第44話 罪を知ること

 翡蝶フェイディエが――リリー・メイのお母様が――死んでしまったのは私たちのせいだった。


 そう言うなり、お兄様はリリー・メイを抱き締めて何も言わなくなってしまいました。リリー・メイには何が何だか分かりません。


「お兄様……? 何のお話をしているの……?」


 戸惑いながら尋ねると、お兄様はただごめん、と繰り返しました。


「どうして謝るのか分からないわ……。ねえ、翡蝶のことなら教えて。お母様のことを知りたいの」

「ごめん、リリー」

「……お兄様を嫌いになったりしないから、教えて?」


 リリー・メイはちょっともがいてお兄様の腕を緩めると、手を伸ばしてお兄様の髪を撫でました。そうすると、お兄様の身体から少し緊張が解けたのが分かります。


「うん。……でも、多分今度こそ嫌いになるよ」

「ならないから。絶対に、大丈夫よ」

「ありがとう」


 繰り返し言うと、お兄様はやっと微笑んでくれました。完全にではないけれど、安心してくれたようです。

 嫌いにならない、は魔法の呪文のようだわ、と思います。絵本のように不思議なことが起きる訳ではないけれど、様子のおかしいお兄様がお話してくれようになる呪文です。

 リリー・メイを抱えたまま、お兄様はつぶやくように言いました。


「翡蝶は、二つの国の狭間の存在であることを、誇りに思っていた――ジュ威竜ウェイロンは、そう言っていたということだね?」


 リリー・メイは一瞬考えてからうなずきました。誇り、という言葉が少し難しかったのです。


「そうね。そういう言葉で言っていた訳ではないけど、そうだと思う」


 すると、お兄様は深くため息を吐いてリリー・メイの髪を揺らしました。


「私は、翡蝶が朱威竜を愛したのは彼が華夏フアシアの貴人だからだと思っていた。彼女が芯では華夏の女だからと思っていた。だから租界に閉じ込められて哀れだと思っていたんだ。無理に片言の華夏語で話しかけたりして。笑ってくれない翡蝶をひどいと思っていたな……」


 リリー・メイは力を抜いてお兄様に寄りかかりました。翡蝶のことを話していると、お兄様がどこかに行ってしまうようで怖いのです。もう翡蝶に嫉妬したりなんかしないけれど、お兄様の傍にいるのはリリー・メイなのよ、と忘れないで欲しいのです。


「兄も――アルバートも翡蝶を哀れんでいたけれど、私とは逆の理由だった。言葉も見た目も本国のレディのようなのに、華夏人のように育てられたのが不幸だと思っていた。だから、彼女のために離れは建てたけれど華夏語を覚えようとはしなかったし、服も、新しくあつらえるのは洋風のばかりだった。靴も、本国風の意匠を小さく作らせて。

 兄は、彼女に華夏のことを忘れさせようとしているようだった」

「そうなの」


 リリー・メイは沈んだ声で相づちを打ちました。翡蝶が作ってくれたのも香蘭が履いていたのも、纏足チャンズーの靴はとても手が混んでいて綺麗でした。履いてはいけないと言われたら悲しいだろうと思います。

 お兄様はリリー・メイの頬に手を添えて上向かせると、また笑いました。青い瞳がどこか凍ったような色に見えて、悲しい微笑みだったのですが。


「翡蝶は自分のことを可哀想だと思っていなかったみたい。それに、あの人のことを好きになったのは、あの人に――必要とされたから、だったと思うわ」


 ためらいがちに、リリー・メイは切り出しました。リリー・メイは実際に翡蝶に会ったことがないから、決め付けてしまうことにならないか心配だったのです。でも、朱威竜から聞かされたこと、香蘭や金蓮ジンリェン玉蓮ユーリェンと会って思ったことを合わせると、多分そんなに間違っていないのではないかという気がしました。

 何より、訳もなく可哀想だなんて思われるのは嫌なものだとリリー・メイも知っています。翡蝶だってずっと誤解されたままでは嫌だと思うのです。


「言葉が分かるから租界の夜会にも行けるけど、華夏のことも分かるから奥様たちとも仲良くできるの。好きな人のためにできることがあって、嬉しかったと思う。

 リリーも、前よりも今の方が幸せよ。大事にされるだけよりお兄様に何かしてあげられてる感じがするの」


 そう言うと、お兄様はリリー・メイをぎゅっと強く抱き締めました。少し息苦しいくらいに。でも、お兄様がとても寂しがり屋で怖がりなのが分かってきていましたから、リリー・メイは髪や服が乱れるのにも構わず大人しくしていました。


