第45話 申し込み

「できたわ!」


 リリー・メイははさみで毛糸を切ると肩から力を抜いて歓声を上げました。ジュ威竜ウェイロンにあげる手袋の、最後の仕上げをしていたのです。手袋の指のところを一本一本編んで、先を絞るのは細かい作業だったので、すっかり肩が凝ってしまったのです。


「間に合って良かったね」

「ええ。本当は、水通しもしたかったけど」


 手は綺麗にして編んだから汚れているということはないと思うのですが、一度洗って水を通したほうが目も揃うのです。編み上げたものをそのまま渡しても良いかしら、とリリー・メイはお兄様に向かって首を傾げました。


「渡すのは次にした方が良いかしら」

「さあ、この前の埋め合わせということなら今日でも良いと思うけど。綺麗にできていると思うし。

 ……それに、ずるいことを言うなら、君からの贈り物があった方がラオ朱に話がしやすいな」

「じゃあ包んでしまうわ。次はもっと時間を掛けて作れば良いもの」


 お兄様が今から緊張している様子なので、リリー・メイは安心してもらおうと微笑みかけました。

 今日は朱威竜のお屋敷にお邪魔する約束をしています。玉蓮ユーリェンに借りた服を返すため、と伝えてはありますが、お兄様はずっとリリー・メイと一緒にいられるようにあの人にお願いするのだそうです。どうしてかは分からないのですが、ずっと一緒にいるためにはお父様に許してもらわなければいけないそうです。


「きっと喜ぶよ。さあ、支度をしておいで」

「ええ、お兄様」


 出来上がったばかりの手袋を胸に抱えて、リリー・メイは着替えに向かいました。

 ジェシカに手伝ってもらいながら選んだのは、青いベルベット地のドレスです。ベアトリスお姉様にいただいた中の一枚です。

 お兄様は百貨店で好きな衣装を作ろうと約束してくれたのですが、今が降誕節前でお兄様が忙しい上に、感冒が流行っているので人の多いところには当分行かない方が良いということになっています。だから、しばらくの間は手持ちの服やいただきものを着まわす予定です。


「出来上がりましたよ、お嬢様」

「ありがとう」


 髪を結ってもらったリリー・メイは後ろの編み込みがどうなっているか確かめようと鏡の前で一生懸命首を捻りました。そうすると、ジェシカに笑われてしまいます。


「綺麗になっていますから安心してくださいな」

「ええ、ありがとう。でも見たいの」

「では、こうしましょうね」


 ジェシカは鏡をもう一つ取り出すと、鏡台と合わせ鏡にして真後ろが見えるようにしてくれました。編み込みがレースみたいにきっちりとなっているのを確かめて、リリー・メイの気持ちはふわりと浮き立ちました。


「素敵!」

「ええ。お気を付けていってらしてくださいね。エドワード様もいるから大丈夫とは思いますけれど」

「……大丈夫よ」


 ジェシカはやっぱり華夏フアシア人の朱威竜を信じていないみたいなので、リリー・メイはこっそりとため息を吐きました。




莉麗リリーが私のために? とても、嬉しいな。ありがとう」


 手袋を渡すと、朱威竜はとても嬉しそうな表情で笑いかけてくれました。ジェシカが一体何を心配しているのか、リリー・メイには分かりません。


「また作ります。この前のお詫びにと思って急いでしまったの」

「それでも嬉しい。莉麗が私のことを考えてくれたということだから」


 朱威竜があまり嬉しそうにしていて、珍しいくらいににこにことしているので、リリー・メイは恥ずかしくなって話題を変えました。


玉蓮ユーリェンも何か作ったりしますか?」

「刺繍が得意だな。香蘭シャンラン金蓮ジンリェンも良い腕だから。後は、たまに水餃シュイジャオを包むこともある」


 褒められて、一緒に席に着いていた香蘭が微笑みました。

 それに、水餃は以前このお屋敷でいただいたことがあります。ひき肉の餡をもちもちした小麦粉でできた皮で包んで茹でたもので、つるつるとしていていくらでも食べられそうな一品でした。リリー・メイの顔にも思わず笑みが広がります。


「自分で作れるの? 美味しそう」

「今度教わると良い。租界でも材料は揃うだろうから」

「はい!」


 お兄様はリリー・メイと朱威竜が話しているのを黙って聞いているだけでした。少しだけ笑っていますが、やっぱり緊張しているようです。でも、話しかけるよりは、きっと朱威竜と楽しそうにしている方が良いのだろうと思って、リリー・メイはお兄様を促すことはしませんでした。

