第8話
店のバイトがある日は、彼女が十時前に来て五時まで仕事をし、三十分ほどぼくの部屋で休んでからバイクで送って帰る。その途中で買い物をし、彼女の家に着いたら、彼女が夕飯の支度をしている間、おじいさんやおばあさんと話をする。そして四人で夕食を食べ、夕食後は彼女が中心になっておしゃべりをする。おじいさんとおばあさんは八時に床に着き、それから三十分ほど彼女の部屋で過ごして家に戻る。
うちは店を八時に閉めてから掃除や売上げ計算などを済ませると、夕食時間は九時くらいになる。ちょうどその頃にぼくが家に着く。親父と姉貴とトオルさん、そしてぼくも食べ足りなかった分をいっしょに食べる。このところは間近に迫った姉貴とトオルさんの結婚式の準備の話で喧々諤々やっている。順に風呂に入り、それぞれの部屋に戻って行く。トオルさんは店の軽バンでアパートに帰る。姉貴もいっしょについて行く時もある。ぼくは十時半には部屋に戻って、テレビを見たり雑誌を読んだりパソコンをいじったり曲を作ったりして過ごし、時々バイクで走りに行ったりする。なんだかんだして寝るのはたいてい夜中の二時から三時。そして翌朝はギリギリまで寝ている。時には彼女のノックの音に起こされることもある。寝覚めのキスでしあわせに一日が始まるのはいいのだけど、寝る前にスッキリしたはずの下半身がまた充血してしまい、布団から出られなくなる。そんな時は先に彼女に仕事に行ってもらって、右手の運動をしてからあわてて窓を全開にして空気を入れ替える。部屋にもシャワーがあればいいのだけど、それは贅沢というものだろう。
バイトがない日は、十二時に彼女の家に行く。ちょうど昼食ができたところで、四人でお昼を食べる。小さな植木鉢を買ってきて植え込みの片隅に植えたり、二階の納戸の整理をしたり、少しグラつく椅子を直したりした。おじいさんとおばあさんの昼寝の時間になると、ふたりで家を出てぼくの部屋に向かう。本を読んだりギターの練習をしたり曲を考えたりしながら、いろんな話をする。いくらしゃべっても話題が尽きない。エッチな話もよくする。恥ずかしがりながらも、彼女は興味津々で話に乗ってくれる。それは下ネタに限らず、どんなことでもそうなのだけど。インターネットで何か調べながら、リンクを辿っては「ワッ」とか「キャッ」とか「ウッ」とか言っていることもある。見ているだけで飽きない。黙って別々のことをしていても心地がいい。彼女は、毎日、毎時間、毎秒、いつでも何をしていても新鮮だった。
バイトの日と同じように、六時に彼女の家に行き、夕飯をごちそうになって家に帰る。
たまには賑わう繁華街へ遊びに行った。よく公園を散歩した。プールにも行った。パステルピンクのビキニが、手足の長い体によく似合っていた。姉貴のお下がりの浴衣を着てお祭りにも行った。港の花火大会にも行った。まだ海だけには行っていなかったけど。
そんなふうに、毎日が新しく、楽しく、嬉しく、満ち足りた夏休みの日々だった。
地味でオドオドとして人目から隠れるようにしていた彼女は、一カ月ちょっとでまったく変わっていた。素直で明るくて人懐っこい笑顔がデフォルトになっていた。動きさえキビキビとして気持ちよかった。ぼくが何をしたわけでもなかった。ぼくの好きな服を選んで、きれいな足を眺め、可愛いよ、きれいだよ、好きだよ、と言っていただけ。彼女はひとりでどんどん魅力的になっていった。きっとそれが彼女の本来の姿だったのだろう。
ある日街に出かけ、彼女が下着ショップで買い物をしている間、ぼくは楽器屋を覗いていた。待ち合わせの場所に戻ってみると、彼女が誰かと話していた。というか、スーツ姿の男性に話しかけられて困っていた。
「どうしたの?」と近付くと、その男性は一瞬ムッとした顔で言った。
「ん、君は?」
「この子と待ち合わせしてたんですけど、あなたは?」
