第42話 可哀想なんかじゃない
ダニエルが休暇に入ったというから会いたいわ、とお願いしたら、お兄様が席を整えてくれました。そういうことなので、今日はベアトリスお姉様とダニエルが揃ってお屋敷に遊びに来てくれる日です。
リリー・メイのお友達は、
「思ったより元気そうで良かった。寒くなってきたから心配してたんだ」
リリー・メイの顔を見るなり、ダニエルは安心したように笑いました。時々手紙は交わしていたけれど、直に会ったのは
「最近は体調が良いのよ。お兄様と一緒にあちこち出掛けているからかしら」
「ほら、やっぱり運動したほうが良いじゃないか」
「本当に。ダニエルはとても背が伸びたのね」
もとからリリー・メイより一つお兄さんで少し背が高かったのですが、何ヶ月か会わない間に目線の高さが変わっていると思います。リリー・メイの周りにいるのは大人の人ばかりなので、男の子ってこんなにすぐに大きくなるのね、と目を瞠る思いでした。
「そうかな? これでもスクールだと真ん中よりは小さい方なんだ」
そう言いながらダニエルは得意そうな顔なので、リリー・メイは思わず笑ってしまいました。男の子は小さなことでも競争せずにはいられないのね、と。ダニエルの手紙を読んでいるだけで分かってきたのです。
「スクールのことも聞かせて。同じくらいの子が沢山いるところって、リリーにはよくわからないの」
「ああ、もちろん!」
ダニエルと話していると、お兄様がじっとリリー・メイを見ているのを感じました。
でも、リリー・メイはあえて知らない振りで、ダニエルと楽しそうに話します。
お兄様はリリー・メイがダニエルの方を好きになってしまうのではないかと心配なのでしょう。お兄様とお姉様が仲良くしているのを見ていた時の嫌な気持ち、嫉妬の苦さはリリー・メイも覚えていますから、お兄様も同じ気持ちをしているかと思うと申し訳なく思います。
でも、これは必要なことなのです。他の人と楽しそうにしていても、好きなのはお兄様だけなのだと、必ずお兄様のところに帰ってくるのだと信じてもらわなければいけませんから。
お兄様の射すような視線を心地良く感じながら――だってそれはお兄様がリリー・メイのことを好きだという証拠ですから――、リリー・メイはダニエルの手を取って客間へと案内しました。
「そんなに喜んでくれるなんて。ダニエルを連れてきて良かったわ」
席についてお茶とお菓子を出してもらうと、お姉様がにっこりと微笑みました。お兄様の隣の席なのが落ち着かないのですが、仕方ありません。リリー・メイだってダニエルの隣に座らなければいけないのですから。
「子供同士だからね。気が合うんだろう」
「私たちが結婚したらもっと気軽に行き来できるわね」
お姉様のお土産のカップケーキ――降誕節にふさわしく、アラザンとアイシングで可愛らしく飾られたものでした――をいただく手を止めて、リリー・メイはお兄様の様子を伺いました。
お姉様との結婚をどうするかについて、お兄様とはまだちゃんと話していません。前に朱威竜に対して結婚を考え直すと言っていたので、止めてくれないかしら、と思ってはいるのですが、リリー・メイからそうとお願いするのはさすがにためらわれました。
「まだ結婚した訳じゃない。どうなるかなんて分からないよ」
お兄様は結婚しない、とはっきり言ってくれなかったので、リリー・メイはがっかりしました。でも、ダニエルもいる前で出来る話ではなかったかもしれません。結婚に乗り気なところを見ないで済んだだけでも、良かったと思った方が良いのでしょうか。
がっかりしたのはお姉様も同じなようで、お兄様に向かって少しだけ唇を尖らせました。お姉様は大人のレディですから、あからさまに拗ねるというよりも、不満なのよ、と仕草で示したようでした。
「またそんなことを言って。いつになったら日取りを決める気になってくれるのかしら。結婚は二人でするものなのよ? ねえ、リリーからも何か言ってやって」
