第9話

 葬式は親父が手配してくれた。葬儀社の人が仏壇を見て、その宗派の坊さんを呼んでくれた。この前墓地で撮った写真が遺影になってしまった。通夜には、ヘルパーの宮田さんと市役所の人と町内会の人が数人来てくれた。翌日の朝もう一度お経をあげてもらってから火葬場へ向かい、おじいさんとおばあさんは仲良く天に昇って行った。

 ごく簡単なあっという間の葬儀だった。放心して気の脱けた彼女をひとりにできず、ぼくは居間に泊まった。新婚旅行を一日早く切り上げて帰ってきた姉貴とトオルさんが、線香をあげに来てくれた。

 彼女もぼくも、連休明けまで学校を休んだ。

 明日からはまた学校という夜、仕事終わりの親父がクルマで迎えに来て、話があるとぼくたちを家に乗せて帰った。リビングには姉貴とトオルさんが待っていた。

「この度は、大変だったね。まだ気持ちも落ち着いてないだろうとは思うんだが」と、まだ憔悴した様子の彼女を見ながら親父が切り出した。

「いいえ。この度は、社長をはじめ、みなさんにほんとうにお世話になって、ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。もっと早くお礼を言わなくちゃならなかったんですけど……」

 最近めったにかけなくなったメガネの奥の、少しはれぼったい目で弱々しく彼女が言う。

「あ、いやいや、そういう他人行儀な挨拶はいいから。まあ、なんだ、まだ早いかとは思うんだけどね、これからどうするかをちょっと相談しておいた方がいいかと思うんだが」

 意味を図りかねて、彼女がきょとんとした顔をする。

「それでだ、まあ、結論はすぐに出さなくてもいいんだけどね、ナナちゃんはこれからどうするつもりか、今思ってることだけでも聞かせてくれるかな?」

「ん、つまりどういうこと?」と、ぼくも親父の真意が分からずに聞き返す。

「だからな、今後ナナちゃんは、どこでどうやって暮らすか、ということだ」

「……それは、まあ、あの家で」

「うん、それはそれでいいんだが、ナナちゃんの身元保証人は誰なのかとか、これからの生活費はどうするか、とか、まあそういう下世話な話なんだが、現実問題として考えなきゃならんことだからな」

「ああ、そうか。話が見えてきた」とぼくが彼女を見る。

「……そうですね、ぜんぜんそんなこと考えてませんでした。なんか、さっぱり頭が回らなくて……」

「いや、それはムリもないから気にしなくていい。だけど、やっぱりナナちゃんも暮らして行かなきゃならないから、少しずつでも考えないと」

「はい」

「で、またお金とか、そういう話になってしまうんだけど、いいかな」

「はい」

「まず、ナナちゃんの今の身元引受人、まあ保護者だな、それは誰になってるか分かるかい」

「ええ。高校の入学の時に、男鹿の叔父さんが手続きしてくれて、おじいちゃんになってます」

「そうか、それならよかった。実は、葬式の前に男鹿の木下さんに電話をして、ナナちゃんのおじいさんとおばあさんが亡くなったことを報せたんだけどね、ああそうですか、それはご愁傷様でしたと、言っただけだったんだよ。もう他人事みたいな感じだったな」

