第10話
学校では、二学期の中間テストがあり、学園祭があり、期末試験があった。ぼくは進路相談もあった。とりあえず大学進学と言っておいたけど、どこのどんな学部がいいのか、何も考えていなかった。将来の目標さえゼロに等しかった。
そして十二月になり、街にはクリスマスの装いも見かけるようになった頃、彼女の部屋が完成した。引っ越し荷物はほんの少しだった。大きなものと言えば二階の納戸にあった古いタンスと衣裳ケースくらいだった。トオルさんが軽トラックで運んでくれた。タンスのいちばん下の引き出しには、おばあちゃんの形見の着物が入ったままだった。
プレハブ作りだけどしっかりした壁材を使い、内装はオフホワイトの可愛らしい壁紙、焦げ茶のウォルナットのフローリングや棚やベッド、床には毛足の長いラグマットを敷き、こたつにもなる白いローテーブルを置いた。ベッドには真新しいフカフカの羽毛布団が掛かっている。机はぼくの部屋と同じように長い板を張り渡した作業台兼用にして、壁には作り付けの棚とコルクボード、食器用のガラス扉の小棚も付いていた。天井の四隅には間接照明ライト、真ん中には小さな可愛いシャンデリア風の照明器具がキラキラしていた。新しく作られた大きめの窓のベージュのカーテンを開けると、窓の外にはプランターボックスがあり、正面は隣の和食レストランの駐車場のブロック塀と松の木でちょうど外からの視線が遮られていた。左には線路と道路が少し先の駅に続き、右を見ると母屋への小道と庭先が見えた。持ってきた古いタンスがいい感じのインテリアになって、部屋に安らぎを醸していた。でも、持ってきた荷物を置いても部屋はガランとして見えた。スライディングドアを開けて三畳ほどのウォークインクロゼットに服を吊るしても、壁沿いにL字に渡されたハンガーパイプは半分も埋まらなかった。その横の洗面所とシャワールームは、部屋の中からしか使えないようになっていて、ぼくは相変わらず下の店のトイレを使わなければいけないようだ。ドアロックのカードキーは、当然ながら彼女しか持たず、もしもの時のスペアカードは母屋の金庫の中にしまわれた。内線電話の彼女の部屋の番号は七だった。家族になってすぐに親父が買い与えたスマホの番号は下四桁が七〇七七。妙なところにこわだって得意げにするのは親父の習性みたいなものだった。
「こんな素敵な部屋、ほんとにどうもありがとう、お父さん」と涙を溜める彼女に「テレビとか冷蔵庫とかはいらないのか? あとは、そうだ、パソコンとか必要だろう」とドギマギしながら言う。
「ううん、そういうのは全部、母屋とかお兄ちゃんの部屋にあるのを使わせてもらうから。もう寝るところがあれば充分なのに……」
「まあ、要るものがあったらすぐ言いなさい。中古で悪いけど、まあたいていのものは揃えられるからな」
「はい、その時はまたお願いします」
「うんうん、なんせあれだ、この部屋からナナを嫁に出すわけだからな、ちゃんと自分の城を持ってだな、そのなんだ、清く正しく美しくだな……」
言いながら少し鼻声になってきたのを誤魔化すように
「おまえも、そこんとこはちゃんと分かってるな? その、まあ、節度を持って、世間様に恥ずかしくないように、あれだ、とにかくきちんとしろ!」とぼくに向かってだんだん怒り出す。
彼女を養女にする話をしたあの夜、彼女を送って行く前にこっそりと「おまえ、あれか、ナナちゃんとは、その、体の関係とか、そういうんじゃないだろうな」と聞かれた。
「ないよ。ナナカはまだ十五だよ。そんなことするはずないじゃないか」と答えると、気が抜けたようにホッとした様子だった。その返事に何も嘘はなかった。ただ「まだ十五だから」という条件を暗に込めたのには気付いていないだろうけど。
親父は「やっぱり、あちこちに監視カメラをつけた方がいいかな。いや、我が子と言ってもいちおうプライベートもあることだしな。さて、う〜む……」などとブツブツいいながら階段を降りて行った。
その後で姉貴も顔を覗かせてあちこち点検しながら
「あら〜、荷物これで全部? なんかガラーンとしてるわねえ。私のとこにあるもの、なんか持ってくれば? あ、そう言えばドレッサーがないじゃない。まったく男どもはこれだからね。ドライヤーとかお化粧道具なんかは持ってるの? そうだ、使ってないカーラーとかビューラーとかあげるから、夜にでも取りにいらっしゃいよ。この棚もねぇ、なんか可愛い小物とか揃えたら? 今度可愛いパジャマ買ってあげるからさ、また買い物に行こう。とにかくもうちょっと女の子らしくしなくちゃ。これは姉としての命令だよ。ほら、女らしさは心からっていうでしょ」とまくし立てて帰って行った。
まったくどの口が言うんだよと思ったけど、ぼくのそんな顔を見て彼女がクスクス笑い出す。
「あ〜あ、ほんとに私、ここに住むんですね。なんか、まだ落ち着かないな〜。今夜は眠れそうにないかも。その時は先輩の部屋に行っちゃってもいいですか?」
「それは構わないけどさ、夜中に来たりすると襲っちゃうよ?」
「んふふっ。これからは、襲いたくなればいつでもすぐに襲えるじゃないですか。私、鍵かけませんから」
