Fetish Lover -この脚に恋をして-
高祇瑞
第1話
人もまばらな夕暮れ間近の図書室。何の因果か、ぼくは全く馴染みのない古典文学の棚のあたりをウロウロしていた。手元のメモには「限なき雲ゐのよそにわかるとも人を心におくらさむやは」などと、三首の和歌が達筆っぽく読みにくい字で書いてある。
「じゃあ北村君、図書室からこの歌の解説が載っている本を借りてきてちょうだい」と古文の宮下先生に有無を言わせぬ口調でこのメモを渡された。ぼくは「はあ」と気乗りのしない返事をしながらも、従うしかなかった。
まったく、しくじった。
六限目で、古文で、窓際の後ろから二番目の席で、窓からはうららかな初夏の午後の陽射し。こんな状況で眠気を我慢しろと言う方が酷だろう。まあ、うっかり居眠りをしたくらいでは、さすがの宮下先生でも指し棒で肩をピシッと叩くくらいだっただろう。だけど、指名されても返事もしない、隣のヤツに突かれて飛び上がる、その耳からはイヤフォンがぶら下がっているとなると、まあヒステリーが爆発するのもムリはないかも知れない。
「あとで、職員室に来なさい」とスマホを取り上げられ、授業を十五分残したままハイヒールをカツカツと鳴らして教室を出て行ってしまった。冷静沈着で通っている、はずの、ぼくにしては珍しい大失態だった。
職員室ではもう先生の怒りはあらかた収まっていたけれど、愚痴やら小言やらに三十分以上付き合わされてしまった。ぼくはただ、はあ、はあ、そうですね、と生返事をしながら、目の前でブラブラする組まれた足を見ていた。
宮下先生の足は、この学校では鑑賞に堪え得る部類だ。背が小さいのでスラリとした美脚とは言えないが、ふくよかなふくらはぎから思いがけないほどのカーブを描いて細い足首に向かうラインはなかなかのものだった。膝丈のタイトスカート、バックシームの入った肌色のストッキング、細いヒールのサイドオープンパンプスというスタイルが、それをいっそう引き立てている。先生自身かなり意識しているに違いない。アラフォーにしては、そしてきつい顔立ちを除けば、拍手したくなる足だった。しかし足を組むとふくらはぎが横に広がってしまい、なんだかツチノコみたいだな、でもまあ青アザや吹き出物のできた堅そうな素足を恥じらいもなくミニスカートから露出させている女生徒よりはずっといいか、などと思いながら大人しく話を聞いていた。
最後になんとかスマホを返してもらった時に、この本探しを命じられたというわけだ。
これでもないか、としゃがみこんで分厚い全集本を一番下の段に戻す。その拍子に指に挟んでいたボールペンから、キャップがコロコロと転がってどこかに行ってしまった。
書架に挟まれた通路は薄暗くて、そのキャップがどこに行ったのか分からない。やれやれとため息をつきながら四つん這いになって床を眺めても見当たらない。ま、いいかと諦めかけた時、書架の端から誰かの上履きが見えた。キャップはその足元にあった。なんだ、あんなところに、ともう一歩膝を進めてギクリとする。目に飛び込んできたのは、黒いストッキングに包まれた足。その足が、とてもきれいだったから。
紺のスカートから伸びた膝から下の造形は、まさに理想形。丸く小さな膝、真っすぐな脛、ふっくらしたふくらはぎ、柔らかな曲線を描いてキュッと足首に収束するライン、少しつま先立ちの足首から甲への滑らかさ、上履きの中に隠れた見えない足先さえ可憐に思える。半透明の黒ストッキングが、その美しさを妖しいほどの陰影で縁取っていた。
艶めかしくもあり、楚々ともしている。品良く端正に揃えられた一対の芸術品。
息を止めて魅入ってしまう。
こんな素晴らしい足を見逃していたなんて……。
間違いなく「県立滝野沢高校いい足ランキング」の第一位。いや、県内の女子高生の中でもトップクラスだ。足フェチを自認するぼくが断言する。少なくともぼくが今まで出会った中で最高の足だった。
どのくらい見つめていただろう。その足はピクリとも動かなかった。
そろりと膝を進める。いや、断じてスカートの奥を覗こうとしたわけではない。
その子の上半身に目を移すと、窓際のヒーターボックスに腰を下ろして、両手に開いた本を持ったまま居眠りをしているようだった。俯いた顔は髪に隠れてよく見えない。少しずり下がったメガネのフレームが髪の隙間から覗いている。起こさないように、そっとその足元にあるボールペンのキャップに手を伸ばす。ギリギリ指先が触れた拍子にクルンとキャップが少し浮いた踵の下に滑り込んでしまった。