「というと、彼氏? いや〜これは失礼しました。実は私、こういうものなんですが」と彼女に押し付けようとしていた名刺を差し出した。そこには「芸能プロダクション スターナイン 営業事業部 冨樫なんとか」と書いてあった。
「私はスカウト専門じゃないんですけどね、こういう芸能事務所で主にイベントマネージャーをしてる者なんですが、彼女がそこの店を出てくるのをたまたま見かけまして、あまりにも輝いてるから思わず声を掛けてしまったんですよ。いや、突然失礼とは思ったんですけどね、ちょっとしたチャンスになればと思いまして、ええ。あ、その名刺の裏にも書いてありますけど、うちにはそういったタレントさんやモデルさんが所属してまして、お兄さんも聞いたことのある名前もあるかと思うけど、だから決して怪しい会社ではなくて、そういう各方面で活躍してる子もいますから安心してもらえると思うんですが」とまくし立てるようにしゃべる。そしてまた彼女の方を向いて、
「キミはいくつなのかな、大人っぽくも子供っぽくもみえるけど、う〜ん、十五か十六歳でしょ。もうデビューするにはいちばんいい年齢だな。これが十七以上になっちゃうと、そこからレッスンや営業を始めて仕事が取れるようになるのは十八くらいになるからいろいろ難しいんだよね。まあ、今がほんとベストの時期だからさ。いや、会社でもね、キミみたいなダイヤの原石って言うか、あ、今でも充分に輝いてるけどね、そういう可能性を秘めたフレッシュな新人さんを求めてて、キミならうちでも思いっきり力を入れてプッシュできるし、絶対モノになるよ。こういっちゃなんだけど、今おしゃれティーンで読モやってるリリカとかグラビアモデルで引っ張りだこのエレナとか、全部ぼくが育てたからさ、そのぼくが言うんだから間違いないわけですよ」
彼女が救いを求めるようにぼくを見る。
「あの、ちょっと……」
ぼくの声を聞こえないふりで無視して、その男がにこやかに笑いながら続ける。
「あ、よくレッスン代だなんだってお金を取るような悪徳プロダクションの話とか聞くでしょ。うちはそういうのは全くないから。お金なんて一銭も取らないし、必要経費は全部事務所持ちだからね、家からの交通費まで。だから、ほんとに安心していいから。それにさ、こういう仕事やりたいって子もいっぱい来るんだけど、まあ自分に自信のある子たちがね、でも誰でもなれるってわけじゃなくて、そこはそれなりに厳しい業界だからさ、作られたアイドルみたいなのはすぐに飽きられて切られちゃうわけで、持って生まれた素質とか魅力にはもう誰も敵わないわけね。だからキミみたいに内側から輝いているコなんかは、もう何万人にひとりいるかいないかっていうくらいの逸材でさ、これから磨けば磨くほど光っていくのが、ぼくにははっきり見えるわけ。最初はグラビアとか美少女系DVDとかから始めて、すぐにテレビに出たり、映画なんかにも出られるようになると思うよ。キャラが立ってたりトークもいけるならバラエティ番組のレギュラーもいけるしね。ほら、タレントの河野かんなちゃんなんかそのパターンだよね。まあ、ここでいろいろ言っても、すぐには返事できないと思うからさ、帰って家族と相談して、ものは試しで一度時事務所に来てごらんよ。心配なら家族や友達とかいっしょでもいいからね。あ、彼氏のことが気になる? それも全然心配いらないから。昔は恋人と別れさせられたり恋愛禁止とかいうのも多かったけど、今は全然そんなことないし。うちの佐伯マドカなんて、しょっちゅう彼氏がいっしょに事務所に来るからすっかりうちのスタッフとも仲良くなっちゃってさ、この前社長に「キミもやってみないか」とか言われてたよ。まあ、最初は慣れないとこういう業界って恐そうとか思うかも知れないけど、恐かったら誰もやらないってのね。みんな辞めないで頑張ってるのは、それだけ楽しくてやりがいがあって夢があるからなんだよね。