「ダメだよ、鍵だけはしっかりかけないと。泥棒とか強盗とか入る可能性だってあるんだし」
「だって下に防犯ベルもついてますよ。それに、誰かが侵入してきたら先輩が守ってくれますもん」
「ぼくが強盗に刺されてもいいなら」
「あっ、それはダメ! 強盗が入っても絶対に争わない下さいね。じっと部屋にこもってて下さいね。それは約束して下さい」
「じゃあ、出入りする時はちゃんと鍵をかけるって約束する?」
「はい、わかりました」
「じゃあ、ぼくも危険な目には会わないようにするよ」
「はい。絶対ですよ?」
「可愛いなあ、ナツコは」
「あ、そこはナツコじゃないでしょ。お兄ちゃん」
「好きだよ、ナナカ」と言ってキスをする。
「あ、この部屋での初キッス。これも日記に書いとかなくっちゃ」
「へ〜、日記なんて付けてるんだ」
「日記って言うほどのものじゃないけど、ちょっとしたメモとか、思いついた言葉とか、忘備録みたいなもので、あ、絶対に見ちゃダメですから。これだけは、いくら先輩でも見せられませんからね」
「そう言われると余計に見たくなるな。こっそり探してみようかな」
「もうっ。そういうイジワルなお兄ちゃん、嫌い」とふくれて見せる。
「まったく、都合のいい時にお兄ちゃんになるな〜」
「だって、お兄ちゃんはお兄ちゃんですよ? そう呼ばれるのイヤですか?」
「いいや。いつもズキュンとして何も言い返せなくなるけど」
「ふふっ、やっぱりお兄ちゃん大好き」
「……」
「あ、そろそろ夕飯の買い物に行かなきゃ。お兄ちゃん、付き合ってくれる?」
「まったく、かなわないな〜、ナツコには」
そうして母屋に戻って買い物カゴを持ち、手をつないでスーパーへ向かった。
その日の夜は、彼女はパジャマ姿で一時近くまでぼくの部屋で過ごし「あ〜、やっぱり先輩の部屋がいちばん落ち着くな〜」と言いながら、眠そうな目で自分の部屋に入って行った。ぼくはドアロックを確かめてから部屋に戻った。
次の日の朝食の時「朝のシャワーってすっごく気持ちいいですね。スッキリ目が覚めました」と嬉しそうにみんなに報告していた。
彼女がこっちで暮らすようになって、ふたりで過ごせる時間がようやく安定した。部屋に戻ってから寝るまでの間、誰にも邪魔されずに彼女を独占できるのは、彼女を恋人として取り戻したような気がした。
思い返すと、なんだか家族に彼女を取られてしまったような寂しさがあったのだろう。もちろん、みんなに愛され、彼女も家族に溶け込み、絆を深めて行くのは喜ばしかったし、得意でもあった。でもその分、家族としてのポジションによって、ぼくの恋人というポジションが薄められてしまったような、そんな忸怩たる思いがぼくの中にあったのかも知れない。早い話が、嫉妬だ。
そしてまた彼女が自分の元に戻ってきたような、新しい喜びが得られたわけなのだけれど……。
隣の部屋に彼女が寝ていると思うと、触れて抱いて欲望を注ぎたいという気持ちに、不思議とならなかった。性的な欲望が消えたわけではなかった。それどころか、彼女の足や手や胸や顔や唇を見る度に、つまり四六時中それは体の中に渦巻いて下半身を昂ぶらせようとしていた。でも隣で眠る彼女を想像すると、布団に顔を埋めて少し微笑みながらすやすやと寝息を立てる顔しか思い浮かばなかった。
家では甲斐甲斐しい母親のようで、店ではにこやかな看板娘で、ぼくの部屋では心を許し合った婚約者で、彼女の部屋では愛らしい妹だった。学校では普通の高校一年生で、通学路や散歩の時は気の置けない親友で、人前では恥ずかしがりやの恋人だった。話をする時は熱心な聞き上手で、あるいは冴えた表現者で、時には鋭い反論者だった。そしてどんな時も、優しく慎ましい十五歳の女の子だった。そのすべての源である彼女の素直さこそ「天性の才能」と呼ぶしかない気がした。ダイヤの原石はすでに眩く輝き始め、常に周りの光を吸収しながら、時々に応じて千変万化の多彩な色を放ち、それでいて何にも染まることはなかった。脆いようでいて、硬く強かった。
一度、彼女に尋ねたことがある。
「ナナカは、自分の欠点って何だと思う?」
「え〜、欠点だらけで数えきれませんよ」
噴水の公園を小石を蹴るように歩きながら、クスクス笑うように言った。
週に一度か二度、前の家に行って仏壇にお花とお菓子を供え、掃除をし、花の手入れをし、一時間ほど過ごしていた。そんな帰りの散歩の時だった。時折木枯らしが吹き抜ける森の小道には黄色いいちょうの葉がサワサワとひらめいている土曜日の午後だった。
彼女はクリスマスプレゼントに親父から貰ったベージュのハーフコートを着て、ぼくが贈った毛玉のファーが付いたワインレッドのスエードのショートブーツ、手には姉貴とトオルさんがくれた赤い革手袋をしていた。バイクなのでジーンズだけど、充分にキュートだった。これにミニのワンピースと黒いストッキング、頭には大きめのベレー帽なんかを被らせたら、クラシックなリムジンの後部ドアを執事が開けてくれるような深窓のご令嬢に見えるな、などと思っていた。ぼくは彼女が誕生日にくれたライダーズジャケットに黒いタートルネックセーター、ジーンズにごついワークブーツという相も変わらない格好だった。彼女がクリスマスに贈ってくれたバックスキンの革手袋は、尻ポケットに入っていた。
