第6話 永いお休み
そのまま2回目を始めようとする海斗を引き剥がし、身を整えた私達は夜の町に駆け出した。
迂闊だったが、携帯電話は私の所在を知るため持たされていたらしい。電源を切らずにおばあちゃんの家に置いて行く。県道を行き橋を越えるのが早いが、岬を一回りして山の反対側へ向かうルートを選択した。
子供だましだが、2人なら何とかなりそうな気がする。人家の明かりが遠くなり、海と山の狭間を通る寂しい通りに差し掛かったとき、不意に懐かしい声を聞いた。
「……おばあちゃん?」
気のせいかと辺りを見回すと、月明かりに照らされる波間に、何かが浮かび上がるのが見えた。
魚人?
海斗に庇われた背中越し見ていると、海亀かあざらしのようなそれは浜辺に這い上がった。
「郁海、行っちゃいけないよ。戻っておいで」
「おばあちゃん!?」
人の顔を持つそれは、懐かしいおばあちゃんの声で語りかける。
「唄い巫女がいまさら何の用だ! 汐入媛もとっくにいないのに、お前らに何が出来る!」
「郁海……」
叫ぶ海斗には構わずに呼び掛け続ける。異形の姿にも関わらず優しいその声に、怖さなど微塵も感じない。
ただ懐かしさで一杯に満たされそうになったけれど、私は笑顔で応えた。
「ごめんね、おばあちゃん。もうこの人と行くって決めたの。連れ出して貰うんじゃない。一緒に歩いて行きたい」
異形の身体から伸びる懐かしい顔は、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「……可愛い郁海。幸せにおなり」
海面に幾つもの頭が浮かぶ。開きっぱなしの目の魚顔の群れ。
「海斗!!」
浜辺のおばあちゃんを無視し、私達を取り囲むように道にまで跳ね上がってくる。
「ゆっくりしすぎたか……」
山側の防護壁に私を庇い、構えを取る海斗。人とそれ程力は変わらないようだけど、数が多すぎる。
「心配すんな。俺の子を孕んでくれた女神がいるのに、負ける訳がないだろ!」
「ちょ!……孕んでない!!」
状況を弁えずに慌てて叫んでしまう。
流されて中に出させてしまったが、安全日だったか……?
そっと下腹部に触れてみるも、分かるはずもない。
目だけで私に合図を送ると、海斗は魚人の群れに跳び込んで行った。
おばあちゃんの歌声が聞こえる。
海では人の形をしたものと人の形でないものが争っている。
何度も掴まり、引き倒されそうになる度、海斗が助け起こしてくれる。
幾人もの魚人が倒れているが、数メートルだって進んじゃいない。
ごめん海斗。やっぱり無理かも。
足を掴まれ生臭い臭いに圧し掛かられたとき。
辺りが虹色の光に包まれた。
目立ってきたお腹を撫でながら彼の帰りを待っている。
まだ働けるって言ったのに、海斗は頑なに反対した。
部屋の中で封筒折の内職を続ける。
ユリカのおばさんに紹介して貰ったこの部屋は格安だけど、
この子が生まれたら海斗一人の稼ぎじゃ心配だ。
窓からは霧に覆われた海が見える。
霧の中に立つ大きなものが、紅い一つだけの目で私を見つめている。
見えない振りをして私はお腹に目をおとす。
おかあさんになるってどんな気持ちだろう。
どんな名前を付けてあげようか。
そう、たとえば――
生まれてくる我が子を想い、慎ましい日々を送る。
そんな夢を見た。
意識を取り戻すと、無数の魚人たちの死体が転がっていた。
巨大な刃物で断ち切られたような切断面を晒している。
立ち込める異臭に胃の中のものを全て戻し、現状を思い出す。
虹色の光を割いて現れたキィは、上体を拘束されたまま機械的に殺戮を開始した。
群がる魚人はその歩みを遅らせる事すら叶わない。脚だけで立ち回る少女を相手に、ただ無為に命を散らされる為だけに寄り集まる。自ら灯火に焼かれる羽虫のように。
彼女の目はただ真っ直ぐに私に据えられている。
死体を増やしながら徐々に、だが確実に近づいてくる。
来てくれたのは、救い出してくれる為なんかじゃない。終わらせる為だ。
気付いてしまった私は、引き攣った顔でうつろな笑いを漏らす。
「海斗!」
疲れ切っているはずの海斗は目の前の魚人を叩き伏せると、拘束着の少女と対峙する。
「郁海……」
魚人に襲われたのか、浜辺に傷だらけで倒れているおばあちゃんが、促すように海へ視線を向ける。
触れただけで切り裂く少女の蹴りは、徐々に海斗を追い詰めてゆく。
覚えている。
思い出した。
踏み込めば変われる。
変える事が出来る。
遠慮して食べたい物を我慢することも、行きたい場所を我慢して虚しく夢想を重ねる事も、厭らしい目で舐め回す様に見る男達に怯える事もない。磯臭くて息苦しい町からも、粗暴で野卑な大人達からも解放される。
数少ない友人とも、姉妹のように思っていた少女とも、小犬みたいに付き慕ってくれた、年下の幼馴染とも。
