第13話 母娘喧嘩

 「ただいま」

 美湖が家に辿り着いた時は午後九時になろうとしていた。

「おかえりなさい」

 食事は済ませてくる遅くなると連絡していたので、特に母に小言を言われることもなかった。ただ九時を過ぎるとちょっと面倒臭いことになる。何をしていたとか誰といたとか、門限を過ぎたという説教を発端にあれこれ聞かれたくないことを聞き出されてしまうのだ。

 美湖はそそくさと部屋へ行った。

 放課後は叔父とずっと図書館にいた。鏡市の郷土史について調べていたのだ。これといって収穫はなかった。前に聞かされた昔話が言葉を変えて紹介されているに過ぎなかった。その昔話を自然現象と推測する資料はあっても、超常現象だと論ずるものはなかったのだ。当然といえば当然だ。少し期待していただけに、美湖の落胆は大きかった。

「初日で見つかるなんて思うな。俺はこんなことを十一年もやってたんだ」

 と、事あるごとにその数字を持ち出すから、美湖もいささかうんざりした。

「一生かけたって見つかるかどうかも怪しいぞ」

 たしかにそうなのだ。美湖たちが挑もうとしているものは、世間に理解し難いことだ。故に協力も簡単に得られないだろう。それでもやらなければと思っている。

 美湖はふうと深く溜息をついた。

 クローゼットから着替えを取り出し、風呂の支度をしているときだった。

「美湖」

 ふいに兄の声がした。

「……!」

 思わず叫びそうになって、慌てて口を手で塞いだ。嬉しさと安堵でこんなにも心臓が飛び跳ねるものなのか。声に力が入るのをぐっとこらえ、小さな声で囁いた。

「兄さん! どうしたの? 今まで何してたの? どこにいたの?」

「落ち着いて美湖。俺は無事。いつも美湖の隣にいたよ」

 矢継ぎ早に質問する美湖に、兄は苦笑しながら答えた。

「美湖、何か言った? 電話してるの?」

 部屋の外から母が尋ねる。

「う、うん、電話。友達と――」

 咄嗟に美湖はスマートフォンを耳に当てた。

 そのせいで思わず、もしもし――と語り掛けてしまって、兄が思わず噴き出した。

「酷いわ、私がどれだけ心配したと思ってるの!」

「ごめんごめん」

 兄はすぐに謝った。美湖の声が震えている。今にも泣きだしそうだ。

「頼むから泣かないで、いいね? そっちの母さんが変に思うよ。隣の居間にいるんだろ? ちゃんと話すから、落ち着いて」

「――うん、わかった」

 美湖は言われた通り、深呼吸をして少しの間心を落ち着けることに専念した。

 一週間ぶりくらいだろうか。

 それでも美湖には一月も一年にも感じた。

 久しぶりに聞く兄の声に、嬉しくてどうしても涙を止められない。

「大変なことになった」

 兄はそう言った。

「とにかく、美湖と話すことがこれから難しくなると思う」

「どうして?」

「通信エラーみたいなものさ。いや、通信妨害かな。俺たちの繋がりが断ち切られようとしてる」

「なんで――誰がそんなこと」

「世界だよ」

「え?」

 美湖は兄の言葉がすぐに理解出来なくて戸惑っている。

「とにかく俺、美湖に会いたくて――行動を起こしてみたんだ。まず最初に俺の体験を全て稲沢に話してみたんだ」

「舞に?」

「だからそっちの彼女も美湖の体験を知ろうとしてきたと思う」

「ええ、確かに。突然聞いてきたわ」

「バランスだよ。俺の世界の稲沢と、美湖の世界の稲沢。多少順序や方法に差はあっても、俺たちの体験を知るという事実は結果的に同じになったはずだ」

「――わかったわ、それで?」

 美湖は話の続きを促した。

「三行叔父さんが来たと思う」

「来たわ」

「一緒に行動してるね?」

「ええ」

 ついさっきまで一緒にいたと告げた。

「叔父さんは俺が呼び寄せたんだ。叔父さんは元刑事だ。色々情報を集めるのに長けているだろうし、何より俺らにない人脈を持ってると思ったんだ。叔父さんの居場所はすぐにわかった。連絡して俺の体験と俺なりの解釈を聞いてもらったら、それと父さんの失踪を結び付けた。ついでに鏡市の歴史で奇妙なものがあると教えてくれたんだ。だから協力してもらうようにお願いした。美湖のところにもその話を持って来たと思う」

「ちょっと待って、それじゃまるで――」

 身の回りの出来事が兄にコントロールされているようだ。

 舞が突然兄さんのことを尋ねてきたのも、叔父さんがやって来たのも、全部偶然じゃないってこと?

