第6話
それからは、だいたい一日おきにぼくの部屋に来るようになった。毎日でもいいのだけど、あまり毎日だと……と彼女が気兼ねしていた。四時から五時過ぎまでぼくの部屋で過ごし、彼女の駅まで送って行く。駅前のスーパーで夕食の材料を買って、家に着くのは六時前らしい。それで特に時間的な支障はないようだ。
ぼくの部屋では、音楽を聞きながらおしゃべりしたり、ギターを教えたり、雑誌を眺めたり、パソコンで面白い動画を探したり、試験勉強もした。
お決まりのようにキスもした。何度キスしても、彼女はまるで初めてみたいにはにかんで頬を染めた。
ただ唇を重ねるだけの優しいキス。それ以上のことはしなかった。それだけでお互いに充分すぎるほど、しあわせが心を満たした。
もちろん、もっと触れて、抱いて、ひとつになりたかった。いつだって苦しいほどの欲望がぼくの中に渦巻いていた。でも必死で我慢した。それが彼女を大切にすることの証しのような気がした。ぼくにとっても、彼女にとっても。
いろんな服を着せたり、心ゆくまで足を眺めたり、手や足にそっと触れたり。彼女はひとつも嫌がらずに、時には嬉しそうに、時には恥ずかしそうに、時には無邪気に、ぼくの望みを受け入れてくれた。そうすると、やましい欲望もどこかに陰を潜めて、愛しさだけが募っていった。
いっしょにいることが当たり前になっても、少しも飽きることがなかった。いくら話をしても退屈することがなかった。どれだけ慣れっこになっても、彼女の初々しさが消えることはなかった。また明日会えるのが楽しみだった。
学校でも僕たちの仲はすぐに公認になった。それどころか、いちばんラブラブのカップルと噂された。学校での彼女も屈託のない笑顔を見せるようになった。姉貴の友達の美容院で髪をワンレングスのふんわりしたミディアムボブに整えてもらい、短かすぎないミニスカートを履き、グレーやベージュのニットベストを着た。恋をするときれいになるって本当なんだね、とクラスメートに言われたそうだ。でも、服装によって上品なお嬢様や、ちょっと子供っぽい溌剌とした元気少女や、麗しくしとやかなレディーに変身し、性格やしゃべり方のニュアンスまで変わってしまう彼女を、学校では誰も知らない。
姉貴はすっかり自分の子分のように可愛がり、最初はビクビクしていた彼女もすぐに懐いていた。トオルさんも、妹か、時には娘のような目で見ていた。親父にいたっては、もう孫娘扱いだ。いつもムスッとしかめっ面の親父が、相好を崩して目尻を弛ませていた。顔が合うたびに、これは好きか、あれはどうだ、と貰い物のお菓子や商店街で買ってきた饅頭などを押し付ける。遠慮しながらも「はい、どうもありがとうございます」といつも丁寧にお礼を言う。ぼく以外の人に、あの「はい」という返事をするのに嫉妬してしまうくらいだった。
初めて合う人には人見知りをしてしまうけれど、彼女の純朴な素直さに誰もが好意を持ってくれる。つい守ってあげたくなるようだ。
細すぎず太すぎず、脆そうでいてちゃんと芯のある、絶妙なバランスの体型。輝くような白い肌。そして笑顔の優しさ、可愛らしさ。そうした魅力も、彼女が好感を持たれる大きなポイントに違いない。
夏休みに入ると、週に三、四日、彼女が店でバイトをすることになった。主に裏仕事で、商品の開封とチェック、そして補充。もちろんぼくもいっしょに働く。ぼくは主に力仕事だ。あれこれと姉貴の指示が飛び、彼女は汗を拭いながら黙々と仕事をする。店のロゴマークが入った赤いTシャツに、ジーンズの短パン、紺のハイソックス、スタッフ用のエプロン。そんな姿もまた、健気で可愛かった。