「ありがとう。リリーは私に沢山のことをしてくれているよ。君がいなかったら、生きているのはもっとずっとつまらなくて――意味がないとさえ思ったかもしれない」

「本当? 本当なら嬉しいんだけど」


 お兄様があまりに嬉しいことを言ってくれたので、リリー・メイは恥ずかしくて、お兄様の真似をして疑うように聞き返しました。真似されたのが分かったのでしょう、お兄様はくすくすと笑いました。


「本当だよ。私がそう仕向けたことではあったけれど、ひたすら私だけを愛してくれる君がどれだけ私の心を明るくしてくれたことか。まして、絶対に嫌いにならない、なんて言ってくれるから、決して離れたくないと思ってしまう」


 そう、リリー・メイの耳元でささやいてから、お兄様はまたしばらく黙ってしまいました。そして、次に口を開いた時には、苦いものを口にしてしまったようなどこか苦しそうな声でした。


「私もアルバートも愛し方を間違えていた。哀れみ、閉じ込める一方でものは与えて恩を売るのは愛なんかじゃなかった。

 私は翡蝶の本国流の教養を、兄は根本となる華夏の流儀を否定した。自分の半身を否定されて、誇りを踏みにじられて。翡蝶が生きる気力をなくしたのも無理はない」

「お兄様……」


 リリー・メイはお兄様を抱き締めました。身体が小さくてきちんと包み込むようにできないのがもどかしいと思います。

 お兄様もアルバートも間違っていたのは本当のようでした。全然思ってもいないことで可哀想だと言われ続けた翡蝶は、きっと嫌な思いをしていたでしょう。

 リリー・メイだって、最近のお兄様の言っていたこと――本当の家族のことだとか、離れた方が良いだとか――は嫌で仕方なかったのです。

 でも、今はお兄様の方が心配でした。リリー・メイに嫌われはしないかと、お兄様はいつも怖がっているみたいです。いえ、それどころか嫌われるのがイヤだから自分から離れようとさえしていました。


「お兄様。リリーは翡蝶がいなくて悲しいと思うようになったわ。リリーを大事に思ってくれていたなら、傍にいて欲しかった、って。

 でも、だからってお兄様を嫌いになったりしないわ。怒ったりひどいと思ったりすることはあるかもしれないけど、ずっと好きよ。翡蝶がいないのも悲しいのに、お兄様までいなくなったらもっと悲しいわ」


 リリー・メイはお兄様の胸から顔を上げると、まだ辛そうなお顔のお兄様を下から覗き込みました。


「だから、離れた方が良い、とか言わないでね!」

「……もう言わないよ」


 ほとんど睨むように強く告げると、お兄様はぎこちなくですが笑いました。


「君がもっと大きくなったら、もっと私のこと――私のしてきたことをひどいと思うようになるだろうし、本当に嫌われてしまっても仕方ないと思う。逃げられてしまうかもしれない」

「お兄様!」

「でもね」


 リリー・メイはまたお兄様に抱え込まれてしまいました。まるでお人形みたいな扱いです。リリー・メイはお兄様がいたからそういうことはなかったけれど、絵本ではよくお人形をいないと眠れない女の子が出てきます。お兄様は大人だけど、リリーがいないと落ち着かないのかも、と思うと何だか嬉しくなりました。


「今となっては君から離れるなんて考えられない。もちろん、君が嫌だというなら止めることはできないけど――」

「そんなことないわ」

「私から離れることはないと、約束するよ。君を閉じ込めて騙してしまった分、絶対に君を幸せにする。嫌われることを怖がるよりも、君に好きでいてもらえるように頑張るから。だから、できるだけ一緒にいさせて欲しい」


 お兄様がやっぱり離れよう、なんて言い出さなかったので、リリー・メイはまず安心しました。次に、お兄様が続けたことがじわじわと胸に沁み入って、頬が熱くなりました。何かというと自分から遠ざかろうとしていたお兄様が、一緒にいたいと言ってくれたのです。幸せにすると言ってくれたのです。


「リリー、今でも十分幸せなのに」


 嬉しくて嬉しくて、リリー・メイはそう言うのがやっとでした。顔が赤くなってしまったのが恥ずかしくてお兄様の胸に頬を押し付けます。すると、お兄様はまた抱き締めて頭を撫でてくれました。


「もっと、だよ。君にしてしまったことを考えたらまだ足りない」


 お兄様はそっとリリー・メイの身体を離すと、屈んで目線を同じ高さに合わせて言いました。


「私は、翡蝶が好きだったから君を好きになってしまったのではないかとずっと恐れていた。でも、翡蝶に対しての感情は勝手な憧れと期待の押し付けだった。君の話を聞いて思い知らされた。

