一章



神は死んだ。と、誰かが言った。

それは、僕かもしれない。君かもしれない。

強いて言うのであれば、そんなことはどうでも良い。

神という、空虚な妄想は、ひっそりと幕を下ろした。

貧困にもがき苦しむ、民たちが。息を潜めて、信仰し始めた宗教。

苦しい現世から、魂を解放させ、悲しみも憎しみもない、美しく、健全で、安らかな世界を目指した者たち。

彼らが唄った小さな希望。

人々により、創造された神々は。

人々によって、殺された。

音も立てず、ひっそりと。


この国が滅んで、一年が経ったであろうか。

死に何処へ向かって魂たちは、どうすることも出来なかった。

大河に流され続ける流木のようで。

僕らは運命に見放されてしまったのであろうか。

ちっぽけな二人は、酷な運命に。 絶壁の試練を与えられたまま微動だにできない。

しつしつと、雪が降り注ぐ最中、摩天楼の如く天に聳え立つ荒城が見えた。

ぽつぽつと視界を遮る雪は。まるで、悲しみに飽和された城を消し去るためにそんざいするかのようだ。

有無を問われれば、確実に顔を横に振るだろう。

なんせ、これは思い上がりだからだ。

ないことをあると言い。全てを忘却の彼方へ葬り去りたいのだ。忘れたいのだ。

小山の頂にぽつりと佇む荒城は。今も尚、覇気を漂わせている。

二人しかいない、国だと言うのに。

思い出は、空虚に浮かぶ薔薇のよう。

小山には、剥き出しの石垣が不恰好に連なっている。

僕らは、民が眠る墓地を後にして、荒城を目掛け歩いた。

それは、荒城が帰るべき家だからだ。

三歩手前を歩いていたゼフィランサスが無邪気にこちらを振り返り、

「一、二、三。っと」

後ろ手を組み、大足で近づいてくる。

ふわりと、靡く幼げの髪は、まるで春の花のよう。

「どうしたのですか?王女さま」

「アレク」

と、ゼフィランサスは少し照れくさそうに言い。僕の赤い、冷たく凍えた手をぎゅっと握った。

「王女さまっぽくありませんよ」

と、突拍子のないことに少々、狼狽えてしまう。

「いつも通りじゃない。何一つだって変わってない。お返しよ、温められっぱなしじゃ王女の名としていけないわ」

「これぐらいじゃ、温まりませんよ。王女さま」

「やっぱ無礼な奴だ。この手離してあげましょうか」

と、ゼフィランサスはぷいっとそっぽを向く。

「充分暖かいですよ、王女さま」

そう、言うと。

「それも、それで。なんか嫌だわ」

と、照れくさそうに笑った。


最果ての街を、一歩、二歩、三歩と、歩み続けると冷たくて、冷淡な石垣の前へたどり着く。

一年前、生者が死者へ還った日に赤く染め上がった石垣。

血がべったりとこびり付き、脳天から花開き、下半身から腸がぐしゃりと飛び出した、あの日。

僕は摩天楼のような石垣の前で、恐怖に恐れ戦いた。

僕らが踏む、この雪の下に数多の骸が眠っている。

雪は現世の罪を忘れさせようとする。真っ白な雪は何一つ書かれていない白紙のよう。

もう、僕ら二人しか潜らない門を抜ける。

石畳の階段が、まるで天国に導く道のよう。

ゼフィランサスは握っていた手をひらりと離し、階段を駆け上る。五段先まで登るとぴたりと脚を止め、

「アレク、私を捕まえてみて」

と、ふんわりと裾上げした。

「危ないですよ、王女さま」

「大丈夫よ、これぐらい」

と、無邪気に笑い飛ばす。

しかし、お手入れのされぬ凸凹な階段は無慈悲で、冷徹である。

ゼフィランサスは、足を引っ掛け背後に倒れ込んでしまう。

僕は、華奢な背中をこの身で受け止めた。

「捕まえましたよ、王女さま」

「捕まってしまったわね」

と、ゼフィランサスはため息を交える。

「危険ですからやめてくださいよ」