五時に仕事を終えて、ぼくの部屋で彼女専用の大きなピンクのクッションに座ってリラックスする。もちろんキスも忘れない。少し休んで彼女を送って行く。
仕事のない日は、昼少し前にぼくの部屋に来て、母屋の台所で素麺や蕎麦などを作ってくれる。店のスタッフの分も作ってくれるので、みんな交代で食べに来る。バイトの日ではなくても、たまに内線電話が鳴って姉貴に仕事の手伝いを頼まれたりもした。バイトの給料は週ごとに貰えた。親父はほんの少しだけ時給を上げてくれていた。もちろん彼女の分だけ。
ぼくはバイクの免許を取った。トオルさんのコーチで一週間ほど夜に店の駐車場で運転の練習をした。一発試験の三度目に合格した。練習に使わせてもらっていたKAWASAKI NINJA400Rを、そのままトオルさんが譲ってくれた。これで彼女の家まで送り迎えができるし、学校にも通える。バイクだと、ゆっくり走っても彼女の家まで三十分かからなかった。
最初の頃は目をつぶって力いっぱいぼくにしがみつき、信号で止まるたびに大きく息を吐き出していた彼女も、一度箱根にツーリングに行くとタンデムのコツと楽しさを体で覚え、ゆったりと気持ちよく乗れるようになっていた。彼女を乗せている時は慎重すぎるほどの運転をしたけれど、帰り道、直線が続く湘南バイパスで少しだけスピードを上げると、夕焼けの海を見ながら「キャーッ」と嬉しそうに叫んでいた。
そんな夏休みのある日、一度彼女の家を訪ねることにした。
彼女がどんな家に住んで、どんな人と暮らしているのか、ずっと気になっていた。
前日に、彼女からこんな話を聞いた。
「ほんとうは、ずっと言わなくちゃって思ってたんですけど、いつも楽しいことばっかりで、こんな話するとどうしても暗くなっちゃうから、なんか、つい言いそびれてしまって……ごめんなさい……」
そうして彼女が途切れ途切れに話し始めたのは、こんな内容だった。
私が生まれたのは東京の多摩市なんです。
お父さんとお母さんは、家を事務所にして会計士の仕事をしていました。
私が小学四年の頃、お母さんが病気になって入院しました。ガンだったみたいなんですけど、私にははっきりと聞かされていませんでした。その時は二カ月くらいで退院したけれど、半年くらいで再発して、また入院することになりました。
私は学校が終わると毎日バスで病院に行って、その日の出来事を話したり宿題をしたり本を読んだりしていました。だいたい六時くらいにお父さんが迎えに来てくれて家に帰りました。お母さんはどんどん痩せていって声も小さくなっていって、それでも点滴や管をつけてベッドにもたれながら、いつも私の話を嬉しそうにウンウンって聞いてくれて、でも口を開く度に「ごめんね」ってばかり言ってました。
そんなふうに二年くらい経って、中学に入ったばかりのある日の夜、お父さんと家に帰って夕飯を食べていたら、病院から血圧が下がって危険な状態だっていう電話が来ました。あわててクルマで病院に向かったんですけど、その途中の交差点で交通事故を起こしてしまったんです。ぐるんと空がひっくり返って、一瞬何が起こったのか分からなくて、目を開けると暗い中でクルマのシートの向こうからお父さんが何か言っていました。私もあちこちすごく痛くて、体が動かなくて、ようやく「七香、七香」って呼んでるのが分かりました。そして「ごめん」って聞こえた時に、私も気を失ってしまいました。
気がついたら病院のベッドで、お母さんの病院だと思ったら違う病院で、私はたいしたケガではなかったんですけど、お父さんは死んでしまったと聞かされました。意味が分からず、え、なんで? お母さんは? と尋ねると、お母さんの病院に問い合わせてくれて、お母さんも亡くなったことを知らされました。ほとんど同時刻だったようです。私は一人きりになってしまいました。
