第43話 二人の時間
リリー・メイを睨んで立ち尽くしていたベアトリスお姉様の頬に、さっと朱が昇りました。
「リリー、あなた――」
裾の長いドレスでできる限りの大きな一歩でリリー・メイに迫ろうとしたので、リリー・メイは思わず身体を固くしてしまいます。
「姉さん、止めなよ!」
「ダニエル!」
そこで、リリー・メイをかばうようにお姉様に立ちはだかったのは、ダニエルでした。
リリー・メイから見えるのはダニエルの背中だけなので、どんな顔をしているかは分かりません。でも、お姉様に向けた言葉は、とてもきっぱりとして力強いものでした。
「リリーの言うとおりだよ。人の家族のことをどうこう言うのは失礼だろ!? 最近姉さんはおかしいよ、すぐ怒って……。リリーは姉さんにとっても妹みたいなものじゃないか。皆で仲良くしようよ!」
お姉様の顔がいっそう赤くなって、軽く開いた唇が震えます。これまで見たことがないほど眉がつり上がって。ダニエルにかばってもらっているからでしょうか、怖いというよりも大丈夫かしら、と心配になります。
「何よ。エドワードもダニエルもリリーの味方ばかり……!」
「お姉様」
くるりと皆に背を向けてつぶやいたお姉様の声が震えていたので、リリー・メイは泣いてしまうのかしら、と思いました。でも、伸ばそうとした手はダニエルに止められてしまいました。背中だけでも、ダニエルの全身に力が入って緊張しているのが分かります。
「リリー、そのままで良いから。ベアトリス、ダニエルの言う通りだ。リリーのためだと言うなら席について謝ってくれ」
それに対して、お兄様の声はとても冷静でした。いえ、表情は困ったように少し眉を寄せていたのですが。とにかく、リリー・メイやダニエルと違って慌てたりうろたえたりした様子はありませんでした。
「何よ」
繰り返したお姉様の声からも、震えはなくなっていました。でも、怒っているのはよく伝わる、力の篭った声でした。
「私はリリーのために言ったのに分かってくれないのね! 私なんて誰もいらないのでしょう。私以外で仲良くすれば良いわ!」
「ベアトリス」
扉へ向かったお姉様へ、お兄様は声を掛けたけれど立ち上がって止めはしませんでした。出て行く前に一瞬立ち止まったから、お姉様はきっと止めてくれるのを待っていたのだと思うのですが。
扉が乱暴に閉められた後、舞い散った埃が静まった頃にダニエルが恐る恐るといった口調で言いました。
「追いかけなくて、良いの? 姉さん、待ってるんじゃないかな……」
「頭を冷やした方が良いだろう。誰も来ないと分かれば戻ってくる」
「でも……」
「リリー、お茶のお代わりはいる?」
心配そうなダニエルに対して、お兄様はやはりとても落ち着いていました。
「ええ、お兄様……」
リリー・メイとダニエルは顔を見合わせましたが、お兄様があまりに何でもない風なので、ぎこちないながらもお喋りをまた始めました。お姉様がいなくなったところの、空いた椅子を気にしながら。
結局お姉様は、夕方になってダニエルが帰る時間になるまで戻ってきませんでした。
「ずっと拗ねたままなんて、子供のようだね」
「庭を見せてもらっていたわ。頭が冷えてちょうど良かった」
呆れたような口調のお兄様に対して、お姉様はまだ怒っているようでした。
お姉様のご機嫌を気にしながら、リリー・メイはダニエルと別れの挨拶をします。
「また、今度。今日は楽しかった」
「ええ。
「うん。よろしく」
どこかぶつ切れの受け答えになるのは、ダニエルもお姉様が気になっていたからでしょう。
「エドワード。別れのキスを」
お姉様がぶっきらぼうな口調でお兄様の前に立って、軽く目を伏せて顔を上向けたので、リリー・メイはどきりとしました。前にお兄様がお姉様の唇にキスを――恋人のキスを――したところを思い出したのです。
「ご機嫌よう、ベアトリス。次に会うまで元気で」
「…………」
でも、お兄様がキスをしたのはお姉様の頬にでした。