 そういえば、男鹿から電報も香典も届いてはいなかった。

「まあ、あっちはもう縁がないと思った方がいいかも知れないな。冷たいようだけど」

「いいえ、私もその方がすっきりしていいです」

「そうか、それなら、あっちとはもうゴチャゴチャすることはないな。で、だ。おじいさんとおばあさんは、保険とかには入ってたのかな?」

「え? さあ、そのへんは私なにも知りません」

「そうか。もしそういう書類があるとしたら、どのあたりにしまってあるか分かるかい」

「まあ、だいたいは……。帰ったら、ちょっと探してみます」

「うん。それはそれとして、相続の問題もあるんだ。あの土地と家はおじいさんのものなんだよね?」

「だと思います。親から受け継いで、子供が出来てすぐにあちこち修繕したって言ってましたから」

「そして、おじいさんとおばあさんには子供がひとりだけなんだよね。他に親類はいるのかな?」

「いいえ、いないと思います」

「となると、あの家や財産を継ぐのはナナちゃんだけということになるね」

「ああ、そうですね。はい」

「で、悪いとは思ったんだけど、知り合いの不動産屋にあの家の場所と面積のだいたいの相場を聞いてみたんだ、相続税がどのくらいかかるのか。まあ、実際に現地で調べてもらわないとはっきりした金額は出ないんだけど、だいたい三百万から五百万くらいだろうって話なんだ。ほかにも貯金や財産があれば、そこにも相続税がかかってくるしね」

「……」

 彼女は、晴天の霹靂という顔で茫然としていた。もちろん、ぼくも。

「まあ、それはそんなに心配することはないと思うよ。家や土地を処分すれば、税金を払ってもそれなりのお金が入るから」

「え、でも、あの家がなくなっちゃうと、私、住むところが……」

「うん、そこでだ。ナナちゃんは、あの家に住んでいたいのかい?」

「……できれば」と途方に暮れながら、申し訳なさそうに小声で言う。

「なあ父さん、ちょっと」

「お前は、もう少し黙って聞いてろ。あとでちゃんと意見は聞くから。で、ちょっと考えたんだが、あの家をうちの会社で買い取って、まあ社員寮とかそういう形にしておいて、ナナちゃんがあの家で暮らしたいなら、このままあそこに住み続けてもらおうかと思うんだが」

「え?」

「まあ、ひとつの案としてだな、そういう案もあるということだ。だが、仮にそうするにしても、生活費の問題がある。うちでアルバイトを続けてもらうにしても、他にもバイトを掛け持ちするにしても、まだ高校一年なんだからそうそう稼げるわけでもない。それで体を壊したり、勉強がおろそかになると、なんのために学校に行ってるんだか分からなくなってしまうだろう」

「それなら高校を辞めても……」

「ナナちゃんは高校を辞めたいのかい?」

 彼女は力なく首を振る。

「私もナナちゃんにそんな苦労をさせたくないんだ。話を聞けば、いままでいろんな苦労や辛いことがあったそうじゃないか。私はね、ナナちゃんに今の笑顔を失くして欲しくないんだよ。これはまあ、私のわがままだけどね。お前だってそうじゃないのか?」

「それは、もちろんそうだよ。ナナカは、今までの分、誰よりもしあわせにならなきゃならないと思うよ」

「お前たちは、どうだ?」と傍でじっと聞いていた姉貴とトオルさんに顔を向ける。

「もちろん」と言いかけたトオルさんに姉貴が肘鉄を食らわす。姉貴が深く頷くのを見て、トオルさんも腕組みをして何度も頷く。

「で、もうひとつの案なんだが、ナナちゃん、うちの養女にならないか?」

「えっ!」

「つまりだな、今後の保護者の問題もあるし、私がナナちゃんの親代わりになるというのが、まあいろいろと都合がいいんじゃないかと、そう思うんだが」

 ぼくも彼女も、ただ驚いて親父の顔を見つめるばかり。

「ナナちゃんのお父さんにはとうてい及びもつかないとは思うが、こんな仏頂面の父親は嫌かもしれないけど、そこのところは我慢してもらってだな……。まあ、気乗りがしないなら、それは仕方がないけどね。ひとつ、ゆっくりでいいから考えてみてくれないか」

 彼女が泣き出しそうな顔で、すがるようにぼくを見る。

 ぼくもまだ頭の中がまとまらないまま、今の話を整理しようと「それは、つまり……」と言いかけると、

「お前は、どうなんだ?」と親父が怒ったように言う。

「どうって、なにが?」

「お前は、ナナちゃんをどう思ってるのかってことだ」

「それは……、それはもちろん、俺にとっていちばん大事な人だよ。いつかは家族になれればと思ってるよ。でもそれは、まだ十七になったばかりだし、どんなに俺が言ったって、今は誰も納得してくれないだろうし……」

