第40話 告白、詰問、答え

 お兄様との話を始める前に、リリー・メイはしまっておいた翡蝶フェイディエの小さな靴を取り出して抱えました。そうした方が落ち着くような気がしたのです。

 扉を少し開けたままにして椅子に掛けたお兄様も、それに目を留めます。


「それは、翡蝶の靴? どうしたの?」

「あの人にあげてしまったのを返してもらったの。昨日呼ばれたのも、このためだったの」


 お兄様が首を傾げたので、リリー・メイは早口で説明しました。


「手袋なんて、本当はできてなかったの。これを持っていたくなかったから、あげるための口実で……でも、お母様のものをあげるなんて良くない、って返してくれて。昨日はそれで呼ばれたの」

「どうしてそんなことを?」


 嘘をついていたのを認めるのは、これから言おうとしていることとは別に胸が苦しくなることでした。お兄様が咎めるように眉を寄せたから、なおさら。


「翡蝶に、嫉妬していたから」


 けれど、認めてしまうとすっと胸が軽くなって、言葉が滑らかに出るようになりました。

 それに、ここから説明するのはちょうど良い気がしました。どうしてリリー・メイがジュ威竜ウェイロンのお屋敷に呼ばれて、どうしてお兄様にこのお話をする気になったのか。どうしてお兄様が好きだと気付いたのか。ちょうど、繋がると思いました。


「お兄様がまだ翡蝶のことを好きみたいで、リリーと比べてる気がして、翡蝶に似ているからリリーを大事にしてくれるのかしら、って。そう思うと、翡蝶のものなんて持っていたくなかったの」


 お兄様は眉を寄せたままでしたが、リリー・メイは翡蝶の靴を握りしめて、お兄様の青い目をじっと見つめて続けました。思い切って。言わなければいけないこと、伝えたいことを。


「リリーはお兄様が好きよ。妹としてじゃないわ、お兄様に恋をしているの」

「――え?」


 お兄様は目を見開きました。嘘を咎める表情から困った顔へ、そして驚いた顔からまた困った顔へ。お兄様の表情が変わっていくのを、リリー・メイはどきどきと破裂しそうな心臓の音を聞きながら見守りました。


「リリー、君は――」

「好き、の区別がついていない訳じゃないわ。リリーはお兄様にキスしたいし抱きついて甘えたいの。それって、妹はしてはいけないことなのでしょう? それに、ベアトリスお姉様がお兄様と仲良くしているのを見るととても苦しくて嫌な気持ちになるの。翡蝶だけじゃないわ、リリーはお姉様にも嫉妬しているの」


 お兄様の言いたいことは想像がついたので、リリー・メイは遮って続けました。何を言うかはっきりと決めていなかったことまでするすると口からこぼれていきます。

 お姉様に嫉妬している、なんてはっきりと思ったことはないのですが、それは確かに本当のことでした。お母様だと思えるようになった翡蝶よりもずっと、お姉様はお兄様とリリー・メイの間に立ちふさがっているのです。


「お兄様は恋は苦い味がするものだって言っていたでしょう? 本当にその通りだと思ったの。辛くて辛くて、お薬を飲んだ訳でもないのに苦いの。なのにどうしてもお兄様を嫌いになんてなれないの。それで気付いたの。リリーはお兄様に恋をしている、って」


 お兄様はかなり長い間何も言ってくれませんでした。

 待っているリリー・メイは苦しくて、何て言われるのかが怖くて息が止まりそうでした。心臓の音だけではありません、血管が脈打つ音が頭に響いてうるさいくらいで、頬にも血が集まって熱くなっているのが分かります。


「私は」


 もう一度言おうかしら、と思い始めた頃、お兄様はやっと、ぼんやりとした様子でつぶやきました。リリー・メイに答えるというよりは、独り言のような感じです。


「君に別れを告げられると思っていた。

 ジュ威竜ウェイロンのところが良いと……あの男は私を快く思っているはずがないし、君にひどいことをしている自覚もあった。だから、嫌われて当然だと思っていた」


 それを聞いて、約束を取り付けた時のお兄様の態度が、リリー・メイを避けようとしていた理由が分かりました。お兄様はリリー・メイがお屋敷を出て行くつもりだと思っていたようです。