「まず泣き虫でしょ、すぐに赤くなったり青くなっちゃりしちゃう、人見知りで臆病で引っ込み思案で流されやすい、それにモノを知らない、流行に疎い、センスがない、心配性で目先のことしか見えてない、なにより自分というものを持ってない」
「ずいぶんスラスラ出てくるな」
「だって、いつも反省ばっかりだもん」
「ぼくに言わせるとそれは、感情豊かで、嘘がつけなくて、慎重で、思慮深くて、でも素直、そして好奇心が旺盛で、飲み込みが早くて、対応力がある、なんでも似合って、着こなせて、雰囲気がいろいろ変わって面白い、思いやりがあって、丁寧で、礼儀正しくて、やるべきことはきちんとやる、そしていつでもニュートラルな可能性のかたまり、って見えるけどな」
「先輩こそ、ずいぶんスラスラ言ってくれるじゃないですか」
「だって、いつも思ってることだもん」と彼女の口調を真似する。
「うふふふっ、嬉しい。でもちょっと、ちょっとじゃなくってだいぶん褒めすぎですよ。だけど先輩ならそういうふうに切り返してくれるかなって思いました。いつもいっぱい褒めてくれるから、私も少しは自信ついてきたかな〜」
「褒められて伸びるタイプなんだな」
「えへへ、そうかも。でも変な自信持っちゃうとダメなんですよね。注意しなくっちゃ」
「まあ、どんな長所も欠点も表裏一体ってことだよね」
「あ〜、そうか。いいとこばっかり、悪いとこばっかりの人なんていませんもんね」
「じゃあ今度は、ぼくの悪いとこ教えて」
「え〜、言っちゃっていいんですか? 怒って、置いて帰らないで下さいよ」
「あはは。なんか恐くなってきたな〜」
「じゃあ、言いますよ。深呼吸して心を落ち着けて下さいね。まず〜、朝寝坊と夜更かし、次に野菜をあまり食べない、口にものを入れたまましゃべらない、それから……、バイクであまり飛ばさない、毎日お風呂に入ること、下着も毎日替えること、歯磨きのチューブは端から使う、それから、え〜と、あ、すぐにいじわるなことを言わない」
「エッチなことは?」
「それは、いいです」
「すぐキスするのは?」
「それも、いいです」
「はい」
「素直でよろしい」と彼女が微笑む
「あとは?」
「あとは……え〜と……う〜んと……また考えておきます」
「なんだ、もっと人格を揺るがすようなこと言われるかと期待してたんだけどな」
「え、期待? でも、私は今の先輩が変わっちゃう方がちょっと恐いな〜。もちろん、先輩の方が一足先にどんどん大人になっていって、ずっと今のままじゃないっていうのは分かってるんですけど……。男の人って、ほら、夢とかロマンとか追いかけてどっかに行っちゃうとかあるじゃないですか。実際に行っちゃわなくても、気持ちがそっちに向いて私のことなんか興味なくなっちゃったり、とか……」
「う〜ん、それは男も女もないんじゃない? 誰でも、卒業したり、新しい人や世界に出会ったりして、どんどん変わって行くものなんじゃないかな。まあ、今はほとんど家と学校っていう世界しか知らないけどね。それに、何か夢を追いかけて夢中になったとしても、ナナカを好きな気持ちが消えちゃうわけじゃないと思うよ。両立だってできるっていうか、どっちか片方しか出来ないなんて悲しいじゃない」
「あ〜そうか。やっぱり男の人は視野が広いですね。なるほど、そういうふうに考えればいいのか。ほんと、私は目の前のことしか見えてないんだな〜」
「だからダメってこともないと思うよ。ぼくが見えてないことをナナカがちゃんと見えてる時だってあるだろうし」
「歯磨きチューブとか?」
「そうそう、あれは意識もしてなかったよ。まあ、そういうふうに、ふたりでひとつみたいにやっていけば、もう恐いものなしじゃない?」
「そうですね。ほんとにそうできたら最高だな〜」
「ぼくは、今も充分そうやって助け合って、信頼し合って、やってると思うけどな」
「私は先輩やお父さんたちに頼ってばっかりですけど、私は頼りにならないっていうか、何にも役に立ってないみたいで……」
「あ、そこがナナカのいちばんの欠点。すぐに自分を卑下すること。謙虚と卑下は違うからさ。気持ちは分かるんだけど、あんまり自信なさそうにクヨクヨすると周りの人はもう慰めるか諦めるかしかないからさ。どっちも前向きになれないっていうか……」
彼女が立ち止まって、涙ぐむ。
「あ、言い方きつかったな。ごめん」
「あ、ごめんって言った」
「え?」
彼女が涙を止めようと笑顔を作りながら言う。
「すぐにごめんって言わない約束、忘れちゃいました?」
「いや。でも今のはぼくが悪かったし。ショックだったよね」
「ううん、違うんです。そうやって、ちゃんと叱ってくれるのが嬉しくって、それでつい涙が出ちゃって。ごめんなさい。あ、私も言っちゃった……」
笑わせようと、わざとそう言ったのが分かった。
