第41話 逆転

「お兄様。理由は、それだけなのね? リリーに嫌われるのが怖いだけなのね? それなら、お兄様もリリーを好きなのよね?」


 さっきまでの張り詰めた気持ちとは全く逆に、リリー・メイはうきうきと弾むような声で次々とお兄様に問いかけました。泣きそうだったのも忘れて、顔には満面の笑みが広がっています。


 玉蓮ユーリェンの言っていたことは正しかったのです。お兄様は、リリー・メイよりもずっと歳上の大人の人で、しっかりしていて沢山のことを知っていると思っていました。

 でも、リリー・メイに冷たい態度を取っていた理由は、とても子供っぽくて単純なものでした。

 嫌われるのが怖いから先に遠ざかろうとしていたのです。リリー・メイがお兄様のことを好きだと、信じてくれていなかったのです。それはひどいとも悲しいとも思うのですが、それだけリリー・メイのことを好きでいてくれたのだと思うと、喜びの方が勝るのです。


「リリーは大人になっても他の人を好きになったりしないわ。お兄様だけよ。だからリリーを一緒にいさせて。他所にやったりしないで。好きだと言って欲しいの」


 リリー・メイは手を伸ばして、そっとお兄様の頬に触れようとしました。振り払われるのが怖いと思ってきたのですが、お兄様に少しでもリリー・メイの気持ちを伝えたかったのです。


「嘘だ」

「嘘じゃないわ」

「今はそのつもりでも、嘘になる」

「ならないってば」


 伸ばした指先から逃れようとするお兄様を追いかけるうちに、いつの間にか壁際にまで来ていました。お兄様は、触られるのは嫌でもリリー・メイを無理に抑えることもできないようで、小さな子供にも追い詰められてしまったのです。

 これでもう逃げられないわ、とリリー・メイは思う存分お兄様の髪を梳いて頬を撫でてささやきました。


「お兄様。大好きなの。どうしたら信じてくれるの?」

「リリー、まず手を止めてくれ。落ち着かない。どこでこんなことを覚えてきたんだ?」


 お兄様は訳の分からないことを言うわ、と思いながら、それでもリリー・メイはお兄様の頬から手を離しました。


「どこ、って……好きだから触りたいだけよ。ずっと寂しかったの。ねえ、どうしたら信じてくれるの? 教えてちょうだい」


 そして、撫でる代わりにお兄様の胸に頬を寄せて答えを待ちました。服の上からでは心臓の音が聞こえるなんてことはありませんが、お兄様の温もりはとても心地良いと思いました。身体に力が入っているようだったので、香蘭シャンランにしてもらったように背中を軽くとんとんと叩きます。リリー・メイでは手が届かないので香蘭のように包み込むような感じにはならないのが残念なのですが。


「君に慰められるなんてね。甘えたくなってしまうじゃないか」


 ため息のような笑いがリリー・メイの頭の上を掠めました。お兄様の腕が一瞬だけリリー・メイを抱き締めて、すぐに離れていってしまいます。熱いものに触れたようにぴくりと跳ねて、どこに収まったら良いか分からないという風に宙をさまよった後、ぴったりと壁に張り付きました。


「甘える? お兄様がリリーに?」


 リリー・メイはきょとんとして首を傾げました。

 今までは、リリー・メイがお兄様に甘えるだけだったのに。その逆というのは、とても不思議な感じがしました。でも、それも素敵だと思います。リリー・メイはただ大事に守られるだけではなくて、お兄様のために何かしてあげることができるのです。


「……別に構わないわ?」

「いけないことだよ」


 壁にはりつけにされたようなおかしな体勢のまま、お兄様は首を振りました。


「甘えるというのはね、君に言われるまま、前と変わらずに君と一緒に過ごすということだ。私のために君を永遠に閉じ込めてしまうということだ。だって、君が外に出たら私はいつ捨てられてしまうかと思って安心なんてできないんだから。

 そんなことはさせられない。

 私はこれまででも十分、君の人生を盗んでしまった。私は――失格だとは思うが――君の保護者なんだから。私の気持ちなんか殺しておくべきなんだ。君は自由にならなくては」

「でも、リリーはちゃんと帰ってきたわ」


 リリー・メイにはどうしてお兄様がうなずいてくれないのか、訳が分かりませんでした。

 お兄様は毎日のようにお仕事に行きますが、帰って来ないかもしれないなんて考えたこともないのです。

 それに、言葉を重ねるほどに、お兄様はリリー・メイを好きでいてくれるのだと確信が深くなっていきます。お兄様が突き放すのは、リリー・メイが嫌いだからなんかではなかったのです。お互いに好きなのに、どうしてそれを信じてくれないのでしょう。どうして気持ちを殺さなければいけないのでしょう。甘えたいなら甘えて欲しいと思います。


