第2話

 それから一週間、彼女は毎日かいがいしく世話をしてくれた。といっても学校で出来ることは限られている。放課後に保健室で湿布を取り換えて包帯を巻き直してくれるくらい。

 そしてそのままいっしょに帰る。

 最初はちょっと離れて後ろをこっそりついてくるような感じだったけれど、二、三日すると次第に打ち解けてきて、並んで話をするようになった。

「授業のノートは大丈夫ですか?」

「お弁当はちゃんと食べられますか?」

「ほんとは片手でも食べやすいようなお弁当を作ってきたいんですけど、逆に迷惑かなって。学校で渡すのも恥ずかしいし……」

「あ、カバン持ちましょうか?」

 そんなことを控えめにポツリポツリと言う。

「もう、そんなに気を使わなくってもいいって。あ、でもナナカちゃんの作った弁当は食べてみたいな。うちじゃさ、スプーンで食べられるようにって、俺だけ毎日カレーだよ。まったく、いたわってるんだか手を抜いてるんだか分かんないっての」

 彼女が俯いたまま微かに笑う。

「ほかに何か困ることってありませんか?」と恥ずかしそうにぼくを見る。

 横から上目遣いに覗き込むように話しかける顔は、最初の印象よりもずっといい。時々クスッと笑う顔がだんだんチャーミングに見えてくる。

「いちばん大変なのはお風呂だな。包帯の上にビニール被せて入るんだけど、ガシガシ洗えないから、どうもすっきりしないんだよね〜」

「あ〜、私がお手伝いしてあげられたらいいんですけどね……」

 ドキッとすることを平気で言う。天然なのか純真無垢なのかわざとなのか、まだよく分からない。

 ほんとうに困ってるのは毎夜の日課なんだけど、それはまあ左手でもできるし、それはそれでかえって新鮮だ。慣れない左手が疲れるけど。

 もし彼女が手伝ってくれるなら……。そんな妄想を振り切って言葉を続ける。

「あ、そういえば小さい時に転んで膝をパックリ切っちゃってね、その時もビニール巻いてお風呂に入ってたな。あ、足って言えば、ナナカちゃんって足きれいだよね」

「え、そうですか? そんなこと初めて言われました」と驚いたように目を丸くする。

「ちょっとさ、前歩いてくれない?」

「え、どうして?」

「その足を眺めたいなって思って」

「そんなの……恥ずかしいですよ」と言いながらも「あんまり見ないで下さいね」と素直に二、三歩前に出てくれる。

 嫌がられるかと思ったら、意外にもあっさりと言う通りにしてくれる。ウブなんだか大胆なんだか、無知なんだか能天気なんだか、どうにもまったく分からない。でも、ぼくにしてもこんなことを女の子にスルッと言えてしまうのが不思議だ。なぜだか彼女になら素直に言えてしまう。

 ちょっと視線を意識しながら少し前を歩くその足を、遠慮なく見つめる。

 滑らかな膝の裏、程よく張ったふくらはぎ、すんなりかつキュッとした足首。黒い半透明のストッキングに包まれた流れるような曲線美が、歩くたびに躍動する美しさになる。まさに動く芸術。だけど……。

 立ち止まってじっと眺めていると、彼女がクルッと振り返る。

「やっぱり見られてると思うと恥ずかしいですよ。そんなに細くもないし……」

「いやいや、細いからきれいって訳じゃないんだ。程よい肉付きがあってこそ、美しい脚線美が生まれるんだよ。ナナカちゃんの足はうちの学校でいちばんきれいだと思うよ。ぼくが言うんだから間違いなし」

「ほんとに? そう言ってもらえるのは嬉しいですけど……」

「で、ちょっとお願いがあるんだけど、もう少しだけスカート上げて見てくれないかな。あと三センチくらい」

「え、三センチ……。こんな感じですか?」

 ちょうど膝が出ているくらいの野暮ったい長めのスカートを、ちょっとだけ持ち上げてくれる。ふとももまではいかない膝の少し上が見えただけで、その足はハッとするくらい魅力を増した。肉感的な妖しさを予感させる、それでいて清らかさを湛えた聖なる美しさ。ああ、この足をぼくだけのものにしたい。そう思った。