「前にね、ほら、おばあちゃんが肺炎になって先輩に電話をかけて、お父さんとクルマで駆けつけてくれたことあったでしょ。お父さんに病院に連れてってもらって、先輩が家で待っててくれた時。あの時、私、お父さんにもお医者さんにも、すみません、すみませんって謝ってばっかりいたら、お父さんがね、こういう時は謝るんじゃなく、ちゃんとありがとうございますとかお願いしますとか言いなさいって、謝られた方の気持ちになってみなさいって叱られたんです。それがね、親身になって言ってくれてるんだなっていうのと、先輩とおんなじこと言ってるなって思って、なんかすごく嬉しくなって……。あんな時だったのに不謹慎なんですけど。だから今も家族にはあんまり気軽にごめんなさいって言わないようにしてるんですよ」
「へ〜、そういうことがあったのか。その代わりじゃないけど、ナナカが、どういたしまして、とか、こちらこそって言うじゃない。あれはすごくいいよね。いつの間にか店のスタッフも使ってるし、お客さんにも喜ばれてるみたいだよ」
「はい、それはヨーコさんにも言われました」
「ちゃんとみんなの役に立ってるじゃない」
「でもあれは、おばあちゃんの口ぐせだったのを真似しただけなんですよ」
「いいなと思えば、真似でもなんでもいいと思うよ。今はもうすっかりナナカの口ぐせみたいだし、あんなに自然に気持ちよく、どういたしましてなんて、なかなか言えないしね」
「そう言ってくれると、すごく嬉しい……。さっきの、すぐ卑下するのはいけないっていうのも、私もダメだなって薄々思ってたんだけど、つい口に出ちゃうんですよ。でも、ちゃんと言ってもらうと心当たりがある分だけズキンと身に染みますね。ほんとにこれは反省して直さなくちゃ。……そう言われて改めて思うと、そういえば私は諦められてばかりだったなって。「私なんか」って言うと、叱られたり慰められたりする前に、あ〜あ、この子はまったくってため息つかれるだけで……。そうすると、なんか自分でも自分を諦めちゃうみたいになってきて、ますます……。あ、変な話になってきちゃった。せっかくいいこと教えてくれたのに」
「いや、そのまま続けて。そういうことを言わないように、思わないようにってしてても、結局は根っこの部分に行き当たるんだからさ。そういうことは一度きちんと言葉にしてみると、自分で自分のことが見えてくるでしょ。そうしたら、これからはどうしたらいいのかも考えられるし。それが反省するってことなんじゃないかな?」
「あ〜そうですね。自分を誤魔化すみたいになっちゃいますもんね。じゃあ、ほんと思いついたまましゃべっちゃいますけど、支離滅裂かも知れないですけど……。え〜と、そうそう、諦めるのがクセみないになっちゃてたんですよ。あ〜私は親もいないし友達もいないし、どうせ私なんか、って。でもそう思いながら、ほんとは、私は何も悪いことしてないのにどうして私ばっかりこんなに辛い目に合わなくちゃならないのっていう気持ちもすごくあって、誰も私のことを分かってくれないって泣いてばっかりで、何にもやる気がなくって、ひとりで図書室で本ばかり読んでて、本の世界に逃げ込んでたっていうか、でも悲しいお話しなんかを見つけると、私の方が辛いとか、私より悲惨だなとか、不幸比べして嬉しがってたみたいな。最後はしあわせに終わっても、どうせ物語じゃない、とか……。それからこっちに来て、高校では変わろうと思いながら、やっぱり卑屈なまんまで何にも変われなくて、結局図書室にこもるしかなくなってて、先輩と会ってやっと少し変われそうかなって思ったけど、やっぱりオドオドしたまんまで……。そしたら、足がきれいとか可愛い服を着せてもらったりとかして急にいろんなことが変わっちゃって、天にも昇るような気持ちで舞い上がっちゃって……。今思うとすごく恥ずかしい……」
「すごくよく分かったよ。そうか、なるほどね。ぼくの感想を言ってもいい?」
「はい、ぜひ聞かせて下さい」
「ほんと、ぼくがいくら想像したってその頃の辛さを半分も分からないだろうけど、そんなに悲しくて辛い思春期を過ごしたのに、どうしてこんなに素直なまま育ったのかって、それがいちばん不思議だよ。普通は、いじけて、ひねくれて、ねじ曲がっちゃいそうに思うんだけど」
「やっぱりけっこうねじ曲がってたと思いますよ。今言ったみたいに、自分を卑下して、卑屈になって、諦めながら世の中を恨んでただけでしたから」
「でも今はもうそうじゃないでしょ」
「それはやっぱり、先輩のおかげです。先輩がたくさん褒めてくれて、楽しいことや嬉しいことをいっぱい教えてくれたから、ねじ曲がってた心が自然にほぐれてきたんだと思います。ほんとに、先輩は私の命の恩人だと思ってますから」
「だけど、最初に会った時から、ナナカはすごく素直な子だと思ったけどな。素直すぎて危ないくらいで。あ、だからなんか放っておけないというか、大切にしなくっちゃって思ったんだな。そしてぼくは、その素直さは誰がねじ曲げようとしても絶対曲がらないくらい強いものだって思うよ。だからぼくはナナカを尊敬してるし、ぼくの方こそ、ひねくれかけてたのをナナカの素直さや可愛さが糺してくれたって感謝してる。ナナカに会う前の自分を思い出すと冷や汗が出てくるよ」