「どうしようもなく嫌な事ばかりだったけど、それでも無くしたくない物はあったんだよ!」
振り抜かれようとしていた蹴りが止まる。
とっくに立てなくなっていた海斗がゆっくりとくず折れる。
キィが止めていなければ、その身体は両断されていただろう。
「…………」
不思議そうに。
初めて表情らしいものを見せ、少女が視線を波間に立つ私に移す。
その表情が、穏やかな微笑から次第に歓喜へ、直ぐに狂喜としか表現しようのないものへ変ってゆく。
「ふ……ふふ……あはははははははははは!!!! ッ!!」
湧き出す哄笑は、私が向けた殺意で強制的に中断される。
せっかく遊びに来てくれたのに、遅くなってごめんね。
額に銃撃を受けたように、その面を天に向けていた彼女がゆっくりと顔を下ろす。
キィの頭頂に虹色の光輪が輝き、滑り落ちながら彼女の髪から偽りの色を洗い落としてゆく。
月の光に照らされるその髪は白く、私を射抜く瞳は真紅へと彩を変えていた。
夢の中だけのともだち。
私が覚えていなくても、何度も遊んだ彼女はちゃんと約束を叶えに来てくれたんだ。
海風に揺れる白髪は、深みのもの達と海斗の血に染まり、桜色に色付いている。
どろりと。
髪の間から流れ落ちる血が、青白い肌を彩る。今夜初めて彼女が流した彼女自身の血だ。
似合ってるよ。そっちの方がぜんぜん綺麗だ。
お世辞ではなく、心の底からそう思った。
たった一人で私の前に立つだけの事はある。ぶつけた殺意も大したダメージになっていないようだ。
頭の傷も、虹色の光が直してしまったのか。治療ではない、修繕だ。
人間なら、頭蓋の中身は原型を留めてさえいないはずだから。ヒトの形をしているがやはりこの仔の中身は全くの別物だ。
離れた場所からの蹴りが来る。刹那だけ強制的に門を開き刃としている。物体相手なら防がれようのない攻撃だが、神の星辰体、霊体まで届かせる力は持っているのか。
油断して、一撃目のフェイクの直後に来た二撃目で胴を両断された。
この器が貧弱なせいだと、愚痴りかけて考えを改める。あの仔もまだ両腕を封印されている。ハンデ持ちなのはお互い様だ。腸が腹腔からはみ出している。収めるには相当な圧力が必要だから、切り離してから再構成すればいい。
いや、そんな時間は与えてくれるはずがない。ならばこれを武器に作り変えて――
ふと、先ほど倒された若い眷属が、絶望的な顔でこちらを見ているのに気が付いた。
何だ? 見詰めているのは私の下半身か。
夢の中の夢の情景が脳裏を過ぎる。
子供、か……。
私が眷属との間に仔を成すことはありえない。それでも、戯れに落とし仔を作ってやっても良かったか――
僅かの戯言めいた思考の隙に脳を縦に両断され、私の意識は闇に落ちた。
悔しいなぁ……。
意識を取り戻したのは、寝所の波打ち際らしい。
ぼんやりと霞んだ視界の中、波に揺られながら薄緑の月を眺めている。
周囲の生き物に生命を献上させているが、再生が追い付かない。
白い髪の友人は、微笑を浮かべて私の顔を覗き込んでいる。
楽しかったよ。でもまだ今はその時じゃない。
私が全力じゃなかったの、解ってるよね?
彼女は私の負け惜しみに苦笑を返してくる。
必ずまた相手をしてあげる。いまはおやすみ。
虹色の光柱と共に去る友人を見送る。
少し疲れた。もうそろそろ眠らないと。
あの微笑に迎えられる目覚めなら、数千年になるかもしれない眠りも悪くない。
じゃあまたね。あなたは私の大切な――。
夢を見た。
若い眷族が一人疲れ果てた身体で、夜明けの浜辺を歩いて行く。
何所へ行けば良いのかは解らない。
それでも、立ち止まる訳にはいかない。
流木に一人の若い男が座っている。彼はすぐに気付く。こいつも眷属か。
「義妹が世話になってたみたいだね」
彼は僅かに反応するも、話すことなど無い。
「義妹と教え子の行く末を見届けたかったけれど、人である身には大それた望みだね」
その気になれば、あんたも人以上に生きられるだろうが?
若い眷族は応えを口にはしなかったが、男は受けるように独り続ける。
「僕は人として知りたかっただけだよ。人であることを捨ててしまったら、恐らく知りたいというこの気持ちも変わってしまう」
知ったことか。勝手にしろ。
疲労と焦燥を超える渇望が、彼に立ち止まる事を許さない。
「あんまりスマートじゃないが、最後はこれの世話にならないといけないのかな」
男は手の中で銃を弄んでいる。
立ち去る彼の背後で銃声が響く。男が何を狙って撃ったのかなど、彼には興味は無い。
振り返らずにただ歩き続ける。
そうすれば辿り着けるのかも解らぬまま。
ルルイエの渚までは、人の身を捨ててもなお遠い。
ep.Myth Heiress/D END
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます