第5話
翌日の昼休み、約束通り彼女は中庭の昇降口で待っていた。
前髪はヘアピンで留めているけれど、いつもの地味な雰囲気に戻っていた。ちょっとオドオドした感じも前のまま。まあ、制服だとそんなにガラッと変われるわけはないか、と思いながら声をかける。安心したように微笑む顔は、はにかみながらも少しだけ昨日の明るさを漂わせた。ぼくだけが知っている彼女の魅力、ぼくにだけに向けられる可愛らしさ。そう思うと、逆に喜びが湧いてきた。
ベンチで彼女が作ってくれたお弁当を開ける。
「あんまりしゃれたお料理は作れないんですけど……」
アスパラのベーコン巻き、豚肉のショウガ焼き、ウインナー、煮豆、ポテトサラダ、ごはんにはふりかけがまぶしてある。見事なまでの典型的なお弁当メニューが、小さな弁当箱にちんまりと並んでいる。「いただきます」とさっそく食べてみる。予想以上に美味しい。次々と口に入れる。
「薄味だから、物足りなかったらお醤油をかけてください」
「いや、このままですごく美味しいよ。なんでこんなに美味しいの?」
「ほんとですか。ありがとうございます。でも、なんでって言われても……」
「ありがとうって言うのはぼく方だよ。うん、ほんとに美味しい」
彼女がホッとしながら同じメニューのお弁当に箸をつけ始める。ぼくの方はもう半分以下になってしまっている。
「あ、これじゃやっぱり足りなかったですよね。小さいお弁当箱しかなくって……。足りなかったら購買でパン買ってきましょうか?」
「いいよ、いいよ。それより自分のを食べないと。じゃあ、今日うちにある弁当箱持って行って、それに入れてくれるかな」
「あ、そうさせて下さい」
そしてすぐに食べ終わってしまった。
「お茶、どうぞ」と彼女が紙パックの緑茶を差し出してくれる。
「え、お茶まで買っておいてくれたの? ありがとう。じゃあ、これからは飲み物はぼくが買うよ、ナナカちゃんの分も」
「え、そんな、いいですよ」
「いつもパン買うんだし、二人分の飲み物代出したってまだ余るよ。ほんとはお弁当の材料費だって出さなきゃいけないのに」
「それはダメです。お金なんてもらったら、なんか義務で作ってるみたいでイヤだから。私の楽しみでやることなんですから」
「うん、分かった。その代わり、って言うわけじゃないけど、他のものはなるべくぼくが出すから。まあ、たいていはぼくの趣味で買うんだから当然なんだけどね。とりあえず飲み物代は出すから」
「はい。じゃあ、そうさせてもらいます」
少しずつよく噛んで食べている彼女を見ていると、自分がものすごく粗雑に食べてしまった気がする。これじゃ誰かがガサツだなんてとても言えないなと反省してしまう。彼女には、そういうちょっとした動作にそこはかとない上品さがあるみたいだ。すごく育ちがいいのかも知れない。そんなことを思いながらじっと見ていると「食べるの遅くてごめんなさい」と急ごうとする。
「あ、いいよ、いいよ。丁寧に食べるなって感心して、ぼくも見習わなきゃって思ってたところだから。あ、見られてると食べにくいかな」
「ううん、そんなことないです。ただ、手持ちぶさたにしちゃったかなって……」
「いや。ナナカちゃんを見てるだけで充分楽しいから。食後の目の保養って感じで」
ちょっとからかうとすぐに赤くなって俯いてしまう。軽口はちょっと控えめにしとかないとなと思ったところへ、三人のクラスメートが通りかかる。バスケットボールを抱えて体育館に向かうところらしい。ぼくも時々加わっていた食後の運動タイムだ。
「え、おお? あれ〜北村、女の子と弁当食ってるの? 誰、そのコ、彼女?」
「ああ、そうだよ。あ、ひとりもん達には目の毒だったかな? 気にせずに男同士で汗を流してくるといいよ」
「うわっ、なにそれ。まあ、はかない一時の夢で終わらないように祈ってやるさ」