 だから、私が愛しているのは君だけだ、リリー」

「お兄様……」


 リリー・メイはうっとりとしてお兄様のお顔を見て、お兄様の言葉に聞き入りました。

 愛している、と言われたのは初めてのことではありませんでしたが、今までとは意味が違うような気がします。今までよりももっと――激しいような、熱いような気持ちが篭っている気がしました。家族と恋人では愛という言葉の意味が違うそうです。お兄様は、恋人という意味で愛していると言ってくれたのでしょうか。


「お兄様、キスしてくれる?」


 今なら恋人のキスをしてくれるかしら、と思ってリリー・メイはおねだりしました。べアリスお姉様にはしてくれたことをリリー・メイにはしてくれなかったので、羨ましくて仕方なかったのです。


「駄目だよ」


 でも、お兄様はそう言うとリリー・メイをそっと立ち上がらせました。ほとんどお兄様の膝の上にいるような体勢になっていたのです。


「どうして……?」

「リリーがもっと大人になったらね」


 代わりに、とでも言うようにお兄様はリリー・メイの額にキスをしました。でも、これでは納得できません。


「もう大人よ。それに、この前は――」

「そのことは、本当にすまなかった。無理やりでも、閉じ込めてでも、君を留めておきたいとおもってしまったから……でも、私の態度がひどかったのとは別の話で、子供にそういうことはしてはいけないんだ」

「そういうことって、なあに?」


 リリー・メイは唇を尖らせました。お兄様は結局リリー・メイを子供扱いしました。それに、曖昧なことを言ってごまかしているように思えてしまいます。はっきりと、分かるように説明して欲しかったのです。

 それでもお兄様は宥めるように笑っただけでした。


「あと数年もしたら分かる。ちゃんと教えるから。本当のことを言うと、私だって君にキスしたいのを我慢している。だから、あまり責めないでくれ」


 そして、お兄様は今度はリリー・メイの頬にキスをしました。


「じゃあ……リリーも我慢するわ」


 本当はまだ不服だったのですが、お兄様が優しいし二回もキスしてくれたので、リリー・メイは引き下がることにしました。そうするとお兄様がほっとしたように笑ったので、これで良かったのね、と自分に言い聞かせます。


「ありがとう。良い子だね」


 お兄様が頭を撫でようとした時、扉をノックする音が聞こえました。


「エドワード様? お嬢様はそろそろお休みの時間です」


 扉の外から聞こえたのはジェシカの声でした。それを聞くと、お兄様はさっと手を引っ込めてしまいました。


「ああ、もうそんな時間か。遅くまですまなかったね、リリー」

「ううん。翡蝶のことを聞かせてくれてありがとう、お兄様」


 そんなことを話していると、ジェシカが部屋の中に入ってきました。リリー・メイが寝る支度を手伝ってくれるのです。


「お勉強に夢中だったのですね。目が冴えてしまっていなければ良いのですが。眠れそうですか?」

「どうかしら。あんまり眠くないわ」


 机の上に広げた冊子ノートや筆記具は放ったらかしたままだったので、リリー・メイは少し後ろめたく思いました。それに、お兄様とくっついていたので、どきどきして眠るどころではなさそうです。


「お顔が少し赤いようですけど。お熱は?」

「ないと思う」

「あら、髪が乱れてしまって。何か悪戯をしていたのかしら」


 ジェシカは手を伸ばしてリリー・メイの髪を整えてくれました。それから机もちらりと見ましたが、開いた頁がほとんど白紙の冊子を見ても何も言いませんでした。


「……ちゃんとお勉強してたわ」

「でしょうとも。さあ、もうお休みの準備を。エドワード様、もうよろしいでしょうか?」

「ああ、夜更ししないようにしてくれ」


 お兄様は、今夜は三回目になるキスを頬に落としてくれました。沢山キスをしてもらって何だか特をした気分です。




 リリー・メイの手を引いて寝室へと向かう途中、ジェシカがぽつりと言いました。


「お嬢様、最近はエドワード様と――仲がよろしいのですね。ジェシカも安心しました」

「ええ、お兄様は優しいの!」


 リリー・メイは弾んだ声で答えました。ジェシカもお兄様が冷たいのを心配していたようですから、明るい顔を見せることができるのが嬉しかったのです。


「お嬢様が大人におなりになったからでしょうね」

「ええ、早くもっと大人にならないと」


 そうすれば、お兄様は恋人のキスをしてくれるそうですから。


「そうですね。そのためにも早くお休みにならないと。お嬢様はまだお歳の割にお身体が小さいのですから」

「ええ!」


 ジェシカの笑顔がどこかぎこちないのに少し首を傾げましたが、リリー・メイは大きくうなずいたのでした。

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