「近いうちに父さんの――を目にすることになる。そこに俺たちが――」

 急に兄の声が途切れ途切れになった。

 本当だ、何かに邪魔されているかのよう。

 今までこんなことはなかったのに。

「おばあちゃんの家に――」

「おばあちゃん? おばあちゃんのところに行けばいいの?」

「――が邪魔しに必ず――でも美湖の――」

「よく聞こえない!」

 美湖はスマートフォンを放り投げ、ぎゅっと自分の耳を塞いだ。自分の中に響く兄の声がよく聞こえるように。特に右側の鼓膜に集中して。

 何かを言っているようだが、兄の声はノイズに紛れて聞き取れない。だんだんそのノイズさえ遠ざかっていく。

「兄さん、待って!」

 そう叫んだ瞬間、

「美湖、天使に気を付けて」

 その言葉だけが一際大きく美湖の耳に届いた。

 そして辺りはしんと静かになった。

 美湖は耳を塞いだ姿勢のままで考えた。

 兄に伝えられたことをもう一度頭の中で整理した。

 ここ最近身の回りがバタバタとしていたのは、兄さんがあっちの世界で動いていたから。

 兄さんの世界で起きたことは、時間をずらして必ずこっちの世界にも起こる。

 舞が突然私の兄さんに興味を持ったり、叔父さんが協力してくれたりしたのは、兄さんがそうしたから。

――美湖に会いたくて。

 その言葉を何度も頭の中で繰り返す。

 兄さんが会いたいと思ったから、自分も急に恋しくなったんじゃないか。

 違うわ、私はずっと兄さんが恋しかった。会いたくて仕方がなかった。急に会いたくなったんじゃない。

 耳を塞いでいた手で、そのまま髪をぎゅっと握った。

 誰かが邪魔しているようなことを言っていた。あと、世界が私たちを断ち切ろうとしているとか。

――世界って?

 分からない。まだ分からないことが多すぎる。

 早速叔父さんに相談――待って、もし叔父さんが邪魔する人だったら?

 じゃあ舞に――舞は信じていいの?

 どうしよう、誰に相談していいのか分からない。

――天使って何?

 兄さんは何かを知っているようだった。今の私よりもっとたくさんのことを。だったらそのうち私も知るようになる。

 焦らなくてもいいのかもしれない。

 きっと兄さんが導いてくれる。

 ようやく美湖は落ち着きを取り戻した。そのとき、

「美湖」

 ドアの前に母が立っていた。

「お母さん……」

 その母の蒼白な顔から、美湖は悟った。

「あなた、ずっと続いていたのね。『お兄さん』の妄想」

「妄想じゃないわ」

 火に油を注ぐと分かっていても、兄の存在を否定することはできなかった。

「なんで黙っていたの。ずっと隠していたのね」

「だって――病院連れて行かれるし、お母さんに変な目で見られるの嫌だったから」

「そんなの当たり前じゃない! 心配しているのよ!」

「何が当たり前なのよ! 心配って何! 私のこと信じてくれないくせに!」

「あなたは病気だわ!」

「違う!」

 美湖は大声で叫んだ。咄嗟にベッドの上に放り投げていたスマートフォンを掴み、ドアの前に立つ母を押しのけて、制服のまま家を飛び出した。

「待ちなさい美湖!」

 母が追いかけてくる。美湖は振り切ろうと必死に走った。制服のポケットに触れる。バスの定期入れがあるのを確認して、とにかくバス停を目指した。

 まもなく最寄りのバス停が見えてきた。後ろを見てみたが、バスが来ている気配はない。美湖はもう一つ先のバス停を目指すことにした。

 最寄りのバス停を通り過ぎたところで、母が追いかけるのを諦めた。ずっと後ろの方で母の立ち尽くしている姿が見えた。お母さんにあんな可哀想な姿をさせるなんて――自分はなんて親不孝者なんだと涙が出てきた。

 でも美湖にだって譲れないものがある。兄の存在は誰にも否定されたくない。

 二つ目のバス停が見えてきたところで、後ろを振り返るとちょうどバスがやって来るのが見えた。

 美湖はバスに乗り込んだ。

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