「なんか、またふたりでおんなじこと言ってません? きっと今私たちバカップルですよ? でも、嬉しい。やっぱり私たちって運命の糸でつながってるんですね」
「もうすぐ、つながるのは糸だけじゃなくなるけどね」
一瞬「?」という顔をして、すぐに顔を真っ赤にする。
「も、もう、先輩。またドキドキしてきちゃったじゃないですか」
そう言いながら、腕にしがみつくように体をくっつける。
気がつけばすっかり夕闇があたりを包んでいた。
「うっ、ちょっと冷えてきたな。バカップル兄妹はそろそろ帰りますか」
「あ、もうこんな時間。夕飯の買い物してかないと。お兄ちゃん、今夜は何が食べたい?」
「そうだな〜。心温まる妹のキスがいいな」
「はい」と背伸びしてぼくの頬にチュッと唇をつける。そしてするりと腕を解き「お兄ちゃん、早く〜」と叫びながらバイクの方へ駆け出した。
彼女のあとを追うように、黄色い落ち葉が舞い上がった。
クリスマスセール、年末セールとあわただしかったのが一段落した正月のことだった。
店は大晦日、元旦、二日と三連休だった。毎年それぞれが勝手に、温泉に行ったり、友達に会いに行ったり、スキーに行ったりと思い思いに休みを過ごしていたけど、今年は家族五人で除夜の鐘を鳴らし初詣をした。その帰りには彼女の家に寄って、みんなで仏壇に新年の挨拶をした。親父は家族旅行に行きたがったけど、どこにも宿が取れずに断念していた。それでも五人でゆっくり過ごす初めての休日は、まったりとしあわせを噛みしめるようだった。見様見真似で彼女が作った昆布巻きやだし巻き玉子やお煮染めや手羽先も美味しくて、格別にしあわせの味がした。親父は彼女にお年玉をあげ、ついでに渋々とぼくにもくれた。夕方から姉貴とトオルさんのところに仲間が次々と遊びに来て、二階で宴会が始まった。親父にも何人か新年回りの客が訪れ、客間で酒を酌み交わしていた。挨拶だ、酒だ、ビールだ、おつまみだ、料理だと、ぼくと彼女は忙しく立ち回っていたけど、八時を過ぎると「もうこっちは放っておいていいから部屋に戻ってゆっくりしなさい」と親父が言うので早々に引き上げた。部屋に戻って彼女は楽な服に着替え、彼女の部屋のこたつで蜜柑を食べながらこんな話をした。
「ナナカはさ、将来の夢ってなに?」
「ん〜、やっぱりしあわせな結婚かな。いつもみんなが笑っていられるような」
「どんな人と結婚したいの?」
「もう、怒りますよ」
「あはは。でも、仮に二年後、ナナカが卒業したらすぐに籍を入れるとするじゃない。その時はぼくは大学二年で、今と同じようにここに住んでて生活はほとんど変わらないと思うんだよね。だから今も、もう結婚してるのとおんなじなわけで、籍が入ってるかどうかってだけで」
「あ〜、言われてみればそうですね。そうか、今と何も変わらないんだ」
「がっかりした?」
「ううん、そうじゃなくて、今がもうしあわせの真ん中なんだなって。あ、今しあわせなのはすご〜くよく分かってるんだけど、もう結婚してるのとおんなじって考えると、改めて、私は今しあわせの真ん中にいるんだなって思えて、嬉しさが込み上げてくるっていうか……」
「でも、この前姉貴たちも言ってたじゃない、結婚はゴールじゃないって」
「うんうん、あの言葉もすごく身に染みたっていうか、いいこと教えてもらって感動しました」
彼女が「この倉庫を少し整理したい」とぼくに相談してきたことがあった。新しく部屋を作った時に在庫商品を山積みにしたままになっていて、どこに何があるか分かりにくくなっていたからだ。それに、先輩と私の部屋の周りももうちょっときれいにしたいし、と彼女が言う。こうしてああしてとぼくに説明するのを、分かりやすく図にしてトオルさんに言ってみたら? とアドバイスした。翌日の夜、みんなが風呂を済ませたあとで、彼女が姉貴とトオルさんに相談を持ちかけた。
「今はここにこれがあって、このへんはゴチャゴチャになってるので、こうしたらどうかなと思うんですけど」と現状と新しい案の図を見せる。
「お、これだと分かりやすいな」とトオルさんが身を乗り出す。親父も、どれどれと老眼鏡を掛けて頭を寄せる。
「あと、ここに棚を作れば細かいものなんかも取り出しやすいかなって」
「OK。いいと思うよ。この整理はナナに任せていい?」と姉貴が即決する。
「はい、私にやらせてもらえれば。お部屋の周りもきれいにできるし」
「ちゃんとその分のバイト代は出すからね。社長もそれでいいよね」
「ああ、いいんじゃないか? とりあえずやってみてからだんだん改善すればいい。まあ今より悪くなることはないだろう」
「この配置図すごく分かりやすいからさ、整理しながらもう少し詳しい図にして壁とか柱に下げておけば誰でも使えて便利だな。A-1とかB-2とか番号振って。そういうのもやってくれる?」とトオルさんが仕事の顔で言う。
「はい、喜んで」
「棚が必要だったらすぐ手配するからね」
「このへんにスペースを作って、新しく入荷した商品を置いておいてもらって、私が分類しながら整理するっていうのはどうですか?」