 姉貴がプッと吹き出して、すぐに真顔を作る。

「養女になれば、うちの家族だぞ」

「いや、そういうことじゃなくてさ……。だから、俺はナナカが好きなんだ。ナナカは俺の恋人なんだよ。ずっとナナカを支えてやりたいんだ。しあわせにしたいんだ。いや、俺もナナカとしあわせになりたいんだよ。結婚したいと思ってるんだ」

「そんなガキのたわごとに、俺が、はいそうですかと言うとでも思ってるのか?」

「だから……そんなこと、今はまだ何を言っても……」

「私も!」と彼女が力を込めて言う。

「私も先輩と、潤也さんと結婚したいと思ってます。五年後でも十年後でも、結婚とかはいつでもいいですけど、ずっと潤也さんのそばにいたいって思ってるんです。もし潤也さんがいてくれないと、私これからどうやって生きていけばいいのか……」

「ああ、泣かなくていい。泣かなくていいから。いや、ただお前たちの気持ちを聞きたかっただけだから。まあ、それを聞いて私も安心したというか……。いや、だからと言って結婚を認めたわけじゃないからな。今はそう思ってるかも知れないが、この先どんなふうになるか分からんからな。軽率に結婚するだのなんだの言える年齢じゃないだろ。それはお前たちもよく分かってるな?」

「ああ」とぼくは力なく返事をする。彼女もコクンと頷く。

「燿子でさえ結婚なんてまだ早いと思ってるのに、お前たちがそんな夢みたいなことを考える前にだな、まずうちの養女になって、それから家族として過ごして、お互いのいいところ悪いところもちゃんと分かってから、まあ、そういうことを考え始めたって遅くはないだろう。仮に、まあ、今は好き合ってるようだが、もしそういう気持ちがなくなっても、ナナちゃんは私の子供のままだし、家族のままなわけだ。その時は、潤也は家を出て行ってもらう。勘当するから、あとは自分の好きにやればいい。ナナちゃんには、私がこんなのよりもっといい男を探してやるからね」

 今度はトオルさんがプッと吹き出し、また肘鉄を食らう。それを見て、ぼくも彼女もつい吹き出しそうになってしまった。

「まあ、話は分かったけど、悪い話じゃないっていうか、それがいちばんいい方法なのかなって思うけどさ。姉貴たちはどうなの?」

「ふ〜。やっと出番が来たよ」と姉貴が急にくつろいだ体勢になる。

「俺は、こんないい話はないと思うぜ」とトオルさんが言う。

「まあ、簡単に言っちゃえば、そうだね」と姉貴が引き継ぐ。

「それは、ナナちゃんにとってもだけど、私らにとってもベストなプランじゃないかと思うな」

「私らって?」とぼくが尋ねる。

「あんたにとっても、父さんにとっても、私にとっても、トオルにとっても、だよ。ねえ?」

「あ? ああ、もちろんさ」とトオルさんが身を乗り出して言う。

「あんたにしても、父さんにしても、どんだけ可愛いのよってくらいナナちゃんを大事にしてるのは誰が見たって一目瞭然でしょ。私だって、こんな妹がいたら可愛くないわけないじゃない。まあ、前からもう妹だと思ってるけどね。最初にあんたがナナちゃんをうちに連れてきた時から言ってるじゃん、こんな子を見つけたのはあんたにしては上出来だって、絶対手放すんじゃないよって。最近はあんたがナナちゃんに振られないかの方が心配だけどね。あ、それウソだわ。ぜんぜん心配してないわ。ナナちゃんが嫌なことされてないかって方が心配だ。トオルなんかね、沖縄で何か見つける度に、これナナちゃんのお土産にどうかなとか、ナナちゃんもここに連れてきたら喜ぶだろうなとか、しまいにはナナちゃんの水着姿が見たいとか言い出してさ、もうその晩は大ゲンカよ。次の日、スキューバのインストラクターに目のアザ見られて、あんたなんて言い訳してたんだっけ?」