「今回はね」


 お兄様は頑なに首を振りました。リリー・メイが見つめる先で苦しげな表情で吐き出すのは、多分初めて教えてくれる、お兄様の偽らない気持ちでした。


「私が昨晩どんな気分で過ごしたか知らないだろう。正直言って、ダニエルと遊びに行かせるのも嫌だった。君がいつ私の嘘を見破るか、自分の境遇がおかしなものだと気付くか、気が気じゃなかった。

 ジュ威竜ウェイロンと会って、真実を教えた後も私を慕ってくれて、本当に嬉しかった。でも、不安はどんどん大きくなった。それだけの信頼と愛情に足る人間じゃないんだ、私は。

 ヒビの入ったガラスの像を大事に抱えているような気分で、何の拍子に粉々になってしまうかと怖くてたまらなかった。ずっとそんな思いをするくらいなら、そして後でもっと辛い思いをするくらいなら、リリー、今すぐ私から離れてくれ」


 お兄様がこんなに必死になってお願いするのは初めてではなかったかしら、とリリー・メイはぼんやりと考えました。何かを教わったり、いたずらをしたら叱られたり。お薬を嫌がったら宥められたりはしたのですが。翡蝶やアルバートのお話を聞かされた時もお兄様は辛そうで、今の表情に近いとは思いますが、今のお兄様の方がもっと苦しそうで、弱々しい感じがします。


「じゃあ……リリーがずっとお屋敷にいて、他の人と会わなければ良いの? それなら安心できるの? リリーを好きだと言ってくれる?」


 玉蓮やダニエルやお姉様と会えないのは寂しいけど、と思いながらリリー・メイは言ってみました。それでお兄様が楽になるなら我慢しなくちゃ、と思います。でも、お兄様は顔色を変えて叫ぶように言いました。


「そんなことはできない!」


 怒ったような怖い顔と声で打ち消されて、リリー・メイは顔を強ばらせました。すると、お兄様はすぐにまた顔を歪めて、崩れるように、あるいは許しを乞うようにその場にひざまずきました。


「――すまない。でも、君に対して罪を重ねるのも嫌なんだ。私は私のために君を閉じ込めてきたから。これ以上続けるのは許されない。だから、もうどうしようもないんだ」


 すまない。そう力なく繰り返したお兄様の声は、消え入りそうに細いものでした。

 どうしたら良いのかしら、とリリー・メイは必死に考えます。お兄様はどうしてもリリー・メイの気持ちが信じられないのです。お兄様は誰よりも好きな人だというのに、嫌いになってしまうと、他の人を好きになってしまうと思っているのです。


「じゃあ……」


 考える時間を稼ぐために、お兄様のつむじを見下ろしながら、リリー・メイはとりあえずそう言いました。このまま何も言わなければ、お兄様にリリー・メイの気持ちが伝わらないままですから。何か言わなければと思ったのです。

 リリー・メイがどんなに言葉を尽くしても、お兄様は絶対に嫌われることはないと信じられないのでしょう。かといって今のままでもダメだと言います。これ以上リリー・メイを閉じ込めてはいけないと。

 それなら――


「リリーは、お兄様が信じてくれるまで頑張るわ」

「リリー……?」


 するりと口から出た言葉は、深く考えたものではありませんでした。でも、顔を上げたお兄様の、今にも泣きそうに濡れた目を見て、気持ちが固まりました。

 どこかでああ、と納得する気持ちがありました。お兄様はリリー・メイが思っていたよりもずっと子供で、頼りなくて、自信がないのです。


 ――男の人がちゃんとしてないと女が大変なの。悔しいけど莉麗リリーが頑張らなきゃ。


 玉蓮の声が耳に蘇りました。お兄様はちゃんとしていないけど、それでもリリー・メイはお兄様が好きです。悔しいだなんて思いません。お兄様に信じてもらうためなら、いくらでも頑張ることができるのです。


「玉蓮ともっと仲良くするわ。あのお屋敷にもまた行かなくちゃ。手袋を渡したいし、借りた華服も返さなければいけないから。ダニエルとも。もうすぐ降誕節の休暇なのよね? また会いたいわ。

 お姉様が言っていた百貨店にも行ってみたいの。綺麗な服や可愛い服を自分で選んでみたいし、お兄様に聞かせてもらうだけだったことを自分で見てみたいの。

 それに、お兄様」


 お兄様はきっと嫌な顔をするわね、と思って微笑みながら、リリー・メイは続けました。お兄様を困らせるようなことを言うのが、ほんの少しだけ楽しかったのです。


「リリーにはもいるんですって。香蘭奥様のお子様ですって。玉蓮が教えてくれたの。その方たちとも――何人いるかまで聞かなかったんだけど――会いたいわ」

「そう。……とても、良い考えだと思うよ」


 思った通り、お兄様が悲しそうな声と表情で答えたので、リリー・メイはくすくすと笑いました。会ったこともないにリリー・メイを取られてしまうと思うなんて、お兄様はやっぱりリリー・メイが好きなのです。