「俺達には、こいつがあるもんな。へん、羨ましくなんかないぜ。クッソ〜」と叫びながらバスケットボールを抱き締めて体育館へ走って行った。
彼女を振り返ると、箸を止めたまま固まっていた。
「あ、ごめんごめん、びっくりした? うちのクラスの奴らでさ、いつもあんな感じで言い合ってるから、別に悪気があるわけじゃないんだよ」
フーッと息をついて「突然でちょっとびっくりしちゃいました」と肩の力を抜く。
「最初のうちは、誰かに何か言われるかも知れないけど、すぐにみんな気にしなくなると思うからさ、堂々としてればいいよ」
「はい」と気弱そうに頷いて、さっきよりもノロノロと箸を動かし始める。
「あ、そうだ、昨日言うの忘れてたんだけど、これ、ぼくの携帯番号。何かあったらいつでも電話して」とメモを渡す。
パッと顔を輝かせて、箸を置いてそれを受け取る。一度広げて中を確認して、また丁寧に折り畳んで胸ポケットにしまう。
「あ、私の家の電話番号も」と生徒手帳を出そうとする。
「口で言ってくれれば、今登録しちゃうから」と昨日買ったストラップがぶら下がっているスマホを取り出す。
「あ、そうか。え〜と、〇四六六の……」
「あ、ちょっと待って。え〜と、まえだななか……。あれ、そう言えばまだちゃんと名前も知らないままだよ。前田は普通の前に田んぼでいいんだよね、ナナカってどういう字を書くの?」
「漢数字の七に、香るっていう字です」
「七つの香りなんだね。雰囲気があっていい名前だな。音の響きもいいし」
「先輩は、潤うなり、なんですね。ずっと聞きたかったのが、今もらったメモでやっと分かりました」
「なんだ、すぐに聞いてくれればいいのに。って、ぼくも今知ったからおんなじか」
「ですね」と頬に笑窪が戻ってきた。
電話番号を登録したあと「ナナカちゃんは携帯を買う予定ないの?」と尋ねる。
「今のところは……」
「まあ、なければないで、困ることなんてめったにないもんね」
「でも、なんか急に欲しくなりました。そのストラップも付けてみたいし……」
「昨日のバッグに付けたまま?」
「あ、今日、学校のバッグに付けてきましたよ。授業中でもチラチラ見ちゃって。あと、このヘアピンも、しょっちゅう触っちゃう」
「また似合いそうなのがあったら取っておくよ」
「ううん、これでいいです。すごく気に入ってますから」
「そんなこと言うと、また抱き締めたくなっちゃうな」
「も、もう……」と真っ赤になってキョロキョロとあたりを見回す。
気付けば、周りの人たちはそろそろ教室に戻ろうとしていた。
「あれ、早く食べちゃわないと」
今度はほんとに急がなくてはいけなくなって、彼女があわててお茶で流し込んだ時、昼休み終了のチャイムが鳴り始めた。
「じゃ、帰りは図書室で待ってて」
「はい」と頷いてパタパタと廊下を駆けて行く彼女の後ろ姿を眺めてから、階段を三段飛ばしで駆け登った。
学校を終えて、彼女といっしょに家に着いたのは四時前。店に入ると「あ、ジュン君、おかえり」と店のスタッフの池端さんがカウンターの中から声を掛けてくれる。「ただいま」とその前を通って、奥のトイレの脇のスタッフ出入口からバックヤードへ入る。横に細長いバックヤードの左手には貨物用昇降機、外壁には搬入用シャッターと裏の母屋へ出る扉があり、右手には小さなプレハブの事務室がある。薄暗い中のあちこちに、様々な商品が詰め込まれた大小の段ボールが雑然と積み重なっている。彼女が恐る恐るぼくの後ろをついて来る。
蛍光灯が点った事務室の開けっ放しのドアを覗くと、姉貴がパソコンに向かって伝票整理をしていた。「ただいま」と声を掛ける。「ん〜、おかえり〜」と姉貴はパソコン画面を睨んだままおざなりの返事をする。彼女がぼくの後ろで居ずまいを正し、深々とお辞儀をしながら「お、お邪魔します。あの、先日は、どうもありがとうございました」と緊張気味に言う。
