第3話 魚人の狂宴

 満月が照らす海を横目に見ながら、帰路を歩む。


 夏も盛りだが、日が落ちればまだ過ごしやすい。山からの風は生暖かいが、シャツの中にこもった汗臭さを、穏やかに海へ流してくれる。


 帰ったら身を清め、おこもりの準備に取り掛からなければならない。

 明確に嫌なら断れもする。でも、どうにも煮え切らない気持ちのまま、私はふわふわと歩き続ける。


 街灯も無い寂しい場所に差し掛かる。


 なんとなく、小さな頃にしたように堤防の上を歩いてみたくなった。車も殆ど通らないから、人目を気にする必要も無い。私はスカートが乱れるのも構わず、堤防によじ登った。


 無駄に重い胸が邪魔だ。立ち上がると、思ったより高くて少し怖くなる。

 そうか。背が伸びたからか。

 サンダルを脱いで、バランスをとって歩き出す。


 堤防の上を歩く私を、心配そうに、羨ましそうに眺めながら、並んで道路を歩いていた海斗の姿を思い出す。海斗が私と同じ様に堤防を歩けるようになったのは、一年も後の事だったっけ。


 どうして変わっちゃったんだろうな。

 懐かしさと共に、迷いの正体にもぼんやりとだが思い当たった。


 決めるのが怖いんだ。


 大好きだったおばあちゃんはいなくなり、幼馴染の海斗は私を女として見るようになった。姉妹のように仲の良かった美魚とは、微妙な距離を感じ始めている。漠然と日々を過ごしていた私は、この先どう変わってしまうんだろう。


 一つため息を吐き、堤防に腰掛け海に映る月を眺めていると、砂浜で蠢く複数の影に気が付いた。


 お祭り気分のまま若者が騒いでいるのではなさそうだ。コンビニ代わりのよろずやで飲み物や花火を買い込んで遊ぶには、此処は遠すぎるし寂しすぎる。何より、嬌声や歓声が響いてこない。


 胸騒ぎにも似た感覚に、サンダルを履きなおした私は身を低くして浜辺側に降り、消波ブロックの影に身を隠しつつ近付いて様子を伺う。


 その光景を目にし私が最初に連想したのは、鮭の産卵シーンだった。


 月の光の下、一人の少女が群がる男達に陵辱されていた。


 少女が着せられているのは拘束着だろうか。しなやかな身体のラインを露にする白い皮製の服は、少女の両腕の自由を奪っている。皮肉なようで幸いな事に、拘束着はその頑強さ故、少女の貞操を守る役割を果たしているようだ。


 脱がす事も引き破る事もできないのか、あるいはその間ももどかしいのか。ある者は少女の両脚を抱え込み、ひたすら股間を擦り付けている。長く艶やかな黒髪を鷲掴みにし、いきり立ったモノを可憐な口元に強引に捻じ込んでいる者。なんとか受精させようとしているのか、首輪の付いた襟元から精液を流し込もうとしている者も居る。


 吐き気を催す程に凄惨な光景のはずなのに、不思議とおぞましさよりも先に物悲しさを感じたのは、どうしてなんだろう。

 荒々しい男達の息遣いとは対照的に、少女が悲鳴や拒絶の声どころか、ごく生理的な反応として僅かな声しか漏らさないのが原因か。


 どれだけの間男達の劣情を受け止め続けたのか。

 男達の欲望のままに、淫らに折り曲げられるその肢体にも。

 己の置かれた状況に無関心なまま、ぼんやりと半眼でまどろむ様な貌は言うに及ばず。

 少女を操り欲望を掻き立てる手綱として、あるいは凌辱を演出する極上の敷布として踏みしめる髪までもが白濁に塗り固められている。


 月の光を浴びぬめらかに輝くその姿を前に、息苦しさと共に抱く名も知らぬ初めての感覚に、私はただ戸惑う事しかできなかった。


 少女を犯す男達は皆、魚の顔をしていた。


 見開かれたままの目は顔の両側に位置し、顎のない首元には鰓らしき裂け目が刻まれている。

 背丈は人間と変わらないが、滑るその背は鱗で覆われ、鉤爪を持つ節くれだった指の間には、水かきが見える。頭部や股間に疎らな体毛が生えているのが、人間っぽくて気味が悪い。


