第四章 可憐なる乙女は救世主を思う

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 玖星ここのほし朱人あけひとの朝食は孤独である。

 妹や弟、姉や兄はいない。

 両親は存在するが、既に彼に対し何ら興味を示さなくなっており、生活費を渡す以外顔を合わせることもない。家庭内別居状態。それは意図されたものであり、冷え切った彼ら二人の関係から来るものでもあったが、しかし結局のところそうやって自分が無視されるのも、すべては【バブルヘッド】の仕業であると朱人は考えていた。


(父さんも母さんも、僕が産まれてくるまでは幸せな夫婦だったと聞く。生物学的に、子供が生まれることで恋愛以上の幸福――使命感を男女は得られるとする文献もある。だとすれば、やはりそれは僕が救世主であったから、【バブルヘッド】に徒為す存在であったから【攻撃】されたと考えるのが妥当だろう――二人には、正直申し訳ないことをしたと思っている)


 幼い日。まだ笑顔を浮かべることがあった両親たちに思いをせ、朱人は何だか申し訳ない気持ちになっていた。

 自分という存在が産まれなければ、両親が今のように互いを無視することがなかったのではないか、そんな【雰囲気】が生じることはなかったのではないか。そんな思いは救世主を自負する彼だからこそ尽きることはなく、いじめられる側であるからこそ、感受性鋭く理解している節もあった。本人は使命感に燃え、金剛石の心を持っているとしても、それが傷つかないというのは幻想である。

 金剛石とて、砕ける時は砕け散る。玖星朱人はそれを知っている。

それでも、


(でも――だからこそ、必ず僕は世界を救う。救世主として、人間の自由と尊厳を取り戻してみせなければならない)


 そう心を奮い立たせることが出来たのは、いまの彼が独りではなかったからだった。

 もう十年以上孤独だったはずの彼の食卓に、その日は同伴者がいたのである。


「朱人ちゃん、まだニンジン嫌いなの? ダメだよ―そんなんじゃ。カロテン補給できないよー?」

「……ニンジン食べると、目が赤くなるから」

「都市伝説じゃん」

「ニンジン、ボク、イラナイヨ」

「カタコトになってもダーメ!」


 はい、口あけてー。

 そう言うや否や、朱人の正面に座っていた人物は箸を伸ばし、中央の皿に盛られた肉じゃがの山の中から的確にニンジンを探り出す。そうして朱人にそれを突きつけてこう言うのだった。


「あーん」

「やめろ」

「あーん」

「やめろって」

「あーん」

「やめろ……やめてください。いくらなんでも頭が悪すぎる」

「あーん」

「……あーん」


 屈託ない表情と、そして対照的な押しの強さに、朱人の心中で、もやもやとした掴み所のない感情が生じる。

 その感情を正視することが出来ず、たじたじになりながらも朱人は従い、口を開ける。するとその口腔に、ごろっとした橙色の野菜片が容赦なく押し込まれた。


「……噛みなさいよ」

「ぐ……」

「なぁに? 朱人ちゃんは私が作った手料理なんか食べられないっていうの?」

「作っただの、手料理だの、繰り返すな、本当に頭が悪く見える」

「頭が悪くたって料理は出来るわよ。そんなに私の味付けが気にくわないの?」

「違う」

「うーん……あ、分かったわ! 隠し味に使ったインスタントコーヒーが気に入らないのね! そうでしょう?」

「そうでしょう? じゃないよ! え? おまえ僕の話聞いてるか? というか、そんなとんでもないもの入れやがったのか、おまえ!」


 なによ、美味しくないの?

 そう言って同伴者――秕未しいなみ華蓮かれんは半眼で朱人を睨んだ。

 頬を可愛らしくふくらませ、焦げ茶色の瞳をジト目にして睨んでくる少女に、世の中の大部分の男性がそうであるように、朱人は何ともいえない微妙極まりない表情でこう答えるしかなかった。


「味が染みてないが……不味くは、ないよ」

「黙って美味しいと言いなさい」

「はいはい、美味しい美味しい」

「やったー!」


 諸手をあげて、弾けるような笑顔を浮かべる華蓮。

 朱人はそんな彼女に、複雑な胸中を吐露できなかった。昨日見たすべてが夢であったのではないか、朱人はそ思わずにはおれなかった。


◎◎


 朱人は、華蓮が自分と同じ高校に通っていることを、その日初めて知った。

 翠城学園最寄りのバス停まで行く通学バスに揺られながら、朱人は華蓮の姿を観察する。


(いまのは髪の色も瞳の色も、至って普通の日本人だ。髪が学則ギリギリの長さなのと胸が大きいことを除けば、多分女子たちの中に埋没してしまう。だが――)


 少女の頭部に、朱人は胡乱な視線を向ける。

 【バブルヘッド】。

 彼がそう呼ぶ、奇妙な人類の支配者は、現在秕未華蓮の頭部には存在していなかった。


(やはりあの女――銀華インファの言葉通りなのか)


 昨夜、朱人はその怪異と遭遇した。

 秕未銀華を名乗る琥珀色の瞳に白銀の髪の少女は、自らを『世界を滅ぼしに来た災厄』と呼称し、【バブルヘッド】を支配していた。


(種を植え付ける――確かそう言っていたな。奴にとって【バブルヘッド】は栄養源シンビオントに過ぎないと――苗床とも言っていたか、冬虫夏草の一種が、自らの胞子を遠くへ飛ばすために寄生した虫を高所へと操るように、奴も種を植え付けた【バブルヘッド】を自在に操れる――とすれば、それ完全に上位の捕食者と云う事になる。生態系の、更に上だ――ん?)


