第7話

 暑さであまり食欲の湧かないぼくも、昼食だというのに氷の入ったお茶漬けを三杯もお替わりした。梅干し、ツナ、刻んだトマト、レタス、キムチ、しそなど、好きなトッピングでどうぞと出してくれる。どれもスルスルと咽喉を通って、とても美味しかった。

 おじいさんとおばあさんは、そんなぼくを見ながら、食卓の向かい側でプラスチックのレンゲを使ってゆっくりと口に運んでいた。

 家の中には陽があまり入らず少し薄暗いけれど、縁側の外のささやかな植え込みがかえってくっきりと鮮やかに見える。古くて小さいけれど、住む人の愛着を感じさせるような家だった。年季の入った大切に使い込まれた家具に、こまごました物がきちんと整理されて納まっている。きっと見えないところまでそうなのだろう。

 年寄りの年齢はあまりよく判別できないけれど、おじいさんとおばあさんは思っていた以上に老けて見えた。ふたりとも、ゆっくりとした動作が物静かな人柄をよけいに優しく感じさせ、相手への丁重な心遣いが伝わってくる。似たもの夫婦、そんな言葉が浮かんでくる。彼女が何かするたびに「ありがとうね」と言い、彼女もそのたびに「いいえ、どういたしまして」と応えていた。古い映画のワンシーンのようだった。この二人の息子、その息子の娘。それが彼女なんだ、と心の中で頷いた。

 食卓の隣のソファーに移って麦茶を飲みながら、ぼくが問いかける。

「ナナカちゃんは、小さい頃どんな子供だったんですか?」

 正面に座ったおじいさんが、落ち窪んだ小さな目でぼくの顔をじっと見る。その横で食卓テーブルの椅子に横向きに座る彼女が、おじいさんの耳元に質問を繰り返す。

「私って、小さい頃はどんな子供だったの?」

 おじいさんが彼女を見てウンウンと頷いてから口を開く。

「ああ、そうだね。うん、可愛い子だったなあ、ばあさん」

「そうそう、ほんとうに可愛い子だったですねぇ。いつもニコニコしていて、ちゃーんと挨拶もできて、ねぇ」

「まあ、あれだな、この子はわたしらの初めての孫でね。うちは息子が一人しかできんかったから、まあ、あれもいい嫁さんをもらってなあ、可愛い孫を生んでくれて、ほんとに感謝してまして。なぁ」

「そうですねぇ、ほんとうに。私がねぇ、もうちょっと丈夫だったら、たくさん子を産んで賑やかに暮らせたですけどねぇ、ほんとうに申し訳なく思ってるんですよ。でもまあ、その分、一樹がいい子に育ってくれてましてねぇ。この子も、ほんとに優しい子になってくれて」

「ああ、その通りだねぇ。まったくその通りだなぁ」

 小さく穏やかな声で、間をあけながら、ゆっくりと、そしてゆったりと、気持ちのこもった会話が流れる。なぜかそれが心地いい。網戸の外から飛び込んでくる蝉の鳴き声さえ、どこか遠慮がちに聞こえる。

「それにねぇ、こんなにいい娘になって、わたしらのそばにいてくれるんですからねぇ、ほんとうに夢のようですねぇ、あなた」

「ああ、ほんとにその通りだなぁ。夢のようですわ。こんなじいさんばあさんの世話なんぞ嫌じゃろうに、なぁ」

「えぇ、えぇ」

 彼女は、ニコニコ微笑みながら首を振る。

「そんなことないよ。ぜんぜん嫌じゃないよ。学校にも通わせてくれて、ありがとうね。おじいちゃんも、おばあちゃんも、大好きだよ」とひと言ひと言区切りながら言う。

 おじいさんが、コクンコクンと頷く。

「それで、失礼ですけど、あんたさんはどちらさんかねぇ?」

「キタムラさん。この人も、私の大好きな人だよ」

「あぁ、そうですか。それは、それは。いつもお世話になっております」と、手にした杖を支えに、体を折るように頭を下げる。

「ばあさん、一樹はどこに行ったんだ。お客さんが来ておるのに顔も見せんで」

「あなた、一樹は遠いところに行ってるんですよ」

「あぁ、そうか。今日は仕事に出てるんだったか。申し訳ありませんなぁ、ご挨拶もできませんで。まぁ、あれもなかなか忙しいようで、まだまだ一人前にもなっとらんくせに」

「この人ったら、まだ息子が小さい子供だと思ってるんですよ。ほんとに、ねえ、ごめんなさいね」

「何を言ってるか、こんないい嫁さんも貰ったというのに。いやぁ、ようやくひと安心ですわ。んふ、んふ」と咳がからんだように笑う。

「あぁ、六月さん、すまんがこちらのお客さんに、お茶のお替わりを出してあげてくれんかな。あぁ、それとも、おたくさんにはビールの方が良かったですかねぇ」

「はい」と彼女が冷蔵庫から麦茶のボトルを出してきて三人のコップに注ぐ。

「おじいちゃんとおばあちゃんは、お薬飲んでね」

 彼女が戸棚の引き出しから薬袋を取り出す。

「はい、これはおじいちゃんの分」とおじいさんの手のひらに乗せる。同じように、おばあさんにも手に乗せてあげる。手の上の薬の粒をじっと見ているおじいさんを、彼女が嬉しそうに見つめる。そのニコニコと期待するような表情につられて、おじいさんが薬を口に運ぶ。お茶をちびちびと何度も飲み、やっと薬が咽喉を通って行く。それを見て彼女が「おじいちゃん、ありがとう」と声を掛ける。おばあさんも薬を飲むと、少しケホケホとしながら「あぁ、これで少し楽になったわ。ナナちゃん、ありがとうねぇ」と目を細くする。「いいえ、こちらこそ」と彼女が返事をする。