夢が夢じゃなくなるから頑張れるわけ。ほんと、世界がガラッと変わるから。普通のコじゃ絶対見れないキラキラした世界がバーッと目の前に広がるから。それを遠くから見てるだけなのか、思い切って飛び込んで自分のものにするかはもう自分次第で、新しい世界の扉が開くこのチャンス、他のコじゃ得られないこのチャンスは、もしかするともう一生ないかも知れないわけだから。今キミはその扉の前に立ってるってことだよね。芸能界なんてって言う親御さんもいるけどさ、やっぱり自分の子供を訳の分かんないところに行かせるのは心配だからさ、それは自分たちがそういう世界を知らないだけであって、ちゃんと話して、現場も見てもらって、うちの会社も見てもらえば、必ず分かってくれるからさ。なんならぼくや社長がおうちにお願いに行ってもいいしね。そういうわけだから、まずはキミ自身でよ〜く考えて、ほんの少しだけ勇気を持って、まずは一度電話してみて。電話でうちの受付の女性に、あ、その人も元タレントで、昔の芸名を言えばお父さんなんかはたぶん知ってると思うけど、引退してもちゃんとお仕事できる環境もあるしね、その女性に電話してうちに来れる日を言えばぼくのスケジュール空けとくからさ。目黒の駅から歩いてすぐのきれいなビルだから、そこに書いてある住所ですぐ分かると思うよ。もしアレならクルマで迎えに行くしさ。とにかく一度電話してみて。すぐじゃなくてもいいし、夏休みの間じゃなくても、いつでもいいからね。うちはいつだって大歓迎だから。そういうわけで、ひとまず名前だけ教えておいてもらえるかな。電話してくれても誰だか分かんないと困るからね。それといっしょ写真も、あ顔だけでもいいから、名前と顔が一致しないとぼくも困るからさ。じゃあ……」
相手に言葉を挟ませないようにしゃべりつづける。それを聞いているのもそろそろ限界だった。最初から胡散臭いとは思っていたけど、どんなことをどんなふうに話すのか面白半分で聞いてみようと黙っていた。彼女の困った顔も、そのうちお笑い芸人のトークを聞いているみたいに吹き出しそうになっていた。その顔を見て嬉しそうだと勘違いしたのか、ますます軽く馴れ馴れしい口調でしゃべり続けていた。でも写真を撮るとか言い出したら、もうおしまいにしなくちゃならない。
「すいませんが」ときっぱりした口調で言う。
「うちの妹、よくスカウトされるんですよね。他の事務所の方からも何枚か名刺をいただいてて、ちょうど家族で相談してるところなんです。なので今日は名刺だけいただいて検討させていただくということにしてもらえませんか」
「あ、なんだ、お兄さんでしたか。これは、これは」とややへりくだって言う。
「そうですか。そうですよね、こんなに可愛いコは他からも声がかからないはずありませんよね。まあ、うちは名の通った大手さんとは違ってアットホームな中堅どころなので、ほんとタレントさんひとりひとりに親身になってマネージメントしてますから、まあそのへんも考慮して検討してもらえると嬉しいなと」
「はい、お話を伺っていて熱意とご好意は充分に分かりましたので、両親にも伝えておきます。それで、えっとトガシさん、でいいんですよね、トガシさんを信用できないと言うことじゃないんですけど、以前に学校で撮られた妹の写真がネットに出回って困ったことがあったので、写真はちょっと勘弁してもらえませんか」
「ああ、そうですか。ま、なにかと個人情報にはうるさい世の中ですからね。じゃあ、名前と電話番号だけでもいいですか」
「名前は前田夏子で、電話はこちからかお掛けしますから」
「ああ、そうですか、前田夏子さんね、いい名前だな。え〜と年齢は?」
彼女に目配せすると「あ、十四歳です」と答えた。
