第11話 兄への執着

 「ここのチーズケーキ美味しいって聞いてたのよね」

 美湖が、今しがたやってきたお目当てのチーズケーキを前に手を叩いて喜ぶ。学校近くの商店街から少し奥まったところの路地にある小さなカフェ。夜は飲み屋街になるその通りに、洒落たお店がぽつんとある。飲み屋街だからなかなか学生が寄り付ける場所ではない。けれど、美味しいという評判だけは流行に敏感な高校生は知っていた。美湖たちも前に覗いては見たけれど、ケーキセットが千二百円と書いてあって逃げ帰ってしまったという。

「ちょーっとお高くて、学生には気軽に手が出せなくって」

 と、いたずらっぽく見てくる姪っ子に、叔父の三行はニヤニヤしっぱなしである。三行にしてみれば、たとえ足元を見られ我儘を言われたとしても、姪っ子がこうして付き合ってくれることに喜びを感じだ。自分は本気で嫌われちゃいないのだと安心したからだ。

 三行に子供はいない。それ以前に妻もいない。兄の娘は自分の娘に等しく、可愛くて堪らないのだ。

「すみません、私まで――」

 舞が申し訳なさそうに言う。すかさず美湖が、

「いいのいいの、気にしないで」

 というから、それは俺のセリフだと三行に言われ、美湖はふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。まあそんな仕草も可愛らしいといえば可愛らしい。

 むさくるしい中年男が蠢くところで仕事をして、部屋に戻れば一人寂しく生活している。今目の前で女子高生二人が美味しそうにチーズケーキを食べている姿は、そんなむさくるしい生活を忘れさせてくれる癒しでもある。ここは天国かと和んでしまって思わず目元が緩む。程々にしないと、二人に変態扱いされてしまいそうだ。

 三行はコーヒーを一口飲んで、ふわふわする心を落ち着かせた。

「で、美湖の『兄貴』のことなんだけど」

 美湖は黙々とケーキを食べ続ける。

「今も聞こえるのか? その――声ってやつが」

「こないだまでは聞こえてたわ」

「――こないだ? じゃあ今は聞こえない?」

「ええ」

 そうか、と三行は呟いた。

「別に叔父さんに信じてもらおうなんて思ってない」

「まあ待て」

 やさぐれる美湖を宥めた。

「俺とお前の父さんが双子なのは知ってるだろ?」

「それが?」

「俺も、カズ――兄貴の声が聞こえることがあった。遠くに離れているのにね」

 思わずフォークを握る手が止まる。

「はっきりと聞こえるわけじゃないよ。会話が出来るんでもない。たまに幻聴のような感じで声がすることがあったんだ。兄貴がどこにいるのか、何考えているのかが分かるんだよ」

「あ――そういう話、聞いたことがあります」

 舞が口を挟んだ。

「双子って感覚や感情を共有することがあるとか」

「そうそう、そうなんだよね」

 三行は頷いた。

「それと私の兄さんと何の関係があるのよ」

「だって美湖と『兄貴』は双子っていう設定なんだろう?」

 その言葉にカチンと来て、美湖はむっとした表情をした。

「設定じゃないもん」

「ああ、すまん」

 気を取り直して三行は話を続けた。

「色々考えたんだ。もしかしたらお前たちは本当に双子で、でも何らかの原因で双子として生まれることが出来なかったんじゃないかとね」

「バニシングツインですね」

「そうそれ。よく知ってるね君」

 舞の指摘に三行は感心した。

「でも残念ながら、お母さんに確かめたけれどそういう事実はなかったようだ」

 この推理、いい線言ってると思ったんだけどなあ、と呟いた。

「妊娠に気づいて病院で確認してもらう前に、吸収された可能性もあるんじゃないですか?」

「――ほう」

「まだ小さな胚だった時に」

「君は――」

「私、将来医療方面の仕事に就きたいと」

「ああ、それで」

 あまりにも舞が詳しいので三行は不思議に思ったのだ。

「ねえ待って。私おいてけぼり」

 二人の話を聞いていて、美湖が口を尖らせた。

「つまり、本当かもしれないってことよ。美湖には本当に双子のお兄さんがいたかもしれない」

「でも――」

 実際兄の存在はこの世にない。

「だったら私、私の体に吸収された兄さんと話してるわけ?」

「そうなるね。この推理だと」

「兄さんが私の中で生きてるってこと? でもそれだとおかしいわ」

「おかしいとは?」

 と、三行が尋ねた。

「だって、兄さんとは見ている世界が違うんだもの」

 美湖は以前舞に話したことを、叔父に話して聞かせた。

「――なるほどな」

 三行は溜息をついた。

 一服しようとコーヒーに口をつけたけれど、すっかり冷たくなっていたので飲むのを止めた。気付かなかったが随分長い間美湖の話を聞いていたようだ。追加でコーヒーを頼んだ。美湖たちにも何か頼んでいいと言ったが、彼女たちは遠慮した。

「つまり、今俺たちがいる世界とは別に、美湖の兄貴がいる世界があるってことか」

「分からないけど、そうとしか――」

「そして美湖は、なぜか離れ離れになった双子の兄貴とコンタクトが取れると――」

 三行は閃いた。

「もしかすると、カズはそっちの世界に……!」

 追加のコーヒーが差し出されたところで、三行がバンとテーブルを叩いたものだから、ウエイトレスが驚いてビクッと手を震わせた。そのせいで少しだけコーヒーがソーサーに零れてしまった。すみませんと慌てて謝るウエイトレスに、三行も慌てて謝る。取り替えて来ますというので、結構ですと必死で止めた。美湖はそんな慌てふためく叔父の様子を見て、恰好悪くて見ていられないと溜息をついた。