「そろそろお昼寝の時間だから、お布団敷くね」

 そう言って隣の座敷に行き、用意をする。

「はい。じゃ、ちょっとお昼寝して、またあとでね」とおじいさんの手を取って立ち上がるのを助ける。おじいさんは杖をつき、椅子の背や襖の桟につかまりながら、少しずつ足を進める。歩く時はすぐ後ろについているだけで、手は貸さないようだ。布団の上に腰を下ろす時には背中を支え、そっと横たえてタオルケットを掛けてあげる。「すまないね、どうもありがとう」と言うおじいさんに「いいえ、どういたしまして」と答えながら、足元の扇風機をゆるく回して首を振らせる。おじいさんが「おい、ばあさんも」と呼ぶと「はいはい、今行きますよ。それでは、なんせ年寄りなものですから、ちょっと横にならせてもらいますけど、まぁ何のおかまいもできませんけど、ごゆっくりしていって下さいね」

「はい、ありがとうございます」

 おばあさんは座敷に入り襖の奥で浴衣に着替える。それを彼女が手伝う。

「じゃあ、私も二階で休んでくるからね。またあとで起こしに来るね」と声を掛けると、おばあさんが「はい、ありがとうね」と言う。おじいさんはその隣ですでに軽くいびきをかいていた。


 廊下の奥の階段の前で、持ってきたコーラの大きなボトルを彼女がぼくに渡す。

「ちょっとこれを持って先に上がっててもらえます? 私もすぐに行きますから」と居間に戻って行った。

 少し急な階段をきしませて二階に上がると、すぐ手前に襖の開いた部屋があった。覗くと、あの淡いオレンジのパーカーが壁に掛けてある。少し進んでもうひとつの部屋の襖を細く開けてみる。薄暗い中にタンスや衣裳ケースなどがあるのがチラリと見えた。ここではないな、と襖を閉じる。廊下のその奥には小さな物干場が見え、シーツや何かが光を浴びてそよいでいた。手前の部屋に戻ろうと振り向いたところに、彼女が階段を昇ってきた。

「あ、こっちの部屋です。さ、入って下さい」とぼくを先に部屋に入れる。

 彼女が後ろで「あっ」と言って、持ってきた氷の入ったグラスを乗せたお盆とオレンジジュースのボトルを畳に置いて、あわてて隣の部屋から座布団を持ってきた。

「どうぞ」と座布団を差し出しながら「どこでも好きなところに座って下さい」と言う。

窓の下の壁にもたれるようにして座布団に座る。彼女がお盆をその前に置いてコーラを注いでくれる。

「あ、手が濡れちゃいませんでした?」と彼女がお盆の冷たいおしぼりを渡してくれる。

「ありがとう」

「何もない部屋で恥ずかしいです」と言いながら、もうひとつのグラスにオレンジジュースを注ぐ。

 四畳半の部屋を見回す。

 古い傷だらけの勉強机の上には、教科書や辞書やノートがきちんと並べられている。その横に同じように時計付きの古い学習用ライト。前の壁には時間割表と二、三枚のメモが押しピンで貼ってある。机の下には通学バッグが畳まれていた。そこにはよくある回転椅子はなく、会議室にあるようなパイプ椅子が横の壁に立て掛けられている。机の隣にはグリーンのカラーボックスがあり、何冊かの本や雑誌、書類の入った紙封筒、いくつかの小箱、化粧水やクリームの瓶、上には目覚まし時計と四角い鏡、そして細い花差しが置かれている。下の植え込みに咲いていた黄色い小さな花が数本差してあった。カラーボックスの横には小さな扇風機。入り口脇の壁には制服が吊るされていて、その向かいのぼくがもたれている窓の横にはパーカーがハンガーに掛けられている。蔦模様の刺繍が入った色褪せた淡い黄色のカーテンが窓の端で紐に結ばれている。机の向かい側、入り口の左側は押し入れの襖だった。

 四畳半にしては広く感じるくらい、何もない部屋。つつましやかというよりも貧相に思えるほど。だけど不思議と居心地がいい。部屋にふんわりと優しく包まれているようだった。彼女の部屋だから、そう思えてしまうのだろうか。

 扇風機のスイッチを入れて、風をぼくの方に向けながら彼女が言う。

「なにか、つまむもの持ってきましょうか?」

「いや、今はおなかいっぱいだよ」

「じゃ、他の服に着替えましょうか? どの服がいいですか?」と少しはしゃいだ口調で言う。

 今日は最初のデートの時の白いシャツブラウスに、植物園に行った時の三段フリルのキュロットスカート。そして素足。着替えるまでもなく、充分に可愛い。

「家ではやっぱり素足の方が楽なんだね」

 横座りした足を一瞬引っ込めそうになり、また力を抜いて手でさする。

「楽っていうか、ストッキングを引っかけちゃったり靴下を汚したりしないように、家では脱いでるんです。別にいつもは楽じゃないっていうことは、ぜんぜんないですよ」

 はにかみながらジュースのグラスを手に取る。

「ストッキングでもニーソックスでも、先輩が好きなのを言って下さい」

「いや、そのままで可愛いから。たまには素足もいいよね。ほんと、きれいだな。足のラインも肌も」

「ありがとうございます。何度言われても嬉しいですね」

「何度見てもきれいだからね。でも、ぜんぜん日焼けしてないよね」

「腕は少しだけ焼けたんですけど。元々あんまり日焼けしない体質みたいで、汗もあんまりかかないし」

「あ〜、そういえばそうだよね。ぼくもそんなに汗っかきではないんだけど、こう暑いとやっぱり時々汗臭いでしょ」

「臭くはないですよ。ほんのりした汗の匂いは好きですよ。なんか、男っぽい感じがするし……。あ、他の人だったら、そんなこと思いませんけどね」

「この部屋にはエアコンがないんだね」

「あ、暑いですか?」と扇風機を近づけようとする。

「いや、窓からの風が気持ちいいし、平気、平気」

 網戸の向こうは一面に隣家の壁なのだけど、思いのほか風が通ってくる。

「でも、夜なんか暑くて寝苦しくない?」

「いいえ、夜風が入ってくるし。それに、なんか暑いのが嬉しくって」

「え、そうなの?」

「ほら、男鹿だとこんな真夏日って一週間くらいしかないんですよ。それに海風でベトベトしてるし。だからこんな日がずっと続いてるのがすごく嬉しいんです。終わらない夏みたいな感じがして」