「ん?」と姉貴が顔を向けて「ああ、ジュンの彼女ね。えっと、ナナミちゃんだっけ?」
「あ、前田、七香です」
「そっか、ナナカちゃんね。うん、もう覚えた。はい、いらっしゃい。むさくるしいとこだけど、ゆっくりして……」と言いかけて「あれ、こないだの子だよね? ちょっとこっちに来て」と蛍光灯の明りの下に彼女を立たせてジロジロと見る。彼女は叱られたみたいに肩をすくめてしまう。
「あ、ごめん、ごめん。でも、な〜んか前に見た時と感じが違うんだけど、制服だから?」と言いながら、さらに無遠慮に上から下まで眺め回す。
まあ、そう思うのも無理はないか、と思いつつも「何言ってんの? こないだのナナカちゃんだよ」と彼女をかばうように引き離す。
「ん〜、それにしてもねぇ……。そうだ、あとでちょっと店においでよ」
「なんだよ。何か手伝わせるつもり?」
「いや、そうじゃないけど。まあとにかく、あとでゆっくり」
「ん、分かったよ。じゃ、ぼくの部屋に行こうか。この上なんだ」と事務室を離れる。
「ナナカちゃん、なんかヘンなことされそうになったら大声で叫ぶんだよ〜」と背中から声がする。「あ、はい」と彼女が振り返って、また丁寧にお辞儀をする。
事務室の脇の鉄階段を二階に上がる。
そこは店舗と同じ面積の広いフロアで、太いコンクリートの柱が四本立っている。様々な在庫商品が大まかに区分けされてゴチャゴチャと置かれている。まさに倉庫然とした感じ。窓もなく、暗くて空気も淀んでいるので、慣れないとちょっと不気味な空間だ。
「ここが商品ストック倉庫」と壁際のスイッチで一度全部の電灯を点けて見せる。それから手前以外の明りを消し「で、この奥がぼくの部屋になってるんだ」と積み重なった段ボールで仕切った通路を左へ進む。そこに簡易プレハブ作りの小屋のような部屋がある。
カギを開けて中へ入り、まず窓を開けて空気を入れ替える。かなりクルマや電車の騒音が入ってくるけど、しばらくはしょうがない。
靴を履いたまま入り口に突っ立っている彼女に「あ、入って、入って。ドアは開けたままでもいいよ」と呼び入れる。
「カバンはそのへんに置いて、そこのソファーにでも座って」
広さはだいたい十畳か十二畳くらいの、ほぼ正方形。外側はプレハブ壁だけど、断熱防音材を挟んで、部屋の内壁は落ち着いた木張りになっている。
入り口の向かいにはドラムセットが場所を取っている。その横にはギター、ベース、アンプ類。部屋の真ん中に二重サッシの窓があり、その下にはソファー、その向かいには厚い板を渡した幅三メートルくらいの作業台兼勉強机。その上には、雑誌やノートや細ごました小物が散乱していた。いちばん端にはテレビが乗っている。壁には作業台と同じ幅の棚が作り付けてあり、そこにも本だのCDだのミニカーだのフィギュアだの何かの箱だの部品だのが脈絡なく突っ込まれている。ソファーと作業台の間の床には、小さなガラステーブルがあり、その上にも開いたままのノートパソコンや雑誌やペン立てやマグカップなどがごちゃっと置かれている。この前買ったティーンズ向けファッション誌も開いたまま置いてある。テーブルの向こうには、大きな革張りのリクライニングチェア。ぼくの普段の定位置だ。今はその背もたれに脱ぎ捨てたパジャマが掛かっている。ソファーの横には小さな冷蔵庫があり、その上に電気ポットとコーヒーセット。その向こうには、ちょっと洒落た背の高いフロアーライト。そして一番奥の壁際にはパイプベッド。ベッドの足側に洋服ダンスや四段積みのプラスチックの衣裳ケースや服を吊るしたハンガーラックが置かれている。いちおうベッドはカーテンで仕切られているのだけど、めったに閉じられることはない。
まあ、ひとことで言えば混沌。友達に言わせると、ただ雑多なだけ。自分ではわりとまとまってると思うんだが。
