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◎◎


 授業を欠席した玖星朱人は、真火炉まほろの街を宛てもなく歩いていた。

 彼の視界、見える限りのすべての人間の頭部に、灰色の泡立つ頭を持つ小人が憑りついている。

 しかし、よくよく目を凝らせば、その中に僅かながら、頭部が球根に置き換わっているものが混じっていた。

 朱人はその姿を目で追いながら、口元を撫でる。


(なるほど、既に一定数――少なくとも昨日みた以上の数、この町の住民は銀華のシンビオントに置き換わっているらしい。しかもその支配は僕のものよりよほど長続きだ。これは――案外使えるかもしれん)


 昨夜、彼が出会った銀色との会話が甦る。


「私は、世界を滅ぼすために来た災厄です。でも、あなたに危害を加えるつもりは少しもないわ」

「僕に危害を加えるつもりがない……その言葉を信じたとして、どうしておまえは華蓮と同じ姿をしているんだ?」

「華蓮と同じ姿、それは違うわ。私が華蓮なのよ」

「なに?」

「秕未華蓮は、当代の私の器に選ばれたの。それは十年以上前に決まったことよ。自意識は華蓮よりも私が優先されるし、いまはまだ、支配権を得るつもりはないけれど。でも、見て分かるとおり私が、秕未華蓮そのものなの」


 ――分かってくれるでしょう、朱人ちゃん?


 やけに優しい声でそう言われて、朱人は咄嗟に怒鳴りつけていた。


「ふざけるなっ。それは華蓮の肉体を乗っ取っているだけだろう! 【バブルヘッド】どもと変わらない! ならば、おまえも打倒すべき敵でしかない――」

「【バブルヘッド】……? なるほど、私の栄養分の事ね? 。いいわ、その決然たる意志を、私は評価する。救世主としては、それで正しいと認めてあげる。でもね、その認識には誤りがある。私が彼女の肉体に宿ること、それは秕未華蓮こそが願ったことなのよ。そうでなければならなかった。

「なにを訳の分からないことを――」

「朱人ちゃん」

「それを、やめろ。僕をそう呼んだのは、かつて一人だけだ」

「かつても今も一人――秕未華蓮――即ち私、銀華だけよ」

「黙れっ!」

「いいえ、黙らない。何故なら私は――」


 私は――玖星朱人の【幻想】を叶えるためだけに祝福を与えられたのだから――


(僕の――【幻想】)


 日中の町中を歩きながら、朱人は考える。幻想という言葉には、聴き覚えがあった。


(確か、昨日野城のしろ君尋きみひろ姫禾ひめのぎ希沙姫きさきが、そんな話をしていたはずだ。あれは……ニグラレグムとか言う奴の噂だったか)


 人が決死の覚悟で切望する願いを、【幻想ロマン】を与えることで叶える存在――ニグラレグム。

 その噂を朱人は以前から知ってはいた。いじめられ、疎まれ、学校という閉じたコミュニティーの中で疎外されていながら、その噂は不思議と彼の耳に入ってきた。


(それだけ拡散している噂と云う事か。そして、銀華もまた、僕の【幻想】を叶えると言った。銀華が、ニグラレグムと云う事なのか……?)


 そう考えれば、頷ける部分も朱人にはあった。


(人類を支配する存在――【バブルヘッド】。その支配者をさらに支配できる存在であれば、願いを叶えることは容易いだろう。大抵の願いは、集団を操作することで叶えるだろうし、或いは叶えられない願いだって)


 その願い自体を支配し塗り替えてしまえば、叶えられる。


(……恐ろしい存在だ。【バブルヘッド】の支配ありきとは言え、その支配は全人類に及んでいるんだ。実質、上位捕食者。何の奇も衒いもなく、世界を滅ぼせる存在だ)


 そんな存在が、自分の幼馴染を器に選んだこと――そしてその言葉を信じれば、その気になればいつだって完全に乗っ取ることができるという事実が、朱人の心に深刻な影を宿していた。十数年ぶりに顔を合わせた高揚も、その影に呑まれている。


(――いや、深刻も何も……こんな荒唐無稽な話をあっさりと信じている時点で、僕は、どうやら相当参っているらしい)


 日夜【バブルヘッド】と戦い続けてきた朱人の心労は、確かに判断力を奪う段階にまで達していた。下手をすれば周囲に露見し、一瞬で【】になりかねない状況で、それでも彼が日常生活を送れているのは、その頭脳が明晰であり困憊を自覚していることと、いじめという環境下が彼の異常を覆い隠してしまうこと、なにより救世主としての使命感ゆえであった。だから、追い詰められているのが自分であると、朱人はよくよく理解していた。