 そうか、多摩市に住んでいた小学生の頃も、夏休みはほとんど病院にいたのだろう。

「それじゃ、夏のイベント、海やプールや花火大会やお祭りや縁日、全部やっちゃおうか」

「え、ほんとに!? うそみたい。アニメかラノベみたいじゃないですか、それって」

「あははは。じゃあ、ナナカがヒロインだね」

「えっ、もう充分にヒロイン気分で、でも勘違いしちゃいけないって思ってるのに」

「何言ってるの、ナナカはぼくのヒロインだよ、間違いなく。それにさ、たとえどんな脇役だって、その人の中では自分が主人公なんだから、ナナカだって胸を張ってヒロインになればいいんだよ」

「……もう……また先輩は泣かすんだから……。先輩は私のヒーローで、だから私も先輩に恥ずかしくないヒロインに、なりたいです」

「もうずっと、会った時からぼくの自慢のヒロインなんだけどな」

「先輩。……潤也さん」と彼女が腰を浮かせた時、グラスのジュースが跳ねてふとももを濡らした。

「あっ」とあわてて彼女がおしぼりで畳を拭く。あまりこぼれていないのを確認して、自分のふとももを拭う。キュロットにも少しかかっていた。

「ごめんなさい。ちょっと洗ってきていいですか?」

「うん。すぐに流して水に浸けておけば、洗濯はあとでも大丈夫だよ」

「はい」と押し入れの襖を開けて、小型のタンスから着替えを取り出そうとする。

「どんな服がいいですか?」

「じゃ、あれは? 白いミニスカートの裾が波なみになったやつ」

「はい、これですね。上は?」

「そのままでもいいけどね」

「あ、このレースのカットソーは?」と広げて見せる。

「うん、いいんじゃない?」

「どっちも買ったまま、まだ着てなかったですよね。早く見てもらいたいって思ってたんですよ」と嬉しそうな顔をする。

「じゃ、ちょっと下に行ってきますね。なんでも見てていいですよ。あ、下着以外は」と言って階段を下りて行った。

 立ち上がり、網戸を開けて外の様子を見てから机の上に目をやると、昨日貸したスマホがきちんと置かれていた。カラーボックスの中の本は、ほとんどがぼくが貸した本と図書室のラベルがついたもので、彼女の本は五、六冊だけだった。

 五分ほどで彼女が戻ってきた。

 部屋の入り口でスカートの裾を軽くつまんで見せる。白いカットソーは、首回りと袖がレースになっていて、涼しげでエレガントだ。丈が少し長めなのでスカートが半分くらい隠れてしまっている。スカートも短めだから、一瞬、下を履いてないように見えてちょっとドキッとする。さっきのキュートな可愛さとはまた少し変わって、品のよい可愛いセクシーさが出ているようだ。いつもながら、きれいな足に目を奪われる。

「どうですか?」と一回転して見せる。

「うん、気に入った」

「ふふっ、嬉しい」

「でも、スカートがすごく短いみたいだけど」

「傷跡、見えちゃいますね」と、右のお尻の下あたりを少し捲る。

「それもナナカのチャームポイントだから。ぼくには」

 彼女がンフッと照れながら笑う。

「これ、中にキャミソールみたいなインナーパンツが付いてるんですよ。だからショートパンツみたいで安心」

 そう言いながら、元の場所に座る。

「そうか〜」

「あ、なんか残念そう。やっぱり下着が見えそうな方がいいんですか?」

「そうだな〜、なんていうか、ドキドキ度が違うって言うか……」

「スカートの中が見えたら嬉しいんですか? 男性心理としては」

「いや、どうなんだろ。実際に見えちゃうと、な〜んだって目を反らしちゃうんだけどね。ほら、学校でも女の子の下着が見えちゃうことってけっこうあるじゃない。みんなわりと無防備って言うか、あっけらかんとしてるっていうか。そのくせ、見たでしょみたいに睨むんだけどね」

「そうですよね〜。階段昇る時とか、しゃがんでる時なんか、女の私でもうわっ危ないってドキドキしますもん」

「そのスカートも、中にそういうのが付いてるって知らなかったらすごいドキドキもんだよ」

「じゃあ、言わない方がよかったかな」

「いや、ぼくにとっては、他の人に見られないから安心だけどね」

「ふふっ、先輩の前では中を外して着ようかな」と少し裾を捲ってインナーをチラッと見せる」

「じゃあ、女の子は、っていうかナナカちゃんは、下着が見えちゃうのってどんな気持ち?」

「それはやっぱり恥ずかしいですよ。恥ずかしい以外に言いようがないな〜。もう絶対顔を見れませんし、見られたくないし、すぐにその場から消えちゃいたいですよ」

「どうして女の子は恥ずかしいんだろ。男なんて別にパンツ見られても平気だけどね」

「いえ、そんなの見るのも恥ずかしいですけど……。でもそう言われるとそうですね。男と女って、恥ずかしさの基準が違うのかな」

「そう言えば、前にブラの肩ひもが見えるのも恥ずかしがってたじゃない?」

「それは、だって、下着の一部だし……」

「じゃあ、女性は下着とか、まあ下着の下にある部分とか、すごく意識してるってことかな」

「あ、それはありますね」

「男より隠さなきゃいけないところが多いから。いや、そうじゃないな、自分を守ってる? 女であることを男以上に意識してるってことか。つまり、女の方が性に対する意識が強くて、スケベってこと?」

「え、どうしてそうなるんですか? なんかムリヤリそう持ってってません?」

「あははは、分かった? じゃあ、ナナカちゃんはどうしてだと思う? 下着を見られると恥ずかしい、下着を見られないようにガードする、でもスカートを履いたり、胸の開いた服を着るっていうの」

