第4話 海斗

 魚人は追って来なかったようだ。やはり浜辺から離れたくないのだろうか。

 キィを連れた私は、拝島家の離れ、海斗の部屋に匿われた。家人に知られぬようカーテンを締め切り、十二畳ほどの室内を照らすのは常夜灯の薄明かりのみ。


 日付をまたぐ頃に始まるおこもりに参加するため、遅くても11時頃には水天宮の社に向かう様言い付けられている。時刻は7時過ぎ。一刻も早く町を離れなければならないと主張する海斗は、思わぬ事態に苛立っている様子。


「その前に、シャワー貸してよ」


 怪物の事も、本宮に関する海斗の言動も解らない事だらけだが、キィと私の身体を洗わなければならない事だけは、はっきりしている。


「何を呑気な――」


「覗かないでよ?」


 再従兄弟の不満の声を封じ込めると、私はユニットバスの扉を閉めた。  

 手早く服を脱ぎ、タオル代わりに少女の身体にこびり付いた精液を拭き清める。どのみちもう着られない。


 暑苦しい拘束着を脱がせに掛かるが、留め具だと思っていた黒いパーツは、外せる構造をしていない。金属のようにも陶器のようにも見えるが、簡単に壊せそうにもなかった。


 白いエナメル革のほうももちろん、破ったり裂いたり出来る強度ではない。バスルームから手だけを出して海斗に鋏を要求したが、切るどころか傷を付ける事さえ出来なかった。


 拘束着の本来の目的を考えれば無理もない。だけど、なぜこんな物を着せられているんだろう?


 ――薬?


 ぼんやりとしたままの少女の表情で思い当たる。暴れたり、自傷癖があったりするのだろうか? それならばなぜ同行しているのが医者や看護師ではなく素人民俗学者の青年なのか。


 ――薬漬けの少女を監禁して連れまわすサイコパス?


 気弱そうな青年の顔を思い出す。なんとなくだが、やっぱり違う気がする。私やユリカにキィの顔を見られても慌てた様子は無かったし、なによりこうしてキィに逃げられてしまっている。犯罪者としても介護者としても失格だ。


 服を脱がすのは諦めた。幸いな事に、首周りはぴったりとしていて、中に精液が流れ込んだ様子は無い。

 濡らしたタオルで顔を拭ってあげてから、シャワーでキィの身体を拘束着ごと洗い清めた。


 ボイラーの音で気付かれると、海斗からお湯を使う事は禁じられているが、火照った身体にはむしろ心地良い。湯のせいで生臭い匂いが狭いバスルームに立ち込めるのも、考えただけでだけで吐き気がする。


「はい、ここ。頭のせて」


 座って太ももをとんとん叩くと、素直に頭を載せてくる。

 小さい頃はおばあちゃんによくこうして貰ったっけ。


 長い髪を流水ですすぎ、シャンプーで繰り返し洗う。表情は変わらないが、水を掛けるとき目をぎゅっとするのが可愛らしい。リンスが無いのが不満だが、それをしている余裕も無さそうだ。自分の髪と身体を洗いバスタオルで身体を拭く段になって、着る物が無いことに気が付いた。


 下着もなしで海斗の男物を着込むのはどうにも躊躇われた。少し迷ったが携帯で美魚に連絡し、こっそり着替えを持ってきて貰うよう頼んだ。


「それで、どうして本宮に出ちゃいけないの?」


 ドライヤーを使う事も止められたので、洗い髪のまま海斗に問う。みゅうみゅうが着替えを持ってきてくれるまでのつもりで海斗のシャツを借りたが、やはり胸元が気になる。海斗の視線を遮るため、キィを抱くような形で前に座らせている。


 浜辺での出来事は全て海斗に話してある。キィを襲っていたのが魚の顔を持つ男達だという事だけはぼかしたまま。その一点で、話の全てが信じて貰えなくなるかもしれないと考えたからだ。


「水天宮の祭神くらいは知ってるな?」


 キィに心底邪魔そうな一瞥をくれながら海斗が問いを返す。

 おばあちゃんからは水天様としか聞いていなかったが、これでも祭祀に参加するために少しは勉強した。確か、天御中主神あめのみなかぬしのかみ様で、入水した安徳天皇だとも聞かされた。


「神仏習合していた頃の、水天の使いの絵を見た事は?」


「あんまり怖くない竜の絵でしょ?」


 何度か見た事がある。水神様の使いの竜だからか、ひれを持ち深海魚のリュウグウノツカイの様な姿で描かれていた。素朴な筆遣いのせいか、顔が笑った人間の物の様に見えたのを覚えている。


