第15話 アルバム
祖母の家に戻ると、居間のソファに座ったところですっとチャイが差し出された。
「温まるわよ」
「ありがとう、おばあちゃん!」
紅茶と生姜とシナモンの香がふうっと漂う。
「私チャイ大好き!」
「小さい頃から美湖ちゃんは、ハイカラなものが好きだったものね」
――ハイカラ?
美湖は言葉の意味を知らなかったが、なんとなくニュアンスは伝わった。
美湖の父方の祖母はとてもエレガントな人だ。服といいアクセサリーといい、いつも洒落たものを身に着けている。今年七十になるというのに、そんな年齢には見えない。まったく老け込んでいないのだ。そんな祖母が美湖は好きだった。
祖母は美湖の隣に座った。
「わ、おばあちゃん、そのイヤリング素敵!」
「でしょう? 最近はピアスばっかりでイヤリングは数が少ないんだけど」
祖母はイヤリングを外して美湖に渡した。
それはオレンジ色の小さなしずく型のガラスだった。
「ベネチアングラスよ。ね、かわいいでしょう? ほら付けてみて」
美湖がイヤリングをつけている間に、祖母は手鏡を持って来た。
ほら――と、美湖の顔の前に手鏡を差し出した。
「うわあ……」
小さなイヤリングが小さく揺れる。
「とても上品ね」
割とビビッドなオレンジ色なのだが、小ぶりな為にとても控えめだ。だが決して埋もれていない。
「美湖ちゃんの髪形にちょうどいい大きさね。カチューシャの赤色とも相性がいいわ」
美湖はしばらく鏡を見ながら、イヤリングを揺らしていた。
「あげる」
「え、いいの?」
「ええ。今度お店に連れてってあげる。路地裏の小さなお店なんだけどね。こういったかわいい輸入もののアクセサリーを置いてるの。買ってあげる」
「ホント? 嬉しい!」
つけてようっと――美湖はイヤリングをつけたまま、チャイを一口飲んだ。
「ねえ、俺には? 紅茶なし?」
一通りのやり取りが終わるのを待って三行が言った。
「あんたはビールの方がいいんじゃないの?」
祖母は後ろに突っ立ってる息子を見上げて言った。
「――まあ別にいいけどさ」
三行は冷蔵庫を覗いた。
「美湖がいる間、酒やめることにするわ」
「あら、そうなの」
「酒飲んだら車運転できないだろ? さっきみたいに車出してって、いつ言われるかわかんないしさ」
「別にいいわよ。あんたが運転できなきゃタクシー呼ぶから」
特に何もなかったようで、三行は何も取らずに冷蔵庫のドアを閉めた。戸棚を開けて、そこからインスタントコーヒーの瓶を取り出した。自分専用なのだろう、少々年季の入ったマグカップにコーヒーを注ぎ入れた。
「俺もうあっちのアパート引き払って、ここに戻ってこようかな」
男手いるでしょ――と、三行は言った。
美湖の祖父は、美湖が三歳の時に他界した。父親もそうだが、あまり祖父のことも覚えていない。
「やあね、まだ介護されるほど耄碌しちゃいないわよ」
「――でも、やっぱ実家はいいわ。くつろげる」
「そんなことより、あんたお嫁さんは? もう結婚しないつもり?」
「ああもう、うるさいなあ。しないって言ってんじゃん」
三行はマグカップを持ってソファに座った。
「今更孫の顔が見たいとか言うなよ。孫なら美湖がいるからいいだろ?」
「違うわよ。私はあんたのことを心配してるの。私はあんたを置いて先に逝くんだから。そのあと困るのはあんたでしょ」
「一人でなんとかやっていけるって。今までそうやってきたんだ」
「バカだねえこの子は。自分がいつまでもその歳だとでも思ってるの? どんどん老いぼれていくんだからね。その時に一人は大変だって言ってんの」
祖母は三行の髪を摘まんで、ぐいぐいと引っ張った。
「まったく、自分の身だしなみさえ出来ないくせに、いっちょまえのこと言うんじゃないよ」
明日髪切っておいで、と四十過ぎた息子は七十の母に怒られた。
「ねえ、おばあちゃん。お父さんのこと聞いてもいい?」
美湖のその言葉で、一瞬場の空気が凍った。
三行はマグカップに口をつけながら、ちらっと美湖を見る。
祖母はすぐに笑顔になって、なあにと返事をした。
「お父さんのアルバムとかない?」
「あるわよ。ちょっと待ってね」
そういって祖母は居間を離れた。
「アルバム見てどうすんだ?」
「わかんない。でも兄さんは、おばあちゃん家で父さんの何かが見つかるって言ったの」
「ホントかあ? なんかさっき聞いたときより話が具体的になってるぞ」
「う……そんなこと」
「曖昧なことは証拠が揃わないうちは曖昧にしとけ。じゃないと、下手に具体的にしちまうと、考えが凝り固まってやりにくくなるぞ」
しばらくして、祖母が何冊かのアルバムを抱えて戻って来た。テーブルにそれが置かれ、美湖が手を伸ばしたところで三行が待ったをかけた。
「ちょっと待て、俺も写ってる」
「当たり前じゃない」
と祖母は言う。
「なんか見られたくない過去でも?」
