2


◎◎


「――っはぁ」


 希沙姫は、大きく息を吐いた。そのままゆるゆると呼気をすべて吐き出していく。肺腑の中のものすべて、細胞の一つ一つが持つすべて、とにかくすべてを吐きだして――そして吸い込む。

 濃い血のかおりが、彼女の全身を充たした。


「はぁ」


 今度のものは、恍惚としたそれだった。

 希沙姫の拡げられた股の下で、ひとりの少年が死んでいる。

 眼鏡の奥の眼は恐怖に一杯に見開かれ、表情は苦悶のそれであったが、一撃で脳を破砕されたため然したる苦痛なく死んでいた。それを本人は知らないし、希沙姫は知ってはいたがどうでもよかった。

 彼女の目的は「殺す」ことだけなのだ。

 理由は存在するが、一般的な殺人者が抱く怨恨や利益による動機とは程遠く、彼女自身も上手く表現できないでいる。明確な理由があったのかもしれないが、それは今、希沙姫の脳髄では想起されない。

 なので、やはり「殺したい」から「殺す」のだと希沙姫は考えていた。


「――――」


 どれほどそうしていたか、血の薫りに酔っていた彼女が、唐突に顔を上げた。

 スッと機敏な動作で左手を伸ばし、少年――かつて野城君尋だったものの左足から逆手で鉈を抜き取る。細い手には似つかわしくない手際でそれを半回転させ順手に持ち替え、更にシャベル――それは未だに血と脳漿のうしょうが滴っていた――を逆手に構え立ち上がる。


「――――」


 ジッと彼女が見つめているのは、廃墟――既に使われなくなって久しい廃ビルの3階フロア、その壁である。

 左の鉈を右の肩口に構え、右手のシャベルをギリギリまで背後に引き絞った――その刹那だった。

 轟音を立て、ビルの壁面が破壊された。

 破壊――否、

 そうして、もつれあうようにして二つの影がビルの内部へと飛び込んでくる。

 影の一つは少年だった。

 闇の中でも分かる短い金髪の、軍服の様な白い詰襟を着た少年。

 しかしもう一つの影は、ヒトガタをしていながら異形だった。

 三メートルはある巨大な体躯は、水分を失ったかのように皮と骨ばかりに見え、鋭い爪を持つ硬直しているかのようなその両の手が前方に真っ直ぐ突き出されている。鼻や耳と言った器官はなく、伽藍堂がらんどうの様な双眸の中で緑の鬼火が燃え、口腔からは悍ましい声が上がっている。

 異形と少年は、まるで戦っているようで実際はそうではなかった。

 少年は驚異的な身体の力を有しているようで、一瞬で数メートルもの距離を跳躍して見せるが、その異形――化け物はそれを一歩の間に詰め、鉤爪を振るう。

 寸での所で少年はそれを躱し、鉤爪は剥き出しの床に突き立つ。突き立った瞬間には、その異変が起きている。

 化け物の触れた床の一部が、まるで百年の歳月を一瞬で経過したかのように風化し消滅したのだ。そしてその周囲は腐食し錆び付いていく。

 後には大穴と、


(錆びの臭い)


 それだけが漂っている。

 少年はひたすらに逃げ回っていた。暗闇のなか希沙姫が見て取れたのは、その少年の表情が怒りに歪んでいるという事だった。


(何が起きているんすかね……?)


 あまりに突飛な展開に、希沙姫は首を傾げていたが、


(とりあえず、巻き込まれるのもなんっすね。あれはどう見ても人間じゃないですし、殺したくなるようなものでもないっすし)


 普段の茫洋とした表情に戻り、構えを解く。そしてとにかくこの場から退散しようと振り返って――


 そして姫禾希沙姫は、奇妙なものを見た。


 破壊された壁、そこから街の明かりと、月明りが射しこんでいる。朧に照らされる室内に、それは引き延ばした影のように存在していた。強烈な逆光を背に負っているような見通せない黒――夜の闇の中でさえなお馴染まない異質な黒色。影の先端からは西洋の城のような突起が幾つか伸びている。

 希沙姫にはそれが、


(なんだか、お伽噺に出てくる玉座に座った王様みたいな――)


