し【現実】に勝利した時――人間は、人類の守護者――【死神】となる」
――それが世界踏破者【
言い放ち、仮面は銀色の世界に刃を突き立てた。
世界が、一瞬で緋色に燃え上がる。
何もかもが、燃えて、燃え尽き――後に残ったのは――
(――――)
少年は、その赤色を噛み締めて――目を、醒ます。
◎◎
【根】。
琥珀色の【根】が、すべてを蹂躙しているのだ。
ビル群に巻き付き、締め上げて破壊し、車の窓ガラスを貫通し、その座席にいたであろう人間に絡みつき、道行く人々、建物の中にいたもの、歩いていたもの、立ち止まっていたもの、有象無象の区別なく、誰もかれもが【根】に呑み込まれ、真火炉の街そのものが、太く荒々しい琥珀色の【根】に覆われているのだった。
そしてその中心には、かつてスダトノスラム降臨教団本部ビルであったものを貫き、天高く
ビルの前で争っていた人々も、いまは【根】に呑み込まれ覆われている。
呑み込まれた人間は、朱人にはまだ生きているように見えた。
その誰しもが、幸福そうな表情で、よだれや涙、鼻水を垂れ流している。
(幸せな夢を見ているのか――それは、この【根】の力なのか)
朱人の眼だけが、その真実を看破する。
人々に絡みつく【根】は、その頭部――そこに寄生する【バブルヘッド】の灰色の泡立った頭部に突き刺さり、頭頂部の発光を制御しているのが見て取れた。
一様に【バブルヘッド】たちは虹色の光を放っているのだった。
(すべての人間の【バブルヘッド】が【シンビオント】に変換されつつある。このままいけば、遠くない未来【バブルヘッド】の支配から、人間は脱するかもしれない)
それは、救世主である玖星朱人にとって、望ましい未来だと言えた。
彼は世界を救うために存在し、これまで【バブルヘッド】といつ果てるとも知れない戦いを続けてきたからだ。
(……だが)
朱人の心は、それを是とはしなかった。
そんなものが、彼の望んだ世界だとは、少しも思えなかったのだ。
それに何より。
(僕はもう、思い出している)
朱人は、何もかもを思い出していた。
だから彼の胸の中で、赤色が燃えている。
決意が赤々と燃えている。
その意志に応えるように、彼の手の中にはそれがあった。
刀身長1500mm、全長1900mm。
緋色の刀身に銀の月を映す、野太刀と呼ばれる大きさの武骨な日本刀。
夢で出逢った仮面の、そのシーキューブが、彼の手の中で剣呑な光を湛えている。
朱人は歩き出す。
すべての決着をつけるために。
運命という理不尽に反旗を翻すために。
己の過去と、決別するために。
玖星朱人は――走り出す。
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