「あ、いや、それはまあ。エヘヘヘ、ごめん」と素直に頭を下げるトオルさんにみんなで笑う。

 トオルさんが「で、これがナナちゃんへのお土産。こっちはジュンの」と、貝殻細工のペンダントと琉球ガラスのペアのタンブラーグラスをテーブルに置く。彼女が思わず「わ〜可愛い」とはしゃいだ声を出してから、しまったという顔で神妙に「どうもありがとうございます」と礼を言う。グラスの方もブルーとピンクなので、片方は彼女にというようなものだ。

 そしてトオルさんが続ける。

「あ、ほら、結婚式にも来てた俺の妹、ケイ、わかる? 今は名古屋に住んでて子供が二人もいるんだけどね、あいつがまた俺に似たのかそういう家系なのか、昔っからやんちゃで気が強くて、まあ燿子にはかなわないけど、そんで可愛げもなくってさ、あ、そこは燿子の方が美人だから」

「いちいちヨイショしなくていいから」と姉貴が軽い肘鉄。

「う、だから何が言いたいかと言うと、ナナちゃんは天使みたいだってこと。義理だってなんだって俺にとっても妹になるんだからさ、世界いもうと選手権グランプリみたいなナナちゃんが俺の妹だよ、もう天にも昇る気持ちって言うか、なんなら俺の養女に……」

 今度はきつい肘が入った。そして息の合った漫才コンビみたいに姉貴が話を奪う。

「まあ、うちとしては誰も反対してないし、それよか、なにがなんでもそうしたいってとこなんだけど。ついでに私の希望を言うなら、私としてはナナちゃんにうちで暮らしてもらいたいんだよね。ほら、今も時々みんなのお昼とか作ってくれてるじゃん。みんなの評判もいいしさ。私も料理は嫌いじゃないんだけど、朝とか作るの大変だし、夜もつい手抜きっていうか、総菜買ってきて皿にあけるだけみたいになっちゃうからさ、できればそのへんをやってもらうと大助かりだな〜って、そう思うわけよ。ま、こっちに住むとしても二階はあんなふうに改造しちゃって部屋がないから、ジュンみたいに倉庫を整理してもう一部屋作ってさ、その場合はジュンが絶対に入れないように暗証ロックでも指紋認証でも付けてさ。その方が店に通う時間もいらなくなるしね。本音を言っちゃえば、ナナちゃんに家のことを任せて、私もちょっとやりたいことを始めたいな、なんてね」

「ん、やりたいこと?」とぼくが尋ねる。

「まあ、店の仕事は今まで通りやるんだけどね、経理とかもだんだんトオルに任せて、私はちょっと事業を始めたいって思ってるんだよね」

「事業?」と親父も初めて聞いたようでびっくりしている。

「ほら、ウェディングドレス作ってくれたマキいるでしょ。あの子、服飾短大のひとつ後輩で、今はアパレル会社の営業やってるんだけど、もともとデザイナー志望で作る方になりたがってるの。昔っから気が合って、私も元々デザインやりたくてあの短大に入ったんだけど、型紙とか縫製とか性に合わないっていうかヘタだったから途中で諦めたんだけど、マキは私のデザインは面白いって言ってくれるし、マキはデザインもするけどどっちかっていうと作り上げる方が好きみたいで、だからそのうちにふたりで組んでオリジナルブランド立ち上げたいねって言ってるんだよね。マキには、今は修業だと思って営業で顔を広めておきなっていってるけどさ、私の方もそろそろ動き出したいなと思ってるわけ」