「それで――私の話、信じてくれるの?」

 と、美湖が尋ねた。

「ああ、そのつもりだ。なんせ常識の世界での捜査はやり尽くしたんだ。俺は――カズはもうこの世にいないと思ってる。カズの声が聞こえないし、気配を感じないからね。死んでるんなら弔ってやりたい。でも諦めたくないんだよ。だったら美湖が言うもうひとつの世界ってやつを調べてもいいと思う」

「叔父さんに、そんな風に言ってもらえるなんて思わなかった」

「俺とカズは正真正銘の双子だぞ。生まれる前からずっと一緒にいたんだ。俺はカズを諦めることは出来ないね、一生」

 三行もまた兄に対してただならぬ執着を持っていた。それが双子故のものなのかは分からない。

「元刑事のくせに非科学的なことを信じることになるなんてね」

 と、美湖が言う。

「刑事さんなの?」

 舞が意外と言った顔で三行を見た。

「元だよ元。とにかく、どんな可能性にも食いつきたいんだよ。そう堅苦しいこと言うなよ」

 三行はよれたスーツのポケットから電子タバコを取り出した。

「ちょっとやめてよ」

「偽物だよ。いいだろ?」

「この店禁煙よ。周りはタバコ吸ってると思うわ」

 美湖に言われて、渋々電子タバコをポケットに戻した。そのついでに、ポケットの中に入れていたコピー用紙を取り出してテーブルに置いた。

「何よこれ」

「鏡市の伝説とか昔話とかそういった類の資料。これ調べる為に朝から図書館に缶詰でさ」

 それで眠そうな顔してたのね、と美湖は納得した。

「鏡市の名前の由来って知ってる?」

 女子高生たちは首を横に振った。

 三行は、以前とある大学教授から聞いた話を二人に聞かせた。

「――空に町が映る?」

「そう、だから市なのさ」

 二人は驚いた。

「美湖知らなかったの?」

「知らないわ。そんな昔話聞いたことない。舞は?」

「私の家は元々他所から来たんだもの。祖父母の出身はここじゃないの。だから両親も鏡市の昔話は知らないと思う。聞かされた覚えがないわ」

「うちは――」

 加山家の先祖は代々鏡市だ。美湖は叔父を見た。

「それが俺も知らなかったんだよね」

 と、首を振って三行は話を続けた。

「何らかの自然現象で町が空に映ったのだと専門家は言ってる。俺もそう思った。今の美湖の話を聞くまではね」

「どういうこと?」

「空に映った町というのが、もし美湖の兄貴がいる世界だとしたら?」

 美湖ははっとして目を輝かせた。

「ちなみに、この鏡現象が起こった時に何人か人が消えている。霞みたいにぱっとね」

「もしかしてお父さんは――」

 三行は久しぶりにわくわくするような感覚に襲われた。

「繋がったんだよ。カズと美湖の兄貴が鏡市の歴史の上で!」

 十一年もの間、希望と絶望が交互に三行を襲って、憂鬱な毎日を過ごしてきたのだ。興奮するのも無理はなかった。たとえそれが科学的に説明の難しいものであろうと。

「もっと調べたい、鏡市のこと」

 美湖は希望に満ちた顔で隣にいる舞にそう言った。舞は口角を少しだけ上げてそっと微笑んだ。

「叔父さん、私、兄さんに会いたいの」

「だったら一緒に探そうじゃないか。協力してくれるよな?」

「うん!」

 意気投合してしまった二人を見ながら、舞は少しだけ不安を覚えていた。

 最近浮かない表情が多かった美湖が、久しぶりに笑顔を見せている。舞はこの期に及んで余計な水を差すことが出来なかった。

――二人とも「兄」という存在に執着してしまっている。

 その執着が過ちを犯さないことを祈るしかなかった。

「じゃあメールで連絡するわ。出来ればお母さんにバレたくないし」

「了解」

 カフェの前で、美湖は叔父のメールアドレスをスマートフォンに登録した。

「おーやっと美湖からアドレスもらえた」

「何よそれ」

 三行はニヤニヤしている。

「前会った時はスマホ持ってなかったんだし」

「三年前に持ってたとしても、俺には教えなかっただろうな」

「――そうね」

 いくら叔父とはいえ、思春期女子が苦手とする中年男(しかもみすぼらしい恰好の)なのだ。美湖はあまり叔父と親しくしたいとは思っていなかった。たとえ父親と仲が良かった双子の弟であっても。いや、双子だったから余計に避けていたのかもしれない。なんせ父親と同じ顔をしているのだから。

「ねえ、次会う時はもっとましな恰好してきてよね。仮にもお父さんと同じ顔してるんだから。幻滅するわ」

「努力はするよ」

 二人の空気はすっかり和んでいる。

 その横で舞が何かに気づいて遠くを凝視していた。

「どうしたの? 舞」

「今そこに本郷君が――」

「え?」

 美湖が舞の指さす方を見る。

「誰もいないわ」

「――気のせいかしら」

「もしホントに居たんだとしたらちょっと気味が悪いわ。物陰から覗くなんて――あの子そんな暗い感じじゃないのに」

「そうよね。彼なら店に飛び込んでくるわよね」

 舞は笑った。

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