「もともと汐入で信仰されていたのは、その使いのほうだ」


 それは珍しくない話だろう。昔から信仰されていた土着の神様が習合されるのはままある事だ。私が知らなかっただけで、秘密に類する事柄でもないはずだ。


「本宮は古い神のための祭りだ。行けば人でないものと関わる事になる」


 じわりと。

 背筋に寒気が沸いた。


 魚人のことは海斗には話していない。魚の顔をした男たち。人の顔をした魚の神さま。海でいなくなったおばあちゃん――海斗が仄めかしているのは、古い儀式で人倫を無視した行いがなされてるという事だろうか。それとも文字通り異形の者達のによる、異形の神のための宴か。


 不意にドアをノックする音がした。

 海斗が殺気めいた視線をドアに投げる。


「美魚ちゃんだよ。私がさっき着替えを頼んだから」


 薄暗い部屋に充満した重苦しい沈黙を破ってくれた事に感謝しながら、私はノブに手を掛けた。


「馬鹿、開けるな!」


 申し訳無さそうな顔をした美魚が、巫女装束を手に立っている。


「なんだ、部屋を暗くして。仲の良いことだが、神事の前には控えてくれんとな」


 スーツ姿の拝島伯父と宮司、数人の男達が美魚を押しのけ無遠慮に踏み込んできた。


 拝島勇魚。私はこの人が苦手だ。


 貿易で財を成したとも鉱山主だとも言われるが、ほとんど汐入には留まらない彼の生業を私は知らない。私が5つか6つの頃に男やもめで海斗と美魚を連れこの町に現れ、僅かの間に町の名士に成り上がった。おばあちゃんのいなくなった後、傍系でやや難のある今の宮司を職に付かせたのも伯父の差金だという噂だ。


「美魚から聞いたよ。着替えが必要なんだってね。少し早いがちょうど良い。このまま準備を始めようか」


 口髭を蓄え髪を撫で付け、物腰も紳士全としているが、軽薄で傲慢な性格は目付きや口調の端々に滲み出ている。


「郁海は本宮には出ない」


 唸るような海斗の拒絶は、一瞥さえされず黙殺される。


 祭祀の勉強を始めたばかりの頃、宮司に所作の指導と称して身体を触られたり、着付けの場にまで立ち会われて参っていた。告げ口めいた真似はしなかったが、その事を知った拝島伯父は、私の目の前で宮司の指を圧し折り笑顔で告げた。「ほら、これでもう郁海に触れない。頑張って立派な神職になるんだよ」宮司に対する制裁だけではなく、私に対する脅嚇も忘れない。狡猾で容赦なく効果的なやり口だった。


「おや……こちらのお嬢さんは?」


 明かりを点けさせ拘束着の少女の姿を認めると、僅かに考える素振りを見せる。

 芝居がかった伯父の後ろで、宮司や男達が息を荒げ、まばたきの無い血走った目で少女に見入っている。

 月に照らされる浜辺での光景が脳裏をよぎり、私は無意識にキィを抱き寄せた。


「こいつを連れて行け。代わりくらいにはなるだろう?」


「海斗!?」


 言葉の意図するところを悟り愕然とする。

 キィを身代わりに差し出すつもり!? そして、見ず知らずの少女を犠牲にしなければならないほどの危険が、私に待ち構えてるっていうの!?


「それはそれ、これはこれだ。何年も前から決められていた事だ。そういう訳にはいかんだろう」


「めんどくせぇ。あんたら全員始末して、郁海を手に入れても良いんだぞ」


 キィを庇う私と拝島伯父の間に割って入る海斗。


「出来るのか、お前に?」


 体格に勝る海斗と対峙しても、伯父には焦りも怯えも見受けられない。逆に父親の言葉通り、威圧され脂汗を浮かべているのは息子のほうだ。


晦冥かいめい様をお迎えするまでに、郁海には最初にお前の子を孕んで貰うと言ってるだろう。何が不満なんだ」


「郁海は俺の……俺だけの女だ!」


 何これ、告白なの……?


 海斗から気持ちを伝えられた事は今まで一度だって無い。

 その初めてがこんな場面で、こんな物言いで。


 違う。これは告白なんて甘酸っぱい物じゃない。何かもっと生臭くて、凄惨な――


 私の意志を無視し、物扱いで繰り広げられる親子喧嘩に対する怒りが、押し潰されそうだった恐怖と不安を押しのけた。


「勝手なこと言うな! 私がどうするかは私が決める!!」

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