「はい、決まり。ナナは倉庫主任に任命ね。ジュンはその部下だから、しっかり手伝いなよ」と姉貴がぼくに鉾先を向ける。
「あ〜やっぱりな。なんかそんな流れになるんじゃないかと思ったよ」
「うふふっ、よろしくね、お兄ちゃん」
「だけど、また仕事が増えて大変だぞ。大丈夫か?」と親父が言う。
「はい、大丈夫です。私もお部屋の周りがすっきりできて嬉しいですから。心配してくれてありがとう、お父さん」
「う、うむ。まあ急がなくていいから無理せんでやりなさい」と親父がわざとらしい咳払いする。
そのあと姉貴が「あんたたち、ちょっと上に来ない? 結婚のお祝いに貰った紅茶がまだいっぱいあるからさ、部屋に持ってってよ。上じゃそんな洒落たものめったに飲まないから」と言うので、久々に二階に上がる。
ダイニングテーブルでまだ包装紙に包まれたままの箱を開けてみると、洒落た缶に入った紅茶の詰め合わせだった。アールグレイ、ダージリン、オレンジペコ、ゴールデンアッサム。プリンスオブウェールズという聞いたことのない種類の缶もある。もうひとつの箱には、ガラス製のティーポットや茶葉を漉す道具、冷めないように被せておくキルトの帽子みたいなものがセットで入っていた。ついでだからちょっと飲んでみようかと、姉貴と彼女がキッチンで用意をする。
「ということは、ビールはおあずけか」とトオルさんがガックリとうなだれる。
「でもさ、時々忘れちゃうけどナナちゃんてまだ十五なんだよな。そのへんの大人よりずっとしっかりしてるよな。俺なんか、お母さんみたいな気がする時もあるよ。料理も美味いし、いい嫁さんになるぞ、あれは。あ〜、もう嫁さんのようなもんか、うらやましい」とヒソヒソとぼくに言う。
「なにコソコソ言ってんの。ちゃんと聞こえてるんだからね」とティーポットをテーブルに置きながら姉貴が言う。温めたティーカップを乗せたトレイを運んで、彼女がぼくの隣に座る。
「しかしあんたたち、いつも仲いいわねぇ。たまにはケンカもしないと。まあ、うちはいっつもだけどね」
「しかも一方的だけどな」とトオルさんが言って肘鉄を食らいそうになる。
トオルさんは、いつもわざと姉貴の尻に敷かれているように振る舞っている。それを楽しんでいるように見える。たまに昔のチームの仲間や舎弟と呼んでいる後輩たちが訪ねて来ることがあり、彼らに対するトオルさんは普段とガラッと違うリーダーの顔になる。男らしく頼もしく、時には恐いくらいの迫力がある。相談事は親身に聞き、決断も早い。何年経ってもトオルさんを慕ってくるのは、そういうことなのだろう。仕事でも、物腰は柔らかいけど肝心な場面ではそんな押しの強い一面を見せることがある。だから親父も店長代理を任せて得意先回りに専念できている。来年度からトオルさんは専務取締役になって、大口顧客の新規開拓のための外回りも始めるらしい。だから、こうしておちゃらけて姉貴に頭があがらない風を装って場を和ませているのも、大人の男だなと尊敬してしまう。そんな話を彼女にすると、驚きながらも次第に距離を縮め好感を持っていった。今ではすっかり面白くて頼りがいのあるお義兄さんだ。
「あんたたち、いずれは結婚するつもりなんでしょ?」と姉貴が言う。
彼女が時間を見計らってみんなのカップに紅茶を注ぎながら「はい」と頬を赤らめて返事をする。
「若いからどうとかって私は思わないけどさ。まあ、今すぐ結婚するって言ったら、さすがにそれはまだちょっと早過ぎるだろとは思うけどね。だから、それはそんなに急ぐことないからさ、その前にお互いに好きなことをいっぱいした方がいいからさ。だけどね、結婚ってゴールじゃないんだよね。そりゃ私も、式を挙げて、みんなに祝福されて、籍も入れて、それはもう今までの人生でいちばんってくらい嬉しかったんだけど。でもいざ結婚してみると、そっからの長い道のりが見えてくるわけ。結婚前だって、それは考えてたんだけどね。実際に結婚しちゃうともう次のゴールがないわけよ、死ぬまで」
紅茶を一口飲んで「お、これ美味しい」と言って話を続ける。
「よくさあ、恋愛小説とかマンガなんかで、紆余曲折あってゴールインしてめでたしめでたしって終わるじゃない。まあそれも面白いからいいんだけど、実際はそのあとの方が大変なわけよ。あれやこれや、なんだかんだが、ずっと続いてくわけじゃん。こんなはずじゃなかったって思っても恋愛みたいにそう簡単に別れるわけにもいかないしさ。子供が出来たらもう自分の人生なんてどっか行っちゃってかかりっきりになるし。まあ、それはそれでしあわせなのかも知れないけどね。どっちにしろ長くて重たい責任というか重圧がのしかかってくるわけよ。うわ、なんかすっごい説教臭い話になっちゃったわ。ほら、あんたも何かフォローしなさいよ」
「紅茶美味しいね。ナナちゃんが淹れるとやっぱり一味違うな〜」とトオルさんがとぼける。姉貴が肘をあげて紅茶がこぼれそうになり、押し留まる。
「だからさ〜、結婚はゴールじゃないよって話。それが新婚四カ月の初々しい新妻の感想でした。はい、おしまい」
「はい、すっごくよく分かりました。ありがとうございます、お姉さん」
「なんか夢壊しちゃったみたいでアレなんだけど」
