第46話 不安と決意
「それは……」
「でも、お兄様はお姉さまとの結婚を止めてくれるって。リリーはお兄様と一緒にいたいだけだから、別に結婚なんてしなくても良いわ」
「
朱威竜はリリー・メイをちらりと見ただけで、すぐにお兄様に鋭い視線を戻しました。
「とはいえ私も租界の事情をよく知る訳ではない。だから今聞いている。どうなのだ、エドワード。結婚もしないでずっとリリーを手元に置いていたら、奇異の目で見られるのではないか?」
「それは……そうかもしれない」
お兄様がためらいがちにうなずいたので、朱威竜もまた怖い顔になっていたので、リリー・メイは心配になってまた口出ししました。
「リリー、お兄様と一緒にいて良いんですよね? 今、良いって言ってくれましたよね?」
「そう、確かに。だが、エドワードがどれだけ覚悟しているか知りたいのだ」
そう言われて、リリー・メイはお兄様の方を振り向きました。リリー・メイと朱威竜、それから黙ったままの
「……独身の者が会長では、商会の経営に多少影響はあるかもしれない。妻がいないと気が利かないとか性格が難しいとか思われがちだから。だが、言いたい者には言わせておけば良い。今でも商会の仕事のかなりの部分を私が仕切っている。文句は言わせない」
朱威竜はお兄様の答えに満足しないようでした。目を細めて重ねて問い詰めます。
「またわざとずらして答えたな。それはお前の事情だろう。莉麗についてはどうなのだ?」
「……仮に何か言う者がいるとしても、リリーの耳には入れないようにする。私といることで、彼女が嫌な思いをすることがないように」
「閉じ込めるのはもう止めると言ったのに?」
「それは……」
ためらいがちなお兄様に対して朱威竜の言葉は刃物のようにとても鋭くて、お兄様は軽く口を開いたまま黙り込んでしまいました。
はらはらとしてお兄様と朱威竜を見比べながら、リリー・メイはベアトリスお姉様やジェシカのことを思い出していました。
叔父と姪では結婚できないと言っていたお姉様。兄妹はあまり抱きついたりなんかしないものだと言っていたジェシカ。リリー・メイがお兄様を好きになるのも、お兄様がリリー・メイを好きになるのもいけないことのように言われてしまったのです。
二人だけでなくて、租界の人はみんなそう言うということなのでしょうか。今聞いた感じだと、お兄様のお仕事にも迷惑を掛けてしまうようです。リリー・メイと一緒にいるために。とても悲しくて申し訳ないことです。でも――
「でも、リリーはお兄様が好きなの。誰に何を言われても良いから一緒にいたいわ」
そう言うと、大人たちの目がリリー・メイに集まったので少し怖くなりました。特に、お兄様が目を丸くして口元を結んでしまったのを見て、小さな声でつけたします。お仕事が大変になるから、お兄様はやっぱり嫌になってしまったのかと思ったのです。
「……お兄様が良いって言ってくれるなら」
「ダメに決まっている!」
お兄様があまりに大きな声で、険しい顔で怒鳴ったので、リリー・メイは怖くて首をすくませてしまいました。
「ダメなの? リリーはお荷物になる?」
「ああ、以前の私のようなことを言って……!」
お兄様は朱威竜を気にするように少しだけ表情を窺ってから、リリー・メイの頭を胸に抱き寄せました。
「ダメというのは、君が我慢する必要はないということだ。そんなことは間違っている」
「そう、なの……? でも、大丈夫なの、お兄様?」
朱威竜と香蘭がいるので恥ずかしくて、リリー・メイはお兄様から離れようともがくのですが、お兄様にしっかりと抱え込まれてしまいます。
「大丈夫。必ず何もかも大丈夫なようにするから。人を好きになることは何も恥ずかしいことでもおかしいことでもないんだから」
「そのために、どうするのかを聞いているのだが」
朱威竜の声はとても怒っているようだったので、リリー・メイは恐る恐る首をひねってそちらを見ようとしました。でも、お兄様がぎゅっと腕に力を込めたのでそれはできませんでした。代わりにお兄様の顔を見上げると、さっきまでの不安そうな顔とは違って何かさっぱりと思い切ったような表情をしています。そして、お兄様ははっきりと言いました。
「それはこれから考える!」
「それが通ると思っているのか」