「危険じゃないわ、貴方がいる限り。私は死ぬ事はない」

「だといいですね」

唯一、助けることのできた命。

彼女の灯火はあまりにも静かで、深淵な谷底を見つめるような。途方もない暗闇。

今も、恐怖にかられて、あの日のことを忘れようとしている。

笑顔も、喜びも悲しみも。全てを忘れようとさせる鉄の仮面。

僕には彼女が見えない。見えてこない。

霧がかかった湖畔の奥で、影だけが踊ってるような。不確かで、確かめることができない。ぼんやりとした幻想。

それが、虚偽であろうと欺瞞であろうと、見て見ぬ装いをするのだ。

僕はなにも知らないと。

僕は関係のないことだと。

それは、僕が弱いから。

嫌われるのが怖いから。見捨てないでと立ち去る彼女の足首にすがるような。

淡い、淡々とした冷淡な希望。

まるで、地獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸。

たった一つの未来を信じて、空虚な理であろうと。嘘であろうと。苦汁を飲み干す哀れな行い。

これしか選択肢がなかったと。取捨権はないのだと言い聞かせるのだ。

罪であろうが、罰が求められようが。

僕には興味がなかった。


「やっと着いたわね」

と、ゼフィランサスは言う。

目の前には鉄製の大きな落とし格子。

巨大な怪物の口のよう。

しかし、格子が下されることはなく。いつも口を開いている。

あまりにも、無用心であるが。この廃れた最果ての国に訪れる者はいない。

「階段を登るのはつらいですね」

「あら、そうだったかしら?」

と、ゼフィランサスは不敵な笑みを浮かべる。

「私は辛くなかったわよ」

そう、言うと。少し考え込んで一人ながら赤面する。

「どうかなされました?」

「なんでも無いわよ」

と、ゼフィランサス言った。

門を抜けると、だだっ広い庭園である。

僅かに残っている、微かな記憶では、僕はここが好きだった。

虐殺が起きる前、友が灯火を宿していた頃、僕が裏切り者の烙印を押される前の何処の記憶。

生きていた友は、意識を持たぬ骸へ。

骸になった友は、苦痛の無い楽園へ。

僕らは、痛みも苦しみもない。安らかな極地を天国と言う。楽園とも言う。極楽浄土とも言う。

一年前、仲間が目の前で死んでいく姿を鮮明に覚えている。

けれど、修羅に染まった地獄の門が口開く前の記憶を尋ねられると、水にぼやける水彩絵の具のように曖昧である。

それは、僕らを冷たい世界へ誘う、雪のよう。儚くて、尊くて。あまりにも脆い。

溢れ落ちた水を全てすくえぬよう。

記憶の断片は、透明に化けてしまったかのようで。

私を捕まえて。と、薄暗い霧の世界へ消えてしまいそうな少女のようだ。

尊さに包括された、空しき世界。

空虚な世界は、深愛なる母の子守唄を聴いてるかのようで。

今は亡き、母の命を思い出す。

母は、どうして死んだんだっけ。

父は、誰に殺されたんだっけ。

僕は誰を殺したんだっけ。

と、僕は骸になった同胞を思い出す。

ごめんね、と唱え続ける日々。

誰も聞いちゃいないのに。誰も願ってはいないのに。僕は、僕を責め続ける。

僕を責め続ければ、許されると思って。

無意味な空想を理論として、許される理屈が欲しかった。

一年前だったら、雪の降る冷たい夜も賑わっていた。

酒を飲み、飯を食い、男は女を連れ、女は男を連れ。皆が生きていることを証明できていた。

不確かで、僅かな想いであろうと。生命の鼓動を持つ蕾は、希望の光が照らす明るい世界へ芽を開かせた。

この世界が地獄に成り果てる前までは。

地獄の存在を問われるという稀な機会があると言うならば、僕はここにあるとでも言うのだろうか。

