第5話 伊達に付き合い長くない

 珍しく舞に呼び出された。

 土曜の午後。

 週末、舞はよく家族と小旅行に出かける。旅行といっても別荘に行くだけだ。舞の実家は、地元ではちょっとした有名な資産家である。

 そんな舞から週末に誘いがあるのは珍しいことだった。

 舞ほどのお嬢様が、なぜ市立高校に通っているのか不思議だった。学力もあるのだし、もっと上の学校を目指せばよかったのにと美湖は思う。南鏡高等学校は進学校であるが、残念ながらトップクラスではない。美湖は母子家庭だったから、たとえ学力があったとしても、何かとお金のかかる私立学校を選択するつもりはなかった。上を目指せと期待される程の学力もなかったから、南鏡を受けますと宣言した時は、誰も反対しなかった。しかし、南鏡高校の開校に伴って驚異的に跳ね上がった競争率に、勝てるかどうかはかなり心配された。結果的にその年だけは、トップクラスの進学校より難関になったのだ。けれど、それは入学するまでの話で、中に入ってしまえば、やはり二番手三番手である。トップクラスの私立進学校に比べると何もかも緩かった。

 舞は中学時代、いつも成績はトップだったのだ。誰もがトップクラスの進学校に行くと思った。今でもなぜ南鏡を受けたのか謎である。

「お待たせ」

 舞が待ち合わせのカフェに入ってきた。

「ごめんね、私が呼び出したのに遅れちゃって」

 五分の遅刻は、いつものことである。

 のんびり屋なのはわかっているので、気にはしていない。

 美湖はバスの都合で、待ち合わせ時間より十分早く着いていたが、

「私も今さっき着いたとこ」

 と、返事をした。

「そ、よかった」

 舞は笑顔を見せた。美湖と向かい合わせに座ると、手をあげてウエイトレスを呼んだ。

「アップルティーをひとつください」

 ――アップルティー……!

 コーヒーをすすっていた美湖は、舞の女子力との差に思わず肩を竦めた。

 白いワンピーススカートに、赤いレースのカーディガン。小さな花のペンダントが揺れていた。

 学校では一つに結んでいる髪を、今日は下している。シンプルで可愛いコーディネートの中に大人の色気をさりげなく織り交ぜてくるあたり、狡いと思う。

 美湖はというと、赤いチェックのミニスカートに黒いカットソー、白いスプリングコートは椅子の背もたれに掛けている。舞と比べると、どこか頑張っている感じがして、恥ずかしい。

 そしてまさかの色かぶり。

「ごめん」

「どうして謝るの?」

 なんだか舞の品を下げているような気がしてならない。何色を着てくるのか聞けばよかった。

 美湖がそんなどうでもいいことを後悔しているところに、舞のアップルティーが運ばれてきた。

 ウエイトレスに軽く会釈をすると、舞は早速話を切り出した。

「ねえ、美湖。私に隠してることがあるわよね?」

 美湖はきょとんとした。

 舞は、ティーカップを上品に両手で持って一口飲んだ。

「私が何にも気づかないとでも思ってるの?」

「えっと――」

 美湖は焦った。

 ものすごく責められている。舞は怒っている。でも、何を?