 少女の口を犯していた魚人が呻き声を上げると、少女の頭を抱え込み、下腹に押し付ける様にして射精する。嘔吐く少女の口から溢れた精液が喉を伝い零れる。まだ足りないのか、魚人は驚くほど大量の欲望を吐き出し続ける男根を擦り付け、少女の顔を汚す。己の臭いを刷り込み、所有権を誇示するように。


 少女が咳き込む声で我に返る。

 いけない。場の雰囲気に飲まれかけていた。


 あの人形のような顔には見覚えがある。民俗学者の青年の車で見た少女だ。

 彼女が泣き叫んでいなくても、ろくに身動きの取れない相手に対するこの行為が、断じて合意あってのはずが無い。相手は化物だけど、少女を道具に欲望を処理する身勝手さに対する女としての怒りが、恐れを僅かに上回った。


 手頃な石を手に重さを量り慎重に距離を見極める。アンダースローで放った石は、今までの人生で一番の出来で少女の口を犯していた魚人の側頭部に吸い込まれた。


 不意に倒れた仲間に魚人たちが慌てる隙に、波消ブロックの影を伝い位置を変える。幸いバットに似た重さと硬さの流木を手にする事が出来たが、ここから先は満月に照らされる浜辺に姿を晒さなければならない。魚人の一人は少女から離れ、跳ねるような動きで私が石を投げた場所に近づいている。


 深呼吸し震える足を一つ叩くと、流木を手に少女の髪を掴んだ魚人に向かって駆け出した。


 波消ブロックの影から出た瞬間に気付かれていたのだろう。僅かな逡巡の後少女の髪を離して魚人は私に向き直る。


 焦りに駆られた私のフルスイングは早すぎるタイミング。

 しでかした失敗を悟り恐怖と後悔に総毛立つも、避けるでも受けるでもなく、魚人は頭で受けるように踏み込んできた。


 派手に折れ飛ぶ流木の破片と倒れる怪物を目にし、安堵に脱力し掛けるも、魚人の行動の意味に気付きぞっとした。


 掴もうとしたんだ。流木じゃなく、私のほうを。

 嫌悪感で身震いするも、もう一人が戻ってくる。


「立てる?」


「……rる?」


 汚液に構わず少女を助け起こす。思ったよりもしっかりしている。

 肩を貸そうとしゃがむ私の足首を、湿った手が掴んだ。


「ふわぁあ!!」


 慌てて振りほどく。上手く気絶させられた訳じゃなかった。殴り倒したほうも、よろよろと立ち上がろうとしている。


 不意にエンジン音と共に砂浜にライトが向けられた。通りかかった車が不審に気付いたのか。通り過ぎる事無く、ライトは向けられたままだ。


 こちらへ跳ね寄りつつあった魚人は、そのまま海に飛び込んだ。車の方へ向かうには、少女を抱えたまま2人の魚人の間をすり抜けねばならない。逆方向にこのまま浜辺を走れば、古い社へ続く崖の小道がある。


 咄嗟の判断で海岸を走った。

 よろける少女を支えながら崖の小道へ向かう。


 背後から二度、乾いた音が響いた。振り向くと、車のライトの逆光の中、魚人ではない人影が見える。


 銃声? 助けを求めていいの?