左の脇に分厚い本を挟んだまま、あと三センチと体を伸ばした時、その子の手からぼくの頭の上にドサッと本が落ちてきた。同時に「キャッ」という声。そして、その子の踵の下でぼくの指がグキッと鈍い音を立てた。強烈な痛みが全身を貫き、まぶたの裏で盛大な火花が散った。
ほんの一瞬だけ気を失っていた。ぼんやりと目を開けると、目に前にはあのきれいな足があった。スカートの奥が見えそうでいて、暗くてよく見えない。
ああ、もうちょっとで、残念……。
得したような損したような、ちょっと幸せな気分。でも、それに浸る間もなく、思い出したようにズキンと痛みが全身を走り抜ける。思わず指先を抱え込んで体を丸める。
「だ、だいじょうぶですか……」
震える小さな声が、どこか遠いところから聞こえてくる。答えたくても、痛みでウウウウッという呻き声しか出ない。
すぐに何人か集まってきてざわめき出す。
「なになに、どうしたの?」
「あなた、大丈夫? どこか痛いの?」
「あ、あの、私が指を踏んでしまって、もしかすると折れてしまったんじゃないかと……」
泣き出しそうな声が言う。
「ちょっと見せてごらんなさい」
カウンターにいた図書委員や図書顧問の先生に体を起こされて、ギュッと握っていた指を恐る恐る開いてみる。右手の中指が真っ赤に腫れ上がっていた。
「あ〜、これはすぐに保健室に行った方がいいわね。歩ける?」
「はい、なんとか」
顔を顰めながら返事をする。
「そろそろ保健の先生帰っちゃうから急いだ方がいいわよ」
「私、いっしょに行きますので」
「うん、お願い。こっちはみんなで片付けておくから」
その子は、すみませんすみませんとあちこちに何度も頭を下げながら、ぼくの後について図書室を出た。保健室までの廊下でもオロオロしながら何度も謝る。
「大丈夫だから、心配しないで」
「でも……、ほんとにすみません」
「キミのせいじゃないから。ほんのちょっとした事故だから」
「……ごめんなさい」
謝るたびに泣き出しそうだった。
帰り支度をしていた保健医の保田先生は「お〜、これは見事に腫れちゃってるね〜」と言いながら、慣れた手つきで添え木を当て湿布をして包帯を巻いてくれた。
右腕全体が脈打つみたいにズキンズキンと痛むけど、手当てのおかげか、さっきほどではなくなったみたいだ。
「多分捻挫だと思うけど、レントゲン撮って検査してもらった方がいいわね。ちょっと連絡してみるから。その間にカバン取ってらっしゃい」
教室に戻るぼくのあとを、その子が付いてくる。
「あれ、キミは何年何組?」
「あ、私、一年Bクラスの前田七香です」
「ぼくは二-Dの北村潤也。一年のクラスはあっちだよね」
「でも、その手じゃカバン持てないから、私が持ちますから」
「もう大丈夫だよ。心配かけちゃってごめんね」
「いいえ、私のせいだから、病院までいっしょに行かせて下さい」
「遅くなっちゃうよ」
「構いませんから」
そんな会話をするうちにぼくの教室の前に着く。
席からカバンを取って左肩に掛けようとした時に、右手が机に当たって痛みが走った。扉のところで待っていた彼女がそれを見て駆け寄って来る。
「あ、私持ちます」とカバンを奪うように抱えててくれる。
それから彼女の教室に寄って保健室に戻り、保田先生の軽自動車で病院まで連れて行ってもらう。
レントゲンの結果は「骨に異常なし。ただの捻挫だから一週間もすれば腫れも引いて元通りになるでしょう」とのことだった。とりあえず痛み止めの注射を打ってもらい、痛みも和らいでホッとする。その結果を聞いて、前田七香もやっと安心したようだった。
「大事にならなくてよかったです。でもしばらくは不自由だと思うので、私、お手伝いしますから何でも言って下さい」
お互いの顔をまっすぐ見たのは、その時が初めてだった。
特に可愛いわけでもない。かといってブスでもない。可もなく不可もなく、どこといって特長のない顔立ち。それが正直な第一印象だった。メガネの奥の気弱そうな目が表情の輪郭をぼやけさせていて、少し猫背にすぐ俯いてしまうから、髪が顔を覆っていっそう自信なさげな印象を抱かせる。ただ、肌は剥きたてのタマゴのようにきれいで透明感がある。あのきれいな足は、と言えば、中途半端なスカート丈のせいでその魅力の半分も表れていない。ただ膝下は見事にまっすぐに伸びていて美脚の片鱗を予感させている。
あ〜、もったいない。実に惜しい。
そんな気持ちがフツフツと湧き上がってきた。
実のところ、もうぼくは恋をしていたのかも知れない。図書室でこの足に出会った瞬間から。
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