「へ〜、十四歳か。中三? それにしては大人ぽいというか色っぽいというか、頭も良さそうにみえるし、ますます逸材の予感がするな〜。もう絶対電話して下さいね。他のプロダクションさんの話を聞いた後でもいいからね。こちらも、来てくれた時に契約金とかの話もしたいので、最終決定はそれからでもいいからね」
「はい」と彼女がいつもの嬉しそうな笑顔で頷く。
「じゃ、これからちょっと行くところがありますので、これで」
「分かりました。引き止めちゃってごめんね。電話待ってるから、必ず電話してね。ほんといつでもいいから」
ふたりで丁寧に頭を下げて駅の方向へ歩き出す。ちょっと行ってから振り返ると、携帯電話を耳に当てながら、また人ごみの中を漁るようにキョロキョロしていた。
駅前に留めたバイクの所に戻ると、ふたりで思いっきり吹き出した。
「あ〜もう苦しい」
「最初は恐がってたみたいだったけど?」
「だって……」とまた彼女がプッと吹き出す。
「前田夏子だって」と言いながら、さらに吹き出して笑う。
「もっとダサい名前にすればよかったかな? トメとか」
「あ、全国のトメさんに謝って下さい」
「全国のトメさん、ごめんなさい。夏子の兄として謝ります」
ハッハッと息を詰まらせながら彼女が笑う。
「もう、苦しい」
「ノド渇いちゃったよ、何か買ってくる」
近くの自販機で買ったヨーグルトドリンクの紙パックを、少し手前から「ほら、夏子」と言って投げ渡す。彼女が「ありがとう、お兄ちゃん」と受けとめる。
「あ、それいいな」
「お兄ちゃん」と言いながら、ぼくの横のガードパイプにぴょんと腰を下ろす。
「ほんと、一時はどうなるかと思いましたよ。先輩ったら見てるだけで何も言わないし」
「だって興味ありそうに聞いてたから」
「え、そんな……。あ、またからかってる」
「どうしようか対策を考えてたの。ああいうのは、とりあえず言いたいことをひと通り言わせておかないと、途中で反論するとトラブっちゃうからさ」
「へ〜、なるほど〜。でもちょっと恐かったですよ、機関銃みたいに次々しゃべって、だんだん馴れ馴れしくなってくるし……」
「うん、あれはちょっとムカッとしたな」
「ひとりだったら、どうなってたか……」
「まあ、あんな感じでなんとなくかわせばいいんじゃない?」
「はい。無視したり拒否したりするとダメなんですね?」
「う〜ん、きっぱり拒否しなきゃいけないこともあるけどね。ナンパとかは完全に無視したほうがいいかな。まあとにかく相手を逆上させないようにしないとね」
「分かりました。でも先輩、よくあんなにスラスラ思い浮かびますね。感心しちゃいました。もしかして、すっごい嘘つきだったりして」とクスクス笑う。
「自分だって、十四歳ですって言ってたくせに」
「それは……まあ許容範囲ですから」と言いながら自分の言い訳にまた笑う。
「まあ、嘘も方便っていうしね」
「嘘つきはナントカって言葉もありますよ」
「嘘は百薬の長とも?」
「むむっ。それじゃあ、嘘に小判」
「嘘とハサミは使いよう」
「嘘から出たまこと。あ、これはほんとのことわざか〜」
「なんか最近ノリツッコミうまくなったよね」
「先輩のおかげ、あ、お兄ちゃんのおかげです」
「ほんと可愛いな、ナツコは」とまたふたりで笑い転げる。
「ナツコっていう名前、気に入っちゃいました。じゃ、お兄ちゃんの名前は冬男にしようっと」
「そうか〜、ナツコもいよいよ芸能界デビューか。お兄ちゃんも応援するよ。で、いつ電話するの?」
「もう……お兄ちゃんのいじわる」
それからも時々、ナツコ、お兄ちゃんと呼び合ってふざけることがあった。たまたま姉貴に聞かれて、あきれられた。彼女が真っ赤になっていた。
店はお盆まで夏用品セールで忙しかった。お盆には、彼女の家の墓参りに行った。親父の外回りの営業は、お盆時期は相手先も休みで時間が空くので、親父に頼んでクルマを出してもらった。親父たちには彼女の生い立ちや今の暮らしをざっと話してあったので、すぐに「おう任せろ」と引き受けてくれた。
