第8話 昼休み
「双子だとなぜそう思うの?」
舞が美湖に尋ねた。
いつもの休憩所で、美湖は自分で作った弁当を広げて舞に見せた。この弁当箱の中身を知り尽くしているはずなのに、蓋を開ける瞬間はやはりわくわくした。特に凝ったものは作っていない。卵焼きにウィンナー、ほうれん草のバター炒め。それでも舞は、すごいすごいと言って褒めてくれた。ここに本郷がいようものなら、それこそ一口くれだの、僕にも作ってくれだのと、調子のいいことを言って騒ぎ立てるに違いない。気合いの入った弁当ならともかく、質素な中身だけに余計に恥ずかしい。だが本郷はまだ来ていない。
ひとしきり美湖の手作り弁当で楽しんだ後、話題は週末の件の話になった。
あの後美湖は、兄の存在について舞に打ち明けた。幼い頃から兄の声が聞こえていたこと。常識で測れなくて悩んだこと。兄の存在を隠し続けることが、自分と兄の絆を守ることだと思い、今まで誰にも言わなかったこと。それなのに、まだどこかで妄想である可能性も拭い切れていないことも。
兄も同じアパートで、同じように母と二人暮らしをしていて、同じ時間に眠り、同じ時間に目覚め、同じバスに乗って同じ学校に通っている。同じように舞とお昼を過ごし、そこにはやはり同じように本郷がやってくる。そんな同じような日々を送っているという。それに対して、
「鏡みたいね」
と、舞は言ったけれど、それがそうとも言えないと美湖は答えた。全く同じではないのだ。例えば美湖に告白をした本郷は、兄の世界では舞に告白したという。そう伝えると、舞はあからさまに迷惑な顔をした。
「でも――そうよね。鏡写しならば、そっちの世界も美湖がいるはずだものね。なのに美湖の立場にお兄さんがいる」
そうなのだ。
「妄想でないなら何なんだろう。どういうことなんだろう。今の話だけじゃ理解出来ないわ」
それは決して美湖の話を否定したわけではない。うまく想像が出来ないのだ。美湖は「兄」を声でしか確認していない。もし心的ストレスが起こす幻聴ならば、そのストレスの原因となるものが分かれば、なぜ「兄」という存在が美湖の中で生まれたのか突き止めることも出来るだろう。
しかし、「兄」の存在を事実とするなら、美湖に起きていることは超常現象でしかない。それはつまり、謎――なのだ。
話を戻そう。
双子だとなぜそう思うのか。
「なぜって――舞だってそうじゃない。舞のお母さんは、舞が気づいた時からずっとお母さんでしょ? 改めて戸籍抄本見せられたわけでもないのに、舞はお母さんのことをお母さんだと信じてるわ」
舞は天井を見て、うーんと唸ってから、そうね、と答えた。
「私も兄さんのことを、双子の兄さんだって信じてるだけよ」
「わかったわ」
舞が賢くて本当によかったと思う。美湖の拙い説明でも理解してくれるのだから。
「――ここにいるのね?」
舞は美湖の右耳辺りに手をかざした。
「はじめまして、美湖のお兄さん。私は美湖の友だちよ」
「兄さんも知ってるわ。舞は兄さんの幼馴染でもあるの」
そっか――舞はすっと手を引いた。
二人は小学一年生からの付き合いである。
「でも、お兄さんが知っている稲沢舞は私じゃないわ」
「そうね」
「不思議だわ」
舞はつくづくそう思って言った。
「小さい頃、美湖が独り言――ううん、お兄さんと話してる時、本当にそこに誰かがいるような気がしたわ。でも見えないから、私だけ見えないのかと思って不安に思ってた時があったの」
「そうなんだ――なんか、ごめん」
「でも、他の子たちも不思議そうな顔してたから、みんなも見えてないんだ、よかったって思った」
「私、ぶつぶつってあだ名付けられてた。よく男子にからかわれてさ……でも、いつも舞が助けてくれたよね。ありがとう」
「だって私と遊んでくれるの、美湖だけだもの」
「え?」
「気づかなかった? 私、美湖以外に友だちいなかったんだよ?」
そうだっけ、と美湖は首を傾げた。
「放課後は塾とか習い事でほとんど遊べなかったから。週末も家にいないことが多かったし。遊びに誘ってもいつも断るからって、みんなに遠慮されてたのよ。それに、あの家の子にケガでもさせたら大変だってお母さんに言われた子もいたみたい」
「なにそれ」
舞の家は資産家である。家が裕福というだけで、他は何も変わらないと美湖は思う。
「でも、学校ではみんなと一緒に遊んだじゃない」
「美湖が私をみんなの輪の中に連れてってくれたからよ。私が誘われたことはないわ」
「――そう、だったんだ。ごめん、気づいてなかった……と思う」
「ううん、いいの。美湖がいつも私の手を引いてくれたから嬉しかった」
舞は笑った。
「美湖だけはいつも一緒に居てくれたわ」
二人は共にお互いの孤独を救ってきた。
「でもね――」
舞は少し躊躇うように、間を置いた。
「美湖がお兄さんと話している間、正直寂しかったかな」
それが、舞に臨床心理士という将来を描かせる動機でもあった。
「ねえ、舞こそどうしてそう思ってることを私に言わなかったの?」
舞は一瞬表情を曇らせたが、すぐに気を取り直して言った。
「だって、私よりお兄さんが大切って言われちゃいそうで……そしたら私、ひとりぼっちになるじゃない」
怖かったのよ、と寂しい顔をした。
舞もまた、美湖との絆を守る為に「兄」の存在に触れることを避けていたのだ。
ならばなぜ今になって急に?