 理解しつつ、打算があった。


(【バブルヘッド】以上の脅威の出現――確かにのっぴきならない展開ではあるが、まだ【詰み】じゃない)


 彼の直感――救世主としての嗅覚が、銀華は【バブルヘッド】の天敵であると叫んでいる。そして、どうやらその天敵が、自分には協力的であるということも。


(考えろ、玖星朱人。発想を転換するんだ。今は確かに袋小路に入っているが、逆転の目が見えて来たと考えればいい。本来は姫禾希沙姫のような空気の読めない人間を利用するつもりだったが、半永久的に操れるのなら、そちらの方が都合がいい。そうだ、利用できるものはすべて利用するんだ)


 例え、その外見が幼馴染であるからと言って、


呵責かしゃくを覚える必要は――ない)


 奥歯を噛み締めた険しい表情で彼が、そう結論付け、これからの方向性を確定しかけた、その時だった。


「ちょっと、君、いいかな?」


 背後から、そう声をかけられた。

 朱人は、素早く周囲の――背後ではなく前方と左右の【バブルヘッド】の姿を確認する。光の点滅はない。まだこの場には、漠然とした【雰囲気】しか存在しないことを、彼は勘案に入れる。その上で、わざとゆっくり、いまのいま気が付いたとでもいうかのように緩慢な動作で振り返った。

 紺の制服に、右腕にはこの国の国民なら知らないものはいないエンブレム。腰帯に吊るされた無線と警棒、そしてホルスターに収められた拳銃。

 

 見間違えようのない相手にも、朱人は警戒を解かない。表情には出さないようにしつつ、極力頭の悪そうな声で「なんですか」と訊ねる。

 警察官は表情には朱人と対照的な温和な――ただし油断ないものを浮かべながら、ゆっくりと近づいてくる。


「話を聞きたいんだけれど、その制服、翠城学園の生徒さんだよね?」

「そうですけど……」


 着替えていないことに今更気が付いた朱人は顔をしかめかけたが、何とか堪え――答える。

「あなたは、誰ですか」

「ああ、私は新田にったというのだけれど」

「手帳」

「ん?」


 手帳を見せてほしいと、朱人は言った。警察官には、身分を証明する必要性がある。その為に警察手帳は常に携帯することになるが、現場レベルでいちいち見せていては仕事にはならない。交通整理など多人数を相手にする場合は、その右腕のエンブレムが何よりの証になるのだが、


(しかし、見せろと言われて断ることはできない。断わってきたのなら――)


 それはこの場の【雰囲気】が、朱人にすら認識できないレベルで既にそう言うものに変わっているという事だった。

 昨日の今日であったからこその過剰な警戒であったが、しかしそれは悪い方向で正鵠を射ていた。

 新田を名乗った警察官は、その顔付を露骨に厳しいものへと変える。

 隙のない立ち振る舞いで、ゆっくりと距離を狭めてくる。

 周囲の【バブルヘッド】達が色めき立ち、色とりどりに発光する。【

 ……この時、朱人は知る由もなかったが、警察全体に圧力をかけている存在があった。この街でそんな真似ができる唯一の集団――スダトノスラム降臨教団が秘密裏に、その教祖の命令で暗躍していたのである。

 それは、ある噂の存在を追っての事だったが――


(……っ。どうする、逃げるか?)


 【バブルヘッド】達の燈す光が一色――危険信号シグナルイエローに統一されるのを冷や汗と共に観察しつつ、朱人は判断を迫られていた。職務質問は任意であるから、逃げること自体は問題ない。だが、その後の立場は危うくなる。


(これ以上の下はないだろうが、しかし、あまり下手をうつと――くっ、やはりここは一端逃げるしか)


 じりじりと距離を詰められる中、焦りと共にそんな判断を彼が降しかけた時、救世主は――皮肉なことに彼にとってのその場での救世主は――全く意図しない方向から現れた。


「いやぁ、待たせてしまったようですまないね、玖星君」

「あんたは――清水しみず?」


 見れば、朱人の通う学園の生物教師、清水義孝よしたかが、締まりのない笑みを湛えて駆け寄ってくるところだった。


「ごめんごめん、少し手続きに手間取ってね――うん? こちらの刑事さんは?」

「……失礼ですが、親御さんですか?」

「あ、いえ、僕は」


 詰問され、慌てたように体の前でぶんぶんと義孝へ手を振って見せ――ちらりと、その視線が朱人に伸びる――


「この子の学校の教師ですよ、今日は、彼の家に家庭訪問に行くところで」

「なにか、問題が」

「大きな声では言えませんが……いじめがありまして」

「…………」


 警察官が嫌そうな顔をするのを、朱人は見とめた。昨今のいじめに対する厳しい――方向性が正しいとは朱人は思わない――世論がある状態で、できるのなら警察はそのデリケートな問題に踏み込みたくはなかったに違いない。

