第6話 母と娘
ドアの開く音がした。
居間でテレビを見ていた加山響子は、娘が帰って来たのだろうと思い、玄関に向けてちらっと顔を覗かせた。
「おかえり美湖」
そこにはやはり娘の美湖が立っていて、軽く溜息をついたのが分かった。
いつもなら母の顔を確認すると、にこっと笑顔を見せるのに、今日は表情が固く暗い。
「どうしたの? 浮かない顔だけど――舞ちゃんとケンカでもした?」
「しないわ。そういうんじゃない」
「あらそう」
思春期真っ只中の娘である。放っておくわけではないが、あまりしつこくすると心を閉ざされる。微妙な加減が難しい。
ここは娘が自分から話すのを待とうと思った。
「晩ご飯はカレーよ」
当たり障りのない話題を振ってみる。
「わかってるわよ。外まで匂いがしてた」
美湖はそう返事すると、さっと自分の部屋へ入ってしまった。
響子は軽く息を吐いた。
「美湖ー、お腹空いてる?」
部屋の外から声を掛ける。
「――あんまり」
ベッドに身を投げて顔を突っ伏しているのだろう。くぐもった声で返事がきた。
「そう、じゃあお母さん先に食べるわね。お腹空いたら自分で温めて食べなさい」
「うん」
響子はそれだけを伝えて、キッチンに行った。
正直言うと、響子もさほどお腹は空いていない。むしろ後で一緒に食べるのでも構わない。けれど、美湖が今は誰とも顔を合わせたがっていないようだったから、一人で食べることにしたのだ。いただきますとスプーンを持ち上げた時、美湖がすっと部屋のドアを開けて出てきた。
「やっぱり食べる」
「そう」
響子はさっとカレーを皿によそってあげた。
テーブルに向かい合わせになって、二人はカレーを食べた。けれど、美湖はずっと俯いたままだ。カチャカチャと皿とスプーンがぶつかる音だけが部屋に響いた。特に会話もないまま黙々と食べて、もう少しで平らげてしまうという時に、沈黙に痺れを切らした響子が話題を振った。
「そういえば、面談っていつだったかしら?」
「え? あ、三者面談――確か、来週だったと思う。わかんない、後で確認する」
美湖はすっかり忘れていたのだろう。もう一度、三者面談か――と呟いた。
「進路希望は変わらないんでしょ? K大だよね?」
「うん、たぶん」
「たぶん?」
「ねえ、お母さん」
やっと、俯いていた美湖が顔を上げた。
「舞ね、臨床心理士になりたいんだって」
「まあ」
舞ちゃんならなれるわ、と根拠のない感想を響子は言った。実のところ、臨床心理士が何なのか詳しく知らない。医療的な仕事というくらいの認識しかなかった。
「私、舞みたいに目的がない。大学に行くのだって、みんなが行くから私もってだけだし」
響子は娘の話を黙って聞いた。
「だめだね……一人じゃ何にも出来ないし、決められない。舞とは大違い――」
そう言ってしゅんと肩を落とす娘に、響子はどう声をかけようかと考えあぐねた。
「――舞ちゃんと美湖の人生は違うのよ。美湖はまだ決める時じゃないのよ、きっと」
「でものんびりしてられないよ? あと一年もないんだよ?」
美湖は不満そうに言った。
「誰もが高校生で将来を決められるわけじゃないわ。もしかしたら、大学で目的が見つかるかもしれないじゃない」
「それは――」
とても暢気な話だと美湖は思った。
「今全てを決断するのはムリよ。だからって、のんびりしてていいとは言わないけれど。手探りなのは仕方がないわ」
響子は出来る限り娘を慰めることに努めた。綺麗な言葉で飾ってしまわずに、高圧的にならないように十分注意を払いながら。
「タイミングは人それぞれよ。大丈夫、きっと大丈夫よ」
響子の気遣いは、かえって当たり障りのない意見にしかならず、美湖の浮かない顔が晴れることはなかった。そもそも響子が三者面談の話題を出したから、それについての悩みを口にしたにすぎない。美湖は、
「そうね――ごちそうさま」
と、半ば諦め気味にその話題を打ち切った。この件についての焦りは自己解決するしかないのかとつくづく思ったからだ。誰かに打ち明けてスッキリする類のものではなかったのかもしれない。
美湖は食器を片付けて再び部屋へ行こうとしたが、響子の方を振り向いて何か言おうと口を開いた。しかし、すぐに止めた。少しの間目を泳がせたが、ふっと笑顔になって、
「そうだ、月曜日から私、自分でお弁当作るから」
と、言った。
「あら、どうしたの急に」
「ううん、なんとなく。お母さん大変そうだし」
響子は気づいた。それが、本当に言いたかったわけではないことを。
「ふふ、ありがとう。じゃあお願いするわ」
なのに気づかないふりをしてしまった。
――まただわ。
響子はこの違和感に覚えがあった。
美湖が三歳の時、誰もいない宙を見て語っている姿をよく見かけた。それは幼児期によくあることだと聞いたから、さほど気には留めなかった。だが五歳になり、いよいよ小学生かという時期になっても、その独り言は止まらなかった。
夫がよく美湖の独り言に付き合っていたのを思い出す。癖になるからやめてと言ったが、夫は美湖の話を面白がった。聞けば、美湖は自分の兄と話しているという。もちろん妄想だと思った。兄などいないと教えても、美湖は頑として首を縦に振らなかった。
美湖が小学生になる寸前に夫が失踪した。失踪の原因は未だに分からない。私は酷くうろたえて伏せった。唯一話を聞いてくれていた父親が突然いなくなり、しかも毎日泣き明かす母親に困惑して、美湖はだんだん塞ぐようになった。妄想も加速して、頭の中の兄とひっきりなしに会話するようになった。私はだんだん美湖が怖くなったのだ。このまま妄想を止めず自分の世界に籠るようなことになれば、この子は社会から取り残されてしまう。たちまち虐めの的になってしまう。何よりも、この子とどう接していいか分からなくなったのだ。それで慌てて病院に駆け込んだ。どの医者も子供の妄想だと言った。成長すれば治まると。夫が失踪している事実を知ると家庭内に問題があるのではと言われ、受けなくてもいい屈辱を受けたりもした。
しかし心配をよそに、美湖は小学生になると妄想を止めたようだった。兄のことを口にすることはなくなった。私は安心して、それから働きに出た。夫に代わって生活費を稼がなければならない。
時が経ち、夫がいない状況にも少しずつ慣れ、ようやく生活にリズムがつき始めた頃だ。時々美湖が何か言いたげに私を見ることがあるのに気がついた。問いかけても美湖は何も言わない。それが何度となく繰り返した。何度尋ねても何も言わないから、私もしだいに尋ねなくなってしまった。
――あの時と同じだわ。
美湖が部屋に戻っていくのをじっと見ていた。
――もう一度尋ねてみようか。
でもまた何も言ってくれなかったら?
私は、この子に頼りない姿を見せてきた。信用されていないのだ。尋ねたのに何も言ってくれないと、やっぱり私じゃ話す気にならないんだと傷つくから怖い。
「ねえ美湖、何かあったら話してね」
そう告げるのが精一杯だった。
私はダメな母親だ。
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