第3話

 次の休みには、さっそくデートをした。

 付き合い始めてもどう振る舞っていいのか分からなくて、まだギクシャクしていた。だからお互いのことを何でも知りたかった。もっといろんなことを話したかった。なにより、ずっといっしょにいたかった。

 待ち合わせの駅に着くと、すでに彼女は改札口の隅の壁際に立っていて、ぼくの姿を見つけるとなぜか泣きそうな顔で下を向いた。

 膝上十センチくらいのデニムのスカートにえんじ色のタイツ、足元は黒いバスケットシューズ、上は紺のTシャツにデニムのジャケットを羽織り、肩から小さなショルダーバッグを提げ、髪は耳の下あたりで左右に結んでいる。今時どんな田舎のコでもしないような、ファッションという言葉とは縁遠いスタイル。かえって感動さえ覚えてしまうほどだ。

「おはよう」

「お、おはようございます」と深くお辞儀をする。

 その姿を眺めるぼくに

「やっぱりヘンですよね。おしゃれな服とか持ってなくって……。ごめんなさい」とますます体を縮める。

「よし、予定変更。今日はナナカちゃんを変身させてみていいかな。ぼくもそんなにファッションセンスがあるわけじゃないけどね」

「?」キョトンとしている。

「変わりたいって言ってたでしょ? まあ、まかせてよ」と彼女の手を引いて今来たホームへ向かう。

 五つ目の駅で電車を降りて、駅前の道を西に五分ほど歩くと「リサイクルショップ・キタムラ」の大きな看板を掲げた倉庫のような店に着いた。

「ここがぼくのうちなんだ」

「え!」と目を丸くして「電車から見たことあります」と言う。

「さ、入って。たいていのものは置いてるよ。服とか靴もあるし。リサイクル物だけどわりと良い物もあるし、なにより安いのが取り柄だから」

 土曜日は昼ごろから駐車場が満杯になるほどお客さんが来るけれど、午前中はまだそれほど込み合っていない。広い店内には、電化製品、ゲーム、フィギュア、本、スポーツ用品、楽器、奥の壁沿いには家具もある。そしてハンガーラックが何列も並んだ洋服コーナーへと向かう。

「ナナカちゃんは、どういう服が好き?」

「え、特にこれってないですけど……。いつもなんか暗い色の地味なのばかり買っちゃってて……」

「そうか〜。それってすごくもったいないな。いろんな服着せてみたいけど、まあ今日はわりと無難なのにしてみようか。これなんかどう?」

 前ボタンの両脇に可愛らしいフリルが付いた白いシャツ。

「あと、これとか、これとか」

 薄い紺と濃い紺のボーダー柄のふんわりとしたカットソー。タータンチェックのざっくりしたネルシャツ。フロントジッパーの淡いオレンジ色のパーカー。明るいグレーのプリーツスカート。裾が刺繍で縁取られたデニムのフレアスカート。三段フリルのベージュのキュロットスカート。とにかく目に付いたものを次々に腕に抱える。パンツルックだけは断固却下だ。

「とりあえず、これ着てみようよ」と試着室に向かう。とまどいながらも中に入った彼女に「着たら教えて」と声を掛けて、また他の服を物色しに戻る。

「あれ、ジュン。あんた出かけたんじゃなかったの?」と通路からでかい声がする。

 五つ上の姉貴、燿子。短大を卒業したあと、うちの店を手伝っている。いちおう販売チーフだ。段ボール箱を持ってカツカツとこちらに歩いてくる。

「なに女物の服なんか見てんのよ、このスケベ」

 まったく高飛車でやかましくて色気のカケラもない、こんな姉貴のどこにトオルさんが惚れたんだかさっぱり分からない。

「いや、ちょっと」と試着室の方に目をやると、ちょうど彼女が顔を出したところだった。

「あの子の服を選んでて」と試着室へ歩くぼくの後を姉貴がついてくる。

「なに、なに。彼女なの? ね、彼女? あんた、いつの間に彼女なんか作っちゃってんのよ〜」と興味津々の声を出す。

「ナナカちゃん、これうちの姉貴」

「えっ!」と驚いて試着室を飛び出し、靴もはかないままであわててお辞儀をする。

「は、はじめまして。わ、わたし、前田と、前田七香といいます。あの、ええと……」

「ぼくの彼女」

「へ〜。ふ〜ん。あ、私は北村燿子で、潤也の姉です。よろしくね。へ〜」と姉貴が彼女を舐め回すように見る。

 最初に選んだ白いシャツブラウスにグレーのプリーツスカートを着ている。さっきまでとは大違いで、すごく清楚な感じ。とてもよく似合っている気がする。でも彼女はいきなり現れた怖そうな姉貴の前で、いたたまれなく俯いたまま。