作業台の下にカバンを放り入れ、リクライニングチェアからパジャマを取って丸めて布団の中に突っ込み、何カ月ぶりに仕切りカーテンを閉じる。
彼女はソファーに行儀良く座って、部屋の中を見回している。
リクライニングチェアーに腰掛けて「まあ、楽にしてよ。いちおう昨日掃除機とモップをかけたから床はきれいだと思うんだけど、他はもう手がつけようがないっていうか、まあ、いつものまま」と、言い分けがましく言う。
「すご〜い。面白い部屋ですね。なんか、おもちゃ箱みたい」
ほんとにいつも彼女は嬉しい言い方をしてくれる。
「なに飲む? って言っても何もないな」
チェアーをくるっと回転させ冷蔵庫を開けてみると、水のペットボトルしか入っていなかった。あとは牛乳パックと食べかけの板チョコくらい。
「じゃあ、母屋に行って何か探してこようか」
「はい」
また二人で下へ降りると、ちょうど事務室から姉貴が出て来た。
「あれ、もう来たの?」
「いや、ちょっと母屋に行って飲み物もらってこようと思って」
「じゃあ、ちょうどいい。いっしょに行くわ」
裏口から外へ出て、駐車場の外れの小道を下ると、すぐに母屋に着く。こじんまりとした普通の民家だ。中学までは、ぼくもここの二階にいたのだけど、姉貴がトオルさんと結婚して二階に住むことになり、ぼくが追い出された。二階のリフォームといっしょに、倉庫の一画にだいたいぼくの望み通りの部屋を作ってもらった。ぼくにとっては願ったり敵ったりだった。
彼女にそんな説明をしながら、姉貴のあとに続いて、誰もいない家に入る。キッチンを物色してカルピスウォーターとクッキーの缶をゲットする。
「あ、そうだ。お弁当箱はありますか?」と彼女が言うので、食器棚の下を開けて探していると、姉貴が「冷蔵庫の隣の棚にない?」と教えてくれる。
「お弁当作ってもらうの? いいね〜、青春してるね〜」と姉貴が冷やかす。
それから「じゃあ、ちょっと上に行こう」と姉貴が言うので、玄関脇の階段から二階へ上がる。最近はぼくもめったに入らない二階は、リフォームして洒落たマンションみたいな感じになっている。まだ姉貴だけなのに、すっかり生活感が溢れていた。
奥の寝室に行き、ドレッサーの前に彼女を立たせる。
「う〜ん、ダサいな〜。こういっちゃ悪いけど、今どきの女子高生にしてはちょっとダサ過ぎだよ、ナナカちゃん」と姉貴が歯に衣を着せずに言う。まあ、それはいつもの通りなんだけど、彼女はまた体をすくめて怯えてしまう。
「この制服、買ったまんまでしょ。それに、少し大きくない?」
「はい」と彼女が泣きそうな声で言う。
「スカートももうちょっと短くしてさ、ブレザーもウエスト絞った方がいいな。ねえ、ジュンの高校って服装厳しいの?」
「いや、けっこう緩いよ。この標準服以外に、みんなまちまちな格好してるし」
「たとえば?」
「カーディガンやベスト着たり、スカートもチェックやグレーの子もいるな」
「要するに、派手じゃなければいいって感じ?」
「そうだな」
「分かった。じゃあ、あんたはちょっと向こうで待ってなさい」と寝室を追い出された。
しばらくしてから「ジュン、来てみな」と姉貴が呼ぶ。
彼女は、また変身していた。と言っても、紺のボックススカートが紺のプリーツスカートになり、紺のブレザーがグレーのニットベストになっただけだが。きちんと上まで留めていたブラウスのボタンもひとつ外して、緑のリボンタイも緩めてる。それだけでイメージがぜんぜん変わっていた。よく見るとこの前のように眉や目元もすっきりしていた。
「ほら、こんなに可愛くなったでしょ」と姉貴が自慢する。彼女も、照れながらも嬉しそうに微笑んでいる。
「私の制服、よく取っておいたものだわ。まだスカートがちょっと長めだけど、今度直してあげるね。ベストもちょっと大きめだけど、それはそれで可愛いから。ま、ちょっと樟脳くさいのは我慢してね」