「それが――自分でもよく分からないんだけどね」
舞は箸を置いて手を合わせ、食べ終わった弁当箱を片づけた。
「あの時――土曜の前の晩よ。美湖がいなくなってしまうような気がしてならなかったの。とても怖くて不安で、会わずにはいられないって思った」
どうしてだかわからない、と舞は肩をすくめた。
「そういえば、本郷君今日来ないね」
「え? ああ、そうね。どうでもいいけど」
「いつも美湖を追っかけてくるのに。学校休んでるのかな」
「さあ」
本郷のことなどどうでもよかった。だが、舞は心配そうに辺りを見回した。
「さっき本郷君の声が聞こえたような気がしたんだけどな」
「あいつ、どこででも大声出してそうだもん。きっとどっかで喚いてるのが聞こえたんじゃない?」
「そうかな」
「どうしたの? そんなに心配?」
「心配――かな。よくわからないけど、彼のことも気になるの」
美湖はもしやと目を輝かせて舞を見た。
「そんなんじゃないわよ」
と言って、舞はベンチから立ち上がった。
「待って舞」
美湖は舞のセーラー服の裾を引いた。
「ん?」
「あのね――」
見下ろすと、美湖が急に表情を変えて今にも泣きだしそうにしているから驚いた。舞はもう一度ベンチに座り直して、美湖の手を握った。
「どうしたの?」
きゅっと唇を噛む。そして絞り出すように、
「聞こえないの」
と、言って美湖は目を潤ませた。
「兄さんの声が聞こえないの。もう三日も話してない。こんなこと初めてよ」
「美湖――」
「木曜日の夜に話したのが最後よ。それから何度話しかけても答えてくれない」
何かあったのかもしれない、と美湖は顔を覆って泣き出した。舞は美湖の肩を抱いて頭を撫でた。
「大丈夫よ。もう少し様子を見てみたら?」
舞の腕の中で、美湖は小さく頷いた。
「もし、お兄さんと話が出来なくて不安でたまらなくなったら、いつでも私に電話していいからね」
美湖がもう一度頷く。
舞はまだ迷っていた。お兄さんの存在をどう受け止めようかと。現実か妄想か――それによって掛ける言葉も違ってくる。美湖が九割で現実だと思っているのなら、舞はまだ半分にも満たない。信じてあげたいが、常識がそれを否定する。こんなもどかしさを美湖はずっと抱えて来たのかと思うと、やはり放ってはおけない。
「ただいまー!」
複雑に絡もうとする思考をばっと吹き飛ばすように、その声は耳を劈いた。
突然、目の前に本郷が現れたのだ。舞は思わず身を縮めた。
「……」
あまりに驚いたせいで言葉が出てこない。
「あれ、加山先輩どうしたんですか?」
舞にしがみついて泣いてる美湖を見て、本郷が心配そうに身を屈めた。跪いて顔を覗き込もうとしたが、咄嗟に舞がぎゅっと美湖を抱きしめてそれを阻んだ。
「――いたのね、本郷君。今日は来ないのかと思った」
舞がとりあえずそう言った。本郷はなぜかぽかんと呆けた顔をした。
「さっき僕、弁当買ってくるって言ったじゃないですか。売店で買うの忘れて――冗談で加山先輩に弁当分けてって言ったら怒られて。結局、売店走ったけど売り切れてたから外のコンビニまで行ってたんすよ。それで遅くなって――」
本郷の言っていることが理解出来なくて、舞は眉をひそめた。
「何言ってるの?」
「え?」
二人の会話を聞いていた美湖が、ゆっくりと顔を上げて本郷を睨んだ。
「今はあんたのバカに付き合ってる気分じゃないの。あっち行って」
そう言われて、本郷は申し訳なさそうに、すいません――と頭を掻いた。
「ごめんなさい。今日は美湖のことそっとしてあげて」
「なんかあったんですか?」
「うん、色々とね」
「はあ」
本郷は立ち上がって、じゃあまたと言って肩を落としながら去って行った。その背中を見送りながら、
「あんなにキツく言うこともなかったんじゃない?」
と、舞が言う。
「だって……わけわかんないこと言うからイラッとしてつい――それに私の泣き顔覗こうとした」
「まあね――でも心配してくれてたよ」
美湖は手で涙を拭った。
「ごめんね、もう大丈夫よ」
「うん」
特に口にするつもりはないが、本郷が来てくれたおかげでこの場が治まった気はする。倒れかけた気持ちを持ち直すことが出来た。
「行こ」
再び舞はベンチから立ち上がり、美湖の手を引いた。
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