「ううん、ぜんぜん。それよりも、こういう話をしてくれる人がいるだけで、私すごく嬉しいです。みんな思ってることを率直に言ってくれるのが、それも心のこもった優しい思いやりがあって、ここの家族になれたのが嬉しくって、ほんとの家族として見てくれるのが嬉しくって……。毎日毎日、そう思います」
「それはさあ、ナナちゃんがいい子だからでしょ。いい子っていうか、ナナちゃんがいちばん思いやりがあって優しくて素直だからだと、俺は思うな」
「お、いいこと言った。さすが私の旦那だわ。ほんとその通りだよ」
トオルさんがフンと鼻息を出してふんぞり返り「じゃ、ビール飲んでいいかな」と冷蔵庫に向かう。そしてみんなで笑った。
「そういえば、結婚は人生のひとつの通過点に過ぎないって、誰かスピーチでも言ってましたよね」
「ああ、あれはたぶん姉貴の高校の先生だな」
「へ〜、高校の先生まで来てくれるんだ」
「まあ、姉貴は高校の時いろいろあったみたいだからな」
「え、いろいろって?」
「わりとお堅い女子高でさ、姉貴は鬼の風紀委員長って呼ばれてて、生徒会長と対立してたんだって」
「対立?」
「うん。まあぼくも聞いた話だから詳しくは知らないけどさ、自由な校風を作るって生徒会長になった人と、校則違反を厳しく取り締まった姉貴とで、生徒会グループ対風紀委員グループでいつも言い争ってたみたいだよ」
「すっご〜い! なんか学園ドラマみたい」
「それがさ、対立してた生徒会長と今はすっごく仲がいいの。ほら、結婚式にいた濃いピンクのドレスの人覚えてない?」
「あ、あの髪が長くてきれいな人。えっと確か、ユリカさん。私も少しお話しましたよ」
「そうそう。あの人も姉貴に負けず劣らず性格キツイんだよね。そう言えば、昔うちの駐車場でにらみ合ってたこともあったっけ。ふたりとも仁王立ちでさ。そこにトオルさんがまあまあって割って入ってムリヤリ握手させられてたけど。ぼくの勘じゃ、あの時ユリカさんはトオルさんに惚れたんじゃないかと思うんだけど」
「うわ〜、ますますドラマチックですね。で、その時はお姉さんとお兄さんはもう恋人同士だったんですか?」
「いやいや。トオルさんはずっと結婚しようって言ってたんだけど、姉貴の方は鼻にも引っかけてないみたいだったよ。それがいつの間にかくっついちゃてて。そのへんのこと、今度聞いてみなよ。ナナカになら教えてくれるかも知れない」
「はい、今度こっそり聞いてみます。でも先輩には教えませんからね」
「そのうちトオルさんがビール飲みながら話し出すんじゃない?」
「でも私はお姉さんから話を聞いてみたいな」
「あ、そうか。ふたりの話が食い違ってるってこともあり得るな。なんか面白くなってきたぞ」
「ダメですよ、面白がっちゃ」
「ナナカは面白がってないの?」
「私は、その……真面目に……」
「真面目に面白がってる?」
「もう、またいじわるなんだから」
「あははは。まあ姉貴たちの話はいいとしてさ、将来の夢なんだけど、結婚は別にしてなにかこうなりたいとか、こんな仕事したいとか、ない?」
「仕事ですか? う〜ん、まだそんなことあんまり考えたことなくって……。仕事っていうと、人からこれやりなさいって言われて頑張ってお金もらうっていうイメージしかなくって。だから勤めさせてくれるとこならどこでもいいかな、くらいで……」
「そうか〜。小学生の時とか、大きくなったら何になりたいかとか聞かれなかった?」
「あっ、そうだ、思い出した。私は看護士さんって書いてました。私にはいちばん身近な職業だったし、いつもすごく親切で可愛がってもらって、私もこんな人になりたいなって思ってたんでした。すっかり忘れてた」
「ぜんぜん忘れてないよ。おじいちゃんやおばあちゃんに、あんなに優しくお世話してたじゃない。立派な看護士だったよ」
「それはだって身内だし、私の方がお世話になってたから」
「でも、そういうナース精神っていうか、人の世話をしたい、役に立ちたいっていうのは、元々ナナカが根っこの部分に持ってるものじゃないかって気がするよ」
「そうだといいな。私もお世話したり役に立てると嬉しいですし。……でもなんで急に将来の話?」
「実はさ、ぼくもそろそろ進路のことを考えなきゃなって。高校もあと一年だし、新しい年も明けたしね。ナナカと話してるうちに自分の考えが何か見えてくるかなと思って」
「あ〜、なるほど。先輩はどんな将来像を持ってるんですか?」
「いや、それが何にもなくって困ってるんだよね」
「え! なんかいろんな夢を持ってそうなんですけど? でも大学に行くんですよね?」
「うん、まあそのつもり。大学に行くにしても、まずどんな学部にするか決めないとならないし、それには将来これをやりたいっていうのが何かないと決められないしさ」
「そっか〜」
「ナナカには、ぼくはどんなふうに見える? こんな職業が合いそうだな、とか」
「なんだろ。う〜ん、とりあえずスーツ姿はあんまり思い浮かばないかな〜?」
「サラリーマンには向いてない?」
「いや、ただのイメージですよ、私の勝手な。でも、もっと自由人っていうか風来坊っていうか、飄々とした感じっていうか……」