「なんだ、トオルはその話は聞いてるのか?」と親父が聞く。

「ああ、はい。もう前から言ってましたから。結婚の条件のひとつでもあったんですよ、私のやりたいことを邪魔するなって。まあ俺としては店でもアゴで使われ、あ、いや、いっしょに働くよりも、こっちは任してもらって燿子には好きなことをしてもらった方が嬉しいなと思ったりもするわけで」

「あ、その時はさ、あっちのナナちゃんの家、スタジオとして使わせてくんない? こないだ初めて行ったけど、すっごいいい家じゃん。渋いって言うか、趣があるっていうかさ。あの雰囲気はそのままにして、ちょっとモダンな感じに手を加えれば、ショップにもできそうだよね。あ〜、それいいな〜」

「おいおい、そんな話はまだいいだろう」と、どんどん話を曲げて行く姉貴を止めて、親父がひとつ息を吐く。

「それはまた今度ゆっくり話すとして、だな。まずは、ナナちゃんがどうするかが先決だからな。まあ、こっちであれこれ言ってもしょうがないから、ナナちゃんにはゆっくり考えてもらうことにしよう。もちろん嫌なら無理にとは言わんが……。他に誰か言うことはないか?」

 考えれば考えるほど、他の選択肢はないように思えた。いや、選択肢などではなく、それはぼくの希望でもあると思った。

 誰も口を出さず、みんながそっと彼女を見る。下を向いている彼女の頬に涙が流れた。

「……ほんとうに、何と言っていいのか……。もう私にはもったいない、ありがたすぎるお話で……。ほんとに、ほんとに……」と言葉を詰まらせる。

「ということは、了承したと言うことでいいのかな?」

 小さく頷ずく。それから顔を上げて「はい」と彼女が言った。

「こんな、何もできない私ですが、みなさん、どうかよろしくお願いします。私を……私を家族にして下さい」

 涙をポタポタと落としながら、長い長いお辞儀をした。

 トオルさんが拍手をする。それに続いて、みんなが拍手をする。

「よし、それじゃ今この時点からナナちゃんはうちの家族だ、うちの娘だからな。永久にな。これからは気兼ねしないで好きなようにしなさい。自分のうちなんだからね。その代わり、私も何か目に余ることがあったら遠慮なく叱るし、張り倒すからね。いいね?」

「はい」と涙の止まらない瞳で嬉しそうに答える。

「ほらほら、ナナちゃん、涙を拭きな」と姉貴がティッシュの箱を渡す。

「私も遠慮なくこき使うからね〜。覚悟しなさいよ。なんか、新妻なのに姑心がみなぎってきちゃったわ」

「ナナちゃん、いじめられたらいつでも俺んとこに来るんだよ」と言っては、またトオルさんが肘鉄を食らう。

「ウプッ……。しかしさ〜、こんな可愛い子が妹で恋人でフィアンセって、すっげ〜萌えシチュエーションじゃないの、ジュン。俺がもし……」続きを言う前に、今度は強烈なボディフックをもらって椅子からずり落ちる。それでも、トオルさんも姉貴も嬉しそうだった。いつもながら、まったく不思議なカップルだ。

 嬉しそうなのは姉貴たちだけじゃない。親父も、ぼくも、そして彼女もティッシュで目を押さえながら、いつもより深く頬に笑窪を作っていた。


 十月一日に、戸籍上も彼女は北村家の一員になった。彼女の希望で、名字は前田のままにしておくことにした。いつか別の日のために、と。

 しばらくは前の家で暮らし、その間にぼくの部屋と少し離れたところに彼女の部屋を作ってもらうことになった。広さはぼくの部屋の半分だったけれど、大きめのクロゼットに加えて、なんと洗面所とユニットシャワールームが付くことになった。親父は姉貴の結婚準備の時以上に張り切って何でも揃えたがったけど、彼女は何も欲しがらないので、逆にしょげていた。

 彼女の家を探してみると、仏壇の裏に土地の権利証や火災保険証書があった。僅かな金額だけど彼女名義の預金通帳もいっしょにあった。そして、実印の保管場所を書いた便せんには「この家の全てを孫の前田七香に贈与する」ときちんとした文字でしたためられていた。彼女はそれを見て、また泣いた。