そのあとは大人の人たちが集まっていろいろやってくれたんですけど、私は一週間くらい入院してたので何も分かりませんでした。ただ悲しくて、寝てもすぐに目が覚めて、涙ばかり出ました。これが夢でありますようにといくら願っても、目を開けても何も変わっていませんでした。
入院している間に、私は秋田の叔父さんのところに引き取られる事が決まっていました。
これはあとでなんとなく知った事なんですけど、お父さんとお母さんの保険金が何千万円か支払われて、でも事故の相手の補償や慰謝料でだいぶん消えてしまったみたいです。あの夜、夕飯を食べながらお父さんがビールをほんの一口か二口飲んでいて、飲酒運転とスピードオーバーと前方不注意とで、全面的にお父さんの責任になっていたので。
それでも一千万円くらいは残り、秋田の叔父さんが私を引き取るために家をリフォームするのに何百万かかかり、あとは私の養育費として預かると言ってました。
入ったばかりの中学校をやめて、秋田の男鹿市の中学に転入しました。男鹿はお母さんの生まれたところで、お母さんの弟にあたる叔父さんは町の漁協に勤めていました。
その家には、叔父さん、伯母さん、伯母さんのお母さん、小学五年生の男の子がいました。そこの二階の四畳半を私の部屋にしてくれました。
彼女はそこまでで話を終わらせたいように少し黙ったけれど、ぼくが「それからは?」と促すと、また話し始めた。
その町は、海と山に挟まれたほんとに小さな町で、漁港も小さくて、港の方に大きな石油備蓄タンクが並んでるほかは何もないような閑散としたところでした。
中学も、一学年に二十五人のクラスが二つで、最初はみんな珍しがってくれてたんですけど、言葉もよく分からないこともあったし、私が標準語で話すと逆に変な目で見られてるみたいで、みんなが仲がいい分、私はいつまで経っても溶け込めませんでした。私がもともと人見知りで引っ込み思案な性格だったのもあるし、お父さんとお母さんが死んでしまって、遠くの知らない町に来てほとんど知らない人といっしょに暮らすことになって、何をどうしたらいいのかも全然分からなくて、ひとりぼっちで取り残されたみたいで、ずっとずっと悲しくて寂しくて、そんな気持ちのままだったのもあると思います。
家では、掃除とか洗濯とか炊事とかそういう家事は私の役目になりました。昼間は伯母さんも水産加工場で働いていたし、それは全然嫌ではなかったんですけど、だんだん細かい事まできつく言われるようになってきて……。
最初の頃はみんな優しく気を使ってくれたんですけど、何て言うか、外と内では違うっていうか、外面は善くて内弁慶みたいな、叔父さんも伯母さんもお婆さんも、そんな感じの人たちでした。小学生の隼人君も家ではわがまま放題で、思い通りにならないと時々癇癪を起こしていました。
叔父さんは毎週欠かさず宝くじとロトを買い、当選番号を確認するのを楽しみにしていました。競馬の大きなレースがある時には他の人の分まで取りまとめて遠くの町まで馬券を買いに行っていました。伯母さんは仕事が終わると必ずパチンコ屋に寄ってから帰ってきました。
私は、家では絶対に肌を見せないようにと言われていました。必ずズボンと靴下で、上も長袖で。学校でも必ず透けない厚いタイツを履くようにと。冬は寒いからみんなそんな格好なんですけど、夏でもそう言われました。
隼人君の部屋は私の隣の六畳間で、襖で分かれていました。時々、朝にその襖が少し開いてる事がありました。夜に唸るような息遣いが聞こえる事も。私はなるべく襖から遠い位置に布団を敷いて、耳を塞ぎながら寝るようにしました。