「いいえ、そんな……」
「これなら学校でも大丈夫でしょ。ナナカちゃんにあげるから、このまま着て帰りなさい。こっちのブレザーとスカートは、あとで直してもらうから置いてきなさいね」
「え、そんな……」
「前の方がいい?」
「いいえ、そんなことないですけど……」
「まあ、くれるっていうんだから、ありがたく貰っておけば?」
「そうそう。私もこんな妹欲しかったし、またいろいろ教えてあげるから。私をお姉さんだと思ってさ」
「はい。ありがとうございます。ほんとに嬉しいです」
「あと、髪形もどうにかしないと。とりあえず真ん中分けはやめて」とブラシで分け目を変え、ヘアピンを少し上の位置に留める。額が出るほどに、顔が明るく見える。
「すっかり姉貴のおもちゃにされてるな〜」
「いいじゃん。どんどん可愛くなるんだから、あんたも嬉しいでしょ」
「そんなの、もう知ってるって」
「あらあら、そうですか。しっかし、いじりがいのある子だわ」と腕組みをして彼女を見ていた。
ぼくの部屋に戻ってテーブルの上を片付ける。彼女がそれを手伝いながら「このへん見てもいいですか」と作業台の上を興味津々で覗き込んでいる。その後ろ姿に心臓がバクンと鳴る。見慣れた自分の部屋に彼女がいる。それだけで股間のあたりがモヤモヤとしてくる。さっきよりグンと可愛くなった上、制服より少し短いプリーツスカートを履いた黒ストッキングの美脚が目の前にあるのだから、むしゃぶりつきたくのるのは無理もないだろう。そちらを見ないようにして、何度も深呼吸をする。他のことを考えてなんとか邪心を振り払う。
それから彼女はソファーとガラステーブルの間の床に座り、コップに注いだカルピスウォーターに口を付ける。横座りした黒いストッキングの足がプリーツスカートから伸びている。そのつま先にまたドキドキする。
「このスカート、嬉しい」とヒダを揃えながら彼女が言う。
「あ、ストッキングもこの前先輩に買ってもらったのなんですよ。スベスベしてすごく履き心地がいいんです」と脛のあたりを撫でる。
じっと見つめるぼくに「ちょっと触ってみます?」と屈託なく言う。
「え、いいの?」
「なんか、そんな顔してたから……。このあたりなら平気ですよ」とクスクス笑う。
その真っすぐな脛にそっと触ってみる。彼女がピクンとして、くすぐったそうに頬を赤くする。
ストッキングの感触は思った以上にさらりとして滑らかで、内側の肌の弾力がほんのりとした温かさといっしょに伝わってくる。
「んふっ……。自分で触るのとはぜんぜん違って、すごくくすぐったいですね」
「あ、イヤだった?」
「ううん、そんなことはないです」
「ストッキングのつま先って、ちょっと色が濃くなってるでしょ。補強のためなんだろうけど、それがなんだか秘密めいた感じがして、ちょっとエロチックな感じがしちゃうんだよね」
そう言うと、彼女はつま先をクッと丸めて手で覆い隠す。
「私も、なんだか恥ずかしいです……。普段は見えてないところだからかな」
「それなら、今度スリッパ用意しておこうか」
「先輩は、その方がいいですか?」
「そりゃ、見えてた方が嬉しいけどね」
「じゃ、いいです。好きなように見てもらって……。それに、私もなんか、視線が嬉しいっていうか、ちょっとゾクゾクするっていうか……。なんかヘンですよね、私……」
「ナナカちゃん」
「はい」とこっちを見た彼女に素早くキスをする。
驚いて、あわてて俯き、モジモジしている。でも、少しも嫌そうではなかった。
「ごめんね、いきなり」
彼女が首を振って、髪の毛がふわっと揺れる。
「でも、こんなことしたら、もう来てくれなくなるかな」
「……そんなこと、ないです」
少し間を置いてからそっと言う。
「……昨日のキス、私、初めてで、もう一生忘れられません……」
また抱き締めたくなってしまうのを、なんとか押し留める。
「ナナカちゃん」