「え〜? それはきれいに見せたいって言う女心で、そのためには足とか胸元とか女らしい部分を少し強調して、でも隠すべきところはきちんと隠して、うっかり見えないようにするのは当然というか……」

「なるほど、うん、よく分かった」

 彼女がホッとしたような顔になる。

「でも、なんできれいに見せたいって思うのかな? それは主に男に対してだよね。それも、誰にってことじゃなく不特定多数の」

「私は、先輩にさえ喜んでもらえたら、それでいいですけど」

「うちの姉貴とかトオルさんとか親父に、可愛いっていわれるのは?」

「あ、それはもちろん嬉しいですよ、すごく。でも、それって先輩のためっていうことの派生っていうか流れであって」

「じゃあ、もしぼくがいなかったら、用事でしばらくどこかに行ってたり熱を出して休んでたりしたら、どうでもいい格好になっちゃう?」

「それはまあ、人前に出る時は、だらしなくないようには気をつけますけど」

「あまりおしゃれしようとか可愛い服着ようとかは思わない?」

「どうかな〜。それほどは思わないかも。あ、だけどまた先輩が戻ってきたり熱が下がって元気になった時に、いない間はズボラな格好してたって言われないようにはしますね。先輩にイヤな思いをさせないように」

「嬉しいな。ほんと、ナナカはいい子だよね」

「先輩には、ですけど……」

「いや、今まで見てきて、さっき下で見てても、ナナカは思いやりのかたまりみたいだと思うよ。ぼくにだけじゃなく」

「ううん、先輩がいなかったら、こんなに穏やかであたたかい気持ちになれなかったと思います。自分がしあわせだから人にも優しくできるのかなって」

「そうか。そうだね。ぼくもそうだな、言われてみると」

「先輩は最初から優しくてあたたかかったじゃないですか」

「え、最初は怖くて冷たそうとか言ってなかったっけ?」

「いえ、それは一見そう見えるけど、ほんとはそうじゃないっていうことで……。なんか今日の先輩はいじわるじゃないですか?」

「あははは、ごめん、ごめん。あ、ごめんはなるべく言わないんだったっけ」

「いえ、今のは謝ってもらってもいいです」と拗ねたふりをして頬を膨らませる。でもすぐにプッと吹き出して声を出して笑ってしまう。

「拗ねても可愛いな、ナナカは」

「ほんとに拗ねちゃうとすごいですよ、私。ちょっとやそっとじゃ直りませんから。そういうとこは頑固なんですから」

「恐いな。なるべく拗ねさせないようにしなくちゃ」

「私も拗ねないように努力します。でも、先輩だったら何でも許しちゃいそうですけど……」

「ほら、また抱き締めたくなっちゃうよ」

「……私も」

 スッと隣に寄ってきた彼女の肩を抱く。そしてキスを交わす。

 彼女が肩に頭をもたせかけたまま言う。

「自分の部屋で先輩とキスするなんて、また夢みたいです」

「この部屋って、なんだか居心地いいね」

「そうですか? 何もないつまらない部屋ですよ」

「ここでナナカちゃんが寝て起きて、いろんなことを考えたりしてるんだなって思うと、ナナカの思いが溢れてるみたいで、すごく安らぐ気がする」

「そんな……そんなふうに思ってもらえるなんて、嬉しすぎてまた泣いちゃいます……」

 彼女の目に涙が宿る前に、またそっとキスをする。今度はもう少し長く。

「先輩」

「ん?」

「ちょっと散歩に出ませんか?」

「ああ、いいね」

「少し行ったところに川があって、その川べりも気持ちいいんですよ」

「じゃあ、そこに行ってみよう」

「ちょっと下の様子を見てから」

「うん」

 飲み物を片付け、お盆を持ってふたりでそっと階段を降りる。座敷ではおばあさんが目を覚まして布団の上に座っていた。

「おばあちゃん、起きてた?」

「はいはい。今起きたところですよ」

「気持ちよく眠れた?」

「ええ、ええ。ほんとに、ありがとね」

 立ち上がって着替え始めるのを彼女が手伝う。その間におじいさんも「ん、ん〜」と目を覚ます。

「おじいちゃん、お昼寝終わった?」

「ん……。さて、あなたはどこの娘さんですかな」とまだ寝ぼけた様子で言う。

「おじいちゃん、私は孫のナナカですよ。一樹の娘のナナカですよ」と耳元に優しく、そしてはっきりと話しかける。

「ああ、そうか、ナナちゃんか。これはこれは、よく来てくれたね。ゆっくりしていっておくれ」

「はい、ありがとう、おじいちゃん。さ、起き上がろうね」と上掛けをめくって、おじいさんの両脇に手を差し込み「よいしょ」と言いながら上半身を起こす。布団の上に起こした体をぐるっと縁側の方に向けさせる。その状態で、少し待つ。その間も「今は午後三時だよ。今日もいい天気だね。ほら、お花も咲いてきたよ。蝉が元気に鳴いてるね」と、いろいろなことを語りかけている。それから杖を握らせて「はい、立ちますよ。いち、にの、さん」と肩で体を支えて補助する。畳の上で杖が滑らないように片足で留めている。そのまま肩を脇の下に入れて、襖の端につかまれるように体を向かせる。「ちょっと、おしっこ出てないか見るね」と股間に手をやり「あ、少し出てるからパンツ取り替えるよ。ここにつかまっててね」とソファーの背もたれに手をつかせる。杖を持った手も同じようにしてから杖を取って脇に置く。電話台の下の棚から紙オムツを出しておき、おじいさんのズボンと履いている紙オムツを下げる。片足ずつゆっくり抜いて、新しい紙オムツに足を通させる。そして素早く履かせる。それからまた杖を手渡し、ズボンの腰の辺りを持ちながら少しずつソファーの前に進ませる。そこで胸の下に肩を入れて、相撲の四つを組むような体勢でズボンを引っぱり上げながらゆっくりと腰を下ろさせる。「はい、できました」と言いながら服の乱れを整える。おじいちゃんが「すまないねぇ、六月さん」と言うのに「いいえ、どういたしまして」と彼女が答える。