意識や、思考が地獄を構築するように。人は地獄を体験することができる。

死にゆく者は死が体験できぬよう、死にゆく者に地獄を知ることはできない。

意思が硬化し、石のように硬くなったと思えば、晒される雨、風に風化されてく。

ぽろぽろと崩れ去る意思、意識は。道端の石ころに似てるのではないか。

そう、思うと石ころを無造作に蹴り飛ばすことは耐えがたい行い。

けれど、欺瞞に違いない。だから、僕は石ころを蹴り飛ばす。

理由なんて一つたりとも存在しない。


不恰好で、変哲のない扉が異様な存在感を放っている。

人間の二倍の大きさはあるだろうか。

僕は渾身の力を込め、押し開かせた。

内側に開く扉から、ふわっと、微かに暖かい空気が押し寄せてくる。

赤い絨毯が引かれた廊下は、奥が見えぬ程に伸び広がっている。

懐中にしまっていたライターを取り出し、入り口に置かれてるランプに火を灯した。

ぼんやりと広がる、僅かな光。

足元を照らす程度なら、これしきで足りた。

「王女さま、いつまで手を握ってるのですか?ランプが熱源となり、仄かに温まっていますよ」

「うるさいわね」

と、ゼフィランサスはあきれた表情を見せ、

「握りたいから握ってるのよ」

と、一段と強く握った。

「仕方ないですね」

「仕方ないのよ、諦めなさい。アレク」

そう、言うと。ゼフィランサスは鼻歌をし始めた。

幼くて、小さな女性。

父も母もいない少女。

幼さの抜けない音が、一人ながらでワルツを踊る。

相対的な音程に僕も歌って、音を合わせた。

まるで、小さな舞踏会。

「いつもより乗る気じゃない、アレク」

「きまぐれです、きまぐれ」

「そう、毎日これだと嬉しいわ」

「精進します、王女さま」

石造りの壁に音が反響しては、ぽつりと、音が沈んでく。

こつん、こつんと。足音も楽しみ始める。

すると、ゼフィランサスが握っていた手を上に持ち上げ、くるりと一回転した。

「王女さまって、踊れましたっけ?」

と、愚問を問うと。

「嫌なほど見てきたもの、猿真似程度ならできるわ」

と、少々ご立腹。けれど、流れ星のような笑顔を見せ、

「あなたと踊れて嬉しいわ」

そう、微笑んでくる。

「何、顔を赤くしてるのよ」

と、ゼフィランサスに言われた。

照れくさかったのだ。恥ずかしさのあまり体感温度が急激に上がる。

すると、時間が止められたかの如く、ぴたりと僕は足をとめた。

「どうしたの?」

と、心の底から憂えた声がする。

ゼフィランサスの声だ。

この感覚に苛まれるのも何度目か。

悪魔が耳元でいれ知恵するかのように囁く、不安心。

友を裏切った罪悪感が鬼胎の化身に化けたかのようで。奥底の見えない亜空間のような闇。

今は亡き、彼女の声がするのだ。

彼女の意思だけが、僕の脳みそで生きているかのよう。

僕の目の前で、自殺した彼女が。

鋭利な刃物で、ぐさりと首を突き刺した彼女が。僕を欺こうと偽りの言葉を並べるのだ。

狂言を五線譜に並べた、戯言の唄。

罪の意識が蓄積し、罰を欲した、自分勝手な空想と幻想。

彼女は、いつも。僕の幸福を拒み続ける。

脳裏に焼きついた、彼女の死に際。

燃える街、壊れる街、滅びゆく街。

全てを悟ったの如く、赤煉瓦の壁に背をかけていた彼女が、ぷつりと首に刃物を刺した。

噴き出る血液、無言の断末魔。床も壁も彼女一色に染まり、ぐったりと、膝から崩れる彼女は赤子をあやした、お人形に似ていた。

彼女の遺言を覚えていない。

彼女の遺言を覚えていたくない。

酷く歪んだ表情で、僕の名を読み上げる彼女を覚えていたくないのだ。

君は、そんなに。僕のことが嫌いだったのですか?

許せなかったのですか?

殺したかったのですか?