 それでも緊張はリリー・メイにも移ってしまって、せっかく出してもらったお茶もお菓子も楽しむどころではありません。朱威竜や香蘭とお喋りしながらも、早く話してくれないかしら、とお兄様の方を気にしてしまいます。


ラオ朱。話したいことがある」


 お兄様がやっと切り出したのは、それぞれがお茶のお代わりをいただいた頃になってからでした。


「そうではないかと思っていた」


 朱威竜も茶器を置いて表情を改めました。和やかな雰囲気が一転してぴりっとしたものになったので、リリー・メイも緊張してお兄様と朱威竜の顔を交互に見比べました。


「老朱、私は貴方に嘘をついてしまった」


 お兄様が軽く唇を舐めました。


「以前、リリーを育てたのは邪な思いからではないと言っただろう。あれは嘘だ。嘘になってしまった。いや、最初は確かに両親を亡くした子を守らなければと思ったし、自分では邪な思い出はないつもりだ。だが、貴方にはきっと許しがたいと思う。それを承知で言う」


 お兄様がそれだけのことを言う間にも、朱威竜の顔はどんどん怖いほどに険しくなっていきました。お兄様を励まそうと、リリー・メイはテーブルの下でそっと手を握りました。お兄様は、その手を握り返して深呼吸すると、朱威竜を真っ直ぐに見て続けました。


「私はリリーを心から愛している。一人の女性として。一生傍に居て欲しいと思っている。

 他の女性との結婚は止めるしもう閉じ込めたりしない。今まで間違った愛し方をしていた自覚も彼女の人生を奪ってしまった自覚もあるが、できる限り償う。世界を見せて出会いを与える。その上でリリーに選んでもらえるように努める。だから――」


 朱威竜はずっとお兄様を睨んだままです。お兄様がリリー・メイの手を握る力が一層強くなりました。


「リリーを貴方に返す訳にはいかない。私に任せて欲しい」


 沈黙はほんの何秒かだけだったと思います。でも、永遠のように長く感じられました。やがて、朱威竜がゆっくりと唇を開きます。


「……リリーは? それで良いのか?」


 リリー・メイは慌てて頷きました。


「リリーもお兄様が好きです。お兄様だからじゃなくて、恋人として好きなの。玉蓮がちゃんと気持ちを伝えなきゃって言ってくれたから――それで、お兄様も一緒にいてくれるって言ったから」

「まあ。玉蓮も大人になったわね」


 くすくすと笑った香蘭を、朱威竜が横目で睨みました。そしてリリー・メイの目線に合わせるように身を乗り出してゆっくりと言いました。


「莉麗、気持ちが変わることはないか? 貴女の人生のことだ。今決めてしまって良いのか? この男はろくな人間ではないぞ」

「変わりません。どんな人でもお兄様が大好きだから。

 お兄様もリリーはきっと嫌いになるからってなかなか信じてくれなかったの。でも、誰と会ってもどこに行っても絶対にお兄様のところに帰ってくるから、って分かってもらったの」


 朱威竜が顔を顰めたので、リリー・メイはダメと言われてしまうのかしら、と怖くなってしまって、心臓のあたりをぎゅっと握り締めました。


「――老朱」


 お兄様がおずおずと言いました。怖いのはお兄様も同じなのでしょう。こんな恐る恐るの口調は聞いたことがありません。それに、お顔の色も白いほどになってしまっています。


「私を殴るか? それとも跪いて許しを乞うか、華夏流に平伏するのが良いだろうか」

「莉麗の前でそんなことができるか。そしてその程度で許されると思うな」


 朱威竜は吐き捨てました。そして、苛々したように指先でテーブルを叩きました。リリー・メイがいなければ本当にお兄様を殴ってしまいそうなほど怒っているように見えたので、リリー・メイは椅子をずらしてお兄様にできるだけ近づきました。


「第一、お前が――愛しているのは本当に莉麗か? 翡蝶フェイディエの影を重ねているだけではないか?」

「それは違う」

「本当に?」

「はっきりと言える」


 疑うように目を細める朱威竜に、お兄様は大きく頷きました。


「これも貴方に謝罪しなければならないことだが――私は翡蝶と一人の人間として向き合っていなかったと思う。美しいから、それに境遇を哀れだと思ったから勝手な感情を押し付けていた。私も彼女を追い詰めた一人だと思う」