「おばあちゃんは、おトイレは大丈夫?」と膨らんださっきの紙オムツをレジ袋に入れて口を縛りながら、食卓テーブルの椅子に座っているおばあさんに問いかける。

「ああ、そうだねぇ。私も行ってこようかね」そう言っておばあさんが廊下に出る。「おじいちゃん、ちょっとトイレに行ってくるね」と呼びかけてから、彼女はおばあさんの後について廊下の奥の階段下のトイレへ向かった。おじいさんは、ソファーに座って杖に両手を置き、目を閉じてまっすぐ前を向き、口をモグモグとさせていた。

 ぼくは、居間の入り口のガラス戸のところに立ってそれを見ていた。ただ見ているしかできなかった。


「じゃ、ちょっと散歩してきます。五時頃には帰ってくるからね」と外へ出た。炎天下は家の中の倍ほども暑かった。白い服装の彼女だけが涼しげだった。

 路地を二度ほど曲がり、車道に出る。たまにクルマが通るその道を少し歩き、小さな公園の横を通ってもうひとつ道を越え、堤防への短いコンクリート階段を上がる。

 大きな川が流れていた。川べりには広々とした景色が広がっていた。近くには低い建物ばかり、ずっと遠くの高層ビルのシルエットは白く霞んでいた。おしなべて平坦な風景が遥かまで続いていた。上流と下流の遠いところに橋が掛かっていた。

 川の水は止まっているみたいに見えたけれど、段差のあるところをよく見ると、けっこう勢いよく流れているのが分かった。川の両岸は草の生い茂った広い河原だった。左右を見渡すと、所々に草が刈り取られた砂利や土の場所もあり、釣りをしている人もいた。遠くの河原には野球のグラウンドもあった。堤防の上は人が並んで歩けるくらいのアスファルト道路になっていた。散歩をする人、犬を連れた人、ジョギングする人、サイクリングする人などが、遠く近くにまばらに見えた。

 白いカットソーにミニスカート、ストラップサンダル、つばの広い麦わらのサマーハットを被った彼女は、真夏の陽射しの中で発光してハレーションを起こしているようだった。少し先でぼくを振り返るその表情は、眩しすぎてよく分からなかった。遠くの陽炎に輪郭を揺らめかせて溶けて行ってしまいそうだった。

 急いで走って行って彼女を抱き締めた。確かに彼女はここにいる、と思うと涙が出そうになった。少しずれた帽子が川風にあおられて舞い上がる。彼女が「あっ」とぼくの腕をすり抜けて帽子を追う。いつか彼女がふいに消えてしまいそうな気がして、一瞬、首の後ろに冷たい汗が流れた。

 拾った帽子を胸に抱えて小走りで戻ってくる彼女は、いつもの屈託のない笑顔だった。

「この広い景色が大好きなんです」と帽子を被り直した彼女が両手を広げて言う。

「男鹿には、こんなところありませんでしたから」

「海は広々としてるんじゃないの?」

「う〜ん、それはそうなんですけど、なんか恐い感じがして……。それに、錆びた大きな石油タンクがあちこちにあってちょっと臭かったし」と困ったような顔をする。

 その手を取って歩き出す。

「おじいさんとおばあさん、ほんとにいい人たちだね」

「びっくりしたでしょ? いろんなこと見せちゃって」

「びっくりしたのはナナカだよ。すごいな、どこかで介護の勉強したの?」

「週に一度来てくれるヘルパーさんに教えてもらったり、本で読んだり。でも、ただの見様見真似だから、あんまりうまくいかないこともありますよ」

「そうか。あんなに大変だとは思わなかったよ。何か困ったことがあったらすぐに言いなよ。ぼくに何ができるか分かんないけど、力仕事とかなら」

「はい、ありがとうございます。その時は遠慮なくお願いしちゃいます」

「うん。約束」

「はい」と彼女が手を握り返す。

「一樹っていうのがお父さんで、六月っていうのがお母さんの名前なんだよね?」

「そうです。一と六を合わせて七香なんですよ」

「ぼくの名前じゃ、足せないな」

「ジュンカ?」

「ああ、それでもいいかも」

 うふっと彼女が俯いて笑う。

「おじいさんは、まだ息子が生きてると思ってるんだね」

「いえ、ちゃんと分かってはいるんですけど、時々、っていうか、しょっちゅう時間があちこちに飛んじゃうみたいで」

「ナナカのことも六月さんって呼んでたしね」

「そうなんです。でも、それってちょっと嬉しかったり……」

「そうか。だけど、お父さんやお母さんの話になると辛くない?」

「ううん、ぜんぜん。なんか話してると、私もお父さんが仕事で出かけてて、お母さんもすぐそばにいるみたいな気になっちゃうんですよ。それに……男鹿の家では一度もそういう話はしてくれなかったし……」

「ナナカ」

「はい」

「好きだよ」

 立ち止まって彼女の顔をじっと見る。

「今までの倍くらい。いや、もっとだな。昨日より今日、今日より明日って、どんどん好きになってくよ。ナナカの全部ひっくるめて、好き……」言葉の途中で、彼女の指がぼくの唇をを塞いだ。

「それ、私がいつも思ってること、言いたかったこと。先に言うなんてズルイです。でも、私の方がもっとずっと好きですからね。先輩。潤也さん。大好きです。……愛してます」

「ありがとう。ぼくもナナカを愛してる」

「……嬉しい」

 立ち尽くす彼女の帽子をまた風が運び去りそうになり、彼女の頭をぼくが手で押さえる。そして、手を取ってまた歩き出す。

「愛してるって言ったけど、それはほんとにそうなんだけど、まだ十六のぼくなんかがそんな言葉使っても笑われちゃうだけだから……。だから、何ていうかさ、今はまだ、心から好きとか、大切にしたい、いっしょにいたいっていうことじゃダメかな?」

「ううん、それでもう充分です。充分すぎます。私だってまだほんの子供だし、愛するってほんとはどんなことなのか分かんないし……。でも、いくつになったら愛してるって言ってもよくなるのかな……」