 朝七時に制服姿で家に来て、家族の食事とスタッフの昼食とぼくたちのお弁当を作る。その途中で内線電話でみんなを起こす。四人でワイワイ話しながら朝食を食べ、彼女は八時十五分の電車で学校に向かう。ぼくは少し遅れてバイクで出て学校前の駅に留める。ちょうど駅に着いた彼女といっしょに坂道を上る。昼には中庭か二階ロビーでお弁当を食べる。授業が終わるとスマホで待ち合わせ場所を連絡し合う。たいていは図書室か購買横の自販機か玄関前。そして話をしながらのんびりと坂を下る。ぼくはバイクで、彼女は電車で、家に戻る。

 制服のスカートでバイクにまたがるのが恥ずかしいと、彼女だけ電車で通学している。雨の日にはぼくも電車にするけど、込み合う電車の中で押されてくっつくたびに彼女は頬を赤くした。

 四時頃に家に戻ると、彼女はトレーナーとショートパンツとハイソックスに着替え、髪を束ねてエプロンを掛け、掃除と洗濯を始める。バイトのある日は五時から八時の閉店まで店で働く。バックヤードだけでなくフロアでお客さんの対応もするようになった。バイトのない日は念入りに掃除し、シーツなどの大物の洗濯をし、買い物に行く。家の庭や店先の花壇の世話もいつの間にか彼女の仕事になった。ようやくぼくの部屋で髪を下ろすのは六時過ぎになる。仕切りカーテンの向こうでぼくの好みの服装に着替えてくれて、おしゃべりをしながら課題を片付けたり、ギターやキーボードの練習をしたり、パソコンをしたり、キスをしたり、たまには居眠りも。するとすぐに八時になり、彼女は母屋に戻って夕飯の支度に掛かる。

 彼女の料理は、ごく普通の家庭料理が多い。焼き魚、煮付け、酢の物、揚物、肉炒め、八宝菜、麻婆豆腐、チャーハン、カレー、シチュー、野菜サラダ、漬物、みそ汁、炊込みご飯……。そんな、いつでもどこでも食べられそうな料理が、とても美味しい。懐かしくて優しい味がする。ごはんさえ、彼女が炊くと香りが立ちまろやかな味に思える。そんな料理が必ず三、四品並び、彼女は全体的に薄味なのを気にしてみんなに味付けの好みを聞いていたけど、誰も注文をつける人はいなかった。

 九時から十時まで食卓を囲みながらおしゃべりをする。話題は絶えることなく、彼女は始終笑顔だ。時には親父が、何か足りないものはないか、欲しいものはなんだ、小遣いは足りてるかとしつこくて困った顔をすることもあるけど。洗い物は、彼女+姉貴、トオルさん、ぼくの当番制だ。当番制といっても、彼女と話をしながら洗い物をする時間が楽しいから順番を決めているという具合だった。その間に、親父が風呂に入り、姉貴とトオルさんは二階に引き上げ、ぼく、彼女と入浴を済ませると、十一時。髪が乾いたら、それじゃおやすみなさいと母屋を出る。

 親父は決まって「もう遅いから今晩は泊まっていったらどうだ」と引き止める。雨の夜や十二時を回ってしまった時には、客間で寝ることもあった。

 ぼくの部屋に寄りジーンズに履き替えて、畳んだ制服や通学バックを持ち、バイクの後ろに乗って彼女の家まで走る。仏壇に「ただいま」と声を掛け、居間で十五分くらい過ごしてから「じゃあまた明日。気をつけてね。おやすみなさい」とキスを交わして、ぼくは玄関を出る。彼女は二階で本を読んだり何か書いたりして一時頃に布団に入るようだ。ぼくは、少し回り道をしてブラブラと走ったり、途中の公園で星空を見ながら考え事をしたり、それから部屋に戻って、あれこれしているうちに寝入ってしまう。