 リリー・メイはそんなことまで言わなくて良いのに、と思ってはらはらしました。朱威竜は翡蝶を好きだったのだから、そんなことを聞いたらお兄様のことがもっと嫌いになってしまうと思います。


「なのに莉麗を望むと言うのだな?」


 思った通り、朱威竜の声も目も一段と鋭くなった気がしました。でも、お兄様も迷ったりためらったりしないですぐに答えます。


「そうだ」

「恥を知らないな」

「分かっている。それでも私にはリリーが必要だ。思い通りになる子供だからじゃない、強くて優しい女性だからだ。私がリリーを守っているのではなくて、もはやリリーが私の支えになっている。だから、もう離れることなんて考えられない」


 お兄様の言葉に喜ぶ気持ちと、朱威竜が何て答えるか心配な気持ちの間で、リリー・メイの心臓は破裂しそうでした。握ったままの手も汗ばんでしまって滑りそうです。

 どうかうなずいて欲しい、そう願ってリリー・メイは難しそうな顔で黙り込んでしまった朱威竜を見つめました。


「――お前は幾つになる、エドワード?」


 随分長い時間が経ったような気がした後――実際にはせいぜい何分間かだったかもしれませんが――、朱威竜が言ったのは、とても簡単な文章でした。でも、どうして今そんなことを聞くのか分からなくて、リリー・メイは聞き間違えてしまったのか、そうでなければこの人が言い間違えてしまったのかと思いました。


「二十七だが……?」


 お兄様も同じように感じたのでしょう、不思議そうに答えます。そうすると、朱威竜はますます嫌そうな顔をして深く深くため息を吐きました。


「どうして自分と十しか変わらない男に娘をやらなければならないのだ」

「老朱!」


 リリー・メイの手からお兄様の手がするりと抜けました。お兄様がテーブルに手をついて勢いよく立ち上がったのです。


「では――許してくれるのか!?」


 それを聞いて、リリー・メイもやっと意味が分かりました。


「良いの? 本当?」


 朱威竜はうなずきました。変わらず顰めっ面ではありましたけど、それでも間違いようもなくしっかりと。


「莉麗も好きだと言っているなら仕方がない。……そもそも形ばかりのような気がしてならないが。とにかく、翡蝶のことがあった以上、娘たちには意に沿わないことはさせないと決めている」

「ありがとう……!」

「莉麗が嫌がるようならすぐにさらいに行くから忘れるな」

「ああ、もちろんだ」


 リリー・メイも立ち上がって朱威竜の前まで行くと、ぺこりとお辞儀をしました。


「あの。本当に、ありがとうございます!」


 お姉様といいジェシカといい、リリー・メイとお兄様が兄妹でなければ嫌な人ばかりに囲まれているのです。朱威竜が、お父様が、お兄様を好きと言う気持ちを認めてくれたのがとても嬉しくて仕方なかったのです。


「……莉麗が喜ぶなら良かった」


 朱威竜はリリー・メイの頭を撫でてくれました。表情はまだ怒ったようなものでしたけど、それもリリー・メイを大事に思ってくれているからだと分かります。お兄様にリリー・メイを取られてしまうのがイヤだという、これも嫉妬という気持ちなのでしょうか。


「ありがとう、ございます」


 それでもリリー・メイの一番はお兄様なので、もう一度お礼を繰り返すことしかできません。もっと何か言ったほうが良いかしらと考えていると、香蘭が声を掛けてくれました。


「莉麗、座って。お茶が冷めてしまったでしょう。淹れ直すわ」

「はい、奥様。いただきます」


 まるで助けてくれたようで、やっぱりこの人は素敵なレディだと思います。リリー・メイは安心して、今度こそ良い香りのお茶と甘いお菓子を心から楽しむ気になりました。


「それで、これからどうするつもりだ?」


 でも、そう言った朱威竜の真剣な口調に、リリー・メイは何だか落ち着かない感じがしました。玉蓮も呼んでくれるとか、食事は食べていくのかとかとは違う、とても大事なことを話している感じがしたのです。


「どう、とは……」


 お兄様が戸惑うように首を傾げたので、朱威竜は少し苛立ったようでした。さっきほどではありませんが、鋭い口調で続けます。


「結婚をやめるとは聞いたが、莉麗と結婚できる訳でもないだろう。華夏の法でも租界の法でも叔父と姪の結婚は許されない。

 いつまでも独り身で幼い姪を手元に置いている男は、租界ではどう見られるのだ?」

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