「さあね〜、いくつになったらっていうよりも、責任がとれる大人になったらってことかな」

「私、責任なんて求めてませんよ? っていうか、それは自分の責任だし」

「あ、そうか。うんそうだよね。じゃ、もっと社会に出ていろんな経験を積んだらってことなのかな?」

「いろんな人と出会ったり別れたりしなきゃならないんですか? 初めての恋愛だったら愛してるって言えないんですか?」

「ん〜、恋愛経験だけじゃなく、人生経験とか」

「泣いたり笑ったり? それなら私いっぱいしてますけど?」

「あ〜そうだよね。人の何倍も辛い経験してるもんね」

「今は嬉しい経験ばっかりですけどね」

「そうすると、いったいどういうことなんだろう。う〜ん、責任、経験、人生、若さ……。やっぱり、若いと先のことが分からないから、その時の一時的な感情かも知れないってことなのかも」

「そう言われると、私も先のことは何にも分かんないですけど、でも、今の気持ちが一時的なものだなんて思ってませんよ。それはもう絶対。たとえどんなことがあったって、先輩が私を嫌いになったって、私が先輩を好きな気持ちは変わりませんから。もう一生……」

「それは、ぼくもそうだよ。ナナカを絶対に離したくないからね。だけど今、一生って言っても、ただの言葉で、ただの口約束にしかならないからな〜」

「でも、人生って八十年、九十年じゃないですよ。いつ死んじゃうか分かんないんですよ。愛してるとかさようならも言えないまま離れ離れになっちゃうことだってあるかも知れないんですよ」

 その言葉には重みがあった。怒りにも似た迫力があった。

「……そうだね、その通りだね。先のことを考えるのも大事だけど、だからって今を誤魔化したり諦めたりしちゃいけないよね。今の気持ちをちゃんと伝えなきゃいけないんだね」

 心の中で今の言葉をもう一度繰り返す。二度、三度と噛みしめるように。

 彼女がどんな表情をしているのか、帽子のつばに隠れて見えなかった。でも、つないだ手から熱い何かが伝わってくるのが分かった。

「ナナカ」と立ち止まって体を向ける。彼女もぼくに向き合う。

「愛してる」

「はい」

「君を離したくない。ずっとぼくのものでいてくれる?」

 潤んだ瞳で、大きく頷く。そして、まっすぐに「はい」と言う。

 抱き寄せて、唇を重ねた。今度は飛んで行かないように、帽子ごとしっかりと彼女を抱き締めた。その横をレースタイプの自転車が走り抜けて行った。誰に見られようと気にならなかった。

 ゆっくりと体を離す。キスのあと、彼女はいつも恥じらって目を伏せる。うっとりしたような、少し困ったような、名残り惜しいような、その表情も好きだった。ぼくだけに見せてくれる顔だった。すぐにまたキスしたくなってしまう。

 彼女がふいに顔を上げて「ちょっとこれ持っててもらえますか?」と帽子をぼくに押し付けて走って行った。かなり先で振り向き、両手を口に当て「せんぱ〜い!」と呼ぶ。ぼくは持った帽子を上げて返事をする。今度は「じゅんやさ〜ん」と呼ぶ。ぼくは帽子を振る。彼女が「あ、い、し、て、る」と叫んでこっちに駆けてきた。跳ねるように、弾むように。そして広げたぼくの腕に飛び込む。ぼくはしっかりと彼女を受け止めた。

 ふたりで笑い転げながら「昨日の続き?」と尋ねる。

「今度は、私からの、告白」と眩しく笑う。

 それから、また手を取って歩き出す。道は緩く蛇行しながら、まだまだずっと先まで続いていた。

「まいにちが、なんてすてきなんでしょう〜」と手を大きく振りながら、彼女が歌う。

「お、新曲?」

 以前にぼくが多重録音した曲を、彼女をボーカルをにして、ぼくがコーラスをつけて、新しく作り直した。詞も手直しをした。半分くらい彼女が言葉を選んだ。マイクを通した彼女の歌声は、少しだけエフェクトをかけるとさらに透明感を増した。柔らかくしみ込むような優しい歌声だった。自分の曲とは思えないくらいに生まれ変わっていた。

 次に、彼女をテーマにした曲を作ることにした。メロディーは次々に浮かんでくるけれど、まだひとつにまとまっていない。曲ができたら彼女が詞をつけることになっている。彼女はギターの練習もしていて、バレーコードが押さえられるようになってきたところだ。部屋には中古のキーボードも加わって、彼女も少しずつ鍵盤の勘を取り戻しているようだ。それがふたりの部活の時間だった。

