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◎◎
「ここまで逃げれば、流石に追ってはこれんだろう――大丈夫か、
住宅街から真火炉町の歓楽街まで休まずに走り続け、マルグリッド・ローズマリーは、そう言って立ち止まった。
義孝はマルグリッドを「…………」と、無表情とも悲しんでいるようにも見える不可思議な表情で見つめていた。
その視線に気が付きながらも、マルグリッドは勤めて陽気に振る舞う。気取ったように両手を広げながら、言う。
「危なかったな、義孝。もう少しであの化け物――時間制御の
「……マルグリッド」
「ああ」
「マルグリッド・ローズマリー」
「そうだよ、私がお前の学友、幼き日、あの日までを同じC教室で学んだマルグリッドだ」
「なつかしいな」
そう言った時、ようやく義孝の表情に笑みが射した。女性受けしない精悍な表情が、微かに懐古の念に緩む。
それが、マルグリッドにはたまらなく嬉しかった。
「どうだ、義孝。あんな所であったのも何かの縁、こんなところまで逃げてきたのも何かの縁……一緒に、アルコールでも嗜まないか」
「……いや、僕はまだ、職務中で」
「ばれなきゃいいだろ」
「だけれど」
「私は、お前と酒が飲みたいんだ」
「…………」
サングラスの下から、真剣なまなざしで見つめられ、義孝は「……分かった」と頷いた。マルグリッドは「そうか」と、嬉しそうに呟き、早速周囲の店の中から、まだ夕焼けが始まったばかりのこの時間帯でも開店している店を物色し始めた。
その姿を「…………」と、義孝はやはり悲しそうな表情で眺めている。
程なくして、マルグリッドは開いている飲み屋を探し当て、義孝と連れ立って店内に入った。
ジェイル・ワールドという名のその飲み屋に入って、マルグリッドは口笛を吹いた。
(飲み屋というより、これはダイニングバーだな。それに、思ったより凝っているじゃないか)
彼女の視界の中には、名前の通り牢獄のように鉄格子で仕切られた個室が並んでいる。店員もみな、囚人服を着ており、それはマルグリッドにとってなかなか諧謔の利いた店であった。
店員に促されるまま個室に入り、マルグリッドは上座に座る。
「注文は何にする?」
「ギムレット」
「……お前は、本当にそう言う奴だ」
懐かしさと苦々しさで、自分でもよく分からない笑みを浮かべながら、マルグリッドは店員に注文を投げる。
「ギムレット。ラムコーク、それから
「イエスマム!」
景気のいいそんな応答を残し、店員は去っていく。
店員の姿が完全に消えるのを待ってから、マルグリッドは口を開いた。
「久しぶりだ、本当に久しぶりだな……清水義孝」
「いつ……以来になるかな。君は今、何をしているんだい、マルグリッド?」
「相変わらず、研究職だ。C教室で学んだことを、瓦解しかけている【ヘルメスの庭】で続けている。この街にも、私の作品がいたりもする」
「根源的危機概念への対抗、そして【真理】への到達を目指したC教室――チャペル・アズラッド先生は、お元気で?」
「……死んだな。一年前だ。実験中に不可視のシーキューブに生きながら食い殺された。残っているのは私とお前、あとはティルト・ノーマンぐらいのもんだ」
「……そうか」
僅かな沈黙が、二人の間に流れる。
その沈黙を嫌ったように、マルグリッドは唇を舐め、言葉を続けた。
「だから、私は今日お前に逢えて、本当によかったと思っている。本当だ、これは本当なんだ。私は今、本当に嬉しいんだ」
「マルグリッド」
「お前を、どれほど探した事か。5年前に姿を消したお前を、私はずっと探していた。片時も忘れたことはなかった」
「マルグリッド」
「再会できて、よかった」
「…………」
サングラスの下から、ぽろぽろと涙を零す真紅の女性を、義孝はじっと見つめ、それから壊れ物を扱うような手つきで、たどたどしく抱きしめた。
抱きしめられながら、マルグリッドは訴える。
「……もう、何処にもいかないでくれ、義孝。また私と、一緒に居てくれ。みんなと、C教室のみんなと、一緒に過ごそう」
「…………」
「お前が赤いカタナのシーキューブに憑りつかれていることは分かっている。それは、私が絶対になんとかして見せるから、だから、だから義孝!」
「マルグリッド」
消え入りそうな、されど必死なブロンドの彼女の言葉に、清水義孝は、凍えるように冷たい声で、こう応じた。
「清水義孝の名前は、君にあげるよ。彼はもう――」
――この世に存在、しないのだから。
◎◎
秕未華蓮は、目の前で起きた事が瞬時には認識できなかった。
