第七章 右腕は信心に倒れ臥す

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 姫禾ひめのぎ希沙姫きさきの最初の殺人は、七歳の頃であった。

 殺したのは実の祖父だった。

 希沙姫の家は裕福であったが、そのしつけは厳しかった。

 彼女の父親は厳格な人間で、自らと家族を選ばれた人間であると考えていた。どんな人間よりも自分たちは秀でているのだから、それを支配し導く義務があるのだと、まだ言葉もよく理解できていない頃の希沙姫に、彼は滔々とうとうと語って聞かせた。

 母親は、滅私めっしの人であった。

 ともかく誰かのために、弱きもの、負うたもの、無知なもののためになら、すべてを投げ打ってでも救わなければならないと考えていた。無償の奉仕という言葉を幼い日の希沙姫は理解できなかったが、それでも世のため人の為という思想だけは――無垢な思いやりの心だけは、彼女にも理解でき、その心の中に根付いていった。

 選民思想と、滅私奉公の精神。

 その二つだけの思想によって徹底的に精製され、精錬され、鍛造された姫禾希沙姫という人間は、いつしか感情の希薄な、機械的な振る舞いしかできない人間へと成長していった。

 成長の過程で入力された思想。それを持ってしか出力たる行動が出来ない子供になっていた。

 四歳の時点で、既に姫禾希沙姫という人間は、人間性の何処かが欠落――逸脱していたのである。

 そんな彼女に、ひたすらに愛情を注いだ人物がいた。

 それが、彼女の祖父だった。

 姫禾一刀かずと

 姫禾流古流剣術の当代師範であり、刃金のように己を律し、自他ともに認める厳しい人物であった。そんな彼が、希沙姫にだけは優しかったのである。

 父親に連れられ道場を見学しに来た希沙姫が、見よう見まねで棒切れを振るっていると、一刀は急に稽古を止め、彼女の前までつかつかと歩み寄ってきた。

 希沙姫は委縮した。

 一刀には並々ならない気迫があって、その顔は鬼のようで、如何に精神的に機械化している希沙姫であっても怯えずにおれない迫力があったからだ。

 しかし、彼女の前で立ち止まった一刀は、視線を下げて希沙姫と眼を合わせ、彼女の小さな頭を撫でて、その巌の様な顔を綻ばせてみせた。


を教えてやろうか?」


 その言葉が、希沙姫にはどうしてかとてつもなく嬉しかった。

 それから二年間、希沙姫は一日も欠かさずに剣の鍛錬に励んだ。

 父親も母親もあまりいい顔をしなかったが、そんな事は希沙姫には関係がなかった。

 普通の刀は、希沙姫の才覚に相応しくない。そう看破した一刀の手によって、その手ずからに希沙姫は小太刀の扱いを学んだ。練習用、しかも子供用の木立であるから、もうそれは刀子とうすと呼んだ方が正しかったが、それを手にした日から希沙姫はぐんぐんと頭角を現した。

 もとより古流剣術。

 近代剣道とは違い、精神修養やスポーツマンシップとは程遠い武術である。

 相手の眼を潰し、足を払い、関節を圧し折り、時に素手で殴り、時に相手の武器を奪って叩き、時にそこら辺に落ちているものを投げつけ、ともかく勝利するためにありとあらゆる手段を尽くす。

 希沙姫には、その才覚が確かにあった。

 目的を遂げるためには何ものも省みない、皮肉にも生まれた瞬間から叩きこまれた思想が彼女の武術の成長を後押しした。

 六歳になる頃には、大人でも手を焼くほどに、彼女の戦闘技術は進歩していた。相変わらずに刀子を用いていたが、それでも立ち回りに於いて彼女の間合いを制し得る大人は一握りであった。

 希沙姫が六歳の誕生日、一刀が倒れた。

 ガン。

 進行性の悪性新生物キャンサーであった。

 既に一刀の肉体は、その多くが腫瘍に蝕まれていた。

 倒れた彼は起き上がることができず、その刃金の意志を以てしても入院を余儀なくされた。その命は、尽き果てる寸前であった。

 希沙姫は、両親の目を盗んでは何度も一刀の見舞いに訪れた。

 一刀は日に日に痩せ衰え、その強靭な肉体は枯れ木のように衰弱していた。刃金の精神も、朽ちるように弱々しくなっていった。希沙姫は一刀の手を握り――その手は無骨でごつごつとしていて、とても大きく、彼女はそれが好きだったが、もうその時には見る影もなかった――何度も何度も健気に励ました。一刀は目を細め、弱々しい力で希沙姫の頭を撫でた。


「ヤットウを教えてやろうか?」


 そう言った頃の彼は、もう存在しなかった。

 やがて、一刀は死に怯え始めた。

 己が人生が無為になること、それを恐れた。

 希沙姫の知る一刀は、時が経つにつれ摩滅するように姿を消していった。


(あたしは、それがなんだか、いやで)