「そんなこと、ないのに」


 リリー・メイは――覚悟はしていたのですが――悲しくなってしまいました。お兄様はリリー・メイの気持ちを全然分かってくれていないのです。

 お兄様はリリー・メイの声なんて耳に届いていないかのように、ぼそぼそと続けました。


「勝手なものだ。君には嫌いになれば良い、なんて言ったくせに、私は君に本当に嫌われる覚悟など何一つできていなかった。君に甘えていたんだ。

 一昨日の晩は君に逃げられて、昨日は帰らないと言われて、どれほど君に依存していたか思い知ったよ。今日も、午後は君に見捨てられる前に事故か何かで死んでしまえないかと考えていた」

「お兄様、そんなこと言わないで」

「そうだね」


 身を乗り出したリリー・メイから逃げるように、お兄様は立ち上がってしまいます。見上げるリリー・メイを見下ろして、ほんの少しだけ唇を持ち上げて、どこか苦く微笑みかけてきます。絶対に触れてはいけないと決心しているかのように、拳は固く握られて身体の両脇に留まっています。


「君の話を聞く勇気を出して良かった。君がまだ好きだと言ってくれるなんて――私はあれだけのことをしたのに! ――この上なく嬉しくて生き返るようだ。その言葉だけでどれほど私が救われたか、君には分からないだろうね。

 でも――」

「妹にしか見えないのね? お兄様が言いたいことは分かってるわ」


 リリー・メイはお兄様の言葉をまた遮りました。今日こそ、ここで引き下がったりしないと決めたのです。お兄様の考えていることを、全部聞き出さなくてはいけません。


「でも、お兄様はリリーの本当のお兄様じゃないわ。叔父様でもないじゃない。関係のない人なのでしょう? それなら好きになっても良いじゃない!」


 お兄様の瞳がはっきりと揺らいだので、リリー・メイの心臓が躍りました。不安などきどきという鼓動ではありません。リリー・メイはいつもお兄様の言葉に怖くなったり悲しくなったりしてきました。今は、それとは逆に、リリー・メイの言葉がお兄様を動かしているのです。それが、とても――ぴったりの言葉がうまく見つからないのですが、多分――嬉しいのです。

 お兄様が答えを考え出すまでに、またしばらく時間が掛かりました。


「君がほとんど赤ちゃんの頃から見てきたんだ。妹でなければ子供のようなものだ。恋人として見ることなんてできない」


 それでも、やっと聞かせてくれたこともリリー・メイを納得させてはくれません。だってお兄様はリリー・メイから目を逸らしているのです。リリー・メイも立ち上がってお兄様の目の前まで進むと、もう一つ、問いを投げかけました。


「じゃあどうしてこの前恋人のキスをしようとしていたの?」

「私は確かに翡蝶のことが好きだった。君は年々翡蝶に似てくる。だから君と重ねてしまった。君にも翡蝶にも失礼なことだ。だから、忘れて欲しいと言った。それに、繰り返すが、妹や子供に対してそういう感情を抱くのは恥ずべきことだ」


 黙っていた間に、聞き返されることも考えていたのでしょう。お兄様は今度は間髪を入れずに答えました。けれど、リリー・メイを映すお兄様の青い瞳は風に波立つ水面のように揺らいでいました。

 リリー・メイは一歩進んで、ほとんどお兄様にくっつきそうな距離で更に問い詰めます。刃物のようだと思った朱威竜の黒い瞳のように、リリー・メイの瞳もお兄様を貫いて、本当の気持ちを知ることができたら、と思います。


「リリーも繰り返すわ。リリーはお兄様の妹じゃない。いつまでも子供でもないわ。リリーが大きくなったらお兄様の恋人にしてくれる?」

「そんなことはできない……翡蝶にすまない……」

「リリーと翡蝶は別の人よ。もう分かったの。教えてもらったの。だからお兄様がそんな風に思うことはないわ」


 朱威竜に教えてもらった翡蝶は、華夏人にも租界のレディにもなりきれなかった人でした。でも、強い人で、リリー・メイを大事に想ってくれていました。お兄様がいつまでも翡蝶のことを可哀想に思っているようなのは、何か間違っていると思うのです。


「でも、無理だ」

「お兄様!」


 お兄様がまた目を逸らそうとしたので、リリー・メイは強く呼びかけました。びくり、と微かに身体を震わせて――お兄様の方が大人なのにおかしなことなのですが――お兄様は恐ろしいものでも見るように、ゆっくりと、錆び付いた蝶番ちょうつがいを思わせるぎくしゃくとした動きで、リリー・メイに向き直りました。