 そんな風に映っていた。

 その黒色が、スッと手を上げるようなそぶりを見せた。

 まるで時が止まるかのように、希沙姫の眼に映るものが動きを止めていく。

 バケモノの腕は振り上げられたまま止まり、それを躱そうとする少年も跳躍の姿勢で固まる。

 静止した世界で、黒の王だけが動く。


『君の願いを聞き届けよう――切なる願いに応えよう』


 王が玉座より立ち上がる。

 何かがその手の中に凝縮される。

 黒なる王は、こう言った。


『――君に【幻想ロマン】を授けよう』


「――っ」

 次の瞬間、希沙姫の視界からその黒色は消え失せていた。あるのはただ、破壊された壁と――

 ドガン!と何かを壊す音。化け物が打ち下ろした腕が、また床を砕いたのだ。

 しかし、その物音も、もはや希沙姫には気にならない。

 その眼は吸いつけられるように、黒色がいた存在していた場所を注視していた。


 そこに突き立つ――一振りの刃金はがねに。


 希沙姫の肩から、ショルダーバックが落ちる。

 両手から、それぞれシャベルと鉈が落ちる。

 ガシャン、カラカラ。そんな音を立て、彼女の得物だったものが価値を失う。

 希沙姫は、走りだす。

 背後でバケモノが咆哮した。

 金髪の少年の姿はない。バケモノの魔手に倒れ、全身が腐食して消え去ったのかもしれない。或いは無事に逃げおおせたのかもしれない。だがそんな事は、もはや希沙姫にはどうでもよかった。

 風のような速度で彼女は駆け、に手を掛ける。

 触れた瞬間、彼女の中に【それ】は流れ込んできた。


『右から袈裟ヶ斬けさがぎりに/振り降ろす刃を返す/背後から心臓に刺突/腹部への一撃は致命傷に至らない/肝臓を抉れ/肺臓を潰せ/喉を踏み抜け/水平に頸動脈を狙い/眼球を貫き眼底を破壊し脳幹を砕け/耳より海馬を射抜け/背後から肋骨の隙間を縫え/打ち下ろしを頭部に/手首を切りつけ腱を切り得物を取り落させ/失首と足首を切り血死を待て/爪を剥ぎ気概を削げ/頸椎に一撃/線が連なる一点が致命傷を産む/対敵の刃を切り落とし切り裂け/爪牙そうがを破壊しろ/手指を捥げ/硫酸に解かせ/殺せ/殺せ/殺戮ころせ――』


(――――)


 それは、ありとあらゆる殺人方法だった。

 人を殺すためにいかに効率よく動けばよいか、その凡てを瞬時に伝える情報の渦だった。殺意が極限まで凝縮された、人を殺すために特化された【】のようなものだった。

 それが、姫禾希沙姫という人間を染め上げる。


「――――」


 殺人衝動が噴出するように湧き上がる。誰彼かまわずに殺したくなる衝動。殺戮衝動。それは本来希沙姫が秘めていたものと相似形でありながら全く異質な――


「BAGURUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUU!!」


 バケモノが雄たけびを上げ、その触れたものすべてを錆びと化す凶腕を振りかざす!

 希沙姫は。

 姫禾希沙姫は――


「――五月蝿うるさいっす」


 振り降ろされた腕に正確にをぶつけ、その威力のすべてを相殺してみせる。

 グワァンと銅鑼を鳴らすような音を立てそれ――湾曲のないシャベルに似た、山菜を採取するための山刀――はバケモノの一撃をしのぎ切る。

 錆になることもなく、腐食することもなく、冴えた輝きを放ち続ける。


「人に命令する前に、名前ぐらい名乗るっすよ」

『――――』


 その、希沙姫の言葉に答えるように、山菜刀が震えた。


「……功刀くぬぎ……なるほど、悪くない名前――っす!」


 希沙姫は跳ぶ、左前方に。

 いまのいま、彼女の頭部があった位置を、バケモノの魔手が薙ぐ。山菜刀功刀はバケモノに抗しえたが、希沙姫の生身までは耐えられない。それを彼女は本能的に悟っていた――

 希沙姫の繊手が閃く。その手に握られた功刀が銀光を放ち、バケモノの喉元へと伸びる!

 グァワン。

 銅鑼ドラのようなその音がもう一度響く。

 希沙姫の手の中の刃は、バケモノの喉に突き立ち――しかしその皮一枚を、皮しかない部位を貫くこともできずに弾き返される。

 剛腕が叩き付けられる。

 少女が舞うように躱す。

 少女が刃を奮う。

 バケモノが迎撃する。

 反発し、両者が下がる。

 バケモノが動きを止め、希沙姫も荒い息を吐く。

 互いに決定打を欠く拮抗状態が生まれていた。

 ……しかしそれでも、不利なのは希沙姫で間違いなかった。それを重々承知して、彼女のこめかみを、冷たい冷や汗が流れ落ちる。


(やっぱ、人間相手じゃないと楽くないっす。自分も――こいつも)


 功刀は彼女に『殺せ』と呪いの声を飛ばすが、具体的にどうしろとは言ってこない。呪いによって身体を無理矢理強化するが、それにしても先程までの精彩がない。瑞々しいまでの殺意がない。