隼人君が中学生になり、私が三年になった頃に、伯母さんが隼人君の部屋から私の下着を見つけました。私もそういうことには注意してたんですけど、夜中に洗濯機から取り出したようでした。隼人君は泣き叫びながら「知らない、何もしてない、俺じゃない」と言っていました。伯母さんは「あんたがなんか変なこと教えたんじゃないだろうね」と私を叱りました。とにかく、今まで以上に気をつけるということでその時は収まったんですが、それからも何度か似たようなことがありました。
そして中三の冬休みの日曜日、朝食のあと片付けをしていると叔父さんと伯母さんに話があると言われてテーブルに座りました。隼人君は部活に出かけていませんでした。
私も隼人君もそろそろ年頃だし、年もあまり離れていないので、ひとつ屋根の下で暮らすのは何かと心配だし、間違いが起こってからでは遅いから、遠くの高校に行ってはどうかと言われました。ちょうど私のお父さんの方のおじいちゃんとおばあちゃんが二人きりの年金暮らしだから、そっちに行ってお世話をしながら高校に通ってはどうか。電話をしたら、あちらはいつでもいいということなので、中学卒業まではここにいていいから、どこかあっちの高校を受験できるように先生に相談しておきなさい。あわただしくそんな話をして、叔父さんと伯母さんは出かけて行きました。
急にそんなことになって、先生が決めてくれた高校に受かるように残り二カ月で必死に勉強しました。でも正直に言うと、あの家を出られるから、あの町を離れられるから、そのために頑張ったというのが本当の気持ちです。たぶん大学は行けないだろうから高校だけは行きたいと思っていました。もし受からなくても、こっちに来て仕事をしながら夜間高校に通おうと思っていました。でもなんとか合格できて、すごくホッとしたというか、初めて希望が湧いてきた気がしました。
今年の三月の中頃に、ちょっとした荷物だけ持ってこっちのおじいちゃんの家に引っ越してきました。
その家はお父さんの実家で、小さい頃に両親に連れられて来た事が何度かありました。おじいちゃんとおばあちゃんは何度もお母さんのお見舞いに来てくれたし、すごく優しくて静かな人という印象は少しも変わっていませんでした。
家は、隣と隣の隙間に立っているような古い小さな家です。そこでも二階の四畳半を私の部屋にしてくれました。昔お父さんが使っていた部屋だそうです。
おじいちゃんが七十八歳で、おばあちゃんは七十三歳で、結構高齢なんです。
おじいちゃんは、体は元気なんですけど膝が悪いのと、少し認知症気味で時々私を見て「どこのお嬢さんかな?」と言ったりします。おばあちゃんは、昔からあまり丈夫じゃないそうで、いつもコホコホと軽い咳をしています。二人とも物静かで口数も少ないけれど、昔の話をよくしてくれます。若い頃のことや、お父さんが小さかった頃のことなんかは、ずいぶんはっきり覚えていて、同じ話を何度もするんですけど、その度に面白くて声をあげて笑っちゃうこともあります。私もなるべく学校の事や先輩の事やお店の事なんかを話すようにしています。話しても半分くらいは忘れちゃってますけど。
この家でも家事は私がやるようにしています。でも前と比べるとうるさいことも言われないし、肩身の狭い思いもしないし、天国みたいです。
引っ越す時に、預かっていたお金を返すからと叔父さんが五十万円をくれました。制服や教科書や定期代や積立金なんかで、もうあんまり残っていませんけど。生活費はおじいちゃんたちの年金で賄わせて貰っています。合わせて月二十万くらいなので、贅沢をしなければなんとかやっていけるんですけど、私も自分の分くらいはバイトしなくちゃと思っていました。