いまの今まで話していた少年――
倒れた場所に赤い何かが流れ出し、一帯をあっと言う間に眼に痛い深紅で染め上げていく。
(ああ――血なんだ)
そう理解した時には、悲鳴を上げていた。
「
叫ぶ華蓮を鬱陶しそうに眺めながら、その少女は手の中で全長四〇センチほどの分厚い刃金の塊をくるりと一回転させて見せる。
「血を見たぐらいでギャーピー騒ぐんじゃねーっすよ」
面倒臭そうなその言葉に、華蓮の脳髄が冷える。
冷静さを取り戻してではなく、恐怖に凍る。
凍った脳が、それでもその少女の名前を絞り出したのは、彼女がどこまでも有名人であったからである。
「
「そーっすね。そーいう名前っすよ、あたしは」
「なんで?」
「はい?」
「なんで、この人を、殺したの?」
「…………」
その質問に、姫禾希沙姫は――きょとんと目を丸くした。
「誰が、誰を殺したんすか?」
「え?」
「あたしがこれまで殺してきたのは人間だけっす。人間以外は殺したくないですし、それに――いま本気で殺した相手はそんな低俗じゃないっす」
「で、でも!」
「……あー、ほら、実物を見るのが一番っすよ」
希沙姫がいまにも溜め息をつきかねない様子で顎をしゃくる。その示す先を見て、華蓮は危うく、二度目の悲鳴を上げかけた。
「――――」
そこでは、刺し殺されたはずの四方坂了司が立ち上がっていた。
口元から血を流し、左胸から血を流しながら、顔色は蒼白にして立ち上がる。しゅうしゅうと音を立てて傷口――その左胸から
「な――」
「だから言ったすよ、人間じゃないって」
にへらと笑いかけてくる希沙姫に、華蓮は返す言葉がない。その間に、了司が体勢を立て直す。右手を振り上げる。
「かかれ!」
号令一下、無数の影が周囲より飛び出す。
その全員が、白い詰襟を着用した男女――スダトノスラム降臨教団の上位信者たちであった。いったいどこに潜んでいたのか、十数人もの人間が、一斉に希沙姫へと襲い掛かる。
「けひひ!」
その先の光景を、華蓮は悪い夢でも見ているような心地で眺めていた。
銀の線が閃く。
円を描くように一回。
半月を描くように一回。
それだけで、信者たちの半分が喉を切り裂かれ、脳天を割られ、盛大に血液をまき散らしながら倒れ臥す。
(なにが――なにが、なにが、なにが)
――一体、何が起こっているのか……?
自体は最早、華蓮の常識の範疇を超えていた。
呆然と突っ立っているしかない彼女の手を、誰かが曳いた。四方坂了司だった。
「この隙に、逃げるぞ」
「でも、あの人たちが!」
「彼らとて覚悟のうちだ!」
「っ」
一喝され、少女の身体が竦む。その人物は、先ほどまで穏やかに華蓮の幼馴染の事を語っていた人物とは別人だった。
了司の眼は、命を捨て、戦いに身を置くもののそれと化していた。
「逃げるぞ!」
「そうはさせないっす!」
走り出そうとする彼女たちの前に、姫禾希沙姫が立ちはだかる。華蓮が振り向けば、信者はすべて倒れ臥し、その白い詰襟を残さず赤に染めていた。
「あの人ともう一度会うためには、この
そう叫んだ希沙姫が身を撓め、一息に間合いを詰めようとしたときだった。
華蓮の耳に、その音は届いた。
(――地鳴り?)
それは確かに地鳴りに似ていた。
僅かに――本当に僅かに地面が振動するのを華蓮は感じ取った。遠くで土煙が舞ったと――そう彼女に見えた時、事は始まり、怒涛がすべてを呑み込んでいた。
「な――なんすかこれはぁぁっ!?」
希沙姫の驚愕の声。
彼女たちを全て呑み込んだもの――それは人の津波だった。
百、千、いやそれ以上の、老若男女を問わない人海と呼ぶしかない量の人の津波。その圧倒的な数が希沙姫をめがけて押し寄せたのだ。
その先頭には、禿げ上がった頭の中年男性が立ち――一斉に声をあげる。
「「「「「「「「「「ギイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ」」」」」」」」」」
叫ぶ人々の声は、身体能力は、人間を遥かに超えていた。
華蓮にそれは理解できなかったが――それはすべて秕未銀華が支配する栄養源――シンビオントの群れであった。
「行くぞ!」
了司が、今度こそ華蓮の手を掴みその場から逃走を始める。
了司たちに制止の言葉を投げつけながら人の津波に呑み込まれ、壮絶な数の暴力に翻弄される希沙姫を残して、二人は走り出した。
終焉へのカウントダウンが、始まりを告げた瞬間だった。
第六章、終
第七章に続く
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