 家のことは完全に彼女が中心になった。それはもう、あっという間だった。親父は家事用の財布を彼女に預けてしまい「これは好きに使っていい。食費や交通費なんかの必要なもの以外も、自分の好きなものを買っていいから。足りなくなったらすぐに言いなさい」と言った。その他にも月五千円の小遣いを渡そうとするけど、彼女が「バイト代も貰ってますし、必要な時はお願いしますから」と受け取っていない。

 うちの決まりとして、店の商品は家族であっても値札の額で買うというルールがある。小さい頃から「店のものは家のものじゃない。お客さんからの預かり物を置いてあるだけだ」と言い聞かされてきた。その代わり、店の手伝いをすると他のスタッフと同じ時給のバイト代を支払ってくれた。高いものはバイト代の前借りということで手に入れることができた。そして使い終わったもの、読み終わったもの、飽きたものは、傷み具合を見て店で買い取ってもらえた。だから中古品といえども自然と丁寧に扱うようになっていた。それに、店には多種多様なものがあるので、いつでも手に入るというような気持ちになり、あまりあれが欲しいこれが欲しいと思わなくなっていた。まあそれでも他の中高生がなかなか手に入れられないものを持ててはいたけど。

 彼女にはそんなルールを言うまでもなかった。

「なあ、親父も姉貴もさ、ナナカは家政婦じゃないんだから、もうちょっと自分の時間を作ってやってくれない?」

 家族になって、ふたりで過ごす時間が倍にもなるように思っていたけれど、フタを開けてみれば逆に半分になってしまった。通学の坂道、夕飯前の一時間ちょっと、そして送って帰る三十分ほど。

 ある晩、そんな文句を言うと

「それって、あんたがナナを独占したいだけでしょ。ちょっとでも時間が空いたら自分の部屋に連れ込むくせに」と姉貴に見透かされた。それを聞いて親父も憤然とする。

「なに人聞きの悪いこと言ってんの? そうじゃなくってさ、ナナカがもっと女子高生らしく楽しく過ごせるようにさ……」

「ナナは、どうなの? 今のパターン、大変? もしそうなら、またみんなで考えてなんとかするからさ」

「いいえ、ちっとも。毎日すごく楽しいし、やりがいもあるし、充実してます。みなさんの、あ、みんなの役に少しでも立ててるかなって、私も嬉しいですし」

「ほ〜ら、聞いた? ほんとにナナは出来た妹だね〜」と姉貴が彼女の頭を撫でる。

「あんたもナナに少しは楽させたいんなら、買い物を手伝ったり、掃除や洗濯とか、料理だってたまには代わってやるとか、あ、あんたの料理は食べたくないけど、いろいろやろうと思えばできるんじゃないの?」

 そう言われると返す言葉がない。

「私は大丈夫だよ、お兄ちゃん」と彼女も追い討ちをかける。

 時々ふざけて言い合っていた「ナツコ」「お兄ちゃん」という呼び方を、最近は彼女がぼくをたしなめる時に使うようになってきた。「お兄ちゃん、食事の時はテーブルに肘をつかないで」とか「お兄ちゃん、洗濯物は部屋にため込んじゃダメ」とか。ぼくもたまには「ナツコ、そんなことをしちゃダメじゃないか」とか「そんなことも出来ないのかい、まだ子供だなあナツコは」とか言いたいのだけど、なかなかそんなチャンスがない。もしかして尻に敷かれ始めてるのか? トオルさんのことを笑っていられなくなってくる。