 どうしてお兄様がそんな顔をするのか分からなくて、でも、ただ教えて欲しいだけだと伝えたくて、リリー・メイは一生懸命笑顔を作って訴えかけました。


「お兄様、お願い。リリーはどうしてもお兄様が好きなの。お兄様と一緒にいたいの。どうしたらそうしてくれるの? リリーを愛しているって言ったじゃない。リリーが望むことなら何でも受け入れてくれるのではないの?」


 必死にいくつもの問いを重ねると、お兄様は拳を開いてリリー・メイに差し伸べようとしました。でも、また思い直したように拳を握ってしまいます。


「それは、君に捨てられると思ったからだ。君が私のもとから去りたいと言うなら止めてはならないと……だが、君の気持ちを受け入れるのは――嫌だ」


 言われた途端、お兄様の顔が歪みました。リリー・メイの目が涙で満ちて、歪んだ像が映るのです。ちゃんと答えてもらおうと、お兄様の気持ちを分かろうと思ったのに、嫌、の一言で切り捨てられてしまったのです。

 やっぱり聞いたりしなければ良かった。悲しい思いをするだけだったわ。そう、後悔が胸を締め付けます。

 これで最後にしよう、と思いながら、リリー・メイはもう一つ尋ねました。


「嫌、じゃ分からないわ。分かるように言って。理由を教えて」


 答えの前に、ぽんとお兄様の手が頭に置かれました。泣きそうなのを慰めるように、慣れた温かさの手が優しく髪を撫でていきます。


「リリー。恋は必ず叶うものじゃない。だからこそ苦いものなんだ。

 応えられないのは悪いと思うが、君に好きと言ってもらえたのは本当に嬉しいんだ。今まで通り、兄妹としてやっていこう。じきに君も他の人を好きになる」

「お兄様、やっぱりずるいわ……!」


 リリー・メイは頭を振ってお兄様の手から逃れました。少し前までなら、触れてもらえるだけで喜んでいたのでしょうが、今は涙も乾くほどの憤りしか感じませんでした。


「聞いたことに答えてくれないのね。それに、おかしな態度になったのはお兄様の方が先よ。リリーだって聞くのは怖かったのに。お兄様は、ずるくて、ひどくて、卑怯だわ……!」


 追いかけてきた手も振り払ってお兄様を睨み上げると、お兄様はこれまでに見たこともないくらい冷たい顔をしていました。初めて朱威竜のお屋敷に連れて行かれて、迎えに来てくれた時に見せた怖い顔よりも、もっと。


「その通りだよ。分かっているじゃないか」

「お兄様……?」


 悲しいのも怒ったのも忘れて、リリー・メイはお兄様の顔に見入りました。いつも見ている優しそうなお兄様ではなくて、知らない人と、何か嫌な、恐ろしい人と話しているような気さえしました。


「私は卑怯者だと言っただろう。君に都合の良いことを吹き込んで、私から離れられなくなるように育てたんだ。私は沢山の嘘を吐いてきたと、もう分かっているんじゃないか?

 君は私に恋をしているといったが――」


 その人は――お兄様は唇を歪め目を細めて笑顔に似た表情を作りました。なのに、決しておかしい訳でも楽しい訳でもないと、はっきりと分かります。


「もっと大きくなって、他の人間と関わって外の世界を知ったら、そんな幼い恋なんて醒めるに決まってる。無知な子供でなければこんな男を好きでいてくれる訳がない。今だって君はもう私に怒ったじゃないか。

 だから、リリー、私を好きだなんて言って喜ばせないでくれ。後で裏切られると知っていて君の手を取ることなんてできない。

 甘過ぎる夢とは分かっていて、騙し騙し続けて来たんだ。夢から醒めるだけで済ませてくれ。君に愛されてから嫌悪される悪夢を見させないでくれ!」


 お兄様は泣きそうなのね、とリリー・メイは不意に気付きました。


 リリー・メイはずっとお兄様に捨てられるのが怖くて泣いてきました。でも、実は、お兄様の方がリリー・メイに捨てられるのを怖がっていたみたいです。

 それほど、お兄様はリリー・メイのことが好きなのです。


 そう気付くと、リリー・メイの胸に今までに味わったことのない喜びが湧き上がりました。この気持ちは、そう、甘いと言って良いでしょう。これが、好きになってもらえることの、恋の甘さなのでしょう。

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