鎌倉の外れにある小さな墓地に、前田家のご先祖と彼女の両親が眠っていた。クルマにおじいさんとおばあさんを乗せて、少し迷いながらその墓地に着き、大きな木の下にひっそりと佇む苔むしたお墓に彼女が庭で育てたコスモスとクチナシとひまわりを供えた。お父さんが好きだったアーモンドナッツや、お母さんが好きだった夏みかんやイチゴも供えた。炎天下の中、おじいさんとおばあさんはきちんと黒い喪服を着ていた。彼女は、なかなか着る機会のなかったジョーゼットのふんわりした小花模様のミニドレスを着ていた。レジャー用の小さな折畳み椅子に座り、おじいさんとおばあさんは長い間手を合わせていた。その後ろで、彼女は両親にお披露目するようにくるっと回って見せてから、しゃがんで手を合わせた。彼女の頬に涙が伝っていた。ぼくは三人に日傘を差しかけながらそれを見ていた。ぼくの横では親父も手を合わせていた。蝉時雨が降り注ぐ空に線香の煙がまっすぐに立ち上り、妙にしんとしていた。
お墓の前で三人並んだ姿をスマホで撮り、その帰りには親父が蕎麦をご馳走してくれた。今日のおじいさんは、かくしゃくとしていた。時々親父を別の誰かと勘違いしているようだったけど、昔食べた蕎麦の美味さや息子の自慢や勤めあげた鉄道ダイヤ作りの話などを、驚くほどはっきりとした声で話していた。おばあさんは、そうねぇ、ほんとに、と相づちを打ちながら、ぼくらに「ありがとうございます」と何度も頭を下げていた。
その日の夜、彼女から電話があった。
「先輩、夜中にごめんなさい。今日はほんとうにありがとうございました。それで、実はおばちゃんが疲れで熱を出してしまって、ちょっと心配なんです」
「え、何度くらいあるの?」
「さっき計ったら三八度ちょっと。汗をかいて苦しそうなので、どうしたらいいか分からなくて」
「そうか、すぐ行くから待ってて。おじいちゃんはなんともない?」
「おじいちゃんはぐっすり眠ってます」
「そう。じゃあ、とにかくすぐ行くから。もしかすると、すぐに病院に連れて行った方がいいかも知れないから、とりあえず着替えとか用意しておいて」
「はい、わかりました。すみませんけど、お願いします」
内線電話で「そういうことなんで、ちょっと行ってくるから」と親父に連絡すると「お前一人で行ってもどうしようもないだろう。俺も行くからクルマのところで待ってろ」と怒鳴られた。
彼女の家に着いておばあさんの様子を見ると、親父はすぐに「病院にいくぞ。おばあちゃんを背負ってクルマまで運べ。ナナちゃんも入院支度を持って」と有無を言わせずに言った。
「おじいちゃんをひとりにしておけないから、お前はここに残ってろ。あとで様子を知らせるから。さあ、ナナちゃん急いで」
そうしてふたりで救急病院へ向かった。ぼくは、何も気付かずにいびきをかいて眠るおじいさんを見ながら、静まり返った家の中で連絡を待った。一時間ほどして電話が鳴った。肺炎だった。肺炎は抗生物質などの適切な治療を施せばたいして重病にはならないけれど、高齢者の場合は体力がないこともあって命に関わる場合もあるらしい。すぐに入院となった。とりあえず今は栄養点滴と解熱剤を打ってもらっているけれど、おばあちゃんがいつも飲んでいる薬の名前をお医者さんに伝えなくてはいけないと彼女が言うので、薬をしまってある場所を聞き中の紙に書いてある薬名を読み上げた。お医者さんの話を聞いてからもう少ししたら帰ります、と泣き出しそうな声で言った。