 新田と名乗った彼もその例外ではなく、目に見えて先程までの勢いがなくなる。同時に【バブルヘッド】達の頭部の発光も、治まっていく。【雰囲気】が意味を失っていく。

 更に二、三言、義孝が朱人の詳細な情報を口にすると、「……そういうことでしたら」と云う事で、あれよあれよという間に朱人達は開放される運びになった。【雰囲気】は消えた。


「次からは気を付けてください」


 そんな朱人には理解し難い言葉を残し、新田という警察官は去って行った。

 そして、それ以上に理解し難い人間――清水義孝は、


「それじゃあ、行こうか」


 朱人に対し、優しい笑顔でそう言った。


◎◎


「……どうしてあんたは僕を助けるような真似をしたんだ」


 義孝の後ろをついて歩きつつ、その背中に朱人は疑問の声を投げた。


「どうして?」

 僅かに朱人の方を向きながら、義孝はおかしそうに言う。

「教師が生徒をかばうのに理由がいるのかい?」

「…………」

「そうだね、そうやって睨まれるのなら、僕も正直に話すべきなんだろう。君は真っ直ぐな子だ」


 義孝は嬉しそうな表情を浮かべ、それからやれやれと肩を竦めてみせる。


「大人のというのは不自由でね、自分の面子めんつだけでなく、時に所属する組織の体面まで守らなくちゃいけない時があるんだ」

「つまり……学園のはくに傷をつけないためか?」

「そうだね、名誉を守るためだよ。失望したかな?」


 義孝のその問いに、朱人は首を振った。

 朱人にしてみれば、理由があるというのならそれでいいのだった。理由がない【雰囲気】に流されるだけなら、それは憎むべきことであり手に負えないことだが、己の立場を守るためという明確な理由があるのなら、それは酷く人間的で、利用もできる。


(なにより、でしか行動できない木偶でくどもとは違う)


 打算的な人間である朱人にとっては、分かり易いその点こそが重要だった。

 しかし、同時に疑問もあった。


「清水」

「うん?」

「先生」

「うん」

「……あんた、どうしてこんなところにいたんだ?」

 いま彼らがいるのは真火炉町の中心街を離れ、閑静な住宅街へと向かう道だ。平日の真昼間に、教師がいるべき場所ではない。

 朱人がそう言うと、義孝は苦笑し、

「それは君も同じだろう」

 そう言った。


「さしずめ、いじめに耐えかねて学校を休んだというところだろうけど、でも僕は少し驚いたよ。君は今の境遇にありながら無遅刻無欠席を一年生の頃から貫いている生徒だったからね、休むにしても制服でうろついているとは思わなかった」


 そう言われれば朱人には言葉もなかったが、それ以上に義孝が自分の事を予想以上に把握していることに驚いた。いじめられていることは周知の無視されている事実だとしても、無遅刻無欠席だとか、そんなことまで知っているとは思わなかったからだ。

 朱人は、何だかそれが嬉しかった。

 だから、義孝が続けた言葉に反応するのが遅れた。


「野城君尋君――君のクラスメイトが、昨日から自宅に戻っていないらしいんだ」

「――え?」

「別のクラスだが、姫禾希沙姫君も今日は学校を休んでいる」

「な」

「言っただろう? 僕ら大人は、自分の面子だけでなく所属する組織の体面も気にしなくてはいけない。君達だって学園という組織に所属している以上、僕ら教師はその全てを知悉ちしつしていなければならない。だから」

「だから」

「うん、だから家庭訪問さ。。これから僕は、野城君と姫禾君の家庭訪問に行くんだ」

「――――」


 そのあとも、義孝は何か言葉を並べていたが、既に朱人は聞いていなかった。


(どうなっている? あの二人は昨日僕の前から一緒に逃げて――じゃあ、あの姿を最後に消息を絶っているとでもいうのか? 分からない。銀華の事と言い華蓮の事と言い、多くの事が同時に起き過ぎている。いったい何が――)


 めまぐるしい思考をする彼の耳には、どんな言葉も届かなかった。

 だから、いつの間にかその優しい表情を消し、本来の精悍な顔に厳しさを宿した清水義孝が――


「君は――【幻想】を棄却し【踏破】に至るのか?」


 そんな風に無感動な声で呟いた事には気が付けなかった。

 彼の頭上で、【バブルヘッド】が闇よりもなお深い混沌の黒に染まっていることにも、同じように気が付かなかった。

 どこから錆び臭い風が一陣、吹き抜けていく――




第四章、終

第五章に続く

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