「しあわせ〜、それはことばじゃあらわせない〜」と即興で彼女が続ける。

「だけどどうして、ことばにしてさけびたくなるの〜」

「いいね。なんかディズニー映画みたいだ」

「だって、私シンデレラ気分ですもん。白雪姫だし、眠り姫だし、不思議の国のアリスみたい」

 つないだ手を伸ばし、ふわりと回転して、腕と足をスラリと斜めに広げる。踊りの才能まであるんじゃないかと思うほど。

「さっきの先輩の言葉、なんだかプロポーズみたいじゃありませんでした?」

「うん。そう思ってくれていいよ」

「えっ! そんなこと言ったら、私本気にしちゃいますよ」

「本気だよ。ちゃんとしたプロポーズは時期が来たらまたするけどね」

 彼女が痛いほどギュッと手を握る。

「だって、もううちの家族みたいなものじゃない。ぼくも、もっとこっちに来て手伝うからさ、家族にしてよ」

「……ありがとう、ございます。ほんとに……もう、こういう時ってどう言えばいいのか、嬉しすぎて言葉が見つからない」

「笑っていれば、それだけで充分」

「はい」と少し涙ぐんだ顔で、ぎこちなく笑顔を作る。

「泣いてばっかり。嬉しくて泣いてばっかりで……」

「泣いちゃうと、ほら話が続けられないからさ。あ、でもぼくもすぐに抱き締めたりキスして話を途切らせちゃうから、おんなじか」

「ううん、もっと、して欲しい。抱き締められたり、キスしたり、おしゃべりしたり、もっともっと」

「じゃ、抱き合って泣いてキスしながら話する?」

「バイトしながら、お弁当食べながら?」

「歌いながら、バイクに乗りながらもね」

「勉強しながら?」

「あ、それはナナカに任せた」

「ずる〜い」

 そして鈴が鳴るみたいに笑う。

 知らないうちに、遥か下流にあった橋の近くまで来ていた。陽射しが少し傾いて、空気が微かに色付いていた。来た道をまたブラブラと戻る。

「昨日、私ひとりで歩いて帰ったじゃないですか」と彼女が話し出す。

「うん、遠くなかった?」

「いいえ、それほどでも。途中で買い物をしても三十分くらいでしたよ」

「そう。で、どうだった、ひとり歩きは?」

「はい、楽しかったです。でも、ひとりなのに全然そんな気がしなくて、すぐそばに先輩がいるような気がして、それがなんか嬉しくって……。今までのこと順番に思い出しながら歩いてたんですけど、もういろんなことがありすぎて、とりとめもなく頭の中がこんがらがっちゃって……。ほんとは、先輩のために私は何をしたらいいのか考えようって思ってたんですけど、結局ただぼーっとしあわせなまんまで。きっと人から見たらニヤニヤしっぱなしだったと思いますよ」

「あはは、なんか目に浮かぶようだね」

「え〜、私いつもそんなニヤニヤしてます?」

「ニヤニヤっていうか、ムフフって感じ?」

「え、やだ〜。気をつけなくっちゃ」

「でも、ナナカがいろんな表情するようになってぼくも嬉しいよ。見てて飽きないし、可愛いし」

 またポッと頬を染める。

「あ、それで、昨日は私のわがままでひとりで歩いて帰りたいって言っちゃったんですけど、先輩もひとりになりたいことがあるだろうなって、帰ってから気がついたんです。なんか間抜けですね、私」

「ぼくなら平気だよ。たまに夜中にバイクで走りに行ったりしてるし。だけど、そんな時もナナカがいっしょだったら楽しいのにって思うよ。この前も大黒埠頭の方に行ってみたんだけど、あ、この夜景をナナカに見せたいなって思ったしね」

「もう、先輩は、そうやってすぐに私を喜ばせるんだから……。もしかすると先輩って女ったらしの素質あるんじゃないですか?」

「ナナカにだけだよ。他の女の子には、自分でも不思議なくらい興味湧かないし。ああ、だから冷たそうとか言われるのか」

「私なら、もういくらでもたらされちゃいますから。もうメロメロですけど……。あ、また変なこと聞いちゃっていいですか?」

「うん、何でも」

「昨日もちょっと聞こうとしたんですけど、かなり変なことですよ?」

「いいよ。その方が面白いし」

「じゃ思い切って聞いちゃいますけど、えっと、ほら、先輩が抱き締めたりキスしてくれたりするじゃないですか。それはもう、ほんとに嬉しくって、いつも心臓が破裂するんじゃないかっていうくらいドキドキしちゃうんですけど、え〜と、なんていうか、それ以上のことはしないじゃないですか。それって、どうしてなのかなって……。あ、言いたくないなら全然構いませんから」

「ん〜、我慢してるから」

「あ、やっぱりそうなんですね? 我慢なんてしなくていいのに……」

「だけど、そうしたら歯止めが効かなくなっちゃいそうで」

「いいですよ、私はもうずっと覚悟してますから。覚悟っていうか、先輩にすべて預けてるっていうか……。前から、先輩の望むようにして下さいって言ってるじゃないですか」

「うん、それは分かってる。すごく嬉しいよ」

「やっぱり、こんな子供の体は、あんまり興味ないですか?」

「そんなことないよ。さっきも言ったじゃない、他の女の子には興味が湧かないって。それは、性格も考え方も顔もしぐさも体も、全部ひっくるめてナナカにしか興味ないってことだよ」

「もう、ほんとに、ほんとに、嬉しい。……でも、なら、どうして?」

「う〜ん、ひと言で言えば、大切にしたいっていうことなんだけど。ほら、ナナカがいつも好きにしていいですよって言ってくれるじゃない。そんなこと言われるたびにムラムラして押し倒したくなっちゃうんだけどさ、なんかいつでもそう出来るって思うと逆に出来ないっていうか、そっとしておきたいっていうか、まだ今じゃないって気がしちゃうんだよね。う〜ん、自分でもよく分かんないから、ナナカにも分からないとは思うけど」

「あ、大切にしてくれてるっていうのは、もう痛いほどよく分かります。だけど、そんなに抑えてて苦しくないのかなって、心配になっちゃったり」

「そうか。心配してくれてたのか。全然気付かなかった……」

「先輩は、その、ひとりでそういうことって、しないんですか? あ、ほら、部屋にエッチな本とかビデオとかないじゃないですか。男鹿の隼人君が毎晩必ずそういうことしてたから、男の人はみんなするものなんだって思ってたので」

「あははは、そうか。ぼくだってするよ。それこそ毎晩のように。まあ若い男は百人中百人してるから」

「あ、やっぱり?」

「幻滅した?」

「ううん、それどころか安心しました」

「自分もするから?」

 冗談交じりで軽くそう言うと、彼女が真っ赤になってしまった。

「あ、女の子だって、たぶん90%以上はしてると思うよ。それは正常で健康な証拠なんだしさ。欲望があってはけ口がないから、それは当然のことだと思うよ。なんたって女は十六歳になったら結婚だってできるんだから」