おばあさんは一週間ほどで退院できたけれど、帰ってからも熱っぽい状態が続き、布団の中にいることが多くなっていた。時々苦しそうな咳をした。おじいさんは、ずっとその枕元に座っていた。おじいさんの膝が辛そうだったので、昼間は一人掛けのソファーを布団の横に持ってきて座れるようにした。日中の半分はそこで居眠りをし、目が覚めてはおばあさんを見つめ、思い出したように昔話をする。彼女は前と変わらず、優しく話しかけながら甲斐甲斐しく世話をする。でも、笑顔にはあまり力がなかった。散歩に出かけても一時間もしないで家に戻った。バイトも週に二日、都合のいい時間で、ということにしてもらった。彼女がバイトの間は、ぼくが家にいるようにした。
そんな生活パターンにもようやく慣れてきた頃に、夏休みが終わった。学校が始まると思うように時間を使えなくなる。週に一度来てくれていた介護ヘルパーを、週に三度にしてもらった。
市役所の福祉課から依託派遣で来てくれているヘルパーの宮田さんは、ぼくも彼女の家で何度か会って、介護の心得を少し教えてもらったりしていた。四十代の気のいい小太りのおばさんで、その話をするとすぐに市役所にかけあってスケジュールを調整してくれた。
「ほんとはおじいさんを施設にあずけて、おばあさんも入院させたほうがいいんだけどね。どっちか一人だけでも。そうしたらナナちゃんもずいぶんと楽になると思うんだけどね。まあ、そこはナナちゃんの気持ちだから無理にとは言わないけど。でも、頑張るのもいいけど、自分が参っちゃったらなんにもならないからね。そういう人を何人も見てきたから。まあ私の方は役所の了解さえあれば、週三回でも、毎日でも、一、二時間くらいなら融通がきくからね、いつでも言ってね」
そうは言ってくれたけれど、担当している介護先が多いようで、週三でも相当ムリを聞いてくれたみたいだった。それでも、学校に行っている間の心配が少し減った。
学校が始まってすぐの土曜日は、姉貴たちの結婚式だった。
前々から姉貴は「ナナちゃんも絶対出席しなさいよ」と命令するみたいに言っていた。
「ほんとはうちの家族の席に座ってもらいたいんだけど、そこはほら、いちおう他の人の手前もあるからスタッフのみんなといっしょの席で悪いんだけどね」
「ありがとうございます。ぜひ出席させて下さい。ヨーコさんのウエディング姿、すっごく楽しみです」
「それはもう期待して。私がデザインしたドレスを友達に特注で作ってもらってるから。そこいらのウェディングドレスとはちょっと違うよ。まあ、見てのお楽しみ」
「はい。楽しみにしてます。あ、お祝いは何がいいですか?」
「うん、それもちゃんと考えてあるから。ナナちゃんにはね、青いガーターベルトをお願いしたいんだ。ほら、サムシングフォーって言って、花嫁は何かひとつ古いもの、何かひとつ新しいもの、何かひとつ借りたもの、何かひとつ青いものを身に付けるとしあわせになれるって言うじゃない。だから、ナナちゃんには青いガーターベルトを贈って欲しいんだ。値段もそんなにしないしさ」
「分かりました。探してみます。しあわせになるお手伝いができるなんて、私もすごく嬉しいです」
「ちなみにね、古いものは母さんの形見のイヤリングで、新しいものはシルクの下着で、借りものは友達のブローチ」と聞いてもいないのに夢見るように言う。姉貴もこんな顔をすることがあるのかと、ちょっとびっくりした。
「俺もなんか贈んなきゃな。炊飯器とか掃除機とか、実用的なものの方がいいかな」
「そんなのは今あるやつで充分。そんなお金があるんだったらナナちゃんになんか買ってあげなさいよ。あ、そうだ、ジュンは歌でも歌え。明るい陽気なヤツね。しんみりするのはいらないから」
「そんなんでいいならお安いご用だけど」
結婚式当日は店を休みにした。土日に休業するのは母さんの葬式以来だった。
式場は、葉山の海辺の教会。
姉貴は、胸から足元までが十段のドレープになって広がって行く真っ白なドレス。前だけがミニ丈になっていて、白いストッキングのももには青いガーターが見えていた。痩せて背の高い姉貴はエッフェル塔みたいで、日に焼けた肌が目立ったけど、もっと色黒で白いタキシード姿のトオルさんと並ぶとなかなかカッコよかった。姉貴は親父と腕を組んで赤い絨毯の上をトオルさんの前まで歩いた。姉貴はすでに泣いているみたいだった。ぼくと彼女は後ろでケープを持っていたので顔は見えなかったけれど。