お姉様は唇を軽く噛んで、お兄様とリリー・メイを交互に睨みます。そう、睨んでいるのです。お姉様はリリー・メイが嫌いで、嫉妬しているのです。気付いてしまえば、これ以上なく明らかで分かりやすいことでした。
嫉妬してしまう気持ちはリリー・メイにも分かります。とても苦くて苦しいけれど、どうしようもないことでした。お姉様がそんな気持ちだなんて可哀想だし申し訳ないと思います。でも、お兄様を渡すなんてできないのです。
「お姉様、ご機嫌よう。……次はもっとお話したいわ」
だから、リリー・メイは何も知らない振りでお別れの言葉を言いました。
「ええ。リリーも身体に気をつけて」
お姉様も何もなかったかのように、少なくとも口調は穏やかに答えてくれました。目の鋭さは、変わることはなかったのですが。
「ベアトリスとはしばらく会わない方が良いね」
「ええ……」
お姉様たちを乗せた馬車が去っていくのを見送りながら、お兄様がぽつりと言いました。お姉様はもう前のように優しくしてくれないのね、と思いながら、リリー・メイもこくりとうなずきます。
リリー・メイの背中に手を回してお屋敷の中へ戻ろうと歩き出しながら、お兄様は続けました。リリー・メイを信じられるまで待っていてくれると言ってくれたあの日から、抱き締めたりはまだしてくれなくても手を触れたり頭を撫でたりはしてくれるようになりました。
「彼女の父上を通して結婚を取りやめる話をしているんだ。君に八つ当たりするとは思わなかったけれど。――嫌な思いをさせて、すまなかったね。お茶会の時といい、私はどうも読みが甘い」
「……リリーのために結婚をやめるの?」
リリー・メイは信じられないわ、と目を瞠ってお兄様の横顔を見上げました。お兄様がお姉様に取られてしまうのは嫌だと密かに思っていたのですが、言い出すことはできなかったのです。
「ああ。君を待つと言ったからね。結婚しておいてそんなことは言えないだろう? 君の場所を残しておかなければ」
お兄様は笑いましたが、リリー・メイは胸が痛くなりました。嬉しいのは嬉しいですが、お姉様が可哀想だと思ってしまうのです。でも、だからといってやっぱり結婚しても良いわ、なんて思えなくて、自分がとても勝手でひどい子だと思ってしまいます。
「お姉様はリリーに嫉妬してるの」
「まさか」
小さくつぶやくと、お兄様は慰めるように肩を抱き寄せてくれました。
「婚約を取り消されるのは女性には屈辱だろうから、彼女が怒るのも仕方ない。リリーは関わらなくて済むように、私が受け止めるようにするから」
「うん……」
お姉様が怒っているとしたら、お兄様よりもリリー・メイに対してのような気がします。でも、お兄様の腕が優しく包んでくれたので、リリー・メイは頬を寄せて不安を押し殺しました。
夜は、寝る前にお兄様に勉強を見てもらえることになりました。気持ちを伝えたあの日から、一時期のようにぴりぴりとした雰囲気はなくなったので、だいぶ楽な気持ちでお兄様とお喋りすることができるようになっています。
「次に誰かとお茶をする時にはリリーの隣に座るようにするね」
「どうして?」
「ダニエルのように何かあったら君をかばいたいから。……ダニエルはよく立ち上がったね。君を守れる位置にいて羨ましかった」
こんなやりとりも、少し前だったらできなかったでしょう。
焼き餅を焼いている様子のお兄様に、リリー・メイはにっこりと笑いかけました。勉強を見てもらう時はそれこそ隣同士に座っているので、お兄様との距離が近いのも嬉しいことでした。
「そうね、格好良かった。でも、お兄様の方が好きだから安心して」
「……ありがとう」
照れたようなお兄様の表情に、まだ完全に信じてくれていないのね、とリリー・メイは唇を尖らせます。いえ、でも怒ったりしてはいけません。リリー・メイはお兄様を嫌いになったりとしないと信じてもらえるまで、何度でもお兄様のところに帰ってくると約束したのです。一度目で信じてもらえるとは限りません。次の機会も、またその次も、必ずお兄様の方が大好きなのだと伝えていけば大丈夫でしょう。
