第三章 殺人姫は刃で殺す

1

「君は、ニグラレグムを知っているかい?」


 そんな質問を、姫禾ひめのぎ希沙姫きさきが受けたのは、春先の頃、翠城すいじょう学園に赴任して来たばかりの新米教師――清水しみず義孝よしたかからだった。

 何となく天気がよさそうだったので、中庭のベンチにちょこんと腰掛け、カロリーメートを齧っていると、自分の上に影が出来た。

 ぽーっと、みあげると、そこには生物教諭の義孝が白衣を着て立っていたのである。


「ニグラレグム、聴いたことないかな? 僕はまだこの学園――というかこの街にやってきたばかりで疎くってさ。いろいろ、君達が興味を持っていることを調べているんだけど」


 知らないかい? とフレンドリーに問われて、希沙姫は首を振った。


(知っていたかも、しれないっすけど……)


 興味がないもの事は、彼女の脳髄のうずいに長くとどまれない。例え過去にその単語に聴き覚えがあっても、いまは忘却の彼方だった。

 義孝についても、何となく教師であることは分かったが、顔を合わせた事があったかどうかは思い出せないでいる。そこそこ女性受けな精悍な顔つきだとは思うけれど、思うだけでやはり希沙姫に興味はない。実際女子の間ではモテないイケメンとして彼は有名だったが、希沙姫にとっては何処までもどうでもいいことだった。

 思うところもなくなり、希沙姫はカロリーメートの残りを口の中に放り込むと、まだ何か言いたげにしている義孝を無視して教室に戻ろうとした。

 ぐー、と。

 彼女のお腹が鳴った。


(いつもと同じ量、食べたのに……)


 希沙姫は今、食事の量が少ないとストライキを上げてきた腹部を両手で押さえつける。

 普段と違う自分の身体に、眉をハの字に寄せて困惑していると、くすくすという噛み殺し損なったような笑い声が聞こえてきた。

 振り返ると、義孝が口元を押さえて肩を震わせている。


「なんすか」


 彼の振る舞いの意味が分からなかった彼女は単純に尋ねたのだが、義孝はそう受け取らなかったようで「あ、気に障ったならごめんよ、謝るよ」そう慌てたように言って、頭を下げてきた。

 希沙姫が何も言わず見つめていると、それが気まずかったのか義孝は目を逸らし「ああ、そうだ!」急に何かを思い出したように、白衣のポケットを漁りはじめた。

 しばらくして出てきたのは、希沙姫は見たことがない食べ物だった。

 パッケージの文字を読み上げる。


「二色パン?」

「そう、二色パンだ! チョコとクリームが同時に楽しめる、最高にえた食べ物だよ!」

「…………」


 一人で盛り上がっている義孝を無視して、希沙姫はそのパンをおずおずと受け取った。パッケージを開けて、右側を割ってみる。

 カスタードクリームが入っていた。

 左側を割ってみる。

 チョコレートクリームが入っていた。

 一つのパンの中に、黒と白の二つのクリームが入っている。


(なんだか、人間みたいっす)


 希沙姫は、どうしてだかそんなこと思い、そのパンを齧った。


「……美味しいっす」

「それはよかった。もう一つあるけど、食べるかい?」


 その日から、希沙姫にとって義孝は、二色パンの人になった。


◎◎


「はっ、はっ、はっ、はっ――」


 野城のしろ君尋きみひろは闇の中をがむしゃらに走っていた。

 形振り構わずに、大きく上体が揺れ、転びそうになっても立ち止まらず、無理矢理に体勢を立て直して走る。


(逃げなくては逃げなくては逃げなくては)


 彼の頭の中は、恐怖と、どうしてこうなったのかということで一杯だった。


(あの日俺は、玖星ここのほし朱人あけひとの取り調べをして――それから、それから俺はどうした? そうだ、確か、確かあの女に――)


「はっ、はっ、はっ、はっ――」


 闇の中に、彼の荒い呼気と、足音だけがこだましていく。廃墟のようなそこで、君尋は逃げる。逃げる背後から、奇妙な音がした。

 ひゅんひゅんひゅん――と、何かが風を切る音。

 経験則から、咄嗟とっさに君尋は右に転がった。

 ガッ!