「ナナカちゃん、顔上げて背筋伸ばしてまっすぐ立ってみて」

 姉貴の言葉に、叱りつけられたみたいに「は、はいっ」と気をつけの姿勢になる。

「あ、そんな固まらなくっていいからさ。もっと力を抜いて。で、あんたがこの服を選んだわけね」

「うん、どうかな」

「わりといいんじゃない? そうか〜、ジュンはこういうタイプが好みだったんだ。へ〜、見かけによらずけっこういいセンスしてるじゃないの、あんた」

 彼女のことを言ってるのか服のことを言ってるのか、どちらにしても姉貴に褒められるなんてのは珍しいことだ。ここは素直に喜んでおこう。

「ちょっとそのタイツと髪形がイマイチかな。ちょっと待てって。あ、その間に他の服も試してれば」と勝手なことを言い放ってカウンターの方へ行ってしまった。

「ごめんね、あんな姉貴で。びっくりしたよね。あんまり気にしないで」

 フーッと息を吐きながら、首を振って少し笑う。

「でも、その服すごく合ってるよ。ほら」と、試着室の扉の鏡に向かわせる。

「ヘンじゃないですか? こんなお嬢様っぽいの着たことないから、なんか私じゃないみたいで……」

「ちょっと髪ほどいていいかな、あとメガネも外してみて」

 鏡の中には、見違えるようなしとやかな少女が映っていた。

「うん、すごく可愛い。じゃ、他のも着てみようよ」

「はい」と今度は少しウキウキしながら試着室に入って行った。

 でも、これほど雰囲気が変わるとは思っていなかった。

 彼女の足がきれいなのだけはよく分かっていたけど、スタイルもいいみたいだ。スタイルというよりも、手足の長さというか、体全体のバランスというか。それに、なんだか顔付きまで違って見えた。可もなく不可もなく、ちょと印象の薄いぼんやりした顔だなと思っていたけれど、今見た顔はとても可愛いかった。まるでこの服のためのモデルみたいに清楚で上品な感じがした。なんだか手品をみせられているみたいだ。

「着ました」と声がして試着室のドアが開く。

 現れたのは溌剌としたガーリーな女の子だった。思わず「えっ!」と息を飲んで見つめてしまう。

 紺のボーダーのカットソーの上に淡いオレンジ色のパーカーを重ねて、下は三段フリルの短めのキュロットスカートからタイツを脱いだ素足がスラリと伸びている。さっきとはまた打って変わって、活き活きとしたキュートな感じ。

「あの、先輩、どうですか?」

「う、うん。いいよ、すごく」

 ちょっとしどろもどろになっていることろに姉貴が戻ってきた。後ろにトオルさんを従えている。

「あれ、あれ? さっきの、えっと、ナナカちゃんだよね?」

 姉貴が目を丸くして言う。

「なんかガラッと雰囲気変わっちゃったね。あんた、なんか魔法でもかけた?」

 また訳の分からないことを言いながら、彼女を上から下から、前から横からジロジロと眺めている。

「ちょっといじらせてね」と彼女の髪を束ねてポニーテールにする。

 すると、額や耳やうなじ、そして輪郭まであらわになって、顔が別人のようにくっきりとした。どこか翳りがあるような彼女の表情が、一気に明るく輝き出したみたいだった。

 一瞬あっけにとられたようにみんなポカンとしていた。

 姉貴が「じゃさ、今度はこれ着てみて」とトオルさんが抱えていた服を奪って彼女に押し付け、試着室に入れる。

「ねえ、ねえ、あの子いったいなんなの? どこであんな子見つけたのよ。いや〜、しかし面白いな。すっごくいじりがいがあるわ。気に入っちゃった。これからはしょちゅう連れてきなさい」

 なんだか姉貴のおもちゃにされそうで、あんまり嬉しくない。

「ジュン、いい子見つけたな。ひとつ下? ってことは高一か。あの子、たぶんこれからどんどんいい女になってくぞ。絶対手放しちゃダメだからな。ん〜、うらやましい。俺がもうちょっと若かったら……」