「何年一緒にいると思ってるの? 私には本当のこと話してくれてもいいんじゃない?」

「ごめん――何のこと」

 伏し気味だった睫毛がくいっと持ち上がり、舞のうるんだ瞳が美湖を見た。

「いつかは話してくれると思ってたの。でも全然そんな気配ないから」

「だから、何が――」

「お兄さんのことよ」

 ――今、なんて

「私、知ってるのよ。美湖が頭の中で話してるもう一人の自分のこと、お兄さんって呼んでるの知ってるんだから」

「あ、あの――舞、あのね」

「恥ずかしがらなくていいのよ。美湖のこと、ずっと見てたんだもの。今更驚かないわ」

 美湖は動揺した。

 兄のことがバレたからではない。

 舞の口から「兄」という言葉が発せられた瞬間、確かに「兄」が美湖の世界に存在したのだ。今まさに。

 それは美湖にとって喜び以外の何ものでもない。

「私、本郷君にまで嘘吐かなきゃいけないのかと思うと、なんだか彼が可哀想で」

「え……は? 本郷?」

 急に今の話題に関係のない本郷の名前が出てきて、美湖は一瞬面食らった。

「あ、ごめんね、嘘だなんて――そういうことじゃないの。その……なんて言ったらいいか」

 舞は懸命に言葉を探した。

「美湖が病気だなんて思ってないよ。美湖の中には本当にお兄さんがいるんだろうし、それがおかしいことだなんて思わない」

 美湖はまた、舞の口から飛び出す「兄」の存在に震えた。

「でも、みんなはそうは思わないわ。そのことを知ったら、みんな美湖を変な目で見てしまう。本郷君だってそうなるかもしれない。私はそれが嫌なの」

 ――それは。

 舞のおかげで今のところ、独り言を呟く女という程度の認識で留まっている。

「私は信じてるから、美湖のこと。だから正直に話してくれないかな。美湖の中で何が起こっているのか知りたい」

 確かに、最近は独り言の域を超えていたように思う。つい兄との会話に夢中になって、周りへの配慮を欠いていたように思う。

 ――内緒にしよう。

 そう兄と誓った。

 幼い頃、兄の存在を母に打ち明けた時、母は酷く動揺して泣いた。娘が心を病んでいると思ったのだ。兄などいない、兄のことは一切言うなと迫られた。それから、いくつもの病院に連れて行かれたことを覚えている。

 だから、内緒にしようと兄が言ったのだ。

「美湖、私ね……将来臨床心理士になりたいと思ってるの」

「え?」

「あなたと出会って、あなたと心の底から話がしたくて。中学の時、そういう学問があるって知ってそれで」

 ――それは。

「そうよ、心の問題と向き合う仕事よ。病気じゃないって思ってる。でも美湖が話してくれないなら、なんとか自分で美湖の中を覗きたいと思ったの」

 ――だからか。

「だって美湖から目が離せなくて」

 ――だから南鏡を受けたのか……私と一緒にいる為に。

 コーヒーカップがカタンと音を立てた。美湖がわずかに動揺して震えたからだ。

「私――舞をそんなに心配させてたの? そんなに、苦しんでるように見えてたの?」

 舞は首を横に振った。

「違うわ……正直言うとね、悔しかったのよ。美湖がお兄さんと秘密を持っていて、それが楽しそうで幸せそうで。私も仲間に入れて欲しかった」

 舞はバッグの中からハンカチを取り出すと、そっと自分の瞼に押し当てた。

「狡いと思ったわ。私も一人っ子なのよ。美湖も一人っ子のはずなのにお兄さんがいるんだもの」

「舞……」

「美湖の真似をしてみたけれど、うまくいかないの。妄想は妄想よ。だから分かるの、美湖の中にいるお兄さんは特別だって」

 ――兄さん、どうしたらいいの? お願い、答えて

 美湖は何度も呼びかけるが、兄は何も言わない。

「急にそんな話――びっくりするじゃない」

 美湖は相当焦っていた。

 今ここで何かを言わなきゃいけないのか、何か答えを出さなければいけないのかと。

 頼りの兄はまだ無言のままだ。

「ど、どうしちゃったのよ、舞――」

 これが、わざわざ週末の旅行をなしにしてまで、問い詰めたかったことなのだろうか。

 それほどまでに、舞の中で悩みが臨界に達していたのだろうか。

「今話したくないならそれでもいいわ。ただ、私が話を受け入れる気持ちでいることを知っていて欲しかったの。それだけよ」

 と言って、舞はアップルティーをもう一口飲んだ。

 そして、言い終えたという感じで、ほっと一息ついて、椅子の背もたれに背中を預けた。

「ねえ、何か甘いもの食べる?」

 何事もなかったかのように、舞は美湖にメニューを差し出した。

 その自然な振る舞いに、美湖は思わず釣られた。

「え――じゃあ、食べようかな」

「私、ホットケーキ」

 舞がにこやかに言う。

「私、ホットサンド」

「それ、甘いものじゃないわ」

「いいの」

 美湖はウエイトレスを呼び止め、ホットケーキとホットサンドを追加で注文した。

「ねえところで、お兄さんの名前なんていうの?」

「美月……あ」

 ――言わされた!

 してやられたなと思って舞を見ると、いつもの柔らかい微笑みでこちらを見ている。

 舞には敵わない。

「もう、わかったわよ」

 美湖は深く溜息をついた。

 舞の見せかけに騙されてはいけない。彼女はなかなか強かだ。

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