お姉様に水を向けられて、リリー・メイは慌ててケーキを飲み込みました。お菓子はとても甘いのに、この前お兄様がお姉様に唇にする恋人のキスをしていたところを思い出すと、嫌な苦い気持ちが胸に広がります。あんなのは、もう二度と見たくありません。
口の中を空にしてから、リリー・メイはゆっくりと、でもはっきりと言いました。
「リリーはまだお兄様と一緒にいたいわ。急いで結婚しなくても良いと思うの」
言った途端、お姉様の表情が固まりました。いつもは温かそうなキャラメル色の瞳が、凍ったように鋭く光って、リリー・メイを睨みます。前に
リリー・メイは、膝の上でぎゅっと拳を握ってお姉様を見返しました。怖いけれど、お姉様に悪いことを言ったとは思うけれど、お兄様を渡したくはないのです。何を言われても、どんな顔をされても譲らないわ、ともう決めているのです。
「リリー――」
「これから降誕節と新年と続くじゃないか。兄さんは忙しいんだろ? 邪魔しちゃダメだよ、姉さん」
でも、お姉様が何を言おうとしたかは分かりませんでした。ダニエルが遮ってしまったのです。決心はしていてもとても怖かったので、リリー・メイはほっとして身体の力を抜きました。
「ダニエル」
「スクールに戻ったらどのみちリリーとはそう会えないし。僕を口実にしないでくれよ」
ダニエルはケーキに目を落としていたので、お姉様のことは見ていません。隣に座っているお兄様からも見えないでしょう。だから、お姉様の表情を見たのはリリー・メイだけです。冷たく睨みつける表情から、しばらく掛かってぎこちないけれど笑顔になるのを、リリー・メイはじっと目を逸らさないで見つめました。
「――そうね。リリーは関係なかったわね。私とエドワードの問題だったわ」
関係ない、を強調して言うと、お姉様はカップを持ち上げてお茶を一口飲みました。
「ねえ、さっきジェシカから聞いたのだけど」
そして、カップを置いた時にはもう、お姉様はいつもの優しい笑顔に戻っていました。
「リリーを例の
「ああ、奥様や令嬢と話が合ったから、喋り足りないと」
お兄様が少し眉を寄せながら答えました。その理由はリリー・メイにも分かります。どうしてそんなことを言いだしたのか、不思議なのでしょう。
「あいつのところ? また行ったんだ」
ダニエルも首を傾げたので、リリー・メイは分かるように説明しました。
「ええ。
手紙の内容を思い出してくれたようで、ダニエルは納得顔でうなずきました。
「ああ、社交界に出るかもしれないって子か。すごいよな。言葉が二つも話せるなんて。
――僕も会いたい」
「そうなの? リリーもまた今度行くのよ。お兄様、ダニエルが一緒でも構わないかしら」
ダニエルは華夏の人も
「さあ、それは聞いてみなければ。それにしてもどういう風の吹き回しなんだ、ダニエル?」
「あいつにちゃんとお礼を言わなければならないと思って」
ダニエルは少し恥ずかしそうに言いました。
「それに、よく知らないのに華夏のことを悪く言ってしまったから。言葉が分かる子なら話してみたい」
「まあ、それなら玉蓮もきっと喜ぶわ」
リリー・メイはにっこりとダニエルに笑いかけました。玉蓮は、男の子ともお話ができる租界のお茶会が気になっているようでした。ダニエルも一緒に来てくれたら、どんな感じか練習になるでしょう。
「私が言いたいのはそういうことではなくて」
お姉様が苛立ったように指先でテーブルを軽く叩いたので、リリー・メイは――ダニエルも――びくりとしてお姉様の方を向きました。
「ジェシカからは言いづらそうだったから私から言わなければと思ったのだけど。
よく知らない人の、それも華夏人のお屋敷にリリーを一人で泊めるなんて無用心だわ。
「夢境路? 何で姉さんがそんなこと知ってるんだ? あいつに会ったこともないのに」
ダニエルが眉をひそめました。口ぶりから、めんじんるー、がどんなところか知っているみたいです。
お姉様はダニエルに向かってにっこりと笑いかけました。とても嬉しそうに。でも、目は笑っていないようだったので、リリー・メイはまた少し怖いと思いました。