 そこで姉貴の肘鉄を喰らってトオルさんがゲフッと呻く。

 元ヤンのトオルさんは二十七歳で、うちの店がまだ今の半分の大きさもなかった頃から働いている。今では店長代理兼買取り主任だ。ぼくがまだ小学生の頃から何かと可愛がってくれて、すっかり兄弟みたいな間柄になっている。もうじき姉貴と結婚して本当の兄になる予定。姉貴が高校生の頃から、大きくなったら結婚しようといい続けていたのだけど、ずっと相手にされていなかった。でも姉貴が根負けしたのか、トオルさんの粘り勝ちなのか、いつからか付き合いだして、ついに婿養子になることに決まった。頑固に反対していたおやじも姉貴の鶴の一声でグウの音も出なくなってしまった。三年前に母さんが死んでから少し気弱になったおやじは、母親の血を引いてさらに濃度を倍にしたくらい気が強い姉貴にはもはや歯が立たないようだ。ぼくにしてみれば、トオルさんと姉貴が店を継いでくれるので、何の足枷もなく自由に生きれるから万万歳といったところ。

 そんなわりと恵まれた環境にありながら、今まであまり熱中できることがなかった。なんとなく過ぎて行く毎日にただモヤモヤとしながら、漠然と何かを求めていた。そんな時、彼女と出会った。知れば知るほど好きになっていくのが自分でも分かった。磨けば磨くほど輝きが増していく原石のような、そんな予感が今目の前でまさに現実になっていた。

 その彼女が試着室から出てきた。

 小さな花模様がプリントされたふんわりしたワンピース。今度はぐっとエレガントな雰囲気に変わった。半袖とミニ丈から出た手足の伸びやかさが際立って見える。よく見ると、ごく薄い透明なストッキングを履いていた。今まででいちばん足がきれいに見える。ついため息が漏れてしまう。

「なに着てもよく似合うわね〜。だけど、これはちょっと大人っぽかったかな?」と姉貴が言いながら、さっき束ねたままにしている髪をほどいて指で梳いてフワッと広げる。

「はい、これを履いて、ベルトも着けてみて」

 白いストラップサンダル、腰には細いチェーンベルト。そしてオフホワイトの薄いカーディガンを羽織らせる。

「どう? これでちょっとメイクすれば完璧じゃない?」

 子供っぽい面影が消えて、女子大生と言っても通用するくらいだ。でも、どこか初々しさは残っていて、それがかえってドキドキさせる魅力になっている。

「ほ〜、これが噂に行くフェミニンってやつか。ヨーコもこんな……」

 トオルさんが全部言わないうちに、また姉貴の肘を食らい、サーフィン焼けした浅黒い顔を大げさに歪める。

 その時スタッフが「あ、いた、いた。主任、お願いしま〜す」と声を掛けに来た。「それじゃ、また」とトオルさんが急いでカウンターに戻る。姉貴も「じゃあ、またあとでね。好きなのジュンにどんどん買わせちゃっていいからね」と言い残してトオルさんの後を追った。

「あ、さっきの男の人がトオルさんって言って姉貴の婚約者。こんどまたゆっくり紹介するね。で、ナナカちゃんは、どれがよかった?」

「ん〜」と少し考えてから「先輩はどれがいいですか?」と逆に尋ねる。

「そうだな。どれも似合ってたけど、最初に来た服がいいかな」

「じゃ、それにします」

「サイズは大丈夫だった?」

「スカートが少し大きかったかも」

「じゃ他のスカート探してみようか」

 さっきのより少し明るいグレーのプリーツスカートが見つかった。履いてみると丈も少し短くて可愛い感じがする。透明なストッキングがきれいな足をいっそう上品に見せている。それにさっきの白いストラップサンダルと白のカーディガンを合わせると、もうどこから見てもしとやかなお嬢様だ。メタルフレームのメガネさえ、理知的な彩りを添えている。