誓いの言葉と指輪交換を終えてチャペルの扉を開けると、参列者から盛大な祝福の拍手と米粒が降り注いだ。百人を越す人たちが列席してくれていた。親類縁者に、姉貴の友人やお世話になった人、トオルさんの仲間や恩師、店の取引先の人たち、店のスタッフはほぼ全員、昔働いていた懐かしい顔もあった。後ろ向きに放り投げたブーケは、ウェディングドレスを作ってくれたマキさんが受け止めたようだった。
すると、新郎新婦がいきなり走り出しながら衣裳を脱ぎ捨てて水着姿になり、ウッドデッキの小さな桟橋から海に飛び込んだ。泳ぎ出したふたりにウィンドサーフィンのボードが近づいてライディングを交代する。姉貴とトオルさんが一台のボードに乗り、みるみる遠ざかって入江の向こうに消えてしまった。親父は怒鳴るのも忘れて、あんぐりとそれを見ていた。
潮風が吹き抜ける芝生の上で三々五々歓談する参列者の前に、新しい衣裳でふたりが現れると、また盛大な拍手と歓声と口笛が湧き上がった。肩の大きく開いた紫色のサテンのドレスも姉貴によく似合っていた。笑いの絶えない友人からのスピーチが続き、ぼくはアコースティックギターで氷室京介の「KISS ME」を歌った。途中から姉貴とトオルさんも加わり、最後にみんなからキスコールが起こって新郎新婦がそれに応えた。気っ風が良く自然に周りに人が集まる姉貴とトオルさんらしい、賑やかでくだけた、いい式だった。近くのレストランを借り切った二次会の途中で、ふたりは沖縄へ新婚旅行に旅立った。
翌週の水曜日は、ぼくの誕生日だった。彼女はうちのキッチンで可愛いケーキを焼いてくれた。そして、革のライダーズジャケットをプレゼントしてくれた。それはアメリカ空軍風の程よく着古されたもので、ぼくも店で密かに目を付けていた。でも、いつの間にか売れてしまっていた。彼女が買っていたなんて、どこかのお伽話みたいだねとふたりで笑った。
「でも、これけっこう高かったよね」
確か店では一万八千円の値札が付いていた。
「ヨーコさんにちょっとおまけしてもらったんです。最初に見た時から、これは絶対先輩に似合うって思ったから。いつも私の服を選んでくれるから、たまには私の選んだものを先輩に着てもらいたくて。サイズは合いますか?」
「うん。着てみると、わりとゆったりしてて動きやすいな。革もゴワゴワしてないし。これなら冬に厚着しても着られそうだ」
「なら、よかった。うん、やっぱりカッコいいです。惚れ直しちゃいそう」
「やっぱり、ちょっとおしゃれしないと飽きられて捨てられちゃうのかな」
「あ、そんな、そんなことないですから。普段の先輩だって、いつも素敵ですから」
「うん、知ってる」
「もう……」
「ナナカは、こういうちょっとワイルド系の服が好きなの?」
「う〜ん、どうだろう。その人に似合ってればいいと思いますけど。でも、どっちかって言うと、気取らないラフな感じの方が好きかな。ほら、街でたまに見かける、いかにもおしゃれしてますみたいなファッション誌そのままの格好の人とかいるじゃないですか。ああいうのは、ちっともいいと思いませんけど」
「じゃあ、これからはぼくの服は全部ナナカに任せるからさ。頼むね」
「はい、嬉しい。いろんな格好させちゃいますよ」
「ぼくもだよ」
「はい。これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ」
「先輩。改めて、お誕生日おめでとう。素敵な十七歳でありますように」
「ありがとう。これからもナナカといっしょに、もっといろんなことしたいな。エッチも含めてね」