 何かが音を立て、いままで君尋がいた場所にぶつかる。怯えと共に見遣れば、そこには農作業用の【草刈鎌くさかりかま】が突き立っていた。

 ひっ、と引きった声を上げ、また君尋は逃げる。


(どうしてこうなった)


 それだけが頭の中で巡っている。


◎◎


「人間にとって大切な酸素が高濃度では危険だということは有名だけれど、更に酸素原子を一つ足したオゾンにも危険性があるという事は、意外と知らない人も多いね。オゾン層は紫外線を防いでくれるけれど、あれは成層圏での話で、地表付近では光化学オキシダントを形成してしまう。何よりオゾンには強い腐食性があるから、やっぱり人間には危険なんだよ」


 普段人間を守ってくれているものが、必ずしも人間にとっての味方ではない。

 そんな事を、義孝は希沙姫によく話した。


「未来ある若者は、できるだけ大きな視点を持った方がいい。盲目的に一つの側面に固執すると、あとで手酷い裏切りを受けるなんて言うのは、よくあることなんだから。大切な唯一があったとして、それに理由が一つしかないなんて考えるのは、とてももったいないことなんだよ」


 希沙姫はそれに、何となく頷きながら、義孝から貰った二色パンを食べている。彼と話をするときは、カロリーメートではなく二色パンを食べることにしていた。その理由について、希沙姫は思い当たる節がない。ただ何となく、カロリーメートよりも二色パンの方が美味しかったというそれだけである。

 義孝の話を聞く理由もそれだった。


(二色パンの人は二色パンをくれるっすから)


 本当にそれだけの理由で、義孝の話を聞いている。彼女の気分としては、水飴目当てに紙芝居屋に通っているようなものだった。何となくが積み重なって、何度目かの会話が一方通行ながら成立している。

 彼女は自分が学園内で微妙な立場にいることは自覚しているが、そしてそれが義孝と話をするようになって一層奇妙なものに為ったことも知っていたが、それでも義孝と会うことをやめようとはしなかった。友人の何人かから「玖星君みたいになっちゃうよ」と、やんわり止められてもそれは変らなかった。希沙姫はいじめに興味がない。どうでもいい他人になど興味はない。今の立場も彼女が望んだものではなかったし、いじめられようがどうでもいいのだ。

 だからその日も、希沙姫は二色パンをかじりながら義孝の話を聞いていた。


「僕は、ニグラレグムという噂も、そう言った類のものじゃないかと思っているんだ」

「……清水せんせーは、その噂が好きっすね」

「好きというか、興味深くないかい? 学生の中だけで流行る【幻想】を与えることで【願い】を叶える怪人の話って」

「本当に、願いを叶えてくれるんですかね」


 そう問うと、義孝は決まって首を傾げた。


「どうだろう。噂はあくまで噂でしかないし、少なくとも僕の聞き及んだ範囲では【願い】が叶った生徒も、ニグラレグムに実際にあったと話す人もいなかった。でも、もしニグラレグムが実在して、本当に人の願いを何らかの方法で叶えるというのなら――きっとそれは、何か理由があっての事なんだろうね」

「理由」

「理由というか――思惑だよ。打算や、裏側。そうだな――【】と言い換えてもいい」

「…………」


 黙ってしまう希沙姫に、義孝は酷く真剣な表情でこう続けるのだった。


「それに、もし出遭ったとしても、何も願わない方がいい。ニグラレグムが現れるところには――必ず仮面の死神も現れるのだからね」


(……なんだろう?)


 その言葉を吐きだす時の義孝の表情に、希沙姫は奇妙な胸の高鳴りを感じていた。その高鳴りを、彼女はいつか、どこかで感じた事がある――そんな気がしていた。


◎◎


「ぎぇっ!?」


 君尋は悲鳴を上げ、体勢を崩してすっ転んだ。

 背後から飛来した重いなにかが、左足に命中したからだ。鋭い痛みともに強烈な熱感が這い上がってくる。


「いてぇえええええええええ!」


 叫び、痛みに呻きながら、恐る恐る足を見れば、そこには【なた】が深々と食い込んでいた。


(糞、糞、糞、畜生!)


