第9話 戻って来た男

 加山三行みつゆきは、三年ぶりくらいに故郷の鏡市に戻って来た。

 駅に降り立ち、久しぶりの故郷を見渡した。

――まあ三年ぐらいじゃそんなに変わらないか。

 辺りには見慣れた風景が広がっていた。

 時計を見ると午後四時半を回っていた。実家には夜に帰る晩飯はいらないと連絡してある。これから人と会う約束をしているが、約束の時間まで一時間半ほど暇があった。

 くたびれたスーツのポケットから電子タバコを取り出した。見た目は普通のタバコだから、人通りで吸うと周りから嫌な顔をされる。渋々喫煙室に行って電子タバコをくゆらすが、周りは本物でお構いなく煙をぶちまけてくるので、ちっとも禁煙している気がしない。三分もいただろうか。そそくさと禁煙室を出た。喫煙者でさえむせ返るというほどの空気の悪さだ。

 三行は近くのコンビニへ向かった。入口のところで高校生らしき男の子と、すれ違いざまに肩をぶつけた。

「あ、すいませ……」

 高校生は余程急いでいるようで、謝りながら走り去ったので語尾がよく聞き取れなかった。その代わりにパタッという音がしたので足元を見ると、定期入れが落ちていた。三行はそれを拾って高校生を追いかけた。

「君! 落としたよ!」

 呼び止めようとするが、高校生は気づかない。後を追って走ったが、なんという足の速さか、追いつきそうにない。当然だ。四十過ぎた男と高校生とでは脚力が雲泥の差だ。

 はあはあと大きく息をしながら目だけで高校生を追いかけていると、彼はちょうどやってきたバスに飛び乗った。

「おーい!」

 最後の力を振り絞って大声を出してみたが届くはずもない。高校生を乗せたバスはさっさと発車してしまった。

――ああ、間に合わなかった。

 バスを見送りながら、三行は膝に手を当てて乱れた呼吸を整えた。

「参ったなあ」

 どうしようかと定期入れを眺め、二つ折りになっているそれを何気なく開けた。

 バスの定期ICカードには『ホンゴウタモツ』と書かれてあった。

「名前だけじゃ届けようがねえしなあ」

 交番に持ってくか――と思いながら、つい癖でくまなく中身を見てしまった。ICカードの入った反対側のポケットに女の子の写真が飾ってある。

「あれ?」

 三行はその写真を食い入るように見た。見覚えのある黒髪に赤いカチューシャの女の子だったからだ。

――美湖じゃねえか!

 もう一度確認したが、間違いない。

「なんて偶然だ」

――てことは、今のはまさか美湖の彼氏か?

 バスが走り去った方をもう一度見た。

「まあいい、どうせ会うんだ」

 そう言って、三行はその定期入れをくたびれたスーツの内ポケットにしまい込んだ。

 三行はコンビニに戻って新聞とコーヒーを買った。駅の広場のベンチに腰掛け、時間を潰すことにした。これも職業柄慣れていた。

 新聞を広げ、ざっと見出しを眺めた。全国ニュースになるような大きな事柄はいい。三行が見つけたいのは地方の小さな事件事故だ。そこに兄の情報がないか探した。

 三行の兄は十一年前突然いなくなった。

 家族の誰にも告げず、忽然と姿を消したのだ。まず、失踪した理由が分からなかった。兄夫婦は上手くいっていたと思うし、他に女がいるような気配もなかった。妻の響子さんは、兄が惚れて惚れて惚れぬいて結婚した人だ。彼女を悲しませるようなことをするはずがない。事件か事故か、何かに巻き込まれたに違いなかった。

 三行は警察官だった。主にスリや空き巣といった軽犯罪を取り扱っていた。だが、兄の失踪を機に辞めた。兄の捜索に専念したかったのだ。警察の中に居た方が色々情報を得られたかもしれないが、それ以上に日々の仕事が忙しくて、とても兄を捜す余裕などなかった。

 住み込みで鉄工所に働いたこともある。警備員、清掃員、道路工事――不況とはいえ、手が足りない仕事が結構あるのだ。全国を転々として、そうした仕事で食いつなぎながら兄の手がかりを探した。

 あれから十一年。これといって有力情報は掴んでいない。今日は、今回も見つけられなかったと、義姉の響子さんに報告する為に会うのだ。

 しかし、先日面白い話を聞いた。

 とある大学の清掃スタッフとして働いていた時だ。喫煙所で知り合った大学の教授から聞いた話。故郷はどこかと聞かれたから鏡市と答えると、鏡市の名の由来を語ってくれたのだ。

 江戸幕府の頃、その場所で空に町が映るという現象が記録されているという。蜃気楼か何かの自然現象と思われ、それ故にその地域は「鏡」と呼ばれるようになったらしい。そして、同じ頃にことが多発したという記録が残っているという。目の前で霞のように消えた、鏡に吸い込まれた、と表現されているというのだ。