高校に入って、私もたくさん友達を作って、部活にも入って、本もいっぱい読んで、たまには賑やかな街で遊んだりしたいなって思ってたんですけど、いざとなると勇気が出ないと言うか、みんな垢抜けていて明るくて可愛いから気後れしちゃって、どうやって友達になればいいのか、どんな部活をすればいいのか、自分で自分の事が何にも分からなくって、ただ変わりたい、変わらなくっちゃと焦りながらズルズル二カ月、三カ月が過ぎて、気がついたら結局中学の時と同じようにひとりぼっちのままで、図書室くらいしか居場所がなくって。
そんな時、私が先輩の指を怪我させてしまったんです。本当に申し訳なくって、せめて私ができることっていったら、包帯を取り替えたり、不自由な事をお手伝いするくらいしかないので、迷惑がられるとは思ったんですけど帰りに先輩の後をついていったり。
最初は、その、なんか観察されてるようでちょっと怖かったんですけど、冷たそうでいて優しいし、ぶっきらぼうだけど言葉の端々に誠意があって、なんか不思議な人だなって思ったんです。二、三日するうちにだんだん放課後の保健室と帰り道が待ち遠しくなってきてしまって、誰かといっしょに帰るのが、それも年上の男の人とおしゃべりしながら帰るなんて、もう私にとってはすごいことで、なんか憧れていた女子高生になれたような気がしちゃってました。
そして突然、足がきれいって先輩に言われて、びっくりしたのと嬉しいのとで舞い上がっちゃって、先輩に言われるままスカートを持ち上げちゃったり。なぜだか先輩に言われると素直になんでもできちゃうんですよね。私の好きな声っていうのもあるけど、言葉に気持ちがこもってるっていうか、偽りがないっていうか、飾らない本心みたいなのがすごく伝わってきて、喜んでもらいたいって思って。そう思う自分の気持ちが自分で嬉しくて。
実は、高校に入ってからタイツをストッキングに替えて、なんだか大人の女性になったみたいな、私にとっては密かなおしゃれのつもりだったんです。みんな素足で短いスカートを履いているから、それでもダサいのは分かってましたけど。
だから余計に先輩に足を褒められたのが嬉しくて、見られるのもぜんぜん嫌じゃなくて、というより、ちゃんと女性として見てもらえるのが嬉しくて、先輩の視線を感じる度に、なんか、その、ちょっと心がフワッとするみたいな。
包帯が取れて、今日で最後って思ったら涙が出そうになって、その時に先輩がああ言ってくれて、もう信じられない出来事で、嬉しい涙が込み上げてきちゃいました。ほんと、今もまだどこか信じられない気持ちですけど……。
一時間くらいかけて、彼女はそんな話をした。
ショックだった。かける言葉も見つからないほど。
初めて彼女が一人の人間に見えた。
素直で可愛くて従順で、足がきれいでスタイルが良くて、着せ替え人形のような女の子。そう思っていただけの自分の愚かさに気付いた。
そして、怒りが込み上げるみたいに彼女を守りたいと思った。愛してると思った。
どこへも行かないようにと、ただ強く抱きしめた。
彼女はぼくの腕に体を預けたまま、気を失ったかのように身動きひとつしなかった。ふたりの呼吸と鼓動が溶け合うように呼応していた。何も言わなくても、気持ちが染みてくるようだった。キスさえも今は不要だった。
どのくらいそうしていただろう。
「そろそろ、帰る時間だね」
名残り惜しく彼女の髪を撫でながら、ようやくそう言う。夢うつつの表情で顔を上げたその瞳に溜まっていた涙は、どういう涙だったのだろう。
彼女がジーンズに着替えてくるのをドアの外で待ち、段ボールの上に並んだヘルメットを渡す。
「今日は、少し歩きたい」と彼女が言う。
「一人で帰りたい?」
「ううん、そうじゃないですけど……」