「古着だけど、イヤじゃない?」

「ううん、ぜんぜん。とっても気に入りました」

「じゃレジに行こうか」と、他の服をカゴに入れる。

「え、他のも全部買っちゃうんですか? 私、あんまりお金持ってないですよ」

「いいって、いいって。ぼくにプレゼントさせてよ。ほら、このスカートなんか500円だし。だからって訳じゃないけど、これからもぼくの好みの服を着てくれると嬉しいな」

「それで先輩に喜んでもらえるなら、私も、嬉しい……」

 次第に恥ずかしそうに声をひそめて言う彼女の、ほんのり染まった頬に触れたくなってしまう。

 レジで姉貴が彼女の着ている服の値札を取る。カゴの中に入れた他の服もレジを通す。

「あ、これだけちょっと高いね」

 どれもほとんど千円以下だったけど、花模様のミニワンピースだけは六千円の値札が付いていた。

「じゃ、これは私が買ってあげる。私が選んだものだしね」

「えっ、そんな……」とあわてる彼女を気にも止めず「それよりさ、ちょっとこっちに来てみて」と姉貴がカウンターの端の方へ彼女を呼ぶ。椅子に座らせ、自分の化粧ポーチを出して彼女の顔をいじり始めた。

「あ、あんたはちょっと雑貨コーナーからヘアピンを選んできてよ」とぼくに言う。

 プラスチックの白い花の真ん中にラインストーンがひとつ付いているシンプルなヘアピンを見つけて戻ってみると、彼女の顔が変わっていた。聞いてみると、瞼にアイラインを入れ、睫毛をビューラーで持ち上げて、眉をペンシルで整えただけと言う。それだけで目元だけじゃなく顔全体がくっきりして見えた。地味だと思っていた顔立ちが、燦然と輝いているみたいだ。

「ナナカちゃんの肌すごくきれいで、もう、うらやましいったらないわね」

 姉貴もサーフィン焼けで、肌も髪も決してきれいとは言えない。鼻の回りなんかシミとソバカスだらけだけど、それが逆に細面のきつい顔立ちに愛嬌を生んでるくらいだ。

「ヘアピン、いいのあった?」

「これでいいかな」

「お、さすが彼女のこと分かってるわね」と言いながら、前髪を止める。

 ワンレングスというよりもただ伸ばしっぱなしの前髪が、いつも俯きがちの顔にかかって半分くらい隠している。それが余計に印象を暗くしていた。ヘアピンで前髪を止めただけで、つやつやした額が出て、顔の輪郭もはっきりする。暗さがすっかり払拭されている。そして、ほんのちょっと化粧を施してぱっちりとした目元は、意志的にさえ見える。これが目力というものだろうか。

 なにか手を加えるたびに、どんどん変わって行く彼女に、ただあっけにとられて見惚れるばかりだった。

「どうよ」とまるで自分のものを自慢するみたいに言いながら、姉貴が彼女を大きな鏡の前に連れて行く。彼女が近寄って顔を見たり、少し離れて全身を見たり、くるっと回ったりする姿を姉貴と見ていると、彼女がこちらを見て「どうもありがとうございます」とにっこりと笑う。今まで見た中でいちばん明るくて、いちばん可愛い笑顔だった。

「真っ白いキャンバスみたいな子だね」と姉貴が微笑みながらつぶやいた。いつもなら「あんたにはもったいない」と続けそうなところだけど「大事にしてやりなさいよ」と妙に大人びた声で言った。

「じゃ、またいつでもいらっしゃいね。今度はきっちりメイクしてあげるからね」という姉貴に、彼女は丁寧にお辞儀をして店を出た。脇の駐車場は、もうほとんど埋まっていた。

「じゃあ、どこかにお昼食べに行こうか。何が食べたい?」

「え〜と、なんでも。先輩にお任せします」

「そう言われても、あんまり知らないからな〜。ファミレスみたいなところでもいい?」

「はい」

 そう言いながら、彼女は服が気になるらしく、通りすがりのガラスに映る姿をチラチラ見ている。外で見ると、改めて彼女の変わりように驚いてしまう。

 ある店の大きなガラス窓の前で立ち止まって、そこに彼女の姿を映してみる。横に立って、ぼくが腰に手を当ててポーズを作って見せると、彼女も真似をしてポーズする。足を交差させたり、少し開いたり、手を挙げたり、前かがみになったり。二人でクスクス笑いながらそんな遊びをする。彼女がポーズを変えるたび、スカートが揺れるたび、足が動くたび、彼女を好きになる気がした。もう片時も彼女から目が離せなかった。