「フリーター?」
「いえ、そうじゃなくって……。あ、そうだ、学者さんタイプだなっていうのはなんとなく思ってました」
「白衣を着た研究者?」
「いえ、そういうのでもなくて。ほら、先輩っていろんなことよく観察してるじゃないですか。それと、いろんなこと調べたり考えたり。だから、たとえば哲学者とか心理学とか社会学とか、なんかそういうの似合ってるかなって。あ、私の思いつきですから気にしないで下さいね」
「ああ、だけどそう言われるとそうかも。昔っから人を観察するのは好きだったような気がする。観察するだけで人付き合いは悪いからさ、なんか気味悪いとか、何を考えてるのか分からないとか、クールを気取ってるとか、上から見下してるとか言われてたしな〜」
「先輩って、AB型じゃないですか?」
「うん」
「やっぱり。AB型って二面性が合って、考え方が柔軟で、でも頑固で、分析力に優れてるんですよ。あとは、冷静で合理主義者っていうのもあったかな?」
「二重人格で理想主義で冷たいとも言うけどね」
「もう、人には自分を卑下するなって言っておいて……。それに、ものにはすべていい面と悪い面があるって言ったのも先輩ですよ」
「うっ。おっしゃる通りで……。ABはAに弱いのかな」
「なんで私がA型って知ってるんですか? いつか言いましたっけ?」
「いや。でもナナカがAじゃない方が驚くよ。だけど、今の言葉でなんか見えてきた気がするな」
「たとえば?」
「人を観察することとか、風来坊タイプとか」
「風来坊になるんですか?」
「なんかいいかも」
「……私を置いてフラフラどっかに行っちゃいそう」としょんぼり眉をすぼめる。
「あ、そういんじゃなくてさ、なんだか分からないけど五年後とか十年後を想像するとね、いつも旅してる情景が浮かんでくるんだよね。たとえばヨーロッパのどこかの街角を歩いてるところとか、京都の路地を歩いてるところとか、フェリーのデッキから海を見てるところとか。そこにはいつもナナカがいてさ、いつも散歩してる時みたいな感じで」
最後の言葉に、彼女の顔が一気に輝いた。
「そんなの、素敵すぎる! 今、私もそのシーンがすごくはっきり見えます。なんか夢みたいだけど、ぜんぜん夢じゃない感じで、いつもみたいに自然で、吹いてる風まで感じられるみたいで」
「あ、そうそう、ぼくもそんな感じで浮かんでくる」
「それ、きっと予知夢ですよ、デジャビューですよ、絶対叶いますよ! ほら、私が先輩のコートの腕を組んで、川から冷たい風が吹いて髪をなびかせてる」
「古い石橋の上を渡ってるところで、川には遊覧船が浮かんでて、どんよりした空の夕方近くで」
「どこかから鐘の音が聞こえてきて、先輩は遠くの方を見てて、私はその先輩の顔を見てるの」
「うん。何も話はしてないんだけどナナカは嬉しそうな顔をしてるな」
「先輩は少し髪が伸びてる」
「ナナカは薄く化粧してる」
「うわ〜、すごいすごい! 映画の中のふたりみたい! ねえ、絶対にほんとにしましょうね。もうただの空想じゃないですからね」
「今、鳥肌が立っちゃったよ。そうだな、職業はなんにせよ、そんなことが当たり前のような人生にしたいな」
「うんうん。その街だけじゃなく、いろんな場所に行って、いろんなものを見て、いろんなものをふたりで感じられたら……。年を取って白髪になっても……」
「どこかの公園のベンチで、ナナカは今と変わらない優しい笑顔を浮かべてるよ」
「先輩は、白いヒゲをはやして、少しくたびれたコートを着て、手にはステッキを持ってますよ」
「犬が寄ってきて、ナナカが手を差し伸べてる。相変わらずきれいな足だな」
「はぁ〜、もう胸がいっぱいになってくる。何年も何十年も、先輩と私は変わらないんですね。いつもの散歩がずっと未来まで続いてるんですね」
「ああ、そうだったのか! そうやって過去と未来はつながって行くんだな。……特別大きな夢や野望がなくたって、今のなにげない喜びを少しずつ広げていけば、それでもう充分なのかも知れないな」
「そうですね、ほんとに……。あ〜夢が叶ったと思ったら、また新しい夢ができちゃった」
「じゃあ明日またあの公園に小さな夢を叶えに行こうか」
「はい」と彼女が嬉しそうに柔らかく笑った。
そのあとぼくは彼女の言っていた社会学系の学部を調べ、三校ほどの志望校を絞り込んだ。なるべく受験勉強が苦しくない程度の。それを親父に告げると「ああ、そうか」と言っただけで自分の大学時代の思い出を語り出した。バイクで九州を周りそこで母さんと知り合った話なんかを彼女は楽しそうに聞いていた。母さんもバイクに乗っていたとは、ぼくも初耳だった。
ほんとうに大変だったのはその二年後、彼女の進学を決める時だった。それぞれが、女子大の家政科がいいんじゃないか、いやデザイン系の才能がある、医療看護に向いてると思うなどと喧しかった。大学に行くことはすでに決定事項のようだった。彼女は迷った末、ぼくの通う大学のフランス語学科に入学した。
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