「じゃあ、途中にある公園に寄って行こうか」
「はい」
いつもの幹線道路沿いにある、緊急避難場所にもなっている大きな公園の駐輪場にバイクを止める。公園の真ん中の噴水に向かってレンガの舗道を歩き始める。夕方になってもいっこうに蒸し暑さが納まらないけれど、公園の空気は涼やかに汗を癒してくれた。木々では蝉たちが恋を求めて鳴きしぐれ、その上にはもくもくと立ち昇った入道雲がその縁をオレンジ色にきらめかせている。
わざと数歩遅れて、彼女の後ろ姿を見ながら歩く。少し大股で、一歩一歩踏みしめるように歩く彼女は、七分丈のスリムジーンズに白い三つ折りソックスとスニーカー、英文字が大きく描かれたラベンダー色のTシャツ。きちんとまとめられたポニーテールの先が柔らかく揺れている。まだほんの中学生のようだった。さっき聞かせてくれた去年までの彼女を思う。
ピョコンと飛び跳ねるように、彼女が振り向く。
「スカートじゃないのがちょっと残念ですね」と少女らしく笑う。
彼女の元へ歩きながら「ジーンズでも足がきれいなのはよく分かるよ」と答える。
「ほんとですか、嬉しい」といっそう顔をほころばせながら「あ、でも残念っていうのは、私が先輩に見てもらえないのが残念っていうことなんですよ」
「いつもちゃんと見てるよ。いつ見ても嬉しいよ」
並んで、小石を蹴るように歩く自分の足元を見ながら、彼女が言う。
「飽きちゃったりしません? 面倒になったりとか、重くなったりとか。あんな話もしちゃったし……」
「しない」ときっぱりと言う。
「しないし、させない。もし……」
「もし?」と彼女がビクッと顔を上げる。
「もしそうなっても、ぼくが変えるから。ぼくが飽きないようにナナカちゃんを変えるから。そして、ぼくも飽きられないように自分を変えるから」
「……なんで……なんで先輩はそんなに強くて優しいんですか? なんで、そんなに嬉しいことばっかり言ってくれるんですか? なんで……」と言葉を詰まらせる。
水しぶきが、ふいに頬にかかる。
噴水の周りで二人の子供がはしゃいでいる。水が高くなったり低くなったりするたびに嬌声をあげている。子供たちのお母さんが噴水の淵に腰掛けてそれを見守っていた。他にもカップルや浴衣姿の女の子たちが噴水の周りに座っておしゃべりをしている。噴水の両脇にあるベンチでも恋人たちがゆったりと涼んでいる。
噴水をぐるっと回り森の中に続く小道へ入ると、ひんやりとした空気に包まれた。彼女が両手を挙げて伸びをしながら、緑の匂いを吸い込む。真っ白な二の腕の裏側が眩しい。
「ナナカちゃん」
「はい」と顔を向ける。
「呼んでみただけ」
ふいに立ち止まって、顔を赤くしている。
「そのハイを聞きたくて。いつもきちんとハイって言うでしょ。「ん?」でも「なに?」でもなく、必ずハイって言うから。それがすごく好きなんだよね」
「……さっきの気持ちがようやく落ち着いたところなのに、またすぐに別の嬉しさをくれるから……。先輩、いじわるです……」と拗ねたように言う。
「私も、先輩に名前を呼ばれるの、大好き……。でも……もう「ちゃん」を付けないで呼んで欲しいなって……」
「ナナカ?」
ふっと体を寄せて、まっすぐ見つめながら「はい」と答える。
ぼくが差し出した手を握って歩き始める。
「またひとつ夢が叶っちゃいました」と屈託のない笑顔に戻って彼女が言う。
「な〜んだ、そんなこと早く言えばいいのに。で、ぼくの名前は?」
「じゅんやさん」とこっそり囁くように言う。
「そのほうがいいですか?」
「いや。呼びにくいならナナカちゃんの、ナナカの好きな呼び方でいいけど」