朱威竜の声が今までになく低くて怖かったので、リリー・メイはお兄様にしがみつきました。でも、お兄様の表情は揺らぎませんでした。
「考えの甘さを気付かせてくれて感謝する、
「………………」
朱威竜はじっとお兄様を睨んでいましたが、やがて目を伏せるとため息を吐きました。
「逃げ出さなかっただけまだマシか」
そして少し穏やかな口調で続けます。表情もその分だけ和らぎました。
「まあ、本当にそのような心配が必要になるのにまだ数年あるだろう。それまでによく考えてどうするか決めろ。私を納得させろ。……できるならそれまでに莉麗が心変わりしていて欲しいが」
「そんなことしないわ!」
だから、リリー・メイも大きな声を出す勇気が出せました。お兄様が必ずと言ってくれたし、自信がありそうな表情だったから安心したのです。
「そうか」
朱威竜は、どういう訳かまた顔を顰めてしまったのですが。そして、反対に香蘭がくすくすと笑っていたのが、とても不思議だったのですが。
張り詰めた雰囲気がようやくほぐれたので、やっとお茶の香りもお菓子の味も分かるようになりました。甘い餡を包んで胡麻をまぶして揚げたお団子に、少し苦目のお茶がよく合います。黒っぽいと思っていたお茶の色も、このお屋敷にお邪魔するうちに慣れたものになってきました。
そして、リリー・メイは今日のもう一つの目的を思い出しました。
「お兄様、ダニエルのこともお話しないと」
ダニエルが朱威竜と
「ああ、そうだったね」
お兄様はやっぱりとても緊張していたのでしょう、夜遅くにお仕事から帰ってきた時みたいな、擦り切れたような表情をしていました。
「お兄様、食べる?」
「ああ、ありがとう」
元気になって欲しかったのでリリー・メイのお団子を一つお兄様に分けてあげると、お兄様は嬉しそうにゆっくりと飲み込みました。それからお茶を飲み干して、お兄様は改めて朱威竜に向き合いました。
「老朱、頼みがあるんだが――」
一通り話を聞き終えると、朱威竜はまた顔を顰めました。
「あの子供はお前の婚約者の弟ということではなかったか? 婚約を破棄しようというのにどうして親しくしようとするのだ」
「でも、ダニエルはリリーのお友達なの。玉蓮も租界のお茶会が楽しみみたいだったし、練習みたいな感じで……」
「姉は姉、弟は弟と分けられるような子供なのか? 普通は怒りそうなものだが。……本当に結婚を止めたのだろうな」
朱威竜がまた怖い顔に、お兄様が不安げな顔になったので、リリー・メイも心臓がどきどきしてきました。
「まだ正式に断った訳ではない……あちらに非があることではないし。ただ、私は絶対に彼女とは、ベアトリスとは結婚しない。当事者が嫌だと言っている以上、無理に結婚させるなんてできないはずだ」
「そうだと良いが。どうせこれも家だの商売だのに影響するのだろう」
お兄様は何も言いませんでしたが、表情を曇らせてしまったことからして本当なのだろうと思います。
「
リリー・メイの胸がちくりと痛みました。朱威竜がため息混じりに言ったのは、お兄様とお姉様のことだけではないと思います。
「……それは痛感している。本国の法も文化も華夏と比べて進んでいるということはなかった。偏見がないつもりで、私も華夏を見下し哀れんでいたと思う。だが、老朱」
お兄様もリリー・メイと同じことを考えたのでしょう、一瞬だけ悲しそうに顔を歪めました。でもすぐに表情を改めて、さっきのような思い切った顔で言いました。
「ダニエルは、あの少年はまだ幼い。リリーとも仲良くしてくれている。そういう子が華夏に歩み寄ろうとしているのは、そういう友人がいるのはきっとリリーのためになる。私から離れることを選んだとしても、きっと」
「お兄様! そんなこと言わないで……」
悲鳴を上げたリリー・メイとは逆に、朱威竜は少し唇を持ち上げました。
「少しは考えているのだな」
「考えるって……何を?」
リリーと離れることなんて考えるのは嫌だわ、とリリー・メイは朱威竜を睨みました。でも、それも笑われてしまいます。馬鹿にするような感じではなくて、にっこりと柔らかな笑顔でしたけど、それでも面白くありません。
「リリーの居場所を作ることを、だ。
世間から隠して独り占めしようとしないだけ、進歩したと言えるだろう。分かった、玉蓮にも聞いてみよう」
「会ってくれるのか」
ほっとした表情のお兄様に、朱威竜はうなずきました。
