第六章 金色の才媛は酒席にて語らう
1
◎◎
ノートの片隅に。
チラシの裏に。
或いは自室の壁に。
それは、黒一色で描かれる不気味な絵だった。
幼稚園児あたりにらくがきをさせれば似たような絵が生まれるかもしれないが、それにしても
塗り潰したようなジグザグの黒い影を纏う、のたうつように天へと延びる鞭状の頭部を有した、王冠を被る得体のしれない化け物。それが、真っ黒な月に向かって吠え声を上げている。
彼は、どうして自分がその絵を描くようになったのか覚えていない。
いつ頃から描きはじめたのかも不確かだ。
だけれど、彼はその絵の完成とともに必ず一つの夢を見る。
場面は決まって
泣き叫ぶ幼い朱人の前で、
/倒れた大木。
/倒れ臥す小さな誰か。
/両の手がゆっくりと染まる。
真っ赤な花が咲いている。
その花はじわりじわりと広がって、いつの間にか朱人の世界を塗り潰してしまう。
恐怖と後悔。
そしてどうしようもない喪失感が限界に達した時、黒色の閃光と共に、世界は鮮やかな銀色に反転するのだ。
そこで、目を覚ます。
いつもと変わらず、今日この時も。
「――っ」
玖星朱人は、飛び起きた。
ハッと息を吸い、咄嗟に周囲を見回す。はらりと彼の手からパンフレットが――不気味な絵が描かれたそれが――すべり落ちる。
そこは映画館の中だった。平日の昼間、人気のタイトルでもなく、客は疎らだ。一人か二人、朱人の奇妙な振る舞いにちらりと視線を向けたが、すぐに興味を失った様にスクリーンへと視線を戻した。居眠りをしていたのだろうと、そんな感想しか得ていないのだった。
だが、当人である朱人は、荒い呼気を吐いていた。
全身は脂汗に塗れ、それがたまらなく気持ちが悪い。朱人は入場前に買っていたジンジャーエールのコップを引っ掴むと、音が出ることも気にせずそれを一息に啜った。
喉を冷たい炭酸が滑り落ち、胃袋を微かに焼く。
その刺激で、ようやく彼は正気に戻った。
ひと息を吐く。
まだ激しく脈打っている心臓を御しながら、なんとなく朱人が前に視線を向けると、スクリーンの中では主人公が泣きながら異形と化したヒロインを撃ち殺しているシーンだった。
「……胸糞悪い」
そう呟いて、彼は映画館から飛び出した。
◎◎
暇を潰すために飛び込んだ映画館で悪夢に魘され朱人は、その残滓から逃れるようにまた町中へと繰り出していた。流石に学生服では目立つため、ディスカウントショップで購入した安価なジャンバーを羽織っている。
未だ夢からさめきらないように彼の足取りは重く、引き摺るようにして歩いている。
一時間ほどもうろついて――既に時間は放課後になっていた――どうにも堪らない気分になった朱人は、小さな公園のベンチへと腰を下ろした。
ドスンと、音をたてて座るのと同時に、
「ちくしょう……」
と、彼は力なく呟く。
(なんなんだ、あの夢は……? 見るのはこれが初めてじゃないが、あんな鮮明な奴は見たことがない。僕は、どうしてしまったというんだ)
疲れているのかと、朱人は自問自答する。
秕未
「ちくしょう」
もう一度、今度は少し強くそう呟いて、朱人は顔を上げた。
そこで彼は「おや?」と首を傾げることになった。
公園の中の【雰囲気】が何か奇妙だった。
公園内で遊び回る小さな子供たち、それを見守る母親や父親、ブランコに力なく座り込む中年男性――その頭部で【バブルヘッド】たちが忙しく明滅を繰り返す。
(いや、公園の中の人間だけじゃない。その外を行きかう奴等も、どうにも様子がおかしい)
重たい手足に喝を入れ立ち上がり、朱人は公園を出る。
再び街中に戻ると、「なっ」彼は言葉を失った。
町中のすべて、彼の視界の及ぶすべて――否、感覚で彼は理解した――
(交信しているのか……?)
直感的に、朱人はそう推測する。
(恐らく何か、そう何か途轍もないことが起きたのだ。だから、【バブルヘッド】どもは連絡を取り合っている。【雰囲気】を、一つにまとめあげようとして――失敗している)
彼のその推測を裏付けるように、至る所で小さな不和が発生していた。
ちょっとした小競り合い。
口げんか。
運転ミス。
罵倒。
不和の波が、徐々に拡散していく。
そんな、だんだんと社会の秩序が失われ、混沌としていく街の中心地を、無言で駆け抜けていく幾つもの影を、朱人は目撃した。
その者達の頭部に寄生する【バブルヘッド】は、一様に球根化している。
シンビオント。
秕未銀華が使役する、その手足たる栄養源。
彼らが向かう先を見て、朱人は一気に血の気が引いた。
(あいつら、秕未神社に向かっているのかっ? まさか、華蓮に何か――)
慌てて朱人は携帯電話を取りだし、秕未華蓮へと電話をしようとして、
「……なんだ、お前たち――僕になんのようだ?」
いつの間にか自分が、数人の集団に取り囲まれていることに気が付いた。
目付きの据わった、如何にも荒事に成れている雰囲気のその一団は、全員が全員とも白い詰襟の、軍服に似た衣装を身に纏っていた。
(……このコスプレみたいな衣装は、確か、スダ教の信者たち、だったか……? ボランティア団体みたいなものだと聴いていたが、そんな奴らが、何故僕の前に現れる……いや、いまはそれよりも華蓮と連絡を)
彼が構わずに電話をかけようとすると、髪を逆立たせた小太りな男が朱人の腕を掴んだ。
そして卑屈な笑みを浮かべ「へっへっへ」と笑うと、その手から携帯電話をもぎ取ろうとする。
反射的に朱人は抵抗していた。
「弾けろ――【バブルヘッド】」
言葉と共に左手を振るう。その小太りな男――
残りの信者たちが一瞬息をのみ――色めき立つ。
「――っ」
無言で殴りかかってくる女性の一撃を回避し、交叉法で朱人はその顎に掌底を叩き込む。彼の小さな身体のどこにそんな力があったのか、女性の脳髄はシェイクされ、脳震盪を起こして崩れ落ちる。
その体を無理矢理に掴んで、さらに突っ込んで来ようとしていた教団の信者に、朱人は力任せに投げつけた。
「――だぁっ!」
信者が女を受け止めよろめいた隙に、朱人は包囲網を突破する。
全力で走る彼の背後に追いすがるひとりの女性――目の下に青黒い隈を作った眼鏡の若者――を、件の小太りの男を使役――レコンキスタ化して妨害する。
一団の連携が、驚きによって乱れる。それでどうにか、朱人はようやく包囲網を完全に突破した。
背後からはやはり無言で、信者たちが追ってくるが、それが朱人に天啓にも似た勘働きを与えていた。
(華蓮に何かあった――あいつが、何かの危険に巻き込まれている……っ)
それだけで、胸が痛いほど早鐘を打つ。想像するだけで吐き気がする思いだった。
昨日までの玖星朱人にとって秕未華蓮とは、幼い日に袂を別った幼馴染に過ぎなかったはずなのに――今の彼には、掛け替えのない誰かに思えていた。
(華蓮!)
もう、それ以上朱人は考えていることが出来なかった。
朱人はただ、走る。
秕未華蓮の下へ。
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