「はい」
彼女の「はい」を聞きたくて意味もなく名前を呼んでしまう。そのあとで話す言葉を考えることもある。
「ここは、もう自分の部屋だと思っていいからさ。なんでも自由に見たり、使ったりしてよ。そうだ、ナナカちゃんの場所は、どこがいい?」
そう言うと、彼女は部屋を見渡して「ここがいいです」と言う。
「ソファーより床に座った方が落ち着く?」
「はい」
「じゃあクッションを用意しておくね、ナナカちゃん専用に」
輝くような笑顔でコクンと頷く。
コップを手に、さっきよりもちょっとくつろいだ様子で、また部屋のあちこちを眺めている。
「先輩、音楽やってるんですか?」とドラムセットの方を見て言う。
「去年、友達とバンドをやってたんだけどね。なんかうまくいかなくなっちゃって、もう解散したんだ。だけど、その友達は時々ここにも遊びに来たりしてるよ」
「へ〜。先輩は、何の楽器だったんですか?」
「ぼくはドラムス。中学の時から始めて、それを知った友達が、高校に入ったらバンドやろうぜって言ってて、そいつはベースだったんだけど、他にギターのやつを二人入れて去年バンドを組んだんだ。だけど、みんなやりたい音楽がバラバラで、しかもあんまり上手くなくって、結局まともに演奏できるのなんて二曲くらいしかなかったな」
「ボーカルは?」
「ボーカルのヤツがいなかったのも、つまんなかった原因のひとつかな。誰も歌いたがんないから、しょうがなくぼくが歌ったりしてたけど。そのくせみんな批評だけは厳しいんだよね」
「……何か弾いてもらってもいいですか?」
「うん。どの楽器がいい?」
「ドラム、聞いてみたいな。お部屋にこんなものがあるとは思わなかったから、いきなりびっくりしちゃいました。でも、大きな音出るんでしょ、大丈夫なんですか?」
「うん、締め切ればほとんど音は漏れないから。そのために防音設備付けてもらったんだ。
まあ、四六時中、店や倉庫の換気の室外機が唸ってるし、電車の音がうるさいっていうのもあるけどね」と、二重になったガラス窓を閉めて、入り口のドアも閉じる。代わりにエアコンを入れて、ドラムの前に座る。
「でもドラムだけ聞いてもあんまり面白くないよ」
「ううん、聞いてみたい」
「じゃ、音が大きいから、ぼくが座ってた椅子の方に腰掛けて」
靴下を脱いでフットペダルを踏み込み、二、三度軽くバスドラ鳴らす。スティックを握り、スネアの張りを確かめる。ハイハットの開き具合を調節する。それからチンチンチンとシンバルでリズムを取って、シンプルな16ビートを刻み始める。だんだんとアクセントを強調ながらオカズを増やしてく。知らず知らず体を弾ませ、スティックをしならせる。
シンバルの高音が鳴るたび、フロアタムの低音を響かせるたび、音圧で部屋の空気が揺れる。彼女は向かい風に立ち向かうみたいに、必死で椅子を掴んでこちらを凝視していた。
バスドラとスネアとフロアタムを同時に四回叩き、最後にシンパルをジャンとミュートさせる。とたんに額にブワッと汗が噴き出した。
エアコンの下に行ってタオルで汗を拭う。彼女が立ち上がって拍手をしてくれている。彼女が何かするたびに抱き締めたくなって困る。
「すごい、すごい! すごいです、先輩」とやっと拍手をやんで彼女が言う。
「またバンドとかやらないんですか?」
「う〜ん、どうだろ。じゃあ、ふたりでやろうか」
「え、私、何にもできませんよ?」
「歌でもいいし、なにか楽器弾きたいなら教えてあげるよ」
「ほんとですか! やってみたいけど私なんかじゃ……、あっ」と口ごもる。
「やるとしたら、何をやりたい?」
「……ギターとか?」
「よし、決まり。ナナカちゃんはギター&ボーカルね」
「え〜っ、ほんとに? でも二人だけじゃダメですよね」