「玉蓮についてはあの子が良いと言ったら、だが。まあ良い勉強になるだろうし……莉麗とエドワードへの祝いになるかもしれないからな」
最後の一言の意味がよく分からなくてリリー・メイは首を傾げたのですが、その後朱威竜が玉蓮を呼んでくれると言ったので、不思議に思ったことはすぐに忘れてしまいました。
しばらくしてお屋敷にやってきた玉蓮は、ダニエルのことを聞いて目を輝かせました。
「ほんと!? 行きたいわ!」
「では衣装を新調しなくては。間に合うかしら」
「良いの、
「今度は金蓮の意見も聞いてね」
「それだと赤いドレスになってしまいます」
「洋装ではまだ赤いのは持っていないから良いでしょう」
「そっか……。明るい色があっても良いかも!」
香蘭とお喋りする玉蓮がにこにことしているので、リリー・メイも楽しくなってきました。さっきまでがとても怖い雰囲気だったから、尚更です。友だちのダニエルと玉蓮がお互いに仲良くなってくれたら、リリー・メイが二人を紹介できたら、きっととても嬉しいことでしょう。
それに、新しいドレスの意匠や色を、目をきらきらさせて語る玉蓮を見ているうちに、少し羨ましくなってきました。
「お兄様」
だから、ついおねだりをしてみようと思ってします。お兄様の袖を引っ張って、首を傾げて見上げます。
「リリーも新しい服が欲しい。お買いものに行ってみたいわ。とても具合が良い時なら大丈夫じゃないかしら」
感冒が流行っているから人の多いところはいけないと言われてはいるのですが、悩むことがなくなったからか、よくお出かけをするようになったからか、最近は寝込んでしまうようなこともほとんどなくなりました。
朱威竜のいる前なら、お兄様も断りづらいのではないかしら、と期待を込めて見上げると、お兄様は困ったように笑いました。
「どうかな、私は当分忙しいから――」
「では私が連れて行こうか。玉蓮も色々小物を見なくてはならないだろう」
「老朱? だがそれでは悪い……」
横から朱威竜が口を出したので、お兄様は一層困った顔になりました。でも、お兄様や朱威竜が更に何か言う前に、玉蓮が嬉しそうに手を叩きました。
「莉麗も一緒? もっと楽しみになったわ!」
リリー・メイも玉蓮とのお買い物はとても素敵だと思いました。一緒に生地を選んだ時も楽しかったのです。今度はリリー・メイのものも、靴や髪飾りなんかの小物も比べ合いながら選んでみたいです。
だから、続けての問いかけはさっきよりも弾んだ声になりました。
「お兄様、行っても良いかしら?」
「……仕方ないね。くれぐれも、無理はしないように」
リリー・メイの目も、玉蓮と同じように輝いていたのでしょう。やがてお兄様も諦めたようにうなずきました。それを聞いて、リリー・メイは玉蓮と顔を見合わせて歓声を上げます。
それに、お兄様を安心させてあげるのも忘れません。
「分かっているわ。大丈夫よ、今度もお兄様のところに帰ってくるから」
「莉麗、ちょっと」
ひとしきりお喋りをして、お買い物の日取りを決めて。帰りの馬車に乗り込もうとしたとき、香蘭がリリー・メイを呼び止めました。
何かしら、とちょこちょこと駆け寄ると、香蘭はリリー・メイの耳元にささやきました。
「旦那様は手伝ってあげる気よ。ラドフォード様が気付くのを待っているの。莉麗からそれとなく教えてあげてね」
「手伝ってくれる? 本当ですか?」
朱威竜はあんなにお兄様を睨んでいたのに。信じられない思いで香蘭を見上げると、いつものようにおっとりと笑っていました。
「ええ。娘のためですもの。だから莉麗も頑張ってね」
香蘭の黒い瞳は吸い込まれそうで不思議な感じがしました。優しそうで、でもしっかりとした強さもあって。
お兄様に気持ちが伝えられて何もかも良くなったと思っていましたが、今日はそんなことはないと思い知らされてしまいました。お姉様のこと、結婚のこと、お仕事のこと。まだまだどうなるか分からないことだらけだったのです。
でも、香蘭の綺麗な目を見ていると、確かに頑張らなきゃ、と思えました。リリー・メイは、絶対にお兄様の傍にいると決めたのですから。
「――はい!」
だから、リリー・メイはしっかりとうなずくと、お兄様を追いかけて馬車へと急ぎました。
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