「でも、そんな……。幻滅、ですよね?」

 真っ赤な顔を上げられないまま、彼女が恐る恐る尋ねる。

「いや、ぜんぜん。ぼくも安心したよ」

 彼女は、ぼくの腕にしがみつくように腕をまわした。

「でもまあ、人にそういうことを知られるのは、すごく恥ずかしいよね」

 コクンと頷く。

「じゃ知らなかったことにしよう。だから今まで通りでいてくれる?」

「そ、そんな……。先輩にだったら、先輩だけになら、知られても……恥ずかしいけど……」とさらに顔を赤くしながら、必死になって彼女が言う。

「うん、そういう恥ずかしいことも含めて、なんでも言って、なんでも聞いて、なんでも分かり合おうよ」

「はい。嬉しい。……私、もしかしたら人よりエッチなのかも知れません。先輩に、好きにしていいなんて言いながら、ほんとは自分がそうして欲しかったのかも……」

「期待してた?」

 ほんの小さく頷く。

「ぼくも期待してるよ、その時が来るのを。ナナカもいっぱい期待してて。それまではドキドキしながら、ナナカを思ってひとりで頑張るから。今は、そのドキドキを楽しんでいようよ」

「はい」と声に出して彼女が応えた。

「それにさ、エッチなことを毛嫌いするよりも、興味津々なほうがずっといいよ。だってそのほうが全然面白いじゃない。ぼくだって足フェチの変態なんだしね」

 ふふっと、彼女がようやく少し微笑みを取り戻す。

「あとは何か聞きたいことある? もうなんでも平気でしょ?」

「じゃ、あの、先輩は、そういう時、私の足とか想像したりするんですか?」

「うん。足だけじゃなく、いろんなところ。いろんな服を着せて、脱がして、触って、いろんなポーズさせたり、もう頭の中じゃすっごいことさせちゃってるよ」

 彼女が、ンフフと恥ずかしそうに笑った。

「イヤなら、やめるけど」

「ダメです。他の子でそんなことするんなら、私で……。私でよかったら、なんでもして下さい……」

「ナナカは、どんなこと思いながら?」

「……先輩」

「どんなふうに?」

「キスを思い出したり……」

「抱き締められたり、触られたり、脱がされたり?」

 また赤くなって黙り込み、首だけ小さく頷く。

「な〜んだ、だいたい同じじゃない。まあ、ぼくの妄想の方が遥かにいやらしいだろうけどね」

 顔は赤くしたまま、なんだか嬉しそうにつないだ手を振る。

「ねえ、二月二十九日にナナカが十六歳になるよね。その日にしたいな」

「したいって?」

「ナナカを抱きたい」

 振っていた手が、凍りついたように止まる。

「あ。あんまりそんな予定を立てるのも変だよな」

「ううん、そんなことない。すごく……嬉しい……」

「じゃあ、そういうことにしよう」

「はい。……なんか急にドキドキしてきちゃった」

「ほんとだね、ぼくもだよ。あ〜、こういう感じを失いたくないから、もうちょっと味わいたいから、今まで我慢できたのかな」

「でも、まだ半年以上も先ですよ? 九月九日の先輩の誕生日でもいいですけど」

「う〜ん、悩みどころだな〜。じゃあ九月九日にはBまでして、いやいや、それじゃ絶対止められないし、う〜ん」と、ひとりごとみたいにブツブツ言うぼくを彼女がクスクスと笑う。

「いいや、やっぱり二月二十九日。そう決めた」

「はい」

「それまでは、今まで通りのドキドキをいっぱい楽しもう」

「はい。……じゃ、それまではエッチなことされそうになったら逃げちゃいますよ?」

「え、足を触るのもダメ?」

「それくらいはいいですよ」

「ふとももとか」

「いいですよ」

「胸やお尻とか?」

「……触るくらいなら、いいですけど……」

「全然逃げないじゃない」

「だって……」

「ウソ、ウソ、冗談だから。今まで以上のことはしないから。二月までのお楽しみ」

「もう、先輩のいじわる」

「でも、来年がうるう年でよかったな。じゃないと四年待たなきゃならなくなるよ」

「うふふっ、そうですね。なんか、今からすっごく待ち遠し……、アッ」と言ってまた顔を真っ赤にする。

「もう、可愛くてしょうがないな、ナナカは」とそっと抱き寄せる。

「ほんとは、時々こうしてもらうだけで充分なのに。すごくしあわせで、溶けちゃいそうなのに……」と体を預けて彼女が言う。

 ふと周りを見ると、見たことのない景色。

「あれ、もしかして通り過ぎちゃった? 昇ってきた階段、どの辺だっけ」

「あ、ほんとだ。あ、あそこ。あの黄色い看板のちょっと手前」

 そう言って戻りかける彼女を、止まって眺める。振り向いて一瞬不思議な顔をしたけれど、すぐに笑ってひとりで歩き出す。ぼくの視線を浴びた彼女の後ろ姿は、いつにも増して嬉しそうだった。染まり始めた空を背景に、彼女が影を長く延ばしていた。


「あ〜あ、先輩の謎を暴くつもりだったのに、私のほうが暴かれちゃった」と言いながら玄関の引き戸を開ける。

「ただいま〜」と彼女と居間へ入ると、テレビが「みんなのうたの時間です」と言っていた。たぶん音はほとんど聞こえていないだろうけど、おじいさんはニコニコしながら歌に合わせたアニメを見ていた。ぼくは食卓の椅子に座り、夕食の支度をするエプロン姿の彼女と、テレビを眺めているおじいさんと、それを見守るおばあさんを、静かに見ていた。この家では、時間はゆっくりゆっくりと流れていた。

 冷ややっことほうれん草のおひたしとシャケの切り身と大根と蕪のみそ汁と柔らかく炊いたごはん。どれも薄味だったけど、優しい味がした。夕食のあと少しおじいさんの話を聞き、帰る前に仏壇の彼女のお父さんとお母さんに挨拶をした。横で彼女もいっしょに手を合わせていた。飾られた小さな写真立ての中には、三才くらいの子供を抱っこしたお父さんと、寄り添って明るく微笑んでいるお母さんの姿があった。お父さんはなかなかハンサムでお母さんは美人だった。どことなく、でも確かに彼女の面影があった。そして、みんなとても柔和そうだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る