美湖がいたずらな顔をした。
「……お前、絶対笑うなよ」
「さあそれは約束できないな」
美湖は三行の手を払いのけて、アルバムを一冊手にした。
台紙が茶色くなっていて古さを感じる。さすがに白黒写真ではないが、それでも色は褪せていた。
一ページ目の一枚目の写真は、裸ん坊の、双子の赤ちゃんが写っていた。
「ちょっと――勘弁してくれよ」
三行は顔を覆った。
「いいじゃない、赤ちゃんなんだから。ねえ、どっちがお父さん?」
「右よ」
祖母は迷わず答えた。
「双子の見分けってつくの?」
「それが最初は全然見分けがつかなくてね。びっくりするくらい同じなの」
「でも、名前つける時は見分けてつけたんでしょ?」
「そうね、三日もしたら顔に違いが出て来たのよ。それで、賢そうな顔の子を一行、優しそうな顔の子を三行って」
美湖は三行を見て、
「よかったわね、だらしなさそうな顔の子で区別されないで」
と言うと、うるせえと三行は顔を歪ませた。
それから美湖はぱらぱらとページをめくった。
どの写真も必ず二人で写っている。
二人とも同じ表情をしていた。
楽しいときは二人とも笑って、悲しいときは二人とも泣いていた。
幼稚園の入園式の写真から、二人の髪形が違うようになった。
一行は長めの髪形で、眉のところで一文字の前髪。三行は短めの髪形で、前髪などない。
髪形のことを祖母に尋ねると、お友達に見分けがつくようによ、と答えた。
「このカズの前髪に隠れた目の感じ、お前にそっくりだな」
三行は美湖に言った。
「そう?」
「そうね、美湖の目はお父さんに似てるわ」
祖母も言った。
「――てことは叔父さんにも似てるってこと?」
「そうなるな」
三行はわははと笑った。
「三行の目とは違うわ」
「同じだろ、双子なんだから」
「全然違う。目の奥の光、目の輝きっていうのかな。それが違うのよ」
「光?」
美湖も祖母の話に興味を惹かれ、身を乗り出した。
「性格が出てるとでもいえばいいのかしら。とにかく一行は何にでも興味を示して目を輝かせていたわ。おかげで『コレナニナンデ病』が酷かったんだから」
「それってなんの病気?」
美湖が心配そうな顔で尋ねてくるので、祖母は笑いながら言った。
「あはは、『お母さんこれなあに? なんで犬はワンて鳴くの? なんでなんで?』っていういわゆる聞きたがりよ。それがもう、しつこくてうんざりするくらい」
コレナニナンデ――これ何なんで――なるほど、と美湖はうなずいた。
「それに対して三行は風まかせというか、我関せずというか、あんまり興味深く物事を追及するタイプじゃなかったわね」
それがまさか刑事になるなんてね――と、祖母は言った。
「私、そんな目してる?」
祖母は美湖の目を見つめた。
「してる。とっても何かを知りたがってる目をしてるわ」
美湖は少しだけ視線を落とした。
「天文学だっけ。あなたのお父さんはとにかく宇宙のことが大好きでね。そういう研究をしたくて大学に行ったんだけど、結局四年で卒業して商社に入社したわ。本当は大学院に行きたいって言ったんだけど――そんな宇宙の研究より、早く働いて欲しいって言っちゃったのよね。三行が早い段階で警察官になるって進路を決めていたから、一行も早くって思ったのかしらね」
祖母はどこか他人事のように語っている。
もう随分前の話だから、それも仕方がないのか。
「今思えば、思い通りにさせてあげればよかったと――」
祖母は溜息をついた。
「カズは生きてるから、大丈夫だから。刑事の勘を信じてよ」
と、三行は言った。
元刑事でしょ、と祖母は言う。
けれど美湖は、前に聞いた三行の言葉を思い出していた。
――カズはもうこの世にいないと思っている
三行は母に気を遣っているのだ。
優しそうな顔をしている子を三行と――さっきの祖母の言葉が蘇る。
叔父さんて優しい人なんだ、と美湖は思った。
しかし。
私には気を遣わず正直に言ったわ、と美湖は腑に落ちない顔をした。
「ねえ、見て」
祖母が一枚の写真を指さした。そこには小学三年生くらいか、双子の二人が同じ右腕にギブスをして憂鬱そうな顔で写っている。
「これね、一行が体育の時間に転んで骨折したの。学校から連絡があってすぐ病院に連れて行ったのね。そしたら三行が学校終わってから、心配して病院まで自転車で来ようとしたの。そしたら転んで腕を骨折してしまったのよ。しかも二人とも同じ右腕」
ギブスをしている右腕はもちろんだが、おそらく擦りむいたのだろう、右側の頬にガーゼが貼り付けられているところまで同じだった。
「うわあ、双子ってホントにこういうことあるんだ」
「一度や二度じゃないから。ケガをすれば同じ場所。一人が熱を出せばもう一人も必ず熱を出すのよ」
性格はまるで違うけどね――と三行が言った。
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