「そんなことないよ。ツーピースのバンドなんていっぱいあるじゃない。B'zとか、ドリカムとか、チャットモンキーも今は二人だし、ポルグラもそうだな。洋物だとホワイト・ストライプスなんかもすごくカッコいいし、昔で言えばチェリッシュとかグレープとかふきのとうとかフォーク系はいっぱいるな。それに多重録音だってできるしさ。あ、ぼくが作ったの、ちょっと聞いてみる?」
「えっ、先輩が作ったの?」
「うん。まあちゃんと完成したのはこれ一曲しかないんだけどね」と言いながら、パソコンにDTMソフトを立ち上げてヘッドフォンを彼女に渡す。
「じゃ、行くよ」
彼女は、真剣な表情で一点を見つめながら聞いていた。
「すごい。なんかプロみたい。この曲も先輩が?」
「まあ、いちおう」
「すご〜い! 歌ってるのも先輩ですよね。やっぱりすごくいい声です」
「まあ、あれこれ加工してるからね。そうだ、サビのところのコーラス、ナナカちゃんに入れてもらうと、もっと雰囲気出るかも」
「え〜、これでもう完璧じゃないですか」
「まあ、試しにさ、今度やってみない?」
「……はい。なんか楽しそう」
「ナナカちゃんは、どんな音楽が好きなの?」
「私、そういうのって何にも知らなくって。ほんと、昔ピアノ教室とか学校で習った歌くらいしか……」
「え、ピアノ習ってたの?」
「小学生の低学年の時ほんのちょっとだけで、何も弾けないです」
「でも、基本的な楽譜の見方とか、音の構成なんかは分かってるんじゃない? そっか〜、素養があって真っ白なんて、かなりすごいことだよ。なんかワクワクしてきたな」
「はい、私も。先輩といっしょにやれるんなら、何でもワクワクしちゃいます」
「じゃあCD貸してあげるから、聞いてみてどういうのが好きか教えて。あ、それよりもぼくのスマホを貸してあげるよ。いろんな曲入れてあるからさ」
「え、電話なくって困りませんか?」
「ぜんぜん。それに、ほとんどいつもいっしょにいるしさ」
「はい、それなら……。あ、今の曲も入ってます?」
「それは入れてないな。じゃ、今入れておこうか」
「はい、お願いします」
スマホをパソコンにつないで、データを変換して転送する。
それからスマホの使い方を彼女に教える。
「こうやって、このアイコンを指で押して、ここから好きなのを選んで、こうやって指を滑らせて次の画面に行って……」
最初は恐る恐る触っていたけど、すぐにコツを覚えたようだ。ついでに電話のかけ方や写真の撮り方も教えてしまう。
彼女がぼくに顔を寄せ、手を伸ばして撮影してみる。
「こうすると今撮った写真が見られるよ。スライドさせて行くと前に撮った写真ね」と昨日芝生の中で撮った彼女の姿を表示させる。
「あっ、私こんなことしてたんですか? 恥ずかしい……」
「すごく可愛いじゃない。服も似合ってるし、足もきれいだし」
「……ほんとに、私じゃないみたい」
「ぼくは、これがナナカちゃんの本当の姿だと思うけどな。これからもっともっと素敵な女の子になってくよ、絶対」
「そうなら嬉しいけど……。先輩に喜んでもらえるように頑張りますから」
「頑張らなくていいよ、そのままで。自然なままのナナカちゃんでいいと思うよ」
「ほんとに、ほんとに、ありがとうございます」とまた目を潤ませてる。
「キス、したい」
コクンと小さく頷く。
あごを少し持ち上げて、目を閉じた彼女にそっとくちづけをする。
五秒、そして十秒。
唇を離して「ナナカちゃん」と呼ぶ。彼女が小さく「はい」と答える。
「好きだよ」
「……はい。私も……」
「名前で呼んでみて」
「……じゅん、や、さ、ん」
熱に浮かされたみたいに、たどたどしくそうつぶやく。
その肩をそっと包むように抱き寄せる。彼女は気を失うみたいにぼくの肩に顔を埋めた。スマホのイヤフォンから、シャカシャカと何かの曲が鳴っていた。
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