「じゃあ、先輩のままでいいですか? そのほうが慣れてるっていうか、親しみやすいっていうか、なんとなくしっくりくるっていうか……。それに、名前で呼ぶのは特別な時にしたい、かな?」
「ナナカ」
「はい」
「ほんと、可愛いな、ナナカは」
俯いてゆっくりまばたきをして「じゅんや、さん」とつぶやく。
「……あ、でも、いつでも特別な時ですね、私にとっては」と嬉しそうに微笑む。
「ちょっと、あのへんまで行ってごらん」と小道が曲がっているあたりを指さす。彼女が「はい」と弾むように駆けて行く。そして、振り向いてぼくを見る。ぼくも少し後ろに下がって距離を開ける。そして大きな声で「ナナカ」と呼ぶ。彼女が「はーい」と手を振る。もう一度「ナナカ」と呼んで両手を広げる。彼女が「はい」と言いながら走ってくる。ぼくは何歩か前に進みながら「ナナカ」と呼ぶ。彼女が髪をなびかせながら「はい」と言う。そしてぼくの腕の中に飛び込んだ。その勢いで彼女を抱えてぐるぐるっと回る。三回転して彼女を着地させ、ふたりで笑う。後ろから来たカップルが立ち止まってクスクスと笑いながらぼくたちを見ていた。
道の端に寄って後ろの二人が通り過ぎて行くのを待つ。すれ違う時、お互い自然にペコリと会釈を交わす。カップルが遠ざかって行くのを見ながら、ふたりでまた笑い合う。
「もう、先輩ったら」クスクスしながら彼女が言う。
「走ってくる時に後ろの人に気付かなかった?」
「ううん、なんか先輩しか見えてなかったみたいで」
「ちょっと安っぽかったかな〜」
また笑いを込み上げながら
「すごく嬉しくて、楽しかった。体中がドキドキして、宙を飛んでるみたいでした」と目をキラキラさせる。
「絶対バカップルって思われたな」
「はい」と嬉しそうに彼女が言った。
森を一周してまた噴水に出て、バイクの場所に向かいながら彼女が言う。
「今日はここから歩いて帰ってもいいですか?」
「え、歩くと二十分くらいかかるよ」
空は茜色を濃くしていた。
「なんかもう走り出したいくらいで。ちょっと一人で歩いてみたいなって」
「そうか。たまには一人の時間も欲しいよね」
「ううん、そんなんじゃないんです。いつもいっしょにいられて、ほんとに嬉しくって、夜なんかも、いつもここに先輩がいてくれたらなって思ってます」
「でもさ、あんまりべったりだと息苦しくなることない?」
「そんなこと一度も思ったことないですよ。帰らなきゃいけない時間になると、いつも悲しいし、一人の時は何していいか分からないし。あ、学校の授業中も、今先輩はなんの時間だろうってしょっちゅう考えちゃう」
「じゃ、今日はどうして?」
「あ、それはまたちょっと別で。何ていうか、しあわせをかみしめたい、みたいな。あっ、先輩がいっしょだとできないってことじゃなくて、いつもずっとしあわせに浸りっぱなしなので、えっと……」
「いや、分かる分かる」
「う〜ん。……先輩といると、もう絶対に先輩に向かってしゃべったり考えたりするじゃないですか。あ、それがイヤなわけじゃなくて、すごく楽しくて……」
「ちょっと自分勝手に振り回しすぎてるかな」
「そ、そんな……」と泣きそうな顔で立ち止まり「そんなこと、絶対にないですから」と手を握り締める。
「ごめん、変なこと言ったな」
激しく首を振って「私こそ、ごめんなさい」と言う彼女の握り締めた手を取り、ほぐすように広げて包み込む。
「つまり、自分の心と対話したいってことかな? そういう時はぼくにもあるよ。誰かといると、なかなかできないもんね」
彼女が目を見開いて見つめる。
「そう、そうです。そういうことなんですね。あ〜なるほど、自分でやっと分かった」
「そういう時間も大切だよね」
「怒ってません?」
「怒るわけないじゃない。あんまりそうやって気を使いすぎる方が怒っちゃうよ」