「今まで冷たくあたったことへの仕返しなのかな? この際だから言ってしまうが、嫉妬で気が狂いそうだ」


 リリー・メイの笑顔を見てお兄様がとても嫌そうな顔をしたので、リリー・メイはますますおかしくなって声を立てて笑いました。


「仕返し? そうかも。だって、とても悲しかったし寂しかったし辛かったの」

「……すまなかったね。でも――」


 拗ねた口調で訴えると、お兄様は俯いてまた謝りました。何か言い訳をしようとするのを遮って、リリー・メイはお兄様の頭をそっと抱き締めました。


「良いの」


 そして、お兄様の耳元にささやきます。


「リリーを好きだからだって分かったから許してあげる。それにね、お兄様。リリーが言いたいのはそんなことじゃないの」


 お兄様がリリー・メイの腕を外そうと身動きをするのを抑えて、続けます。お兄様が力を入れたらリリー・メイなんてとても敵わないのでしょうが、お兄様はじっと抱き締められたまま、聞いてくれました。


「リリーは必ずお兄様のところに帰ってくるわ。どこへ行って何を見ても、どんな人と会っても、必ず。お兄様以上に大事なものなんてないの」


 リリー・メイは優しくお兄様の髪を撫でました。お兄様がひざまずいてくれたこの体勢なら、思った通りに包み込むように抱き締めることができます。


「お兄様が信じてくれるまで、何度でも帰ってくるわ。それで、信じることができたら、リリーを好きだと言ってちょうだい」

「君は」


 リリー・メイの腕の中で、顔を伏せたままでお兄様がつぶやきました。


「私に何度もあんな思いをさせるというのか。君がいつ他の誰かを好きだと言い出すか、帰りたくないと言い出すか――あの気持ちが、どれだけ辛く恐ろしいか……」

「お兄様が信じてくれないからよ」


 お兄様の言い訳を聞いていても仕方ないと、リリー・メイにも分かってきました。だから、最後まで言わせないで、ただ伝えたいことを連ねます。


「翡蝶とアルバートが亡くなって、お兄様がいなかったらリリーを育ててくれる人はいなかったのかもしれないのでしょう? お兄様はお薬も用意してくれたし、お勉強もマナーも見てくれて。リリーが寝込んだらずっと一緒にいてくれたわ。リリーのために本やお菓子を用意してくれて、外の世界のことも聞かせてくれて。お兄様のおかげでリリーはずっと幸せだって、可哀想な子だなんて思わないでいられたの」


 お兄様を抱き締める腕に、リリー・メイは力を込めました。言葉だけではなくて、身体でも気持ちが伝わるように。


「だから、お兄様を好きなのは当たり前じゃない。疑ったりしないでよ!」

「違う!」


 不意に強く引っ張られたので、リリー・メイは危うく倒れそうになりました。お兄様がリリー・メイの腰の辺りに手を回しているのです。それは、抱き締めるというよりはすがりつくような必死な仕草でした。


「君のおかげで幸せだったのは私の方だ。君に与えているつもりだったけど、私の方が多くもらっていた。君の笑顔に比べたら金も時間も何の問題でもなかった。純粋に君のためじゃなかったかもしれない、私の幸せのためでもあったんだ」


 顔を上げたお兄様は、リリー・メイを見上げて、まぶしいものでも見ているかのように目を細めました。


「いつの間にか、君は私よりも大人になった。強くなった。どうして君が私を好きでいてくれるのか分からないが――私も、何度でも君を待とう」


 お兄様はほんの少しだけ唇の端を持ち上げて笑いました。


「立場が逆になってしまったな。小さい頃、君はどこへでも私の後をついてこようとしていたし、仕事から帰るのを待っていてくれた。これからは、私が君の帰りを待つことになるんだな」

「大丈夫よ。リリーは絶対にお兄様のところへ帰ってくるから」


 リリー・メイはそう繰り返すと、お兄様を抱き締めて髪にキスを落としました。


 夏に朱威竜のお屋敷へ行って、今はもう冬です。お兄様に翡蝶とアルバートのお話を聞かされてから季節が二つ過ぎてしまいました。あの時、お兄様が一人で生きていける道を探そうと言ったので、リリー・メイは泣いてしまったのです。


 でも、これから切り拓くのは、お兄様とリリー・メイと、二人で生きていく道です。

 お兄様はまだリリー・メイの気持ちを完全に信じてくれた訳ではないけれど、それでも待っていると言ってくれました。

 リリー・メイはこの何ヶ月かずっと、暗い霧の中の迷子みたいに不安でした。その霧が、今やっと晴れたのです。

 お兄様を抱き締めて、リリー・メイは泣きそうなほどの喜びに浸りました。

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