第7話 加山先輩
月曜日。
会えない週末を乗り越えて、待ちに待った昼休みだ。
本郷はクラスの廊下の窓から下を覗いた。すると、いつものように休憩所へ向かう憧れの加山美湖の姿を見つけて心を躍らせた。
「一日一回は加山先輩の姿を見ないと死んでしまう!」
毎日彼女の姿を見つけるのが楽しみでならない。授業以外は必死に美湖を探しているから、完全にストーカーだと同じクラスの女子から大層気味悪がられている。今更他の女子からどう見られようと構やしない。
あれは入学してすぐの頃、全校集会でのことだった。少し離れた場所にいた彼女に目を奪われた。とても綺麗な人だと思った。すっと背筋を伸ばし、その場に凛として立っていた。セーラー服の襟から伸びた白くて細い首。黒髪に赤いカチューシャが映えて、とても美しい色合いをしていた。彼女の回りだけ輝いて見えて、まるで女神が降りて来たのかと思うほど神秘的だった。目を奪われ、心も奪われ、居ても立ってもいられなくなり、気がついたら彼女の前に立っていた。そして、
「好きです! 付き合ってください!」
と大声で叫んでいたのだ。全校生徒の前で。
次の瞬間、彼女のきゃあっという悲鳴と共に左頬に衝撃を感じてよろめいた。平手打ちを食らったのだ。それで我に返って、すぐさま彼女の前に土下座した。
しかし、これしきで留まる想いではなかった。次の日も、その次の日も、目は自然と彼女を追い、見つけては駆け寄った。だが、当然のように声を掛けても知らん顔をされた。そんな時、
「しつこく話しかけると逆効果だ」
と、なぜか名前も知らない男が言ってきた。さらにそいつは、
「挨拶をされて返さないということに罪悪感を覚えるはずだから、近いうちに必ず挨拶が返ってくる」
という。藁にも縋る思いでその男の助言に従い、挨拶に徹することにした。そして二週間後。
「――おはよ……」
小さな声だったが、確かに彼女が挨拶を返してくれたのだ。
「マスターと呼ばせてください!!」
感激して思わずその男――マスターにしがみついて泣いた。マスターも共に男泣きした。
こうして、あの事件からわずか二週間で話しかけることを許された。もちろんこれがゴールではない。やっとスタートラインに立ったのだ。
「加山先輩今行きます!」
窓の方をちらちらと、愛しの加山先輩から目を離さないようにして廊下を走った。前をよく見ていないから、当然人とぶつかる。
「おーっと、前を見て歩きたまえよ、本郷君」
「その声はマスター!」
本郷はよろける足を踏ん張って声の主を指さした。マスターも華麗な足さばきで、よろめく体勢をさっと立て直した。ついでに勢いでずれたメガネもすっと整えた。
「女神のところに行くのだろう?」
そう言って、マスターは窓の方をぴっと指さした。
「あまり、がっつくのは良くないな」
「え?」
乱れてしまった七三分けの前髪を指でしゅっと揃えてから、マスターはふっと溜息をついた。
「そんなに慌てるとはあまりにも幼い。もっとどっしりと構えたまえよ」
「はあ」
本郷の肩に手を置き、とつと叩いて落ち着かせた。
「たまには焦らすこともしないとな。いつも飛んでやって来る君が、今日はなかなか来ないぞと不安に思わせるのだ。そこへ君が顔を出せば、女神はほっと安心する。知らず知らずのうちに、君の存在が不可欠になるという作戦だ」
「なるほど!」
「昼休みのチャイムが鳴れば、一目散に女神の元へ駆け出し休憩所で待ち構える。今の君はまさにパブロフの犬だ。君はいつまでたっても女神たちのペットだ」
たしかに、と本郷は頷いた。
ちょっと変な感じの人だけど、マスターの意見は概ね当たっていると思う。
「わかりました。じゃあちょっと遅れて――」
本郷は今まで恋愛の経験はない。だからマスターの助言は本当にありがたい。
「行ってきまーす!」
マスターに大きく手を振ると、今の助言を理解したのだろうかという勢いで掛けて行った。
どうでもいいが、またマスターの名前を聞くのを忘れた、と本郷はふと思った。
彼は確か二年の先輩だったと思う。
今度メールで聞こう。
ちなみに、本郷のスマートフォンには「マスター」で登録されている。
――さていつ顔を出そうか。
休憩所に着いて、彼女たちのすぐそばの、柱の陰に身を潜めた。女の子が二人、談笑している光景はとても微笑ましく思う。加山先輩はもちろんだが、稲沢舞先輩もめちゃくちゃ可愛いから余計に。本郷はだらしなく顔を緩ませた。
――何を話してるんだろう、僕が来ないことを心配してるのかな?
などと、かなり都合のいい妄想をしながらその時を待った。無論、その時など本郷のタイミングでしかないのだが。
しかしすぐに、重大なミスをしていることに気づいて愕然とする。
「やっべ、弁当買ってない!」
思わず大声で叫んでしまった。
「あら、本郷君」
それに気づいて、稲沢舞がこちらを覗き込んで声を掛けた。
「うっ、あ――こ、こんにちは」
もうタイミングどころじゃない。慌てふためく。
――今の僕はめちゃくちゃかっこ悪い!
びくびくしながら稲沢舞の隣を見た。
「やあ」
一人の男がいた。
「どうした保、弁当なしか?」
男は本郷を「保」と下の名前で呼び、くすくすと笑った。
――その笑顔は、
「いやあ、やっちまいました」
――ああそうだ、思い出した。
「どうしよう、まだ弁当残ってるかな」
いつもの笑顔じゃないか。
いつものあの人の。
本郷はえへへと笑って頭を掻いた。
「加山先輩、ちょこっと分けてくださいよ。いつもパンも買ってるでしょ?」
加山先輩と呼ばれた男は、お道化た顔をして嫌なこったと言った。
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