僕は君のことが好きでした。愛してました。ごめんと、自己嫌悪に浸る毎日。

いつも、こうだ。僕は君を忘れることが出来ない。

忘れてはならないと、暗示を輪廻の如く繰り返す。

もう、君はいないのに。

僕の思考は、彼女を生き続けさせる。


「なんでもありません、王女さま」

「それで、なんでもないと言うなら。嘘だとばれてしまうわよ?」

そう、ゼフィランサスは言い、ひたいに手のひらを合わせた。

「こんなにも寒いのに、なぜ、こんなに汗をかくの? 不思議でならないわ」

僕は、ぐうの音も出ず、石畳の床を見つめる。すると、ゼフィランサスは溜息をはき、

「言いたくなければ、言わなくていいわ。秘密が二つ、三つあったとしても仕方ないもの」

と、僕の心を見透かしたようだった。

けれど、僕の嘘は二つ、三つじゃない。

両手の指、両足の指で数えても、本数が足りない。嘘の数さえ、覚えていない。

半透明な嘘に嘘を重ねる。これが僕、そのものであった。

赤い絨毯の上を歩むと、広い空間に出る。

天井にはシャンデリア、大きな丸テーブル、壁には先祖の自画像。

高い位置に存在する窓から、月光が差し込んでおり、ある程度、明るさは確保できていた。

「王女さま、お風呂にでも。風邪を引かぬうちに」

「そうするわ、冷え切っているものね」

「待っててくださいね」

と、僕は言う。ゼフィランサスは頷き、

「そうするわ」

と、椅子に腰掛けた。

僕は、お風呂場へ向う。

この国が滅ぼされる、もっと、もっと。前の話。

千年以上も過去に遡る。当然ながら、知っている知識であり、体験した思い出ではない。

遥か昔、ここはひとつの大国であった。

ひとつの宗教、ひとつの人種。ひとつの帝国。

人と獣を殺し合わせる趣味があったとか、なかったとか。

しかし、高度な文明と技術があったのは確かだ。有無を問う必要性はない。

幾度の戦争で、負け。分割された国でもある。

その国は、珍しく。湯に浸かる文化が確立されていた。

その文化が今に至るわけだ。

お風呂場の扉を開ける、湿度の高い、暖かな風に包まれる。

僕は、防水ランプを掴み、マッチを擦る。

黒い煙が、少しばかり出るが。気になりもしなかった。

防水ランプに火がつくと、ぼんやりとした光が拡散した。

僕はしゃがみ、湯に手を入れる。

当然、地層から湧き出ているため、少しばかり熱い。僕は立ち上がり、ゼフィランサスを呼びに行く。

窓から見える風景は、目一杯の雪景色だ。

代わり映えのしない景色。奥には、廃れた城下町が見える。

国民が、一人たりとも歩いていない。いるのであれば、木の皮を食べる草食動物たちだ。

僕は無表情で、面白みに欠けた廊下を歩き、ゼフィランサスのいる場所まで向う。

狭い廊下を抜けると、途方もなく大きな空間に一人、椅子に腰掛けた少女がいた。

窓を、魂を抜かれた如く、見つめている。見える景色は、白布のような世界。

なにもない、からっぽの世界。

なにを考えているか、検討はついた。

僕は、彼女を見て。言葉が喉に引っ掛かる。僕が見捨てた命を。僕が犠牲にした命を。彼女はからっぽの世界で、巡らせている。

助けられたかも知れない、今も尚、泣き、喜び、笑い続ける命だったのかもしれない。けれど、僕は見捨てた。義務を放棄し、保身へ走った。

怖かった、恐ろしかった。どれだけ、口で。死は怖くない。と、御託を並べても燃えゆく、烈火の地で僕は、忠義心と共に仲間を見殺しにした。

僕は、吐き出すかにように言葉を発した。

「王女さま、お風呂の用意ができました」

「そうね」

と、ゼフィランサスは答え、椅子から立ち上がる。

僕は、ランプを渡そうとすると、

「いらないわ」

と、言い。続けて、

「今日は月が綺麗だもの」

と、窓を見つめた。

「綺麗ですね、月」

「こんなに雪が降ってるのに、月だけが姿を表すなんて珍しいわ。不思議なものね」

そう、言うと風呂場へ、小さな歩幅で歩いて行った。

僕は、ゼフィランサスが座っていた向かい側の椅子に腰を下ろし、ため息を漏らす。

無音の薄暗い部屋で、呼吸音だけが聞こえていた。

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最果ての国で、僕、私。 @kennko

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