 そこまで彼が考えた時だった。

 バスの駆動音に混じって、せせら笑うような声が耳に届いたのだ。

 それとなく見遣ると、バスの後方の席に陣取る数人の女子グループが、口元を手で隠しながら何やら囁き合っている。


「――玖星――――分際で」

「付き合って――知らな――次から――」

「――決まり――秕未も――シカト、安定――」


(上手く聞き取れないし、口元を隠されては読唇も出来ないが……何やろ僕を疎んでいる連中のようだ。僕を疎まない【バブルヘッド】は存在しないから、その差し金だろうが――)


 朱人は、女子グループの頭部でちかちかと点滅する【バブルヘッド】の光がバス内に拡散していくのを見て取り、苛ただしげに舌打ちをした。


(ちっ――僕がいじめの対象にされるだけなら構わないが今はまずい。華蓮を巻き込んでしまっては今後の動きに支障をきたす――どうする?)


 考えて、そして実際に彼が動くまでの時間はそう長くなかった。


「すまない、華蓮」

「んー? どうしたの朱人ちゃん?」

「僕は今日――学校を休む!」


 少女に反論の暇を与えず、少年は降車ボタンを押した。

 折よく通過するところだったバス停で車が止まり、そして玖星朱人はタラップを蹴り、風のようにバスから駆け降りていった。


「朱人ちゃん!」


 幼馴染の声が背中にかけられたが、彼はそれを無視した。女子グループの嘲笑の声は、もはや気になりもしなかった。


◎◎


 ひとり座席に取り残され、秕未華蓮は、転がり落ちるようにしてバスから飛び降りる中性的な顔の少年を見送り、小さな溜息をついた。

 バスが発車すると、一時的に静まり返っていた車内はみるみるうちに小さなくすくすという笑い声に包まれた。それが今しがた飛び降りていった少年を笑うものだと理解して、華蓮はムッと気色ばんだが、すぐになよなよと座席に崩れ落ちてしまった。


(やっぱり、朱人ちゃんはいじめられているんだ……)


 今日まで、その事実に気が付かなかった自分に、華蓮は心底失望していた。その失望がやる気というか怒りさえも呑み込んでしまい、いまのように脱力してしまうのだ。

 周囲が共通の話題で盛り上がっているのに、自分はそれが理解できな時に似ていると、華蓮は思った。


(きっと、朱人ちゃんはそんな気分を、毎日味わっているんだ。自分だけ違うんだって、のけ者にされているんだって――そんなのって、すごく哀しいよ)


 何となく窓に映った自分の顔を見ると、それは酷い有様だった。少女は今にも泣きだしそうな、くしゃくしゃな表情を浮かべていた。

 酷い後悔が、少女の胸中で渦巻いていた。

 秕未華蓮と少年――玖星朱人は幼馴染だ。

 しかし、この十数年間、その交友は全く絶たれていた。


(どうして)


 座ったまま、通り過ぎていく景色を窓の外に眺め――少女は思う。


(どうして私は――?)


 華蓮はひたすらに、それを悔やんでいた。

 ほんの今朝方、朝食を作る前に実家である神社の境内を掃除しようと早起きするまで、彼女は玖星朱人という存在自体を忘却していたのである。


(幼馴染なのに)


 小さい頃は二人でよく遊んだことを、華蓮は覚えている。いや、既に思い出している。実の兄弟のようだと、自らの母親――秕未杠葉ゆずりはからニヤニヤと笑われたことも思い出している。

 それほどまでに仲が良かったにも拘らず、今日という日まで華蓮は朱人を忘れて生きてきたのだ。


 まるで、そんな人間など存在しないとでもいうかのように。


(だから、私は)


 だから彼女は、今朝朱人の家を訪ねたのだ。作ったばかりの、味の沁みていない肉じゃがを持って。


(肉じゃがは、朱人ちゃんの大好物だったから)


 そうして、いまに至る。

 朱人は自主休校を決め込んで逃走し、彼女は今、ショックに打ちひしがれていた。

 朱人は取り立てて気にしていた様子はなかったが、それでも彼女の知る玖星朱人とは随分と変わってしまっていた。


(別人、とまでは言わないけど……朱人ちゃんは、あんな目をする男の子じゃなかった)


 少なくとも自分が知る限り、追い詰められた、手負いの獣のような目をするような少年ではなかったと、彼女はため息をつく。少年の優し眼を少女は見たことが確かにあった。


(朱人ちゃん……)


 流れた歳月の、その流れによってあけられた溝の深さに打ちのめされ、悄然と項垂れている間にバスは翠城すいじょう学園についてしまった。

 次々に降りていく学友たちの後に続き、どうにか惰性でバスを降車した華蓮は、重たい足取りで学舎に向かう。気分は日中のゾンビのようだったが、良くも悪くも惰性。彼女の足はきちんと動き続けていた。

 その足取りを止めたのは、背後からかけられた声だった。


「あの、すみません。すみません、あなたです、秕未さん」


 はじめは自分に掛けられる声だとは気が付かなかったが、名字を呼ばれて華蓮はようやく振り向いた。いくらこの国が広くとも、その特徴的な名字の人間は少ない。少なくともこの学園に彼女と同姓の人間はいなかった。


「……あなたは?」


 華蓮は鈍い頭で問い掛ける。振り返った先に居たのは、短い金髪に、眩しいほど白い軍服の様な詰襟を身に纏った同年代の少年だった。

 彼は自らを四方坂よもさか了司りょうじと名乗り、こう尋ねてきた。


「よければ放課後、あなたのご実家――秕未神社のご神体を拝見させてはもらえませんか?」


 華蓮にとっては、それは至極どうでもいいことだった。

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