 ありったけの悪態を心の中で喚きつつ、君尋は足に刺さったその鉈を引き抜こうとする。鉈の柄に触れる。新鮮な激痛が走り、彼は再び絶叫を上げた。


(逃げなくては。とにかくここから、少しでも遠くへ逃げなくては――!)


 鉈を引き抜くことを諦め、うずく痛みに呻きつつ、這いずってでも逃げようとする彼の耳に、その音は響いてきた。

 たん、たん、たん、たん。

 軽やかな足音が先に響き、それを追うようにして、ガチャ、ガチャ、ガチャという、重たい金属同士がぶつかるような音が響いてくる。

 君尋は、這いずって逃げて。

 這いずって逃げて。

 這いずって逃げて。


――……


 その声を聴いて、頭の中が真っ白になった。


(――――)


 恐怖に痺れ何も考えられないまま、錆び付いた螺旋ネジのように硬い動きで、君尋は背後を振り返る。

 闇の中から、小柄な少女が歩き出してくる。

 君尋と同じ高校の制服を着た、肩より上の短い癖っ毛の少女。一歩進むたび、その体格とは不釣り合いな巨大で実用性一辺倒のショルダーバックが揺れてガシャガシャと重たい音を立てる。

 パッチリとした瞳が、いまは喜悦に歪み、爛爛らんらんと輝いている。


「姫禾希――沙姫」


 からからに乾いた喉から、もつれる舌をそれでも懸命に動かして、君尋はその名前を恐怖と共に押し出した。


「はぁーい、希沙姫ちゃんっすよー」


 応じるその声には茶目っ気が強い。

 嗜虐者特有のそれは、彼女は決して普段は見せないようにしている本性だった。

 希沙姫はケタケタと笑いながら、ショルダーバックに手を突っ込む。

 君尋は既に知っていた。

 そのショルダーバックの中に何が詰まっているのかを。

 おおよそ【刃】がつくものであれば、どれだけ切れ味が鈍かろうが鋭かろうが、その中にはすべてがおさめられているのだ。それを、君尋は経験で知っていた。いま彼の左足に突き刺さるそれも、そのショルダーバックから出てきたものだったからだ。


「えーと……次は、これがいいっすかね」


 物色するような手つきはすぐに終わり、何かが掴みとられ、引き出される。

 出てきたのは、鈍色の移植ゴテ――鋭利な先端を覗かせるシャベルだった。


「ざっくり、いってみるっすか」

「なぜ」

「……?」

「なぜ、俺を殺そうとするんだ、きみはっ!?」


 君尋は絶叫した。


「俺が殺される理由などない筈だ。俺はきみを口説こうとしていたが、そんなことぐらいで殺される理由になるものか! 俺はクラス委員長だぞ、学園の成績だってトップに入る、顔だっていい! 昨日まで何もかも順風満帆だった! 金が欲しいのか、欲しいならくれてやる幾らでもある! だから、そうだ! そんな俺が、俺が殺される理由など――」

「何故って」


 希沙姫は、呆れ顔で冷笑し、こう言った。


「人を殺すのに、理由なんてないんすよ」


 殺したいから、殺すのだ。

 そのあまりにシンプルな理由に、君尋は咄嗟とっさに反論が思いつかなかった。パクパクと、おかに上がった魚のように口を開け閉めすることしかできない。

 その様子をどう見て取ったのか、希沙姫は再び、陶酔したような笑みを浮かべる。

 そうして一歩、また一歩と君尋へと近づいてくる。

 君尋はずりずりと必死に後退しながら悲鳴を喚き散らすが、もはや希沙姫はそれを聞いてもいなかった。

 あっと言う間に間合いを詰め、君尋にまたがり彼女は告げる。


「ではでは。さよならっすよ、君尋くん」


 殺人鬼は、嫣然とした笑みを浮かべると、逆手に持ったシャベルを振り上げ、


「や、やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――ッ!?」


 一切利く耳を持たず、鈍色の刃を振り降ろした。

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