「うふっ、やっぱり来年じゃ待ちきれなくなりました?」
「そりゃ待ちきれないよ」
「私は、もういつでもいいですよ」
「今はその言葉だけで充分。あの約束は、絶対死守するぞ」
「はい。私も楽しみに待ってます」
「おや、ずいぶんはっきりと言うな〜」
「だって……ほんとにドキドキしっぱなしなんだから……」
「ぼくもだよ」と抱き寄せてキスを交わす。
それから、ふたりでケーキを食べる。
「どうですか? ちょっと焼けすぎちゃったかな」
ホットケーキの粉で作った焦げ茶色の丸いスポンジ台にヨーグルトにジャムを交ぜたクリームが塗ってあり、イチゴのスライスが丸く縁取っている。真ん中にはホイップクリームで17が描かれ、その下に銀の粒で「Happy Birthday JUNYA」と綴ってある。
「うん、甘すぎなくて美味しい。あれ、でも表面がちょっと固いかな?」
「あ、ほんとだ。やっぱり一回練習しておくんだったな」
「これだと、おじいさんやおばあさん、食べられるかな?」
「表面の固いところを取れば、少しなら食べられると思いますよ」
「社長にはちょっと食べてもらえないかな〜」
「いや、ナナカの作ったものなら、なんでも美味しいっていうに決まってるって」
それから早めに彼女の家に行った。
座敷で、おじいさんがソファーから転がったようにおばあさんの布団の上に突っ伏していた。
「おじいちゃん、どうしたの? おじちゃん?」とあわてて彼女が駆け寄る。返事はなかった。ぼくがそっと抱き起こすと、やせ細った体が妙に重かった。息をしていなかった。抱きかかえたまま救急車を呼んだ。彼女は「おじいちゃん! おばあちゃん!」と交互に呼びかけている。ようやくおばあちゃんがうっすらと目を開けて、彼女の顔をじっと見つめた。
「おばあちゃん、おじいちゃんが、おじいちゃんが……」と叫ぶように言う。
「ああ、ナナちゃん。はいはい」と小さいけれどはっきりした声で応えた。
「おじいちゃんがたいへん、おじいちゃんが……」
「はいはい、そうね。分かってますよ。ちゃんと分かってますよ。ナナちゃんには苦労をかけて。でもわたしたち、とてもしあわせでしたよ。ほんとに、いい子だこと。どうもありがとうね。ほんとに、ありがとうね。……ちょっと、一樹たちに会いに行ってきますよ。ナナちゃんのこと、よぅく話しておきますからね。これからは、しあわせにね……」
息を継ぎ継ぎそう言い終わると、おばあさんはまた目を閉じた。
「おばあちゃん、すぐ救急車来るから。病院に行ったら、またすぐよくなるからね。しっかりね、おばあちゃん。おばあちゃん、わたしこそ、ほんとうにありがとう。おばあちゃん、死んじゃやだよぉ」
とめどなく溢れて落ちる涙を何度も拭いながら、彼女は「おじいちゃん、おばあちゃん」と呼びかけ続けた。救急車のサイレンが聞こえてくるまでが、ずいぶん長く感じた。
運び出す時に布団をめくると、おじいさんとおばあさんは手をつないでいた。
一台の救急車に無理矢理四人を乗せてもらい、救急病院へ向かった。救急車の中で脈拍計をつけてもらうと、おじいさんの脈はすでになかった。おばあさんの方は、間延びしたような小さな波形を描いていた。そして三度、四度、上体を反らして溺れるような呼吸をすると、おばあさんの脈も途絶えてしまった。おばあさんの片手をおじいさんの手に添えてぼくが握り、もう片方の手を彼女が握っていた。病院に着くまで救急隊員が胸を押して人工呼吸をしてくれた。タンカで病院に運ばれ、心電図と脳波をチェックして医師が腕時計を見ながら時刻を告げた。おふたりとも同時刻ということでよろしいですか? と聞かれて、ただ頷くしかなかった。彼女は、おばあさんの体に覆いかぶさって呻くように泣き続けた。
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