 呼び方と言えば、彼女はぼくのことを前と変わらず「先輩」と呼ぶ。姉貴は彼女を「ナナ」と呼び、親父は「ナナちゃん」たまに照れたように「ナナ」と呼ぶ。トオルさんは「ナナちゃん」のままだ。店では「社長」「チーフ」「主任」だけれど、彼女は家では親父を「お父さん」と呼ぶようになった。彼女にそう呼ばれると「うむ」と威厳を正しながらも、弛んだ目の下をさらに弛ませていた。姉貴のことは「ヨーコさん」、トオルさんのことは「トオルさん」のままだけど、たまに「お姉さん」「お兄さん」と呼ばれると親父と似たような顔になる。まあ、ぼくも人のことは言えないけれど。

 つまりは、彼女の素直さ、明るさ、丁寧さ、心配り、裏表のなさ、そして屈託のない笑顔に誰も敵わないということだ。すっかり、わが家になくてはならない、甲斐甲斐しくて愛らしい、みんなのお姫様になっていた。

 もう「しあわせすぎて恐い」とは言わなくなってきたけれど、いつも彼女がそう思っていることはみんなに伝わった。そして「ほんとうによかった」と心から思っている。

 秋が深まるにつれ、そんな生活が日常になって行った。でも、しあわせはひとつも色褪せなかった。何か頼む度に「はい」「どういたしまして」「こちらこそ、ありがとう」とにこやかに応える彼女に、みんな心が安らぐ。普通なら、慇懃無礼、他人行儀に聞こえるそんな言葉も、彼女が言うとほんとうに自然に聞こえる。家の空気を、やわらかく、あたたかく、彼女が変えてしまった。

 かといって、ただ従順なわけではなく、時々頑固なところも見せた。

 違うと思ったことは、きちんと自分の考えを言う。簡潔で率直な言葉で。必要なこととそうじゃないこと、正しいこととそうじゃないことを直感的に見分けた。分からないこと、知らないことは、詳しく聞きたがった。かといって、几帳面とか杓子定規なわけでもなかった。人によってそれぞれの考え方、やり方があるのをちゃんと分かっていた。そしてそれを尊重した。納得できない時、迷った時、悩んだ時には、必ずみんなに相談した。誰かにではなく、みんなに。遠く広く考えることはあまり得意じゃなかったけど、手の届く範囲のことはきめ細かく目を配り親身になって考えた。高一にしては出来すぎなほどだった。柔軟で飲み込みの早い彼女の頭の良さに、みんなが舌を巻いた。試験の成績は、ほんとうに中の中だったけど、そんなことは何の問題でもなかった。

 前に姉貴が「真っ白いキャンバスみたいな子」と言ったことがあったけど、それはいつまでたっても変わらなかった。着るものによって、その場所、その時によって、いちばんぴったりの女の子になった。親父と磯釣りに出かけた時、姉貴とマキさんに連れられて表参道のブティック巡りをした時、トオルさんの仲間に交じってサーフィンの大会を見に行った時、そして店で働いている姿と家で家事をしている姿、ぼくの部屋でのんびり過ごしている姿。毎日顔を合わせているぼくらでさえ、時にハッとするほど、違う雰囲気をまとっていた。そして、それが不思議なほど自然だった。

 初めは、地味で特徴のない印象のぼやけた子だな、と思った。それは付き合ってすぐに吹き飛んでしまったけれど、実はそうじゃなかったことに改めて気付く。

 目、鼻、口、耳、額、頬、顎、すべてのパーツがきちんと整っているから逆に平凡に見え、無口で表情が乏しくいつも髪で隠すようにしていたから、あまり注意を引かなかっただけだ。顔をまっすぐに上げて、いろんな表情を見せるようになると、そのすべてが魅力的に輝き出した。ぼくはたまたま、息を飲むような足のきれいさに最初に気付いただけだった。ほんとうに幸運としか言いようがない。そして、取り立ててハンサムでもなく、よく何を考えているのか分からないと不気味がられるぼくに、なぜか好意を寄せてくれて、信頼してくれて、愛しているとまで言ってくれる。こんな言葉は使いたくないけれど「奇跡」なのかも知れなかった。彼女は、今までのことはすべてぼくに出会うための「運命」だったと言ってくれるけれど。

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