 哀しいという感情。

 希沙姫にはそれは理解できなかったが、そして今もなお理解できていないが――それでも彼女は、行動を起こした。

 七歳の誕生日。

 夜中、こっそりと家を抜け出した彼女は、祖父の眠る病院へと忍び込んだ。

 その日までに仕込まれた武術の才が、誰にも見つからずに一刀のもとへ至ることを可能にした。

 病室に忍び込み、彼女が見たのは、もはや在りし日の面影などない祖父の姿であった。

 剛毅さも、矍鑠かくしゃくとした振る舞いも、なんの強さも感じられない生ける屍のようだった。

 だから希沙姫は、その手で一刀を殺したのである。

 家から持ってきた果物ナイフ――そんなものでも彼女の手に拠れば凶器と化す――それを、何の迷いもなく一刀の心臓へと突き立てた。

 刺された瞬間、一刀はカッと目を見開いた。

 希沙姫は夢中で刃を捻った、恐ろしいという感情を、その時初めて覚えた。深く、深く刃を突き刺し――気が付けば彼女の手を、一刀の手が握っていた。

 一刀は、酷く優しい眼差しで、希沙姫を見詰めていた。その眼を見た瞬間、希沙姫の全身から力が抜けた。

 希沙姫の手からナイフが離れ、一刀が代わりに刃を握る。一刀は刃を引き抜こうとする訳でもなく、震える手でナイフの柄をしっかりと握ると、自らの胸に更に深くその刃を突き刺した。


「――ありがとう――」


 一刀の残した最期の言葉はそれであった。

 異変に気が付き看護師たちが集まってきた時、希沙姫は呆然とその場に座り込んでいることしかできなかった。


(その後、どうなったんでしたっけねー。覚えてねーっすけど、あたしは怒られることもなくって)


 誰も希沙姫を人殺しだと糾弾はしなかった。誰も彼女が人殺しだとは気が付かなかった。気が付いたものがいたかもしれないが、そのものは警察の捜査すら揉み消した。

 結局、希沙姫は老人の自殺現場に偶然居合わせただけということになった。

 しばらくの間彼女が口を利けなくなっていたことも、目の前で慕っていた祖父が自殺したショックによるものだと判断された。

 言葉を失ったことが、彼女を罰から遠ざけた。

 罰から遠ざけただけで、彼女は罪を重ねた。

 気が付けば姫禾希沙姫は、稀代の殺人鬼になっていたのである。

 彼女は人を殺した。

 男も、女も、老人も、子どもも分け隔てなく容赦なく関係なく殺した。

 殺す理由は分からなかった。

 ただ、殺したいから殺したのだ。惰性のように殺し続けたのだ。

 県内でも有名な進学校翠城学園に入学してからも、殺人行為は続いた。彼女の強さに太刀打ちできるものは存在しなかった。


(そして、あの夜)


 野城のしろ君尋きみひろを殺した夜。

 彼女は出逢った――運命と。

 祖父以来、心の底から、殺してやりたいと思える相手と――初めて希沙姫は出逢った。

 だから、彼女が【幻想ロマン】を――功刀くぬぎを手に入れた事は必然であった。

 彼女がその漆黒と出会うことと、功刀を手に入れることが前後したなどという因果の矛盾は。希沙姫にとって何の意味もなさない。

 彼女がいずれ、心の底から何に於いても絶対に殺したいと願う相手と出遭うサダメにあったからこそ、それを切実に望んでいたからこそ、ニグラレグムは彼女の前に姿を現し、功刀という【幻想】を与えたのだから。

 因果必殺の呪いを帯びた、その妖刀を。

 【幻想】以外の、この世に存在しるあらゆるものを殺すことを可能にするその刃を。

 だから。


(だから――)


 姫禾希沙姫は、まだ死ぬわけにはいかなかった。

 凄まじい数の人間――人間の活動限界を超えたシンビオントという化け物の群れに呑み込まれながら、希沙姫は諦めない。

 功刀は、何故かシンビオント殺すことを躊躇い、呪いを発揮しなかったが、だからと言って希沙姫には十分な戦闘技能が存在していた。

 化け物どもを蹴りつけ、殴り、踏み台にして、目の前を掻き分け、泥中のなか光を求めるようにもがいて抵抗する。

 彼女を抑え込もうと手を伸ばす化け物の首を、躊躇なく圧し折り殺す――殺し切れない。

 暴力も殺意も、全く意味をなさない。

 それでも希沙姫は、抵抗を続けた。

 長い時間、間近に迫る死の運命に叛き続けた。


(もう一度、あの人に逢って――殺す)


 その殺意だけが彼女を支え――やがて、光明が差し込んだ。

 シンビオントたちが、一斉に動きを止めたのだ。

 その隙を、格好の機会を、希沙姫は見逃さなかった。

 素早く身を撓め、最短で群衆の中から飛び出す。群衆の外に出た時、既にあたりには夜の帳が落ちていた。

 一瞬空に浮かぶ銀の月に目を奪われ、そして希沙姫はそれを目撃した。


「なん――すか、あれ……」


 真火炉の街。

 その中心部から立ち上る、琥珀色の柱を。

 螺旋繰れ、絡まり合い、そびえ立つそれは――希沙姫の眼には、まるで未だ成長を続ける巨大な樹木のように映った。


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