「ね、また前みたいに、少し前を歩いてくれない?」

「いいですよ」とスキップするように先に進む。それから、手を後ろに組んで、ゆっくりと歩き出す。

 少しヒールのあるストラップサンダルと、初夏の陽光を受けてキラキラと輝くストッキングが、すんなりと伸びた足をいっそうきれいに清楚に見せている。制服よりかなり短めのプリーツスカートの裾が歩くたびに弾んで、ももの裏側をチラリチラリと見せている。

 歩き方まで違って見える。俯きがちになんとなくトボトボとした感じだったのが、今はゆったりとした大きなストライドで悠々と楽しげだ。

 クルッと振り向いて「また、足見てました?」といたずらっぽく言う。

「うん」

「このストッキングも素敵」

「うん、すごくきれいだよ」

 そう言うといつもすぐ恥ずかしそうにするのが、今日は屈託なく嬉しそうに微笑んでいる。追いついて手を差し出すと、躊躇なくぼくの手を握ってくれる。彼女の一挙手一投足ごとに愛しくなるのを、もう止められなかった。


 朝に待ち合わせをしたターミナル駅に戻り、駅前近くのハンバーグレストランに入った。昼を少し回った時刻で、店は満員だった。しばらく待合いベンチで待ちながら、姉貴とトオルさんのいろんなエピソードや、うちの店のこと、家族のことなどを話した。彼女はどんなことも興味深げに聞いてくれる。

 三十分ほどすると名前を呼ばれて席に着く。ぼくは照焼きハンバーグランチ、彼女はパスタとハンバーグのセットを注文する。

 食べながら「今度、お弁当を作ってきていいですか? 先輩はどんなものが好きでどんな物が嫌いですか?」と聞く。それに答えながら「じゃ、これからは中庭のベンチでいっしょにお弁当食べようか」と言うと

「え、いいんですか? 他の人に噂されたりして迷惑にならないですか?」

「ぼくはぜんぜん平気だよ。ナナカちゃんは、ぼくと付き合ってること、あんまり知られたくない?」

「ううん、そんなことないです。ちょっと恥ずかしいけど、コソコソするよりもずっといいと思います」

「うちの学校ってけっこうカップル多いからさ、特別目立つわけでもないと思うよ」

「へ〜、そうなんだ。じゃあ、天気のいい日は中庭で待ってますね。あ、雨の日とかはどうしましょうか」

「う〜ん、そうだな。みんなどうしてるんだろ。今度友達に聞いてみるよ」

「はい」

「それで、今日は植物園に行けなかったけど、明日は行ける?」

「はい。あ、じゃあ明日もお弁当作ってきますね」

「え、大変じゃない?」

「サンドイッチくらいなら簡単にできますから、それでもいいですか?」

「うん、じゃ楽しみにしてる」

 ふと、彼女との会話がすごくスムーズなことに気付いた。

 学校では、いつも俯きがちにポツリポツリと言葉を途切らせながらしゃべっている。それが余計にちょっと暗く自信のなさそうな感じに見せていた。せっかちな人間なら、その間延びしたしゃべりかたにイライラしてしまうだろう。

 だけど今はまっすぐにぼくを見て、言葉を途切らせることもなく、滑舌良くはっきりとしゃべっている。決して口数が多いわけではないけど、ぼくの話にタイミングよく相づちを打ったり返事を返してくれる。言葉使いはいつも丁寧だけれど、それが今は服装に合わせたかのようなしとやかな口調に聞こえる。いつもより滑らかにしゃべる声も、柔らかくて涼やかな透明感があり、耳にとても心地いい。

 そう思いながら彼女の口元を見ると、唇から覗く歯もとてもきれいなのに気付く。上唇と下唇どちらも薄すぎず厚すぎずバランスがいい。閉じた唇はお行儀良く正座しているような感じで、少し唇の端を上げるとほんのりとした優しい表情になり、もう少し口角を上げて微笑むと顔全体がパッと華やぐようだ。そして笑うと右の頬に浅い笑窪ができるのを発見した。