「あ、あの、もう、いいですか……?」

 ハッと我に返る。

「あ、うん、ありがと。変なことお願いしちゃって。でも、ほんとにナナカちゃんの足きれいだな」

 ササッとぼくの後ろに回って隠れるようにモジモジしている。そのしぐさも可愛い。

「先輩って、その、いわゆる足フェチなんですか?」

「うん、そうなんだ」

 ここは敢えてあっけらかんとカミングアウトする。今さら否定のしようもないけど。

「女性を見る時、まず最初に足に目が行っちゃうんだよね。ナナカちゃんは男のどこに魅力を感じるとかない?」

「え〜、そんなの意識したことないですけど……。あ、男の人の声とか、いいなって思う時があるかな」

「へ〜、声フェチなんだ」

「そんな、フェチとかじゃないですよ〜」

「あ、そういえばぼくも、お前は声だけ聞いてるとイケメンなんだけどなって言われたことがあるな」

「はい、私も先輩の声、いいと思います。落ち着いた感じがして」

「そう? それは嬉しいな」

 わざと低音を響かせるように「キミの足はとてもきれいだよ」と耳元に言ってみる。

 また真っ赤になって俯きながら歩く彼女の横顔を、夕日がいっそう朱に染めていた。


 一週間経ってすっかり指の腫れも引き、痛みもなくなった。包帯も、もう必要ない。彼女といっしょに帰る口実もなくなってしまう。

「治って良かったですね」と言う彼女も、なんだかちょっと寂しそうに見える。

 保健室を出て、廊下に人気がないことを確かめてから、振り向いて一気に言う。

「ナナカちゃん、今までありがとう。で、もしイヤじゃなかったら、これからもいっしょに帰らない?」

 グラウンドから聞こえる部活の掛け声が、やけに遠くに聞こえる。さすがにちょっと緊張してしまう。

 彼女は固まったようにじっと床を見ている。

「あ、いや、帰るだけじゃなくて、その、つまり、ぼくと付き合ってくれないかってことなんだけど……」

 二人とも微動だにしないまま時だけが過ぎて行く。次第にいたたまれなくなってくる。

 うっ、早まったか?

 背中にヒンヤリとした汗を感じた時、彼女の髪がかすかに揺れた。

「……ハイ」

 小さくそうつぶやくのが聞こえた。

「ぼくの彼女になってくれる?」

 コクンと頷くのが今度ははっきりと分かった。

 ホッとして力が抜けるのと同時に、体がカーッと熱を帯びる。ぼくもかなり緊張してたんだなと改めて分かった。

 包帯が取れたら言おうと決めていた。そして、たぶんOKしてくれるだろうと思っていた。なんとなくだけど。でも、実際にウンと言ってくれたのがこんなに嬉しいとは思わなかった。やっぱり不安も大きかったのかも知れない。

 俯いて佇んだままの彼女を見る。

 ああ、この女の子がぼくの彼女なんだな、と思ったら、今まで以上に愛しくなる。いや、今までの感情なんて、ただのちょっとした好意か気まぐれな勘違いでしかなかったみたいに思える。今はっきりと、この子が好きだ、この子を大切にしたい、この子を愛そうと思った。止むに止まれぬ強い衝動のように、そう思った。