「だって、リリーのお母様は夢境路の人だったもの。その人があなたたちを助けてくれたのは、リリーがお母様にそっくりだったからでしょう? そういうことよ」
「リリーの母さんが? 本当に?」
ダニエルがリリー・メイをちらりと見て顔をしかめたので、リリー・メイは胸が締め付けられるように悲しいと思いました。初めて会った時のように、何か嫌なものを見てしまったような顔をされたのです。
「本当よ。でもダニエル、お母様が娼婦だからって差別しては――」
「ベアトリス」
お姉様を遮ったお兄様の声は、驚く程に冷ややかで鋭いものでした。
「ダニエルも。私の義姉と妹を侮辱するなら客人とは認められない。帰ってもらおうか」
そう続けた表情も、口元はゆるく弧を描いているのですが、やはり目が笑っていません。お姉様もそうですが、笑っているようなのに怖い顔ができるというのがリリー・メイには信じられません。
「そんなつもりじゃ……ただ、驚いて。リリー、ごめん!」
お兄様の強い言葉に驚いたのはダニエルも一緒のようでした。椅子をがたりと鳴らしてリリー・メイに身体ごと向き直ると、真剣な表情で頭を下げます。そこにはさっきのような嫌な感じはまったくなくなっていたので、リリー・メイは安心してうなずきました。
「ううん、別に良いの――」
「何よ!」
お姉様が眉をつり上げて叫ぶように高い声を上げました。勢いよく立ち上がったので椅子が倒れ、カップとソーサーが跳ねて、お茶がこぼれそうに波立ちます。
「差別しないでって言おうとしたところじゃない。私はリリーのために言ってあげてるのよ。あなたが……あまりリリーを大事に思ってないみたいだから」
お兄様に詰め寄ったお姉様は、言葉の途中で間を取って、リリー・メイを振り返って目を細めました。見下ろされるのが我慢できないというように、お兄様も立ち上がってお姉様に反論します。
「子供の前でする話じゃない。それに、その紳士のことは良く知っている。リリーに乱暴なことをするはずがない」
「どうして分かるの? 何かあってからじゃ遅いのよ。リリーなんてどうでも良いからそんなことができるのよ。可哀想な子!」
リリー・メイは目を閉じると深呼吸しました。お姉様に言われたことがとても悲しかったのです。
お兄様がリリー・メイを大事に思っていないなんて嘘だと分かっています。朱威竜がリリー・メイをひどい目に合わせるなんてありえないのも。だって――お姉様たちには言っていけないそうですが――あの人はリリー・メイのお父様ですから。
ただ、お姉様がリリー・メイにお兄様を悪く思わせようとしているのは分かります。
「お姉様……」
リリー・メイは気付いてしまいました。お姉様はリリーが嫌いなのね、と。リリー・メイがお姉様に嫉妬していたように、お姉様もリリー・メイに嫉妬しているのだと。お兄様とちゃんと話して、お兄様の気持ちを――リリー・メイを好きだからこそ嫌われるのが怖いのだと――知った今だからこそ、よく分かります。
リリー・メイは優しいお姉様が大好きでしたが、もう前のようには戻れないでしょう。リリー・メイはお兄様の方が誰よりも好きで、誰かに渡してしまうなんて考えられません。例えまたお姉様に優しくしてもらうためだとしても。
だから、リリー・メイはお姉様を真っ直ぐに見て続けました。
「リリーは可哀想な子なんかじゃないわ。お兄様はリリーのことが好きだし、お母様もリリーのことを大事に思ってくれていたの。
お姉様には分からないかもしれないけど、本当のことよ。だから、お母様のことを、お母様を好きだった人のことを悪く言わないで」
「リリー」
お兄様が驚いたようにつぶやくのが聞こえました。
お兄様もお姉様もダニエルも、リリー・メイのことを見つめてきて視線が痛いくらいでした。
でも不思議と怖くはありません。だって、リリー・メイは当たり前のことを言っただけなのですから。
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