 たっぷりと砂糖とミルクを入れた食後の紅茶を飲んでいた彼女が、そんなぼくの視線に気付いてあわてて紙ナプキンで口元を押さえる。

「あ、違う違う。何か付いてるわけじゃないよ。ナナカちゃんの唇とか声もすごくいいなって思って見てただけ」

 びっくりしたように口を押さえて頬を染める。でもその頬の嬉しそうな笑窪までは隠せていない。

「先輩、足フェチだったんじゃないんですか?」

 その唇がこっそりと悪戯っぽく言う。

「うん、そうなんだけどさ。なんでかな、こんなふうに女の子の唇に惹かれたの初めてだよ。ナナカちゃんのイメージがいつもと違うからかな」

「私も……、私もなんだか自分じゃないみたいで、舞い上がっちゃって、なんか夢の中にいるみたいで……」

「うん、今日は嬉しそうによく笑うよね」

「一人ではしゃいじゃって、恥ずかしいです」

「そんなことないよ。ぼくだってそういうナナカちゃん見てるの楽しいし。あ、でもじっと見られるのイヤ? 視線がいらやしかったかな」

「そんなことないです」と急いで首を振る。

「恥ずかしいけど、ドキドキして、嬉しい……」

「そう言えば、こうやってちゃんと向かい合って顔見ながら話すのって、初めてな気がするね」

「あ、そう言われてみれば……」とあわてて手を膝に置いて居ずまいを正す彼女に、また愛しさが込み上げてくる。


 レストランを出て、賑わう駅前通りを歩く。梅雨前の初夏の陽気は少し汗ばむくらいで、彼女はカーディガンを脱いで手に持っていた。半袖のシャツブラウスから出た眩しいくらい真っ白な腕が、時々ぼくの腕に触れた。それは思いのほかふんわりと柔らかくてすべすべしていた。

 雑貨屋やゲームセンターなどをのぞきながら繁華街を一巡りすると、彼女は人いきれで少し疲れてしまったようだった。

「どこかに座って落ち着きたいね。ん〜、カラオケなんかどう?」

「カラオケって、私行ったことないんです。歌もあんまり知らないし……」

「別にムリに歌わなくてもいいよ。座って話するだけでもいいし」

「はい。実はちょっと行ってみたいと思ってたし」

 来た道を少し戻って大きなカラオケ屋を見つける。狭くて薄暗い個室に入ると少し不安そうだったけれど、注文したドリンクが運ばれてきて一口飲むと少し落ち着いたようだ。

 彼女は分厚い曲リストのページを真剣な目で追っている。その間に、ぼくは曲を入力する。いつも最初に歌う歌は決まっている。あまり声を張らないで気持ちよく歌える曲。それに続けて、ノリのいいスピード感のある曲を入れる。

 イントロの大きな音に彼女が飛び上がって驚く。そしてモニター画面とマイクを握ったぼくを、ポカンとしながら交互に見ていた。ぼくが歌い出すと、さらに目を丸くして口を開けたまま眺めている。歌い終わって彼女が拍手する音が、すぐに次の曲にかき消される。今度はリズムに乗って身振りを交えながら早口の曲を熱唱してみせる。彼女もつられて体を弾ませながら手拍子をしていた。

 曲が終わり、席についてドリンクをゴクゴクと咽喉に流し込む。彼女が手が痛くなるほどの拍手をしてくれる。

「すごい、すごい! 先輩、すごく上手ですね!」

「そんなことないよ」

 実際、歌はヘタではないけどそれほど上手いわけでもない。それは充分自覚している。ただリズム感がいいらしく、それでわりと上手く聞こえるようだ。

「ナナカちゃん、何か歌えそうな曲あった?」

「ほんとにどんな曲でもあるんですね。懐かしいのもいっぱい」

「どれ?」と、横に行って歌本を覗き込む。

「これとか……。まだ覚えてるかな?」

 指さしたのは、子供の頃に見ていた魔法少女アニメの主題歌。

「じゃ、試しに歌ってみようよ。ぼくもいっしょに歌うからさ」

 体を寄せて、入力端末の使い方を教える。

「ここでジャンルを選んで、曲名の最初の文字を選んで、それから曲を選択して、この送信ボタンを押すのね」

 すぐ横で機械を覗き込む彼女から、微かに甘ったるい匂いがした。

 マイクを持って小さなステージに立ち、胸に手を当てて二、三度深呼吸をしてから、イントロのリズムに合わせて首を上下させ始める。そして小さな声で歌い始めた。

 両手でしっかりとマイクを握り、流れる歌詞に必死で追いつこうとしながら直立不動の姿勢で歌っている。時々小節の頭が分からなくなって、その時はぼくが変わりに歌って手助けする。一番が終わるとちょっと考えるように目を閉じていたけど、二番が始まるとしっかりと声を出して歌い始めた。もうコツを掴んだみたいだった。踵を上げ下げして体でリズムを取りながら丁寧に歌う。棒読みのような歌い方だけど、音程はほとんど外さない。そして声がいい。エコーのかかった透き通った素直な歌声が、耳に気持ちよく響いてくる。