 それは希沙姫たちに、その化け物を殺すにたる意志が存在しなかったからだ。


「GURUURUUUU」


 低く化け物が唸り、身を撓める。


(次の一撃、自分は回避できないかもしれないっす。すると、終わりっすね)


 圧倒的に殺意が足りない状況で勝利はあり得ない。殺人鬼としての本能が希沙姫にそう告げ、功刀の呪いもまた同じ判断を下した。

 腕一本犠牲にしてでも逃げだす――そんな判断を希沙姫が検討し始めた時、バケモノに異常が生じた。

 緑色の鬼火。

 虚ろな眼窩の中で燃えるその炎が、希沙姫を見ていない。希沙姫の頭上を通り、バケモノの視線はその更に先を見詰めていた。

 バケモノ行動は迅速だった。

 撓めていた四肢が躍動し、地を蹴る。

 希沙姫は咄嗟に迎撃に映ろうとするが、それが空振りに終わる。

 バケモノは、壁の穴へと向かって跳んでいた。

 その姿が、夜の街並に消える。


「……なんすっか」


 暫く。

 それでもしばらく、希沙姫は残身の体勢を維持していたが、やがて構えを解き気の抜けた声で呟いた。


(本当に、なんだったのだろう?)


 そんな風に彼女が首を傾いだ時、背後から物音が聞こえてきた。

 

 カツン。

 カツン。カツン。

 カツン。カツン。カツン。


 


 闇に沈む廃屋の中に、その音は大きく響く。

 カツン。カツン。

 近づいてくる足音に、希沙姫は振り返る。


(今日は振り返ってばっかりっす)


 そんな思いも/カツン。/その音が迫り/カツン。/希沙姫がその姿を認識した時には/カツン。/すべて、雲散霧消うんさんむしょうしていた。


 ――


 足音が止まる。

 立ち止まる。

 それは、白衣を吹きつける風になびかせ、精悍な表情を厳しく引き締めて希沙姫を見詰めている。


「……二色パンの人」


 希沙姫は思わず呟いていた。

 ボロボロの室内。

 転がる少年の惨殺死体。

 殺戮の現場。

 そこに――彼女が知る人間の中で、この場に最も似つかわしくない、場違いな男――清水義孝が立っている。


(なんで、清水せんせーがここにいるっすか?)


 今まで起きたどんな出来事よりも、その事実に戸惑いながら、希沙姫は彼に向かって言葉を投げようとした。

 投げようとして、やめる。

 義孝の視界に、当然野城君尋の死体は入っている。だというのに、彼は眉根一つ微動だにしない。

 代わりに、その手が懐に延びる。

 希沙姫に二色パンを渡す時と同じように。

 だけれどそこから引き出されたのは――白く、白い仮面だった。

 眼の位置に僅かな切れ目と、口の位置に罅割れたような笑みが刻まれた仮面。

 それを、義孝は――被る。


変神ARRIVAL


 その聖句イノリが、彼の全身を染め上げた。

 白衣が、闇に呑まれるような漆黒へと転じる。

 もとよりの黒髪が、夜よりもなお暗い烏羽玉うばたまの色へと変化する。

 そして、その彼の右手の裡からそれが姿を現す。

 刀身長1500mm、全長1900mm。

 緋色の刀身に月を映す、野太刀と呼ばれる大きさの武骨な日本刀。


(――


 この瞬間に、姫禾希沙姫はすべてを理解した。

 自分が誰か、功刀とは何か、あの黒の王が何者か――そして眼の前の漆黒が――闇夜の鴉がなんであるのか。

 ニグラレグムに出遭ったものは――


(仮面の死神に――殺される)


「――きひ」

 希沙姫は笑う。

「きひひ」

 姫禾希沙姫は笑う。

「きひひひひひ!」

 哂い、殺意と共に疾走する。

 功刀もまた、その殺意に応える。

 二人の殺意が混じり、精製されていく。

 清水義孝だったもの――仮面の死神もそれに応える。

 殺人姫――姫禾希沙姫は、心の底から愉しくて嗤った。

 彼女は、そうしてはじめて出逢ったのだ。

 己の全身全霊を以て、純度百パーセント、絶対致死の猛毒たる殺意を――

 殺し合いが始まる。

 殺し逢いが始まる。


「――ねぇ――、名前はなんていうんすか?」

「――鴉樫あがし清十郎せいじゅうろう


◎◎


 かくして、長い前日譚は幕を閉じる。

 そしてこれより――人類の危機――真火炉まほろの街すべてを巻き込む大惨劇の幕が、ようやく、ようやく上がるのだった。



第三章、終

第四章に続く

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