「
「ええ」
お兄様が話題を変えましたが、リリー・メイは大人しくうなずきました。あの人のところへ行くのも、お兄様を好きだと伝える良い機会です。
「次に行く時にダニエルを連れて行っても良いか直接聞こう。
「そうなの?」
「三人、かな。リリーにもいて欲しいから。でも、ダニエルがいてはできない話なんだ」
「内緒の話なのね」
リリー・メイは少し嬉しくなりました。お兄様と共有できる内緒の話が増えるのはとても嬉しいことです。
「リリーのお父様だからね。リリーとずっと一緒にいさせてください、とお願いするつもりなんだ」
「あの人、ダメって言うかしら」
朱威竜はお兄様をあまり好きではないようだったので、リリー・メイは心配になりました。
「うん……だから一生懸命頼まないとね。リリーからもお願いしてくれると良いかもしれない」
「お願いするわ。お兄様と一緒にいられるためですもの」
「ありがとう」
何だかお兄様にお礼を言われてばかりのようで、リリー・メイは少しくすぐったい気持ちになりました。そしてお兄様が頭を撫でてくれたので、本当にくすぐったくてくすくすと笑います。
よく考えれば朱威竜にお願いしなければいけない理由が分からないのですが――そんなことはどうでも良くなってしまいます。
と、頭を撫でていたお兄様の手がリリー・メイを抱き寄せました。
「お兄様?」
突然に抱き締められる格好になったので、リリー・メイはきょとんとしてお兄様を見上げました。
「リリー。勉強が進まなくてごめん。聞きたかったのだけど」
「ええ」
「翡蝶が君のことを大事に思っていたって……老朱に聞いたの?」
「ええ」
お兄様が一層強く抱き締めてきたので、リリー・メイは仕方なくペンを机に置きました。あの日以来、お兄様がリリー・メイに甘えてくるような気がするのは、嬉しくも恥ずかしくもあることでした。
「どうして分かるんだろう。彼にしか知らないことがあるのか? 私は、彼女は君を見ていないとずっと思っていた……」
「あのね」
リリー・メイはお兄様の胸にうっとりと頭を預けながら言いました。お兄様がこんな風に強く抱き締めてくれるのは本当に久しぶりです。
「お兄様にいただいた刺繍の靴があるでしょう? 小さい、
「リリーに、纏足を? そんな――」
お兄様の声に嫌そうな響きがあったので、リリー・メイは慌てて付け足しました。
「リリーだって纏足は嫌よ。とても痛いそうだし。でも、
「私は、纏足は忌まわしいものと思っていたな。歩くのにも苦労していた翡蝶が気の毒で」
分かってくれたかしら、と見上げるとお兄様は少し顔を顰めていました。だから、リリー・メイは朱威竜に言われたことを一生懸命思い出そうとしました。ずっと気の毒だなんて思われていたら、翡蝶が可哀想だと思ったのです。
「翡蝶は纏足が嫌ではなかったそうよ。ええと――翡蝶は華夏人でも租界のレディでもなかったけど、他の人と違うということが武器になる、って言っていたそうよ。どちらでもないけど、どちらでもある――両方できるということかしら。凄い人だったと思うの」
お兄様が黙ったままだったので、リリー・メイは思い出すままに続けました。
「
そして気付くと、お兄様がとても辛そうな――今にも泣きそうな顔をしていました。
「お兄様? どうしたの? どこか痛いの?」
お兄様の顔に触れようと手を伸ばしたのですが、振り払うように首を振って逃げられてしまいます。でも、悲しくなる暇なんてありませんでした。
「ごめん、リリー。兄は――私は、何も分かっていなかった。翡蝶が死んでしまったのは私たちのせいだった!」
お兄様はそう叫ぶと、一層強くリリー・メイを抱きしめたのです。
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