「ごめんなさい……」
「すぐにあやまらない」
「ごめ……。はい」
「ナナカ」
「はい」
「呼んでみただけ」
クスッと笑顔に戻った。
「そっか。あんまり謝ってばかりだと卑屈になっちゃいますもんね。せっかく先輩に明るくしてもらったのに」
「ごめんっていう気持ちはすごく分かるんだけどさ。謝られてばかりいたら、なんかこっちが申し訳ない気がしてくるっていうか、逆に悲しくなることもあるからさ」
「あっ!」と彼女が胸に手を当てて立ち止まる。
「私も……。お母さんが入院してる時に、ごめんねってばかり言うのに困っちゃって、悲しかったです。お父さんも最後に……」
「……そうか」
「だから、先輩もあまりごめんって言わないで下さい。ひとつだけ、そうお願いしていいですか?」
「分かった。でもさ、どうしても謝らなきゃいけない時には、ちゃんと謝るよ。ただ、相手を悲しくさせるようなごめんは言わない、お互いにね」
「はい」と真剣な眼差しで言う。
「また、ナナカちゃん、じゃない、ナナカにいいことを教えてもらったな〜」
「え、先輩が教えてくれたんじゃないですか。いつも大事なことをいっぱい教えてくれて、本当にありがとうございます。あ、ありがとうはいっぱい言ってもいいんですよね?」
「また、そんなこと言うと抱き締めたくなっちゃうじゃないか」
「いいですよ?」と言いながら、逆に彼女の方から腕を回してぼくの体をギュッと抱きしめた。そしてすぐにピョンと離れて「うふっ」と照れくさそうに笑う。
「もう驚いたな〜。実はけっこう大胆なんじゃないの?」
「自分でもびっくり。今、急に恥ずかしくなりました……。でも、先輩だっていつも突然だから……。あ、突然だけど、あ〜こうしてもらいたかったんだって、いつも気付くんですよ。そして、どうしたらこんなしあわせな気持ちをお返しできるだろうって」
「ナナカがいてくれるだけで充分しあわせだけど」
「もう……。また抱き締めたくなっちゃうじゃないですか」
「ぼくもだよ。っていうか、しょっちゅうそう思うから我慢するのが大変なんだけど」
「はい。それもなんとなく分かります。ぜんぜん遠慮なんてしなくていいですからね。っていうか、しょっちゅうして欲しいです。……でも」
バイクの前に着いて、彼女が言葉を途切らせる。
「ん、でも?」
「あ、この話はまた今度で。明日は先輩がうちに来てくれるんですよね? 何にもないからつまんないかも知れないけど、楽しみ。あ、お昼いっしょに食べませんか? おじいちゃんとおばあちゃんもいっしょですけど」
「うん。じゃあ昼くらいに行くね」
「はい。お昼は何がいいですか?」
「そうだな〜、素麺は今日食べたしな」
「じゃあ、冷たいお茶漬けとかは? 暑い日もサラサラっと食べられて、けっこう美味しいですよ」
「うん、いいね。おなか空かせて行くよ」
「はい、待ってます。それじゃあ、私はここから……」
返事の代わりに、軽く唇を触れ合わせる。彼女が頬を赤らめながら後ずさる。
「じゃ、また明日」
「気をつけてね。あ、そうだ。ほら携帯渡しておくから何かあったらすぐ電話して。家でも、店でも、警察でも」
「はい、ありがとうございます」と笑窪を作る。
「なんか過保護な親みたいだな」
「はい。しあわせ過ぎるくらい……」
それじゃ、と歩き出してから
「あ、ムリに名前で呼ばなくってもいいですから」
「分かった。徐々にね」
「はい」
何度も振り返りながら歩いて行く。交差点に立ち止まった彼女のところまでバイクで近づいて短くホーンを鳴らし、Uターンして家に戻った。
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