 思わず「ありがとう」と手を握る。ビクンとしたその手は熱くて少し震えていた。

 彼女がフラッとよろけそうになる。手を引いて窓際に体をもたせかける。手を握ったまま、落ち着くのを待つ。

 少しすると、彼女の手が微かに握り返してくるのを感じた。それに応えるように、ぼくも軽く握り返す。今度は彼女もキュッと握り返して応える。

「じゃ、行こうか」

 頷いてやっと顔を上げた彼女を見ると、少し上気した表情は、まだどこかとまどっているみたいだった。

 玄関の手前で彼女が手を離そうとするのを強く握って離させない。そのまま一年生の靴箱の方へ歩く。彼女が自分の靴箱の前で止まり、靴を取り出す。手は握ったままなので、片手だけで靴を履き替える。上履きからストッキングに包まれたつま先を抜き出し、黒いローファーに差し込むのを横で見ていた。思っていた通りの可憐なつま先。その視線を感じて、彼女の頬がまた染まっている。同じように手を離さないまま、ぼくも靴を履き替えて校門へ向かう。途中で立ち話している他の生徒の前を通る時に、彼女はまた手を離そうとしたけれど、ぼくがそれを止める。それからはもう諦めたように抵抗しなくなった。

 そのまま通学路の半分を過ぎたところで「ちょっと何か飲まない?」と脇道にある自動販売機へ向かう。そこでようやく手を離して「何がいい?」と尋ねると、ちょっと迷ってから小さな紙パックのヨーグルトドリンクを指さす。二人分の飲み物を買って、横のガードパイプに並んで腰を降ろし、ゴクリと一口飲んでフーッと息を吐き出す。

「あ、手が汗でベトベトになってる。ごめんね、気持ち悪かった?」

 彼女は首を振り、ハンカチを取り出してぼくの手のひらを拭ってくれる。それから自分の手も恥ずかしそうにササッと拭う。そしてもう一口飲み物を吸い込んでから、俯いたまま言う。

「あ、あの、ほんとに私なんかで、いいんですか? からかってません、よね?」

「うん、ナナカちゃんをぼくの彼女にしたい。さっき、付き合ってもいいって言ってくれたよね?」

 恥ずかしそうに小さく頷く。

「でも、なんか信じられなくって……。こういうのって初めてだし、それに私なんて可愛くもないし、なんの取り柄もないし、地味で面白みもないし……」

「そんなこと言ったら、ぼくだって顔がいいわけじゃないしスポーツが得意なわけでもないし頭がいいわけでもないし。あ、だからってナナカちゃんでいいやってことじゃないから。そういうんじゃなくって、何て言ったらいいかな、ナナカちゃんってすごく素直でしょ、だからぼくも自然に素直になれるっていうか、いっしょにいると楽っていうか、いや楽っていうのもちょっと違うな、なんかこうときめかせてくれるんだよね、予感っていうか。そうそう、もっと可愛くなれるのに、もっときれいになれるのに、っていう予感っていうか、可能性っていうか、そういうのを感じてドキドキしちゃうんだよね。そんなふうに思うのナナカちゃんが初めてだから。で、ぼくにとってナナカちゃんはどんどん特別な女の子になってきて、もう離したくないって思って、大事にしたいって思うんだ。う〜ん、言葉で言うのは難しいな。分かってもらえないかも知れないけど、とにかくぼくはナナカちゃんがいいんだ。ナナカちゃんが好きなんだ」

 とりとめがなかったけれど、それは正直な気持ちだった。

 彼女は足元を見つめながら、そんなぼくの言葉をじって聞いていた。心の中で何度も反芻するみたいに押し黙ったままだった。

 ようやく「うれしい」とポツリと言う。

「……私も、先輩なら、こんな私を変えてくれるような、なんかそんな気がして。だから今言ってくれたこと、ほんとに夢みたいで、すごく嬉しくて……。私も、先輩に嫌われないように頑張りますから、先輩の好きなように変えてほしいです……」

 涙ぐんだような声で、精一杯の勇気を振り絞って言っているのが分かった。思わずその手を握る。そこに涙がポツンと落ちた。

 正面に立って彼女の肩をそっと抱き、耳元に囁く。

「ありがとう。キミはもうぼくのものだよ。ぼくの大切な人だよ」

 ぼくの肩で彼女が頷いた。

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