 ふらつく視線に、月に照らされる海面に浮かび上がる何かが映る。

 何体もの魚人が顔を覗かせているのだと気付き、慌てて走り続けた。


 息を切らせながらも崖に辿り着く。

 足を踏み外さないよう気を付けながら小道を行く途中、少女――キィと呼ばれていたか――が足を止めた。


「どうしたの?」


 崖道で手を使えないキィを庇いながらでは海岸を伺えない。焦りながら問うと、少女は一点を見詰めている。


「この石?」


 磨かれた緑色の石。護符か何かだろうか。中心に燃える目を持つ歪んだ五芒星が刻まれている。キィの代わりに手を伸ばすと、五芒星が揺らめいて見えた。

 すぐ後ろまで奴等が迫っているような気がする。


 こっちだよ。


 懐かしい声が聞こえた気がして、私はキィともつれる様に社に転がり込んだ。


 入れたんだ、ここ。


 子供の頃、海斗たちと遊んでいても、覗くことはあっても入ろうとは思わなかった。

 教えられなくても、入ってはいけない場所だと知っていたからだ。格子から覗くと小さな台にお神酒と何かが供えられているのが見えたものだが、今はただ二畳ほどの板間に埃が積もっているだけだった。


「大丈夫?」


 声を潜めてキィの様子を見る。私と違って息一つ乱していない。

 逃げるのにそれどころじゃなかったが、キィが精液まみれなのを思い出した。

 酷い臭いだか、この子はもっと酷い目にあったんだ。


 ハンカチで顔や髪だけでもと拭ってあげる。少女が茫洋とした表情のまま、悲壮な様子を見せないのが僅かな救いだった。


 このまま杜を抜けて神社のほうへ逃げようか。社に篭った今となっては、扉を開けて外へ出る勇気も出ない。


 私は携帯を取り出すと、一番最初の連絡先を呼び出した。


「海斗……社、すぐ来て」


 からからに渇いた喉でつかえながらも簡潔に告げる。信じて貰えるか分からない出来事だし、自分でもどう説明して良いか混乱した状況。待ってろと一声だけの返事だったが、放り投げるような無愛想な言葉が、今はとても心強かった。


 胸に抱く少女は僅かに瞳を動かし、不思議そうに見える顔で私を見ている。

 樹液の臭いや滑る感触の厭らしさより、伝わる温もりが私を安心させてくれる。

 お守り代わりに気にしていた緑の石を、胸元のベルトに挟んであげた。キィは嬉しい様にも困った様にも見える表情でそれを眺めている。


 ふと、虫の声が止んでいるのに気が付いた。

 耳鳴りがしそうな静寂の中耳を澄ます。

 高鳴る鼓動が邪魔だ。社の周りを何かが廻っているような気配がする。


 かり。


 扉の方から引っ掻くような音が聞こえた。

 呼吸も忘れ身を強張らせていると、格子から差し込む月影に影が落ちた。

 風で樹の枝が揺れたんだ。

 そう思い込もうとする私の耳に、どこかで蛙が啼く声が響く。 


「……開けろ」


 扉越しの囁き声に、どれだけの時間動けずにいたのか。


 ……海斗?


 音を立てぬよう膝で這い、外の気配を伺う。

 扉に手を掛けた瞬間、不意に怖い考えが浮かんだ。


 ――もしも、海斗じゃなかったら?


 携帯を取り出し、光が漏れぬよう手のひらで隠しながら操作する。

 すぐ側で呼び出し音が鳴り響いた。

 溜息と共に全身の力が抜ける。


「自分で開けなさいよ!」


 助けに来て貰って何だが、今まで晒された緊張の反動で怒ったような口調になってしまう。


「ッ!」


 ささくれで引っ掛けでもしたのか、左手の指先を気にしながら海斗は扉を引き開けた。


「無事か?」


 辺りを伺いながら中を覗き込み、私に安堵の表情を向ける。だが、奥にもう一つ人影を認めると、その顔は僅かに歪む。

 私一人だと思い込んでいたからか。あるいは立ち込める臭いのせいか。嗅覚が麻痺した私と違い、彼には社に篭った悪臭は耐え難いものだろう。


「説明はあと……すぐにここから逃げよう」

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