 曲が終わると、逃げるように席に戻ってジュースのストローに口を付ける。

 拍手をしながら、そんな感想を言うと「恥ずかしかったです。すごくドキドキしちゃった。でも、楽しいですね」と目を輝かせて微笑む。

「じゃ、この歌知ってる?」と別のアニメソングを指す。

「あ、知ってます」

「じゃ、今度はぼくが歌うから、ナナカちゃんはここでいっしょに歌って」

「はい」

 そんなふうに懐かしのアニソンを交互に歌って、あっという間に一時間が過ぎた。

「あ〜楽しかった。あんなに大きな声で歌ったの初めて。ちょっと咽喉が痛いです」

 店を出て駅へ歩きながら彼女が言う。ずっと微笑みっぱなしだ。

「先輩、また連れてって下さいね」

「うん、また行こう」

「ほんと、今日は楽しいことばっかり。……夕べはすっごく緊張して、どうしたらいいのか分からなくて眠れなかったんですよ。デートってこんなに楽しいものだと思いませんでした」

 瞳をきらきらさせて、ぼくを覗き込むように見ながら言う。

「うん、ぼくもだよ。明日も楽しみだね」

「はい! お弁当作ってきますね。あ、そうだ。明日はどんな服着たらいいですか?」

「今の格好もすごく可愛いけどね。じゃあ、オレンジのパーカーとフリルの付いたキュロットスカートあったよね、あれにしない?」

「はい。あ、あれだとストッキングは履かない方がいいかな」

「そう言えば、学校でもいつもストッキング履いてるよね」

「素足だと、なんか恥ずかしいって言うか、履いてないとなんか落ち着かなくって……」

「黒いストッキングも似合ってるし、ぼくは好きだよ」

「え、ほんと? よかった〜」

「足がきれいだから、どんな格好も似合うんだよね。あ、そうだ、明日は膝の上まであるソックス履いたら?」

「そういうの、私持ってないです」

「じゃ、これから買いに行こうよ」

 駅ビルのエスカレーターを上り、三階に小さなファッションショップを見つけた。

 編み込みの入ったウールのオーバーニーソックスを、黒とグレーの二足。ナイロンのストッキングタイプのものを、黒と白の二足。ついでに、今履いているのと同じパンティーストッキングの黒を二足買ってあげる。

「こんなに買ってもらっちゃっていいんですか?」

「うん。っていうか、これからはナナカちゃんの着るものは、全部ぼくが揃えたいんだけどな」

「え、ほんとに?」

「イヤじゃなかったら」

「ううん、すごく嬉しい。全部、先輩にお任せします」

「じゃ、ぼくもちょっと勉強しなくっちゃな。本屋にも寄ってこうか」

 六階の本屋のティーン向けのファッション誌コーナーへ行く。

「ナナカちゃんの好きなのを選んでみて」

 ぼくも他の本をパラパラとめくってみる。

 お互いに一冊づつ選んで

「じゃ、これでナナカちゃんも研究してみて。ぼくはこっちの本で勉強するから」

「はい」と嬉しそうに頷く。

 それから、改札横のコインロッカーから彼女が朝着ていた服やうちの店で買った服を入れた紙袋を取り出し、彼女の住む町の駅まで送る。

 電車の中では、微妙な距離をあけてドアの隙間に立ち、時折確認するみたいにぼくの顔をチラッと見上げては、照れくさそうに微笑んだ。

 なんとなく磨けば光る女の子のような予感はしていたけれど、たった一日で、ぼくの予想を遥かに超えて輝き出した。自分好みの女性に変えてみたい、なんていう下心は軽く吹き飛ばされてしまった気がする。これ以上、もう何も望むことなんてない、何も変える必要なんてない。そう思った。次々に新しい魅力を見せてくれる彼女に、ただ感嘆して、感動するばかり。

 窓の外では、大きな夕陽が山の向こうに沈みながら、空を見事な茜色に染めていた。

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