 そんなオカルトチックな話を鵜呑みには出来ないが、何の手掛かりもない今はそれが唯一の情報だった。

 鏡市の歴史を調べる為に、三行はここへ戻って来たのだ。

 しばらくは実家暮らしで、温かい飯が食えそうだ。

「おっとそろそろだな」

 時計の針は間もなく午後六時を指そうとしている。三行はよいしょと腰を上げた。

――歳をとったなあ。

 体が軋んで仕方がない。夜も昼も関係なく働いているのは、警察時代から変わらない。背伸びをして筋肉をほぐしていると、

「三行君!」

 と、名を呼ばれた。声のした方を見ると、加山響子が手を振ってこちらに駆け寄って来るのが見えた。三行はぺこりと頭を下げた。

「義姉さん、お久しぶりです」

「久しぶりね。元気だった?」

「ええなんとか」

 三行はボサボサ頭を掻いた。あっと思い出したように顎に手をやり、無精髭の感触にしまったと顔を歪めた。

「すいません、野暮ったい恰好で」

「いいのよ」

 と、響子は笑った。そしてしばらく三行の顔を眺めた。

「今あの人も、こんな顔になってるのね」

 三行は、響子の夫一行かずゆきの双子の弟である。

「もう四十ですからねえ。いいおっさんですよ」

 兄の失踪以来、響子と会う度に緊張する。同じ顔だから思い出させてしまうのではないかと心配してしまうのだ。

 案の定響子は三行の顔を見て、夫に思いを馳せた。

「あら、あなたがそういうなら、私はもっとおばさんだわ」

 響子は、三行たちより二つ年上だった。大学時代によく行っていた銀行の窓口にいたのが響子だった。清潔感のある綺麗な彼女に兄は一目惚れした。

 あの頃のスッキリとした響子の印象は今も変わらない。

「いやいや、そういう意味じゃなくて。義姉さんは今も若いですよ」

 三行は慌てて言い繕った。

 二人は場所を変え、近くの居酒屋へ入った。まだ時間が早いのか客は少ない。和風なインテリアでちょっと薄暗い照明の店である。座席は全て仕切ってあり、込み入った話も出来そうである。そういえば、三年前にはこんな店はなかったな、と三行は呟いた。

 テーブルについて、とりあえずビールを頼んだ。

「そういえば美湖は元気ですか?」

「ええ、おかげさまで」

「もう来年大学生ですよね、早いなあ。えっとK大かな?」

「一応ね」

「そうか、俺たちの後輩になるんだな。楽しみだ」

「受かったらの話よ」

 ビールが運ばれてきて、響子はすぐに瓶に手を伸ばしたが、ああ俺が――と三行が先にそれを奪って響子のグラスにビールを注いだ。

「お疲れ様」

 と、お互いの一日を労い乾杯をした。

「あーうまい」

 三行はぐっと飲み干してグラスを置いた。響子はすぐさま空いたグラスにビールを注いだ。

「――あの人、今頃何してるんだろう」

 今回も何も進展がなかったことは、響子も分かっている。

「すみません、俺の力が及ばずに」

「そうじゃなくて。いつまで待てばいいのかって話よ」

「そうですよね」

 いっそ夫が死んだと分かれば、彼女も第二の人生を歩めるのだろうに。中途半端に引き摺られる形となっているから、それは気の毒に思う。

 一行の足取りは全く掴めなかった。それこそまるで霞みたいに消えたのだ。

「彼を最後に見たのは美湖なのよ。彼は美湖とお風呂に入ろうとしてたの。そして居なくなった。なかなかお風呂から出てこないからおかしいと思って覗いたら、脱衣所で美湖が一人でぼーっと立ってたのよ」

 それは聞いた。何度も。その件について、当時の美湖は知らない、わからないと言った。

「もう、あれから十一年ですからねえ。美湖の記憶を辿るのも難しいでしょうね」

「ええ」

 会う度に響子はそのことを話した。気持ちとしては美湖を問い詰めたいのだ。頭の中を覗けるものなら覗きたい、そう思っているのだろう。だが、五歳だった美湖に問い詰めることなどできなかった。今ではもう、当時の状況を覚えているかさえ怪しい。

「美湖が時折何かを言いたそうにするの。父親のことを何か――いえ、違うわね」

 そう独り言のように言った。響子はまだ一行を諦めてはいない。

「俺は、カズは生きてると信じたいです。でも――」

「でも?」

 少しの間沈黙した。言っていいものかと考えていた。

「でも、いくらカズに語り掛けても返事がないんですよね」

「どういうこと?」

「双子の勘――とでもいうんですかね。ああ、あいつ今こういうこと考えてるなとか、そういうのが不思議と分かったりするんですよ」

「――それで?」

「ああいや、それだけの話です」

 それを聞いた響子も、少し躊躇するように口を開いた。

「美湖が」

 そう言いかけて、すぐに首を振った。

「違うわ、美湖の独り言は彼が居た時からだったもの。それも言葉をしゃべるようになってからすぐに」

「ああ、美湖の――」

 娘がよく独り言を話すんだ、と一行が楽しそうに話していたことを三行は思い出した。

「今の話を聞いて、もしかしたら美湖は父親と話してるんじゃないかって思ったけど、違うわね」

 三行は顎に手を当てて何やら考えていた。

「美湖はお兄さんと話してるんでしたっけ?」

「そうよ」

「本当にいるのかも」

「何言ってるの?」

「いや、うち、加山家が双子家系だって知ってますよね? 俺たちの父も双子で、祖父も双子だったんですよ」

「ええ、それが?」

「バニシングツインってご存知ですか?」

 響子は首を横に振った。

「お腹の中では双子だったけれど、片方が弱って死んでしまったりすると、もう片方の胎児や胎盤に吸収されて消えてしまうことです」

「それが?」

「美湖は――双子だったんじゃないんですか?」

 響子はもう一度首を横に振った。

「いいえ、それならばお医者さんに聞いているはずだわ」

 たしかにそうですねえ、と三行は天井を仰ぎ見た。

「いえね、もしバニシングツインなら、美湖が兄さんと話してるっていうのも、あり得るのかなあって――吸収された兄と話してんのかなあなんてね」

 そう言って三行は、どこか懐かしそうな目をしながら、グラスの中でゆらゆらと上っていくビールの泡をぼんやりと眺めた。

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